天馬の嘶き
まるで世界が静止して、終わってしまったかのような朝だった。
太陽の光が、山の稜線から溢れ出す。
光によって輪郭を取り戻したものどもが、身じろぎを始めた。
あふれんばかりの緑葉に、飛び交う小鳥たち。
あまり奇麗とは言い難い部屋の窓前に立つ彼も、そのうちの一つである。
――――さて、朝飯どうするかな。
そう益体も無いことを考えた寝巻の男――――ルグド・アルヴァインが大きな欠伸を漏らした。
尻を掻き、口をモゴモゴさせながら、忌々しい陽光から目を逸らす。
恋しいぬくもりが残るベッドを横目に、廊下へ出ようとした時だった。
聞き覚えのある足音が響き、ドアが開かれる。
「おはよう、ルグドくん」
見目麗しい女性が、笑顔で立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、くたびれたエプロンが似合い過ぎている。
彼女の笑顔が、味のある表情へと変わる。
「元気だねぇ」
「……ええ、まあ。えっと、おはようございます」
ルグドは無駄と知りつつも、後ろを向いて背伸びをするふりをした。
無論、股間を隠すためだ。
黒髪の女性――――ミレーナが、小さく笑いつつ部屋から出て行こうとした。
「ごめんね。朝御飯食べるかな、と思ったから呼びに来たのよ。準備が出来たら、降りておいでね」
じゃあね、と言って姿を消す。
振り返ったルグドの目に、良い形の臀部が映った。
当然、歩いているので揺れている。
「…………」
それだけで眼福ものだが、彼は努力して視線を逸らした。
何せ、相手は人妻だからだ。
しかも、恩人の嫁である。
朝から切ない気分に晒された彼は、大きく深呼吸をするしかなかった。
もう一度ベッドに潜り込んで、あれやこれやしたいところであったが、恩人とその伴侶を待たせるわけにもいかない。
適当に転がっている服を拾い上げ、出来るだけ奇麗そうなものに着替える。
判断基準は、見た目と匂いだけだ。
こういう生活に慣れてしまうと、そうそう立ち直れるもんでもないよな、という言い訳も板についてきた。
部屋から出て廊下を歩き、階下へ降りる。
漂ってくるのは、香ばしく芳醇な珈琲豆の香りだった。
丸く分厚い木製のテーブルと、年季の入った椅子が並ぶ。
カウンターには背の高い男が立ち、ルグドを見つけると小さく笑う。
「よう、起きたか。早く飯食って働けよ」
「あ、ども」
恩人でありミレーナの夫であり、当たり前のように男前で、このカフェの主人だった。
同性の彼から見ても見た目が良く、程よい筋肉質の体格は羨望を集めるほどである。
ルグドは、ちらり、と己の身体と見比べて、溜息を吐いた。
斜め下を向きつつカウンターの席に座り、飲む珈琲は美味しかった。
もう、どうしようもない。
更に付け加えるならば、彼――――ダリルは年下だった。
「…………珈琲美味しいっすね」
「当たり前だろ、俺の淹れた珈琲だぞ」
「ですよね」
世間一般からすれば勝てる要素の無い相手に、自然と敬語しか出てこないルグドだった。
しかし、珈琲は美味い。
ミレーナの手作りであろう、サンドイッチも美味い。
白く柔らかいパンにはさまれた、濃厚なチーズ。
スライスされた玉ねぎに、レタス、ベーコンが織りなす旨味の連鎖。
塩気と水気が重なって、幾らでも食べられそうだった。
そして、合間に飲む暖かい珈琲で、鼻孔をくすぐる。
なんと完成された朝食だろう、と感動さえ覚えた。
彼の朝食が終わるころには、ダリルとミレーナの二人が厨房で朝の仕込みを行っていた。
ルグドとて、このままカウンターに座ったままでいるわけにもいかない。
布巾を持ってきて、テーブルというテーブルを拭き、額に汗を流した。
水桶で布巾を洗い直し、硬く絞る。
水面に映る波紋に、己の顔を見た。
何で俺は生きてるんだろう、と彼は思った。
命を絶つ理由が無かったから生きているだけ。
理由など無い。
どうでもよくなって彷徨っているうちに、ダリルから住むところと働くところを与えられたから生きている。
何はともあれ、命を救われた恩人というわけだった。
彼は横目で厨房を眺めた。
一つの幸せが、そこにあった。
仲睦まじく、時には言い合いながら、夫婦が切り盛りするカフェ。
しかもそれでいて経営が成り立っているのだから、言うことは無い。
「…………」
無性に走り出したくなったルグドは、気持ちを落ち着けるために、カフェから外に出た。
角の丸くなった踏板が軋む。
住居兼カフェの隣には、馬屋があった。
そこにはすでに、常連客が天馬を停めていた。
天馬と言っても、本物の翼が生えた天馬ではない。
無論、今でも乗馬として楽しむ者はいるが、それこそ趣味の域と言えるだろう。
既に時代は移り変わり、天馬と言えば、魔導機関を装着した空飛ぶ乗り物の通称だ。
そして、このライダーズカフェ――――『天馬の嘶き』は、今日も開店を迎える。
理想的な夫婦と、おまけの一人を付け加えて。
「…………」
ルグドは乾いた笑いを浮かべた。
救いが無いことを嘲ったのではない。
幸せそうな夫婦を妬んだのでもない。
ただ、昔、一緒にいた竜のことを思い出して――――思い出しただけだった。
彼女は、もういない。
いないからこそ、ルグドは一人だった。
「ああ、また、君のいない今日が始まっちゃうんだな……」
彼は空を見上げ、まぶしい太陽に目を細めた。
普段と変わらない風景だった。
昔と違う風景だった。
「――――あ」
恰幅が広い常連客がやってきて、肩がぶつかる。
よろめくのはルグドの方だ。
「おい、痛ぇじゃねぇか。なに突っ立ってやがる」
「……すんません」
「ちっ、ダリルの奴、なんだってこんなグズを雇ったんだろうなぁ」
「はあ、すんません」
「うるせぇよ。てめぇに言ってねぇよ。返事してんじゃねぇ」
「…………」
「黙ってねぇで、何か言い返してみろよ」
「はあ、すんません」
「ああ? 喧嘩売ってんのか」
ならどうしろと、と言葉が漏れかけたルグドであった。
恩人の手前、喧嘩をするわけにもいかない。
まあ仕方が無いから一発くらい殴られておくか、と思い始めたところで、厨房の方からダリルがやってきた。
「おう、いらっしゃい。いつもので良いか?」
「おぉ、ダリルじゃねぇか。いつもの美味いやつ頼むぜぇ。がはははっ」
上機嫌そうに、常連客が店内に入っていった。
ダリルがそれを見送り、彼の隣に立つ。
「悪いな。あいつも根は良いやつなんだが……」
「そうですねぇ」
否定はしなかった。
ただ、彼は眩しそうに、目を細めて空を見上げるのだった。