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第七話 雨斬の太刀 鈴鳴九郎良俊

「春はやはり暖かいものですね」


 外套を身体に巻きつけるようにして覆い、火に手をかざしていた。

 春といっても梅の花がようやく散りかけている時分である。昼間ならともかく日暮れ近くともなれば外気も冷える。

 ましてや往来からはやや外れた山中の谷間である。

 時折の吹き降ろしの風は、ぶるりと身体を震わせるには充分過ぎていた。

 それを、暖かいだと。

 九郎は下げていた目線を上げる。

 炎の向こう側。冗談を言っている様子ではない。強がっている態度にも見えない。


「寒くはないのか?」

「羽州の人ですよ。私は」


 それで全ての説明が付くと言わんばかりに、得意顔を浮かべて火にあたっている。

 なるほど、それはもっともな話。北の地で生まれ育つとこうまで違うものなのかと感心し、うなづきを一つ返す。

 すると、一転して怪訝な表情をみせてくる。


「北の州の生まれだからといって、全ての者が寒さに強いというわけではございませんよ」

 今度は不機嫌そうな口調であった。

「よく分からぬな。それならば、初めからそのように言えば良かろう」

 心外そうな顔付きへと更に変化した後、唇をややとがらせ気味にして口を開く様が目に映った。

「言葉とは交わしてこそ、です。お互いの人となりが、より分かり合えるというものではないでしょうか。言葉足らずなのは九郎さんの良くない(へき)ですよ。早々に直すべきではありませんか」


 何を言っていやがる。二日前の、俺がよりにもよって男が好きだとかどうとかについてのあらぬ誤解。あれは佐代、お前が言葉足らずで黙っていたからこそではないのか。


「そう、それです。それが好ましくないと言うのです」

「……何がだ。まだ一言も口に出してはいないぞ」

 九郎は、言い募ってはいた。

 けれども、最前に胸中で感じていたことをズバリと言い当てられていたのも確かであった。


「赤鬼の権六(ごんろく)?」

 幼き頃に最も歳の近い姉である留代(とめよ)が――とは言っても七つほど歳は離れている――読み聞かせてくれた物語。そこに登場する、人の心が読める不可思議な鬼の逸話。それを思い出さずにはいられなかった。

