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其の六

 そして女の人生は終る。


 平素の様に繰子を着替えさせていた時だった。着物の袖に娘の腕を通す。帯を締め、頭を撫でる。娘の前に廻る。屈んで、可愛いわよ、と言おうとした時だった。

 言葉は出なかった。

 言葉の代わりに女は血を吐いた。

 咽び、畳に手を付く。

 咽続ける。

 見上げた娘の顔は自分の吐いた血で赤く染まっていた。

「ご・・・めんね・・・汚れ、ちゃっ、た・・・ね・・・」

 女は、最後の力を振り絞って娘にかかった自身の血を拭おうとする。女の白く、細い手が震えながら娘の頬に伸びる。そして優しく拭う。

「い、ま、きれい、に し て」

 顔の半分を拭った時、女は力尽きた。娘を押し倒す様にして――或いは抱き締める様にして――倒れていた。

 それが女の最後だった。


 夫が見つけた時には、女は既に事切れていた。


 男は泣いた。

 思えば、あの橋の上から始まった事だった。女の一目惚れから始まった事だった。あの時、橋を通らなかったなら、気付かずに女の前を素通りしていたなら、この生活は無かったのだろう。

 楽しかった。気が付けば自分も女を愛していた。彼女はいつも楽しそうだった。可愛くて、そして美しかった。

 彼女の声が。優しい微笑が。怒った顔が。仕草の一つ一つが。男の内で繰り返される。幾度となく。

 五年か、六年か。良く持った方だろう。

 ふと、娘の方に眼が行く。娘は妻の血で真っ赤だった。妻の手によって拭われた娘の顔は赤みが差している様にも見えた。拭われていない半分を男の手が拭う。血は乾いていて落ちなかった。

「もう、終いかぁ」

 男は泣いた。泣いて、泣いて。もう泪も出なくなった。


 母の死を、父の悲しみを、娘は何も判らないかの様に只只見ているだけだった。


 男は何もしなくなった。否、出来なかった。生業である人形作りも出来なかった。その存在は大きすぎた。それを失った。だから出来なかった。

 その男の背後に、女は居た。

 女は男の横に座り、顔を覗き込む。

『私は此処にいますよ』

 もう、その声は男の耳には届かなかった。

 男の手に触れようとする。

 それも出来ない。

『お願い・・・気付いて・・・』

 悲しかった。

 女は成仏出来なかった。自分は確かに仕合せだった。けれど、夫の事が気がかりで傍を離れられなかった。


 暫くは何も無かった。男は只、人形に話し掛ける。妻との思い出を。妻がしていた様に娘の着替えをする。もう娘の為だけに生きている様なものだった。娘がいるから思い出し、悲しくなる。いっそ壊してしまえば少しは楽になったのだろう。けれど優しい男であったから、とてもそんな事は出来なかった。


 真逆。夫に覚えていてもらう為だけに作った娘が、夫の苦しみになるとは思わなかった。こんな事になるのなら。

 死んでから女はそんな事ばかり考える様になった。けれど、決して娘が憎い訳ではない。如何すれば良いのかが判らない。否、如何にも出来ない。死んだのだから。死とはこういう事かと思い知る。身体の苦しみは無くなった。けれど、娘と語る夫を見ていると心が苦しくなる。張り裂けそうになる。如何して自分は死んでしまったのだろう。如何して死ななければならなかったのだろう。如何してもっと生きられなかったのだろう。如何して。考えても、答えは出ない。

――貴方の為に、もっと生きたかった。

 生きていた頃よりも、より強く思うようになった。



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