それは夢。
「あとは3日も寝込んだんだから、湯浴みと朝食も食べたいだろう?サラミラを呼んでいるから、話はそれからにしよう」
確かに紅茶を飲み干すと、それまで平気だったお腹が空腹を知らせる。妙な音を響かせるお腹を、慌ててエルーシャは隠すがすでに遅い。
「身体は正直だ」
「いえ、あの、・・はい」
クスクスとライアンは笑う。真っ赤に染まった頬を持つ自分は、ただただ頷くにとどまった。
そのあとすぐに退出していった兄に入れ替わるように、サラミラが入って来てお説教が始まった。その間もテキパキと仕事はこなしていくのだから、エルーシャもその愛あるお説教を頷きながら聞く。
内容はもちろん、心配かけさせないでくださいということが言いたいらしく、彼女らしい言葉を時に笑いながら聞いていた。
湯浴みと着替えが終わって、美味しい朝食を頂いていた時だ。
「――私は、エルーシャ様の味方ですから」
(えっ、)
側で紅茶を準備しながらサラミラは、一度も視線をこちらに寄こさずそう言った。
思わずエルーシャは持っていたサンドウィッチを落としそうになり、瞳を限界まで見開いて彼女を見る。
けれどサラミラのその赤茶色の瞳はなにも語らず、入れた紅茶をテーブルの上に置いた。
「エルーシャ様、口を開けたままになさるのは行儀が悪うございますよ」
そのままいつも通り辛辣な言葉を投げかけるものだから、エルーシャは一瞬自分の耳を疑いたくなる。さっきの幻聴だったのかと。
けれどちゃんとサラミラの耳は真っ赤に染まっていたから、幻聴ではなかったようだ。
「サラ、耳が真っ赤よ」
「なんのことでしょう」
「あら、頬も赤くなったのではなくて?」
「そんなことはございません」
「サラ、ありがとう」
「・・・いいえ」
その後は何事もなかったかのように、テキパキ仕事をこなすサラミラに、エルーシャは満足気に笑う。
(本当にありがとう)
彼女の言葉は今の自分にとって、この上ない言葉に思え、サラミラはきっと自分の不安を感じ取ってくれていたのだろう。
サラミラの言葉は今のエルーシャの背中を押すには十分すぎる言葉だった。
――――――――
視界が赤く染まった。
そこら中で怒号と悲鳴が響き渡る。
間違ってなどいないはずだ。
間違っていないはずなのに。
何故だろう。
その力を使うたびに。
彼らの顔は恐怖に染まる。
『このっーー悪魔!!』
ハッとしてシャナは目を覚ました。
荒い呼吸と、額を汗がつたって流れ落ちる。
見開かれた金紫色の瞳は、動揺により揺れ、寝具を強く握りしめていた。
(ーーっなに?今のは)
夢。そう、夢のはずなのだ。
ゆっくりと起き上がりながら、シャナは落ち着くように言い聞かせた。
あの炎に包まれた戦場のような場所を思い出す。人々が逃げまどい、悲鳴があちらこちらから聞こえた。耳の奥にその声がこびりついていて、ぞわりとシャナは肌が粟立つのを感じた。
忘れ去られた自分の記憶と、何か関わりがあるのだろうか。
いや、と首を左右に振る。そんなはずはないと、あってはならないと。
(あれは夢・・わたしには関係ない)
やっと心臓が落ち着いて来て、シャナは寝台から降りて準備を始めた。
カーテンを開けて、少しいつもより起きるのが遅かったのか、朝陽はすでに登り始めている。
黒い足首ほどのワンピースを着て、レースに縁取られた肩からかける薄水色のエプロンをつける。銀髪はくるくるとお団子にするとエプロンと同じ色のメイドキャップをつけて、侍女見習いの出来上がりだ。
遅れてしまったのもあって、慌てて部屋を後にする。
(サラミア様きっとカンカンだ・・)
考えるだけでもゾッとして、シャナは足早に使用人用の廊下を歩く。走りたいが、それがバレた時の方が怖い。
