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香辛料無駄盛り  作者: 黒田皐月
無駄盛り、始まり
2/5

氷川の難

 あの激辛カレーの日からしばらくの間、誰かの家に上がり込んでの勉強会は敬遠されていた。互いに聞きたいことがある時は放課後の教室を使ったりしていたのだが、それでは時間が限られてしまう。そうかと言って、外に適当な場所があるでもなかった。

 窓の外に見える色が青から赤に移り、それも徐々に暗転していく。三人にあるのは、今日も消化不良感ばかりだった。

「やっぱ、放課後にちょこちょこだけじゃ無理だな」

 ノートをカバンに片付けながら、氷川が疲れたようにこぼした。日野と桜田が一斉に氷川の顔を無言で覗き込む。

「な、なんだよお前ら」

 一度均衡ができてしまうと、それを破るのは意外と難しい。破ろうとすれば破れると言われるようなものは、大概破ろうとすることができないものだ。さらに無言で氷川を見つめる日野の表情にあるものは、もしかすると恐れなのかもしれない。

「今度の土曜俺の家で勉強会、昼飯は俺が用意する、それでいいか?」

 漂いだした緊張感を叩き壊すかのように、氷川はまくしたてた。二人はそれに気圧されたように、ただ首を縦に振るだけだった。

 校舎から外に出た頃には、もうすべての街灯が点いていた。少し遅くなりすぎたことを後悔しながら、三人は足早に駅へ向かって歩く。

「あのゲームなんだけど、西の番人ってどうやったら倒せるんだ? 俺あそこでレベル5くらい上がったけど、まだ勝てなくて」

 桜田が言ったゲームとは、先月発売された人気RPGシリーズの最新作のことだ。有名な作品なので持っている者も多く、ここにいる三人も全員プレイ中だ。

「いやそこまでレベル上げる前におかしいって気づけよ。雑魚敵楽勝レベルなら、まず何か間違ってるだろうが」

 桜田は氷川に向けて問いかけていたが、氷川の答えよりも早く日野が突っ込んだ。

「あの寝てる奴ね。前に眠り薬で眠らされた人を起こした解毒剤は使った?」

「使った使った。そしたら襲い掛かってきてボロ負けした」

「あれは起こしちゃダメ。五回話すと寝ぼけてどいてくれるから、その時に通ればいい」

「そんなのアリかよ」

 努力が無駄になったと知った桜田が、がっくりとうなだれた。

「でもさ、あいつ帰りには起きてるじゃん。それはどうするよ」

 今度は日野が質問を続ける。

「あれ、日野がそれ解けないとは思わなかった。あれは」

 答えようとする氷川に、日野が目くばせした。一度口をつぐんだ氷川は日野の肩に触れるくらいに体を寄せて、小さくその答えを伝えた。

「えー、俺にも教えてよ」

 それを聞きもらした桜田が抗議の声を上げたが、日野が一瞬だけ怖い顔を見せると一転して黙った。

「それにしても、さすが青葉一高の歩く攻略本」

「思いついたのを試して、ダメだったら調べるだけだから、それほどのものじゃないって」

 日野の称賛に悪い気はしなかったらしく、氷川の表情がちょっと緩んだ。

 攻略情報の交換が一通り済んだ頃に、このあたりで最も街灯が明るい駅前に到着した。ここから日野は駅の反対側に抜け、桜田は改札を通過していった。右に曲がるはずの氷川が来た道を戻ったことに、二人は気づいていなかった。


 土曜日、まるで平日と変わらないような時間に集まった三人は、触れてはいけないものを避けるように言葉少なに問題集を開いた。

 どの科目を集中的にやるか、いつも多少の取り合いがあったりするのだが、それさえも最初から氷川に一任されて理科に決まった。気分で口を出すことの多い桜田さえ、どこか遠慮を見せていた。

「次の組み合わせで最も起電力の高い電池になるものを選べ。これって電機陰性度だっけ?」

「電機陰性度だったか何かは知らないけど、銅使ってる奴じゃない?」

 日野のつぶやきに似た問いに、桜田が答えた。桜田が開いていたページはまったく別の分野だったりするが、それでも問題が見えているかのような口ぶりだった。

「いやちょっと待て。それは合ってるけど、丸暗記を押し付けるのはやめてくれ」

 それで次の問題に進もうとしていた日野を氷川が制した。それから硬貨がこすれるような音がしたので日野が目を上げると、氷川は財布から十円玉と一円玉を出して机の上に置いた。