「そう、権六。九郎さんもお知りとは。あのお話は芸州でも有名ということなのですね

「意外だ。思わず口にしたものの、まさか佐代乃介も知っていようとは」

「本当に。いえ、そうではなくて。戻しますと、九郎さんの表情は読みやすいというだけのことです」

「それほどにか?」

「良く言えば素直な心根をお持ちなのだと思います。それはとても魅力ですよ。ですが、モノには限度がありますから」


 そうなのか、と思っていると続きが耳へ届いた。


「あれは、そう。試したのです」

 何をしれっとさりげなく大嘘を、この娘は。と、九郎はいささか呆れるやら感心するやら。


 同時に、そうかこれが佐代にとっては好ましくはないのか、とも受け止めている。

 ……いや、そうとばかりではないのであろう。

 知り合って日も浅い、しかも出会った経緯(いきさつ)もあれな、更には力では到底適わない男との二人旅なのだ。

 若い娘が不安に思う心情、それは当然のことだ。尊重し理解すべき責は、男の方にこそある。


 ふと不安がよぎる。佐代に視線を送り、胸中でホッと一息をついた。

 全く以って心の内を読まれている、その気配の欠片もない。

 なんだ、たまたま言い当てられてしまっただけではないか。

 つまりは、強がり。


「ほう。寝て起きてみれば突然に朝からずっと距離を置いて、蛇退治では大騒ぎして、顔を真っ赤と染めて、尻餅をついて。全ては俺を試してくれていた。そう言うのか」

「よ、ようやく気付かれたのですね。遅いというもの」

「まあ、それならそれで良いさ」


 とその時であった。腹がグウと鳴った。更に後を追うかのようにグウと。

 一度きり、鳴ったのは分かっていた。何せ、自らの腹なのだから。

 だが、鳴り終えたはずが重なっていた。


「私のっ! 音ではありません!」

 佐代の顔は真っ赤に染まっていた。炎以外の理由で。

 うろたえぶりを示すかのように、後ろで束ねている長い髪が首の振りにやや遅れながら弾んでいる。それはともかくとして、容貌が問題であった。

 どこからどう見ても、十四という歳相応の少女へ転じている。いや、戻っていた。

「何を言っている。俺の腹が重ねて鳴ったのだ。きっと、そうに違いない。ところで、その狼狽ぶり。いったいどうしたというのだ?」


「そ、そうですよね」という佐代の声を耳にしながら、九郎は考えていた。

 やはりこれはまずい。早急に何とか手を打たなければならない、と。

 しかしながら、良き思案が思い浮かんではこない。


 炎がパチリと鳴る。火種を囲うようにして重ねてくべていた小枝の一本が崩れるように火に飲まれ、あげく発した音であった。

 角鮭ツノムツを刺した木ぎれに腕を伸ばし、くるりくるりと回す。四本ほど。反対側にも焼きを入れる為に。


「佐代。お前の」

佐代乃介(さよのすけ)です。またお忘れになって」

「いや、あえてそう言ったのだ。理由がある」

 何でしょうと言わんばかりに好奇心をあらわにした表情が、炎越しの視界に映る。



 佐代という名の娘を生まれ故郷の羽州へと送り届けるべくの旅を始めて、五日が経っている。

 九郎の当初の見立てでは、あと七里程度は先に進めていたはずであった。物見遊山の一つも無しな歩きなのだから。

 だが、男の足で計るのはやはり無理があったというより他はない。

 日暮れまでにたどり着けると踏んだ町や村に着かないのだ。

 しかも加えて。

 陽が中天に達する辺りで集落を眼下に捉えても「先に進みましょう。私は大丈夫ですから。心配いりません」と主張されてしまう。

 先を急ぎたい気持ちは、九郎にも理解出来る。ゆえに、仕方のなきことともいえる。


 とはいうものの。

 おかげでこの五日間の間において、屋根と壁のある寝床に就けたのは初日の日暮れギリギリに、町の門が半ば閉まりかけている最中に到着した、広野という町だけというありさま。

 なお一日目の旅を終えた時、佐代は九郎が思っていた以上に疲れていたらしく夕餉を取った後、泥の様な眠りに落ちていた。


 以降、歩の進みはゆるやかにしている。

 無理をさせて脚を痛められたり、身体の調子を崩されでもするのもまずい。


 幸いと言える点が、二つほどあった。

 一つ目は、時折こだまする狼や他の獣どもの遠吠えを、それほど気にしている素振りは見せてこないこと。まあ、かなりな田舎の山育ちなのだろう、と九郎は独り決めしてた。

 なお、問うたりはしない。お前は余程の田舎者なのか、と面と向かって若い娘に尋ねるほど九郎は野暮ではない。

 二つ目は、野や山で眠るにあたり佐代が寒さに平気なことであった。

 強がりを言っている。

 当初はそう捉えていたのだが、ここ数日を見る限り本当に寒さには強いらしい。

 もっとも、困ったことに九郎は寒さに弱い。……暑いのも得意なわけではないのだが。



「佐代乃介、お前の男への化けっぷりはなかなかに見事、堂に入ったもの。初々しい少年としか見えぬ。お前が娘だと知っている俺でもそう感じているのだ。自信を持っていい」

「そうでしょうとも。私にしても驚いています。青松屋の女将様には本当にお世話になりました」

「だがな、どうしたものか。心が動揺し過ぎれば、桃色と染まる頬が更に赤みを増してしまう。すると……」

「すると?」

「男の(なり)をした少女に変じてしまうのだ。いやな、何か良い手立てはないものかと案じてはみた。しかしながら、良き思案がトンと浮かばぬ。こればかりは身体の摂理ゆえな。止めよと言ってどうこうなるものでもない。いかがしたものかと」


 目をパチクリとして不思議そうな表情で佐代がこちらを見ている。

「そんなことですか」と随分と軽い口調の声が聞こえてきた。

 まるで他人事のように。

 賢に見えていたのだが、実は愚なのではあるまいか?

「そんなこととは、酷い言い様であろう。妙案があるのであれば、もったいぶらずに教えてはくれないか」


「どこぞで求めて、笠をかぶれば済むことかと」


 ああ、実は愚なのは俺の方かもしれない。きっとそうに違いない。

 この二日間というもの、常にこの問題について考えていたわけではない。

 だがしかし、朝な夕なに折をみては頭をひねってはいた。それなのに、この(ざま)といったらどうだ……。

 

 ジュッという音がした。鼻腔には良き匂いがただよってくる。

 川で獲った魚の油がパリリと張った皮より垂れ落ちた末に、熱せられた石へと落ちて鳴った音だった。


「さあ、食べ頃ですよ」といつの間にか横に座っている佐代が、角鮭の刺してある木ぎれを渡してくる。

「では、いただくとするか」

「はい」


 美味い。塩の振り加減が絶妙であった。

 佐代と旅をして五日。野や山で食を摂ること四日。

 味付けに関しては――といっても九郎の手の平にすっぽりと隠れる程度の大きさな塩壷と、それに比べればやや大き目の味噌壷しかないのだが――初めの夕餉を除けば、以降は全て佐代の役割となっていた。



