其の十
それから暫くそのままの状態で居たが、すぐにこれから如何すれば良いのかと思う。この子はこれから如何なるのだろう、と。
改めて娘の顔を見る。血塗れである。そっと頬を拭ってやる。不思議な事に血が消えて、赤みの差した顔が現れた。
――私が不安がっていたらこの子も不安がってしまう。
母はそう思った。
如何するのかは後で考える事にして、取り敢えず喋れるのならば名前を教えようと思った。
『貴女の名前は――』
言おうとして女は一度言葉を止めた。そして一呼吸擱いて改めて言った。
『あんたの名は、繰子や。言うてみ?』
それはどこかぎこちない言葉であった。
それは、夫と同じ訛りのある口調だった。女の一番好きな男の喋りだった。
女は必死で夫の喋り方を思い出す。
忘れてしまいそうだったから。
そうする事でしか夫の事を、思い出を繋ぎ止めておけないから。
もう、会えないから。
だから――。
『言うてみぃ?』
ぎこちないが、夫の様に優しく語る。
「く、い、こ」
娘は必死で自分の名を言おうとする。母同様ぎこちないものであった。
『そうやぁ。良う、言えたなぁ』
泣いたような、笑ったような顔でそれを褒める。最後の方は声が擦れていた。
――嗚呼、そうか。この子を見て漸く思い出した。夫が仕合せだったか如何かなど、判りきっていた事ではないか。私はこの眼で見て、この耳で聞いていたのではないか。夫の笑顔を、言葉を、悲しみを。この子こそがその証。この子こそが二人の愛が存在していた事の証なのだ。