記憶のカケラと隠された想い
何をそんなに驚いているのだろう。
「・・・無意識、なのかい?」
ライアンの問いにさらに困惑する。
彼の視線の先をたどっていくと、ちょうどシャナの右肩のあたりを見ていることがわかった。
視界でその銀色の光る短剣を確認して、その肩に赤いシミも、痛みもない。
「え・・?」
自分でも間抜けな声が出た。
おかしなことに、その短剣はシャナの肩に突き刺さる寸前で、左手で見事に柄を掴んで阻止していたのだ。
「・・なんで!?」
誰に問うたわけでもない。
記憶がないシャナは気持ちが悪く、思わず短剣を放った。美しく磨かれた廊下の床に、金属の弾ける音が響く。
ディオンの足元に転がったそれを、彼がかがんで拾い上げた。
その動作を、シャナは茫然と立ち尽くして見ることしか出来ない。
頭の中はどうして、その言葉がえんえんとシャナに問いかけていた。
「お前・・、本当に記憶喪失なのか?」
ディオンの鋭い瞳が、シャナを射抜く。
聞かれた意味もわかる。
「っ、」
本当に記憶は、ない。そのはずだ。
いや、違う。思い出そうとすると頭のどこかで警報が響く。
思い出しては駄目だと。
そう、頭のどこかで誰かがいうのだ。
今日の夢を思い出す。
一面に広がる、紅。耳をつんざくような悲鳴。
あれはなんだったのだろう。
ーーードクン!
心臓がひときわ大きな音を立てた。
『このーー悪魔!!』
「ーっ違う!」
耳に響き渡る女性の声に、シャナは大きく頭を抱えてしゃがみ込んだ。
シャナの様子に異変を感じて、ディオンとライアンの2人は顔を見合わせる。
『私たちに近づかないで!触らないで!!』
「待って!」
『助けて!誰か助けて!!』
「駄目!そっちへ行っては!!」
『助けっ、ぎゃあああああああああ!!!』
「っああ、・・・どう、して」
どうしてあの時無理にでもあの逃げる手を取らなかったのだろう。
「おい!お前ーー」
ディオンの驚いた声が遠くに聞こえた。
「わた、しはーー」
あなた達を救いたかっただけなのーー。
シャナの意識はそこでプツリと切れた。
ーーーーー
「どういうことなの!?」
ライアンの書斎にエルーシャの怒声が響き渡る。
「まあまあ、エル落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか!」
「うんうんそうだね。とりあえず、君病み上がりだから」
「兄様にも聞いていてよ!!」
「うん。そうだった」
起きた時より随分と顔色も良くなったエルーシャにホッと息を吐き出す。
(これだけ怒る力があれば大丈夫か)
そもそもなぜ彼女がここまで怒っているかと言えば、チラリとライアンは壁際にもたれて立つディオンに視線を向けた。
どうもふてくされたような顔をしている彼は、ここへ来る前にエルーシャに相当怒られたと見える。
(ふむ)
それにしても、エルーシャがどういうことなのか聞いて来ているという事は、ディオンは答えることをライアンに丸投げしてきたようだ。
(まったく困った子だね)
怒って顔を真っ赤にする妹を、とりあえず長椅子に座るように促して、ベルを鳴らして従者の1人であるジオを呼んで、お茶の準備を頼んだ。
それから準備の早いジオがお茶の準備をしてくれているのを横目に、ライアンはエルーシャの怒りの根源を話し始めた。
「ーーーと、言うわけなんだ」
ライアンは話し終わると、ジオの入れてくれたお茶をいただいた。
「今日も美味しい紅茶をありがとう」
「いいえ。もったいないお言葉です」
ライアンの素直な気持ちに、ジオは灰色の瞳を伏せて胸に手を当て仰々しく頭を下げる。
彼のお茶の腕はサラミラに匹敵するほど素晴らしいとライアンは思う。何を隠そう、ジオはライアンのお茶の師でもあった。
「ーー・・なんてこと」
それまで黙って聞いていたエルーシャは、どこか先ほどの怒りとは別の怒りを含む声音で呟いた。
ライアンが話した内容は、簡単に言えばディオンがシャナの記憶喪失を疑ったために、シャナが気を失ったと言うものだ。
もちろん、その時ディオンがナイフを投げたことも、自分がそれを止めきれなかったことも、それをシャナが受け止めたと言うこともちゃんと話した。
1つだけ話さなかったことがあると言えば、気を失うまでの彼女の様子だ。
『違う!』
叫ぶようにして声を張り上げた彼女は、そのまま頭を抱えて座り込んだ。