「正しくはイオン化傾向。これで電球光らせたの、覚えてないか?」

「ん、そんなのあったっけ? 覚えてないや」

 硬貨が置かれる音でようやく氷川の方を向いた桜田は、即答してまた問題集に目を落とした。

「ああ、そんな実験やったの思い出した。亜鉛板とか使ったんだっけ」

 そうだ、と言いながら氷川は日野が開いている問題集をのぞきこんだ。

「鉄と鉛か、たしかそんなのも使ってたな。亜鉛とか鉛はさすがに持ってないけど」

 そう言いながら勉強机の中をあさりだした。何が起こるかと日野が何となく待っていると、氷川は釘とソケット付きの豆電球を持って戻ってきた。

「お前、家でもそれやったのか」

 半ば呆れたように日野が言うと、氷川の方はちょっと得意げに口角を上げてうなずいた。

「今日トマト買ってあるから、後でやろうぜ」

「何なに?」

 少し崩れた雰囲気に誘われたように、桜田が話に戻ってきた。しかし話は聞いていなかったらしく、勉強に使わない豆電球がそこにある意味がわかっていなかった。

「今度俺らに丸暗記を押し付けたら、この釘でお前を刺す」

 明らかに桜田が怯えた表情を見せた。

「おいおい、きつい冗談だな」

 桜田が目じりを掻きながら、弱々しい声で抗議した。しかし氷川は、桜田にさらにきつい目を向けた。

「答だけはあってるから余計たちが悪いんだ。そんなやり方は俺も日野も真似できないから、勘弁してくれよ」

 釘を手にしてすごんで見せる氷川に桜田は言葉を返すことができず、ただ二度うなずいて見せただけだった。

「でもさ、鉄なんて他にもいろいろありそうなのに、なんで釘なんだ?」

 それをなだめるかのように、日野が話の方向をずらした。氷川のすごんだ表情は消えて、経緯を思い出そうと首をひねり出した。そのうち釘を持ったままの手を顎に当てようとしたので、桜田が慌てて止めた。

「危ないから釘は置いてください、お願いします」

「悪い悪い、お前本当に血が苦手なんだな。って言うかなんか思い出した。中学で木工をやった時に使ったのが残ってたんだった」

 それからしばらくは、木工だったり絵だったり、はたまた元に戻って実験の話が続いた。日野も桜田も自分で手を動かすものはうまくない方なので記憶に残る話題が少なく、半分以上は氷川がしゃべり続けていた。

「なんかしゃべりすぎてのどが渇いてきた。飲み物取ってくるわ」

 桜田が勝手に台所に立ったところで、ようやくそれにそれた雑談は中断された。時計を見た氷川が失敗したとでも言うように顔をしかめたが、桜田が戻ってくるまでにはその顔は収めていた。

「お前、勝手に人の家の台所まで入ってくるなよ」

「ごめんごめん、盛り上がってたからちょっと頼みづらかった」

「言ってくれればいいからさ」

 桜田がわざわざ三人分コップに注いで持ってきたウーロン茶で一息入れて、それから再び問題集に戻った。テーブルの上が徐々に開いた教科書やノートに占領されてきた頃に、正午のチャイムが鳴った。


