其の二
いつの頃かもう判らない。ずっと昔の事だろうか。それとも本当は最近の事だったろうか。それすらも判らない。もう夢であった事のように朧気にしか覚えていない。けれど、その時の私は確かに幸せだったのだろう。
好きな相手と一緒になれて。
その人と暮らして。
その人と共に生きて。
その人に愛されて死ねたのだから。
初めて会ったのは橋の上だった。
その日、女は久しぶりに家の外へ出掛けていた。女は大店の一人娘だった。女は体が強くはなかった。だから滅多に外へは出してもらえなかった。けれど、最近は体調も悪くはなかったし、偶には外の空気を吸った方が良いと医者も言うので、久しぶりに町へと出掛けたのだ。
町では人形芝居をやっていた。お供の女中と一緒に見に行った。それは素晴らしい物だったと女中は言っていた。話事態はまぁ有り触れた物であった。けれど、人形がまるで生きているかの様であった、と。確かに凄いとは思う。只の人形を本物の人間の様に見せるのは。けれど、女は女中の様には感動出来なかった。女は別に人形が嫌いな訳ではなかった。けれど、特別に好きだという訳でもなかった。それは自分が娘であった頃には人形で遊びもした。けれど、只人並みに綺麗だとか、可愛いとか思うくらいだった。それに――。
「人形を人間らしくしてどうするの」
ぽつりと言った。只の独り言のつもりであった。
「だから凄いんじゃないですかぁ」
聞いていた女中が言った。
確かに凄いとは思う。でも、人形は人形である。仮令どんなに精巧に作っても人形が一人で動く訳でも、話をする訳でもない。事実、先程の芝居だって後ろに黒子が居たのだし。だから女中の様に感動する事は無かった。
そんな時だった。突然女の履いていた下駄の鼻緒が切れたのだ。転びそうになる。女中が受け止める。
橋の上だった。
「少し待っていて下さい。新しいのを買って来ますから」
そう言って女中は慌てて行ってしまった。此処から自分の家まではまだ距離がある。裸足で歩かせる訳にもいかないとでも思ったのだろうか。
――私は別に裸足でも良いんだけど。
橋の手摺に腰を掛け女中を待つ女はまるで一枚の絵の様だった。
橋には人が行き交っている。でも誰も声すら掛けない。
思った時だった。其処に男が立っていた。全く気付かなかった。
「どうしはったんや」
訛りのある喋りで男が言った。
「あ、その、鼻緒が・・・」
突然の事でそれを言うだけで精一杯だった。
ふむ、と言うと男は女の足元に屈む。
「あ、何を――」
男の予期せぬ行動に女は動揺した。
「少し待っとれ」
男は鼻緒を直している。屈んだ男の体から、匂いがする。汗の匂い。男の匂い。それは父親や、店の使用人達とは明らかに異なったものの様に思えた。けれど、決して嫌なものではなく、女にはそれがとても心地よかった。
「直ったで」
低く、とても優しい声だった。礼を言おうとしたが旨く言葉が出ず、男はほなな、と行ってしまった。男が立ち去ったすぐ後に女中が戻って来た。
まだ男の背中が見えている。
「あの人の事を調べて頂戴」
言った女の頬は少し赤くなっていた。
男の身元はすぐに判った。男は他でもない、自分達の見ていた人形芝居の人形の作者その人であった。男は町から離れた所で一人で人形を作って暮らしている様だった。
女は忘れられなかった。ほんの少し、只少し下駄の鼻緒を直すだけの時間のことを。
だから決めたのだ。
他人を好きになるきっかけなんてそれだけで十分だと、いつか女が言った。
結局、女は家出同然に家を出てしまった。向かった先はあの男の所。親に言ってもどうせ反対されるのだ。ならば。