その後も自分とディオンに視線は向いているのに、その金紫の美しい瞳は2人を写さずに、遠くをさまよいながら、声を張り上げて訴えていた。
あれはきっと彼女の記憶の断片だ。
自分とディオンじゃない誰かに向けて、今じゃない時の中の彼女の記憶。
けれどなんて悲痛な叫びだろうと思う。だった推定15前後の少女の出す声ではない。
(あれが記憶だとしたら、あの娘はどんな人生を歩んで来たのだろうね・・)
気を失う寸前上げた顔に、ライアンは少なからず心を鷲掴みにされた。
人生の半分も生きていない少女の瞳から、悲しい一筋の雫がこぼれ落ち、ゆっくりと倒れゆく身体を思わずディオンより先に抱え上げたほどには。
(参ったな・・・)
ふぅと、小さな息を吐き出した。
27年も生きて来たライアンには、この感情がなんなのかすぐにわかった。
けれどそれを簡単に認めてしまうわけにもいかない。
「確かに・・」
エルーシャの声に、ライアンはその感情を心の奥にしまう。
「確かにシャナはちょっと変わっているわ。そもそも、あの子を拾ったときからあの子には何かあるなんてわかっていたのよ。けど記憶があるにしてもないにしても、シャナはわたしの中でシャナなの。ディオンがわたしのこと心配してくれてるのはわかってる。だからシャナを警戒しているのも・・」
妹はいつからこんなに力強い光をその瞳に宿すようになったのか。
その身に宿す、膨大な力を持て余して、それが露見すれば戦争の道具になるかもしれない。いや、かもじゃないのだ。過去にこの力を持って生まれた者がずいぶん昔に戦争の道具になり、最期は世界に殺された。それは有名な話で、けれどそれが当たり前の世界だったのだ。
それは今の世も変わらず。
だから自分も父も母も、そしてディオンはあの日あの瞬間から世界から妹を守ることを決めたのだ。
「わたし本当は知っているのよ。ディオンがその喋り方になったのは、わたしが原因だって。父さまや兄さまが、領地にわたしを置いて王都にいるのだってわたしを守るためでしょう。わたしのこの力が露見しないように。そしてディオンはわたしを守るためにここにいる・・・」
これは本当にエルーシャなのだろうか。昔は良く泣いて、自分やディオンの後ろに隠れていたのに、今はどうだろう。
「でも、もう守られてばかりは嫌なの。前に進まなくてはならないわ」
いつまでも小さな妹と思っていたのはライアンだけだったようだ。
(君はそんなに成長していたのに)
どうしようもなく、情けない顔になっているような気がする。
そう、誰もが前に進まなくてはならない。父も、ディオンも、自分も、逃げてばかりじゃ何も変わらないのだ。
ディオンに視線を向けると、彼もなかなか情けない顔になっていた。
すべてばれていたことに、どう反応したらいいのかわからなかったのだろう。
1つ頷いてライアンは口を開いた。
「ーー戦う覚悟はあるんだね」
これは頷くエルーシャ1人に向けた言葉じゃない。もちろんディオンにもむけている。
(エルがここまで覚悟を決めてるんだ、ディオン。君も大人しく覚悟を決めたまえ)
にやりと笑って彼を見やれば、今にも舌打ちでも聞こえて来そうな顔をしたかと思えば、やっとディオンは背を預けていた壁から離れて、こちらに歩いて来た。
「・・ーーエルーシャ様、いや」
何度か首を横に振って、ディオンはエルーシャの座る長椅子の横に片膝をついた。
いつもの雰囲気ではないとエルーシャも悟ったのか、困惑した面持ちでディオン見下ろしていた。
「エルーシャ」
ピクリと妹の肩が揺れる。
「俺は君に隠していたことがある」
スッとディオンは右手をエルーシャに差し出した。
「一生言わないままでもいいと思っていた」
ライアンは再び息を吐き出した。
「それでも聞いてくれるか」
ディオンの精一杯の声を聞きながら、ライアンは少し冷めてしまったお茶をいただく。冷めても美味しいお茶にさすがだと、関係のないことを考えていながら妹の言葉を待った。
ホロリとエルーシャの頬を涙が伝う。
けれどそれは嫌だからとか、悲しからとかそんな感情の涙ではない。その表情を見ればわかる。
「遅いじゃない!待ちくたびれたわ」
美しい笑顔と共に、エルーシャの手はディオンの手を取った。
それを見て、ライアンはもう一度自分の気持ちに固く蓋をした。
これから長い戦いが始まるのだ。