「豚小間切れ、ピーマンとパプリカ、タケノコ細切り。えっと、何だっけ。わかるんだけど名前が出てこない」

「チンジャオロースだ。桜田はこっちで肉に片栗粉を混ぜてもみ込んでおいて」

 氷川はボウルと台拭きを食卓に用意して、後のことは返事も待たずに桜田に押し付けた。

「俺はピーマン切っとく?」

「頼んだ」

 鍋に水を張ってコンロにかけながら、切る方は日野に任せた。すぐに湯が沸き立ち、氷川はタケノコを湯通しした。

「片栗粉の手触りがヤダ。どっちか代わってよ」

 文句を垂れる桜田を無視して、氷川はフライパンを用意した。日野も応じる気配を見せないので、諦めたように桜田はボウルの中身をこねくり回し続けた。

「ちょっと熱いの通るぞ」

 流し台の脇でパプリカを切る日野に声をかけて、氷川は鍋のお湯を流しにこぼした。上がった湯気はすぐに換気扇の方に流れていく。流し台が歪む音がひとつ、盛大に響いた。

「この音はいつ聞いてもビビる。先に言ってほしかったな」

 片栗粉の感触に苛立っているのか桜田がまたケチをつけてきたので、もみ込みはお役御免にしてあげた。これだけ混ぜられていれば十分だろうと判断してのことだ。真っ先に手を洗った桜田には、そのままレタスを洗ってちぎるのを頼んだ。

 ちょうどピーマンとパプリカも切り終えていたので、日野にはトマトの輪切りを頼んで、氷川はタケノコと合わせて炒め始めた。

「あ、トマト一個残しといて」

「やるんだ、やっぱ」

「意味はないけど、なんかやりたくて。食う分がちょっと足りない感じだけど、そこは勘弁して」

 炒めた野菜をいったんさらに上げて、氷川はフライパンに油を敷きなおして肉を放り込んだ。焼き目がついた頃に先に上げた野菜と、みりんとしょうゆを加えて火力を上げた。水分が跳ねる音が響く中、氷川は調味料の棚から未開封の七味を取り出した。

「お前それ、ちょっと辛味付けなんだよな」

 氷川の硬い表情を横目で見た日野が、不安そうに念を押した。

「ちょっと、ねえ」

 氷川はそうつぶやきながら七味の封を開け、隠し味とは思えない勢いで肉に野菜に振りかけた。一通りかき混ぜてからピーマンを一切れ口にして、また冗談でしか考えられないくらいに七味を振りかけた。

「本気なんだな」

「やられっぱなしってわけには、いかないだろう」

 顔をゆがめて早い呼吸を繰り返しながら、氷川は三度七味を振りかけた。一食で瓶の四分の一も使うなど、普通に考えればありえない。コンロに背を向ける形だった桜田もようやくその匂いで気づいて、驚いた顔を隠さなかった。

 二人が注目する中、氷川はもう一度味見をした。目を白黒させて、水道の水を手ですくって口に含んだ。それからみりんとしょうゆを適当に足した。

「パプリカだけじゃない赤が、けっこう目立つな」

「俺たちから隠れてやらなかったところに、本気を見た気がする」

 氷川の様子見て立ちすくんでいだ日野と桜田は、生野菜の盛り付けを頼まれてようやく動くことができたようだった。

「味が濃くなっちゃったけど、食うか」

 氷川のその一言を合図に、三人が同時にチンジャオロースを小さく一口、口にした。そしてあらかじめ決められていたように、揃ってコップの冷茶を一息に飲み干した。

「ぶっつけ本番でよくやろうと思ったな。そのために新品の七味まで用意して」

 日野はそんなことを言ったようだったが、口の中が熱くてうまくしゃべることができていなかった。氷川も同じようにすぐに喋れないようで、首を横に振りまた冷茶を飲み干した。

「新品だったのは、試しで一本使い切ったからだ。こんな訳のわからないこと、ぶっつけでなんてできるわけないだろう」

「お前、やり切ったふうに見えるけど、それっていちばん激辛を食ってたある意味犠牲者ってことじゃん」

 キョトンとした氷川が次の瞬間に弾けるように笑って、つられて他の二人も大笑いしたのだった。

 電池の実験用に残してあったトマトも、水分補給のために食べてしまわざるを得なかった。


 食べた食器を片付けて、三人は思い思いに問題集を開いた。わからない問題に当たってそれを別の者に聞く声が時折ぼそぼそと上がるくらいで、静かな時が流れていた。

 本のページをめくる音、ノートにシャープペンを走らせる音、たまに消しゴムを使った時に伝わってくるテーブルの揺れ、そういったものは意識しなければなかなか気づかないものだ。そんなことに日野がふと気づいた。より正確に言えば、それらが氷室からまったく発せられなくなっていたことに気づいた。

 何か難問にでもぶつかったのだろうかと、日野は氷川が見ている問題集に目をやった。にらみつけているような視線が、そのページのどの問題なのかを指し示していた。複数の金属の溶液から特定の金属を抽出する問題で、日野も答えを考えてみたが、解けそうにになかった。

