妖精姫と天使
「おはようございます。エルーシャ様」
カーテンを開け放って、朝日で部屋の中をいっぱいにしながら、シャナは部屋の主人を起こしにかかった。
低血圧で朝に弱い主人は、なかなかに手強い。
とりあえず掛布団を剥ぎ取り、枕から頭を落とす。ゆさゆさと身体を揺さぶっていれば、嫌々ながらにエルーシャは目蓋を薄っすらとひらいた。
そこでとどめとばかりにシャナはもう一度朝の挨拶を繰り返した。
「おはようございます」
「・・・・ん」
あらかじめ用意しておいた水を張った銀製の桶を渡す。
眠気まなこでそれを受け取ったエルーシャは、パシャパシャと何度か顔を洗って、手渡されたタオルで顔を拭いてやっと空色の瞳がしっかりとシャナを見上げた。
「ええ、おはようシャナ」
「はい、おはようございます」
にっこり笑ってシャナは金紫色の瞳を細める。
やっと目覚めてくれた美貌の主人は、いつものように寝台から降りると洗面所に歩いて行く。それを見送ってから寝具を整え、エルーシャが戻ってくると準備していた彼女の瞳の色に合わせた青空色のあまり華美ではないシンプルなドレスを着せる。
「良い色ね」
エルーシャは鏡の前で満足そうに笑う。主人は何を着ても美しい。装飾の少ないドレスは彼女の好みだ。彼女だから着こなせるドレスは、どのドレスよりも美しいと思えた。
「シャナ、お前がここに来てもう5年も経つのね」
「ええ、エルーシャ様」
鏡の中の空色の瞳と目を合わせながら、シャナは頷く。
そう、もう5年も経とうとしている。
「わたし、今でも信じられないのよ」
今年エルーシャは25になるのだが、その瞳は少女のように輝いていた。
「わたしが嫁ぐことになるなんて」
とても嬉しそうに呟く彼女に、シャナも嬉しくなった。
主人は貴族では珍しい恋愛結婚だ。アルフォンス公爵家に生を受け25年、明日彼女はこの国の王様のお妃様になる。
「それもこれもお前のおかげよ。ありがとうシャナ」
黄金色の美しい髪を緩やかに結い終わったのを確認して、エルーシャは振り返った。
それに必死で首を横に振って否定する。
「そんなことありません!わたしなんてーー」
「いいえ。シャナお前はわたしの天使よ」
言われたことがわからなくて、シャナはその金紫色の瞳がこぼれ落ちそうなほど見開いた。
――――――
バシャバシャと打ち付ける雨。
じりじりと真っ赤に腫れた両足が、雨に染みて痛みが走る。
(・・ここは、どこだろう)
金紫色の瞳を呆然とさせながら、彼女は地面に座り込んでいた。
立ち上がろうにも足が痛んでそれもできない。
その間にも雨が降り注いで、彼女の体温を奪っていった。
とりあえず状況を確認したくても、ここがどこであり、どうしてここにいるのか、自分が誰なのか、彼女は教えてもらうものが近くにいない。
足も痛いが、手首も痛い。見れば、手首には赤黒く充血したロープの痕。よくよく見れば赤く腫れた足にも同じような痕がある。
着ている服だって、真っ白かっただろうワンピースは真っ黒な汚れがべっとりとついて、見るも無残な姿をしていた。
「酷い姿・・・」
掠れるほどの小さな声で呟いたころだ。
ドドドドと地に響くような音が、道の向こうから聞こえた。それがなんなのか最初わからなかったが、近づくほどに姿がはっきりとしてくると、彼女はそれがなんなのか理解した。
(ーー・・馬だ)
二頭の馬がその背に人を乗せて、物凄い勢いで走って来ているのだ。
そのまま踏まれてしまえば、彼女のちっぽけな命はぺしゃんこになってしまっただろうが、雨の中二頭の馬は鋭いいななきとともに彼女の目の前で止まった。
座りっぱなしで馬の頭上を見上げていれば、バシャと馬から飛び降りて慌てたように目の覚めるような美しい女性が駆け寄って来た。
「貴女、大丈夫?!」
その声音まで鈴のように綺麗で、空の色の双眸をただただ見上げていた。
それが後に妖精姫と呼ばれる不幸姫と、
天使と呼ばれる少女の出会いである。