其の四
「・・・は?」
理解出来なかった。橋で鼻緒を直しただけの女が突然やって来て、泣き出して、此処へ置けとは。どう考えても理解は出来ない。だからと言って何かを企んでいる様にも見えない。そんな器用な事が出来る様には見えない。そもそも自分を騙した所で何かこの女に得があるのか。
「ちょ、待ちぃな。落ち着きいや。何を言うとんのや」
「落ち着いてます。私を此処へ、私の、私の残りの人生を、貴方と一緒に添い遂げたいんです!」
一世一代の告白だった。女は興奮している。顔は真っ赤だった。言ってみてから自分がとんでもない事を言っているのだと気付く。けれど、もう決めたのだ。後悔は無かった。
「何でや、何で私なんや。一遍会っただけやないか。意味判っとんのか」
聞き間違いだと思った。否、思いたかったのかもしれない。
「判ってます!」
女の口調は強い。
「こんな爺やなくても、他に居るやろ」
当然の反応ではある。如何見ても眼の前の女は自分の半分、もしくはそれ以下しか生きていないようにしか見えなかったのだから。
「貴方がいいんです!」
矢張り女の口調は強い。眼は変わらずに真っ直ぐ男を見ている。
「そんなん言われたかて・・・」
男が眼を逸らす。横目で見ても女の眼は男の眼を見続けている。
「・・・あんなぁ、良ぉ考えてみぃ。こんな爺の何処がええんや。もっと若くて、良ぇ男は仰山居るで。な、考え直し」
優しく男が諭す。けれども、その優しい声が逆効果だった。女には魅力にしか思えてならない。
「厭です!もう決めたんです!」
女の口調に負けそうになる。しかし乍ら、そうもいかない。
「それに、親御さんが許さんやろ、な」
「親は関係ありません。私の人生です!」
効果は無かった。
「・・・仮令一緒んなっても、や。先から言うてる通りの老いぼれや。あんたよか先に死んでまうんや。その後は如何すんねや。あんたにはまだその先何十年も人生が残ってるんやで。その後は一体――」
――如何すんねや。
逸らした眼を女の眼へ戻す。真剣だった。自分と一緒になっても自分の方が先に死ぬ。当たり前の事だ。自分には女の為に残すだけの財産など無いのだから。
――無いんです。
女がか細い声を出す。
「私には、もう、何十年も無いんです。」
そんなに無いの、と先程までとは打って変って細い声を絞り出す様に女が言う。
「無いって――」
男が繰り返す。
「私は多分、もうすぐ死ぬんです。生まれつき身体が強くは無いんです。だから――」
――だから、最期は好きな人と一緒に居たいんです。
女は悲しそうに言った。矢張り嘘を吐いている様には見えない。
「しかしなぁ。えぇと――」
糸です、と女は言った。
「・・・於糸さん。せやったら尚の事、他の、もっと良ぇ男さがしや。残り少ない人生を棒に振ったらあかんで」
男にそう言われても女の気持ちは変わらなかった。
結局、女は男の家に居ついてしまった。男が何度帰るように言っても一向に聞こうとはしなかった。居場所を突き止めた両親が何度も連れ戻しに来たがそれは同様であった。女は見かけ以上に頑固だったのだ。ある時は諭し、ある時はこんなにまで怒る姿は見たことが無い程に取り乱す父を前にしても女の気持ちは変わらなかった。
父は、親娘の縁を切ってしまった。
母は、泣いていた。
それでも、女に後悔は無かった。最初は如何にか考え直すように親と共に説得していた男も此処まで来ると女の気持ちに負けてしまった。
そうして二人は夫婦となった。