 俺は旅の達者だからな。野で食を摂るなど慣れたものだ。と、したり顔で言ってしまったのは二人で初の野宿となった日の夕暮れ時。

 焼いた川魚(ヤマメ)やウドやタラの芽などを、わざわざ水で塩や味噌を洗い流さなければ、とてもではないが食べられない程のシロモノを作っていた。


 よくよく考えてみれば、故郷の芸州高宮を出て以来、その手のことは全て彦兵衛がやってくれていた。

 九郎は見ていただけである。いや、見ていさえしなかった。ただ、時折眺めていた、という方が正しい。

 沢の水に手を浸しながら、見るのとはやるのは大違いだなあと笑い声をあげたものの、佐代から返ってきたのは呆れを多分に含むため息一つであった。

 ザブリザブリと無言のまま塩と味噌を落とす佐代の手や腕は、冷たい水のせいだけではなさそうに赤く染まっていた。

 焼いたばかりの魚や木の芽を一度水に浸して更にもう一度熱を加えるという、実に味見を著しく欠いた物を口にした後、九郎は塩壷と味噌壷を取り上げられてしまう。

 失敗は誰にでもあるものだ、とうそぶきつつも同時に思うところもあった。

 料理というのは奥が深い、彦兵衛は調理の達者者だったのだなあ、などと感心してもいた。

 

 ところがである。

 翌日の朝、実に良き味加減の木の芽の味噌煮汁を食べながら、驚きを隠せなかった。

 俺の料理が泥団子ならば、彦兵衛のそれは犬や猫の餌。佐代の作りし物こそが人が口にするに値する出来であろう、と。

 そして、悟る。いや、諦めたともいえる。

「人には向き不向きがある。俺の才が料理にはない。ただそれだけのこと」

「そうですね。釣りは上手いのに……」と短くつぶやいたきり押し黙りを決め込んだ佐代の口が再び開くには、草木に映える朝露が完全に消え去る時分まで待たなければならなかった。



「この夕餉も良き味付けだった」

「それほどでも」

「いや、まことのこと」

「ありがとうございます」


 食べ終わった後の残骸を炎にくべながら、九郎は考えていたことを口にする。


「明日は往来に戻って歩めば、恐らくは昼をいくらか過ぎた頃に室井という町に着くだろう。室井では旅籠に宿を取るとしようか」

「九郎さん。気遣いはご不要です。私ならまだまだ元気ですよ。歩けます」


「まあそう言うな。労われる時に身体を労わるのも、旅を続けるには大事なことだ。桃山無刀斎(ももやまむとうさい)一代記にも記してある。いわく、一歩を積んで重ねていけば万里も成る、と」

「また桃山さんですか。ほんにお好きなのですね」

「心の師と仰ぐお方だからなあ」

「ただ、その言葉は旅の心得とは思えません。田畑を耕していた家の子が一念発起し艱難辛苦(かんなんしんく)の末に遂には武技を極めた、というのが桃山先生であると。そう、九郎さんは三日前の道すがらの語りで教えてくれましたよね。とすれば、別の意味なのではないでしょうか?」


 ああ、そういうことだったのか……。

 九郎の長年の、というのは大げさになる。だが、常々疑問に感じていた点ではあった。

 何故、桃山先生は旅の心得などをわざわざ説かれていたのだろう、と。

 佐代の指摘でようやく謎が解けていく。


「ありがとう」

 思わず、口から言葉が漏れてしまっている。

「え? 何を? いきなり何ですか?」


 ……わざわざ説明するのは、いくらなんでも無理があり過ぎた。

 何せ、桃山無刀斎一代記を(そら)んじるほど読み込んでいるのは九郎である。佐代ではない。

 どころか、佐代は一文字たりとも読んでなどいない。

 これこれこういう疑問があったのだが……などと口にするのは、それこそ艱難辛苦である。恥ずかしいどころの話ではない。


「いやな、いつも良い味付けをしてくれているなあと」

「さっき、聞きましたよ。それでも……うれしいものですね!」


 俺は誤魔化したわけではないぞ。九郎はそう思いこむことにした。

 ンッンーと咳払いを一つする。


「話を戻そう。昨日の峠越えで既に雲州は抜けている。青松屋の女将にもらった書き付けによれば、室井は丹州で四、五番目あたりの栄えぶりらしい。それほど大した太刀が売られているとも思えぬが、無腰のままよりは良いと考えている」

