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其の三

 その日男は平素のごとく人形を作っていた。当たり前のことだった。平素と違ったのは戸を叩く音がしたことだった。男の許に客が来るなど滅多にあるものではなかった。だから平素とは違った。

「どちらさんや」

 男が声を掛ける。しかし返事は無かった。不振に思いながらも仕方なく戸を開ける。

 其処にいたのは。

 黒髪の美しい。

 その(おもて)はまるで人形の様な。

 一人の女だった。

――覚えて、いらっしゃいますか。

 女が問う。暫く考え込んで男が口を開く。

「はて。何処かでお会いしましたか」

 男は覚えていない様だった。女は少し眼元が潤む。けれど、それを必死で押さえて続けた。

「あの、橋の上で・・・」

 思い出してくれなかったら如何しようと思った。でも、もう決めたのだ。此処まで来て後には引けない。

 男は矢張り暫く考える。

――矢っ張り覚えていないのか。この人にとっては所詮その程度の事だったのか。

 そう思った時だった。

 ああ、と男が手を打つ。

「あの時の娘さんかえ」

 覚えていてくれた。先程まで必死で堪えていた泪が一気に溢れてくる。嬉しかった。あの一瞬の出来事を覚えていたという、只それだけの事が。

「ど、どないしたんや、何で泣くんや?頼むから泣かんといてや」

 男は如何すればいいのか判らずに戸惑っている。

「違うの・・・嬉くって」

 眼を擦り乍ら女が言う。

「嬉しい?何で・・・」

 男は訳が判らず、必死で女を宥めようとする。取り敢えず、家の中へ入るようにと言う。

 言われて女が後へ続く。家の敷居を跨いだ時、女は感じた。女の鼻に、肌に、それは纏わりついてくる。

「嗚呼、この匂いだったんだ・・・」

 それは、男の匂いそのものだった。家の中には作りかけの人形の部品やら何やらが散乱している。その一つ一つから、男と同じ匂いがしてくる。女には家そのものが男であるかの様に感じ、まるで男に優しく抱きしめられているかの様にすら感じられた。

 暫く女は呆けていた。

「だ、大丈夫か?」

 男が問う。女ははっとして泪を拭う。

「あ、その、お見苦しい所を・・・」

 ごめんなさいと何度も謝る。

「いや、ええんや、ええんや。けど、何で突然泣いたりなんぞしたんや。私が何ぞしたんか。せやったらごめんなぁ。堪忍してや」

 そうは言ってみたものの、男にはとんと覚えのない事であった。この女と会ったのは一度きりの事であるし、何より草履の鼻緒を直したというだけの事である。しかし、取り敢えず落ち着かせようと謝り続けた。優しい男なのだろう。

「あ、違うんです。そうじゃない、そうじゃないの」

 頭を下げる男に必死で訴えかける。

「私、嬉しかったんです。あの時の事を覚えていてくれて。もしかしたら忘れてるんじゃないかって・・・それで」

 本心だった。

「あの時って、橋の上で鼻緒直したった時の事やろ。そんなんで何で・・・」

たかがそれだけの事を覚えていた事で何が嬉しいのか。男にはいまいち判らない。

「そうです。変・・・ですよね」

 女は下を向いてしまった。言われてみれば確かに大した事ではない。そんな小さな事で眼の前で突然泣かれてしまえばそう思われても仕方がないだろう。けれど、他人にとってはそんな小さな事でも、女にはとても大きな事だったのだ。とても。

「いや、変というか・・・」

 男が口篭る。他に言いようが無かった。暫くの沈黙が続く。

 沈黙に耐えかねて男が口を開こうとした時だった。

「あの――」

 男よりも先に女の言葉が先に出る。

「私を、此処へ置いて下さい」

 眼は真っ直ぐに男の眼を見ている。その眼は潤んでいた。


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