とりあえず侍女としては、この邸の唯一の女性であるエルーシャの部屋へと向かう。
彼女は3日前から目覚めていないが、いつ目覚めてもいいようにお世話をしなくてはならなかった。侍女長であるサラミアからもきつく言われていたことで、先輩侍女たちと共に仕事していたのだが、3日目にしてまさかの寝坊だ。
寝覚めの悪さなんて、もうどこかに忘れてしまった。
急いで階段を駆け上がろうとして、突き当たりの柱の陰にディオンの姿を見つけ、あげていた足を元に戻す。
(珍しい・・ディオン様がこの使用人の階にいるなんて)
気づいたのに挨拶もしないわけにはいかず、シャナは声をかけようと口を開いた。
「おは・・ーーーっ!」
おはようございますと紡がれる言葉は、最後まで言葉になることなく、喉の奥にゴクリと飲み込んだ。
彼は誰かと話していた。それは普段見るシャナ以外にはほとほと社交的な彼が、ひどく険しそうな顔をして口を動かしているものだから、思わず言葉は声にならなかったのだ。気づいたらそれまで聞こえなかった声が密かに聞こえてきた。
聞くつもりはなくても、思わず聞き耳を立ててしまう。彼らも自分には気づいていないのだから、このまま知らぬ顔で、階段を駆け上がればいいのにシャナは階段の陰に隠れてしまった。
変な話、好奇心の方が勝ってしまったのだ。
(話してる相手が誰か見るだけ・・別にやましいことじゃないのよ!)
自分に言い聞かせるが、どう考えてもやましいことだとはここには咎める人がいない。
「ーーこんなことになったんだ。そろそろ覚悟はできているんだろう」
「俺は・・」
「いいかい。いつまでも逃げ回るだけじゃだめなんだよ」
「わかってる。・・」
「君もあの子も、もう随分逃げてきた。そろそろ覚悟を決める時だ」
「・・今のこの平穏な日々が、続くことを一番に願っていたのはライアン、お前たち親子だろう」
いつもより砕けた喋り方のディオンには少なからず、シャナは驚いていた。その分それぐらい心を開いている相手なのだろうとは思っていたが、まさかそれが公爵子息だなんて思わなくて、驚いた拍子に身を乗り出してしまった。
驚いているのは向こうも同じようで、急にあらわれたシャナに驚愕の瞳を向けていたと思ったら、不機嫌そうに笑みを作る。
「どうどうと盗み聞きか?」
「いや、あの、えっと」
上手い言い訳を探せるわけもなく、せわしなく目がきょろきょろと逃げまわる。
(ああ!なんて古典的なバレ方なの!)
頭を抱えたくなるのを、ぐっと耐えた。
ちょっと考えたらわかることだ。たぶん自分はあまり聞いてはいけないような話を聞いてしまったのだろう。
「君は確か・・」
柱の陰に隠れていたライアンが姿をあらわす。
エルーシャと同じ金髪と、海のような青い瞳がシャナを見ていた。
「確かシャナと言ったかな」
美しい紳士は優しげに笑う。
彼はエルーシャが倒れて、次の日には返って来ていた。
王都で父であるアルフォンスの右腕として働く彼は、朝から汽車を乗り継いで、夜の9時頃に2人の従者とこの邸に着いた。
それが昨日のことだ。
その時はこんな風に微笑んでなんていなかった。顔はどこか色を失って、家令である、バレン・イエガーと、侍女長のサラミラと共に帰って来て早々にエルーシャの部屋に向かっていった。
その姿しか見ていなかったから、シャナは少しだけ驚いていた。
(エルーシャ様にそっくり)
いや、彼女が彼に似ているのか。
エルーシャを男性らしくした美しい紳士に、名乗った覚えはないシャナはコクリと小さく頷いた。
「サラミラに聞いたんだよ。最近新しく侍女を雇い出したと、いや侍女見習いだったね」
「・・・はい。挨拶が遅れて申し訳ありません。シャナと言います」
遅れたというよりは、彼が帰宅したのは夜中だったこともあるしそんな暇なかっただけだ。