 自力で解くことを諦めた日野は教科書をめくったが、解答がわかるまであちらこちらを行ったり来たりしなければならず、かなりの時間がかかった。ようやく納得したところで氷川に声を掛けようとしたが、身じろぎひとつしない氷川の姿にためらいを覚えた。

「テストでわからなさそうな問題が出たら、どれくらい考えて諦める?」

 行き場を失った声を紛らわせるように、日野は桜田に意味もなく問いかけた。

「思い出せなければ、即諦める」

「お前ならそうか」

 日野にとって答えの中身などはどうでもよかった。その答えは流すように、氷川に向けて顎をしゃくって見せた。

「氷川がたまにテストの点が悪い理由が、これか」

 桜田にしては珍しく、察しのいいことを言った。それも氷川の耳には入っていないらしく、相変わらず身じろぎひとつなかった。日野は意を決して氷川の肩をゆすって、それでようやく我に返ったようだった。

「これがテストなら、相当な時間のロスだぞ」

「そうだな。間違いなく、そうだ」

 氷川がようやく自分の教科書を開こうとしたが、日野はそれを遮って先に自分が調べたページを見せた。桜田はその問題には興味を示さなかったが、話から抜けることもしなかった。

「ありがとう。まあ今はテストの時じゃないから、考えるだけ考えてみようと思ってたんだ。それから調べるなり聞くなりするつもりだったけど、諦めが悪かったな」

 良くも悪くも、自力でやろうとするのが氷川だった。ゲームでも同じ態度で、まだ攻略していない部分の話は絶対に聞きたがらず、そこから避けようとさえする。

「今は一人じゃないんだし、そこはうまく俺たちを使ってほしかったな。桜田はこれわかるか?」

 日野が氷川の問題集を取って桜田の前に置くと、待つほどもなくわかったという答えが返ってきた。

「確かにそのページの話だな。これはもう、覚えてるか覚えてないかで決まるようなヤツだ」

 解答まで自分で言うことはせず、桜田は問題集を氷川に手渡した。難しい顔で受け取った氷川は問題集と日野が差し出した教科書を並べて読んで、それからようやく納得したようにひとつ息をついた。

「今そこまでして自分だけでなんとかしようとすることに、意味があると思うか?」

 自分の教科書を回収しがてら、日野が氷川に問いかけた。氷川の方は問いの意味をつかみかねたようで、逆に問い返すような目を日野に向けた。

「本番の試験で答えられるようになるのが目的なんだから、今大事なのは答えを知ることだろう」

「大事なことか。そう言われてみると、目的は試験なんだろうかって思う。試験が大事なのは間違いないけど、それが目的と言われると違う気がするんだ」

 それから氷川は志望学部を選んだ時の話を始めた。どんなことを勉強するのかを軽くでもネットで調べている間に、そこで学ぶ学生の声のようなものも見るようになって、調べることの大変さや何をどのように調べるかを考える難しさを感したのだという。

「そう思うと今だって同じようなもので、諦めて手っ取り早く答えを見るのはどうかと思ったんだ」

 氷川の声が徐々に熱を帯びたものになっていた。

「でもな、それで試験受からなかったら元も子もないじゃんか」

 およそ逆の発想を持つ桜田が、冷たく返した。氷川の言ったことが気に入らないのかやや顔をそむけて、しかし斜めからにらみつけるような視線を送っていた。

「それもそうだし、それに一人だけでやらなくてもいいはずだよな、そういうのは」

 日野の言葉を最後に、しばらく緊張をはらんだ沈黙が続いた。妥協のようなものを口にする者は、誰もいなかった。

 それを破ったのは言葉ではなく、桜田が座を立った物音だった。

「飲み物、もらっていい?」

 氷川がうなずいて見せると、桜田はものも言わずに台所へと向かった。そしてその先からはコップを複数並べているような音が届いてきた。

「話は終わり、ってことかな」

「そうらしいな」

 桜田がお盆にコップと冷茶のボトルを乗せて戻ってきた。日野と氷川はテーブルの上の問題集などを片付けて、それを置く場所を確保した。

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