シャナが生まれた日
『とりあえずは1ヶ月ほど安静になさって下さい』
『ええ、わかったわ』
『足の方が一番重症でしたが、他にも所々火傷の痕がありました。お可哀想にーー・・熱が出ておりますから、これは熱冷ましと痛み止めの飲み薬、塗り薬です』
『ありがとう、グエンザ先生』
『構いませんよお嬢様。では私はこれでーー』
ボーとする頭に声が響いていた。
薄っすらと目蓋を開けると、横にいた誰かがホッと息を吐いたのがわかる。
「目が、覚めましたか?喉乾きませんか?」
声の主は女の人だった。柔らかな声音は、どこか落ち着かせるような声で、確認しようと横を向こうとしたのだけど、身体に鈍い痛みが走って諦めた。
そのかわり喉は無性にカラカラに乾いていたので、頷いてこたえる。
「お口、開けて下さいね」
言われて素直に唇を開けると、水差しが差し込まれて冷たい水が喉を潤した。
そのあとすぐに「私は目覚めたことを伝えにここを離れますね」そう言って足音が遠のいて行った。
(今度も、どこだろう・・)
目覚めら前は土砂降りの中山道にいたはずなのに、今度は寝台の上にいるらしい。きょろきょろ、目だけを動かして最低限のことを確認した。
しかもなかなかに上等な天蓋付きの寝台だ。かけられた布団一枚にしても、敷かれたシーツにしてもこれ以上ないくらいの肌触りだ。
身体の自由がきかないから、それ以上は確認できずにおとなしくしていると、扉の向こうが騒がしくなり、扉が開かれる。
(誰か入ってきた・・)
身体を動かさないから、見ることもかなわない。
足音は2つだ。
足音はちょうど寝台の横で止まり、視界の端に豪奢な黄金色が見えたかと思うと、それが視界いっぱいに広がる。
「ーーわ、!」
驚きで思わず出た声に、目の前の空色の双眸は笑みを作る。
「良かったわ。目が覚めて」
鈴の音のような声で心底安心したように頷いたその美しい人は、あの山道で出会った人だった。
そう言えば、その後から記憶がないことに気づく。どういった経緯でこうなったのだろう。
不思議に思っていると相手にも伝わったようだ。
「貴女ね、わたしを見た瞬間そのまま意識を失ったの。身体が限界を迎えていたのよ、高熱もあったしね。あの日から3日間貴女は目を覚まさなかったのよ」
だから目覚めて本当に良かった。そう言って心底ホッとしたように彼女は息を吐き出した。
「・・ーーそれはどうもすいません・・」
心配されたことにどうしようもなく申し訳なくなり、掠れた声で謝る。
すると彼女の大きな瞳が釣り上がり、両方の頬をそれなりの強さでつままれた。
(い、痛い・・っ)
「貴女、凄い大怪我をしてるのよ!」
どうやら彼女は怒っているらしい。わけが分からないが、とりあえず頬が痛い。涙が出るほどには痛いとわかってほしい。
すると横から彼女を落ち着けるように、その両手を宥めるように手が伸びてきた。
「エルーシャ様、大怪我してるんですからさらに痛みを与えてどうするんです」
なかなかにいい声の男が、どこか可笑しそうに彼女ーーエルーシャにさとす。
言われて気がついたようで、慌てて両手を離してくれた。けれどたぶんその両頬は赤く染まっていることだろう。鏡がないので分からないが、エルーシャが、微妙な顔をしていたのでそういうことだ。
とりあえず怒りをおさめてくれたようで、話を変えるように彼女は薄紅いろの唇を開いた。
「まず貴女がどうしてあそこにいたのか、あんなーー・・」
言ってからエルーシャの瞳は今は動かない足元の方に向いた。痛々しそうに眉根がよったのを見て、火傷のことを言ってるのだとわかった。確かにあんな酷い状態だったのだ、それは当然の反応だ。
気持ちを落ち着けるようにエルーシャは一度息を大きく吐き出した。
「全部聞きたいのだけど、それは貴女が動けるようになるまで待とうと思っているわ」
安心させるように微笑まれて、一瞬どうしようかと考えてしまう。
けれど彼女の話は続く。
「だけど、名前だけは教えてほしいのよ。屋敷で働く者もそうだけど、わたしも貴女をなんて呼べばいいのか困るから」
そう言われて理解はできた。けれど困った。名前と言われて答えられるものがない。はっきり言えば答えがない。
記憶がないのだから当たり前だ。だから彼女に答えられるものが何もない。
仕方ないので、意を決して口を開く。
「わかりません」と。
あまり何も考えずに答えた言葉だったが、彼女が息をのむのがわかった。
みるみるうちに眉を寄せて険しい顔になる。
「お答えしたいのですが、わたしは答えを持っていません」
別に記憶がないことを悲しいなんて思わなかったけれど、何故か彼女が辛そうな顔をするのを悲しいと思ってしまう。
「わかったわ」
辛そうに呟いたエルーシャにずきり痛む胸を不思議に思いながら、次の言葉を待った。
「では、今日からこう名乗りなさい」
―――シャナ、と。
記憶喪失の少女はそうしてシャナになった。