「私に太刀を、ですか。よろしいのですか」


「良いも悪いもない。俺が、そうだな。猪にでも襲われているのを見たとしても、佐代乃介が短刀しか持っておらぬでは何も出来やしないだろう」

「いえ、そういうことではなく……」


「今更何を言う。俺は佐代乃介を無事に羽州の故郷まで送り届ける。その務めを果たすことを青松屋の女将と約した。とはいえ、道中では何があるか分からぬ。当然、太刀の一振りくらいは腰に差しておいた方が良い。それに、羽織袴で無腰というのも逆にあらぬ注意を引きつけるやもしれないゆえな」

「そういうことでしたら。甘梨でも広田の町でも刀具屋は見かけましたが何も言われなかったもので」


「雲州のどこかで購っても大丈夫だとは思ったのだが、万が一にでも青松屋にいらぬ迷惑がかかるかもしれないと。そう危惧を抱いていたからな」

「ご迷惑? それはどのような」


「なあに、大したことではない。佐代を佐代乃介に変じさせたのだ。となれば、青松屋の宿帳に記されている佐代の名は、後ろに乃介と女将が書き加え済みであろう。名をかたる。それだけなら気付きませんでしたで通らないこともない。事情あってあえて変名を用いての旅というのは聞かぬ話でもないしな。だが、男女の差異を見抜けなかったとなれば、旅籠としては実に見る目のないこととなろう」

「それはそうでしょうけども。それほどに、いけないことなのですか?」


「ああ、そう言えば佐代のお父上は職人であったな。良きものは良し、悪しきものは悪し。そうであろう?」

「当然ではありませんか」

「もちろん、それはその通り。だが、商いとなると他に大事なこともある」

「それは?」

「格というものだ」

「格、ですか」

「信用や評価と置き換えても、まあ良いだろう。佐代乃介は青松屋に世話になったとはいえ、あの旅籠の格というものを知る機会もなかったな」

「旅籠の一部しか目にしてはいませぬが、随分と立派で。おまけに贅を尽くした離れ屋敷には驚きを覚えましたが」


「間違ってはいないが、それはあくまでも器の話。まさに職人に寄った考え。あれほどの旅籠ともなれば、婚儀もあげておらぬ男女を同宿させたと知られるだけで評判が下がるのだ。もっとも、佐代乃介の化け具合からすれば噂が立つとも思えぬ。いわば、杞憂のようなものなのだが」

「そ、そんな……」

「なに、佐代乃介が気にすることではない。青松屋の女将はその程度の危うさなど、当然のこととして腹に収めてくれている」

「気付かなかったとはいえ、ご迷惑を」


「佐代乃介のせいでは全くないぞ。頼りを求めたのは俺で、受けたのは女将。それだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない」

「それでも、いくらか腑に落ちませぬ」

「ハハハ。商いに寄った考えだからな。十四の歳で、職人の娘に分かれられても商家は困ってしまう」

「そんなものですか」


「そんなものだ。では、話を戻すぞ。甘梨と広田では領主家が異なるゆえ、かまわぬかとも考えはした。だが、一応の念を入れておくにしくはないと案じたまで。今は雲州を抜け、丹州に入った。州も変わり、室井の町も更に別の領主家が治めている。ここまで色々に離れてしまえば、誰が何を買い求めていたかなど露見するはずもない。余程に値の張る物などを求めたりしない限りはな。しかも、購うのは俺の供ずれの少年」


「私は……なんという果報者なのでしょうか」

「何を言い出すのだ。青松屋の女将にしろ俺にしろ、佐代との(えにし)あればこそ当然のことを成さんとしているまでのこと。逆に言えば、縁が無ければ援けたりなどせぬ。女将も俺もそれほど暇ではないしお人好しでもない。だから、佐代乃介が気にするようなことではない。逆に叱られてしまうぞ、あの女将に。それほど頼みにならぬと思っておいですか。情けなきことです。とな」

「は、はい」


 ああ、これはまずいな。女が、それも若い娘が瞳を潤ませ声をも震わせている場に居合わせるのは九郎の好みではなかった。


「いつの日にかだ! 佐代乃介が、いや佐代が大人としての甲斐性を振るえるようになったら。その時に青松屋の女将を援けてやれば良いのだ。遠くに離れているのならば、念じるだけでも良い。想いというのはきっと伝わるに違いない」

「はい!」

「もちろん言うまでもないが、ついででかまわぬので俺も、な」

「え、ええ。ええー、どういたしましょう」

 口元をほころばせて笑う顔を間近に捉えて、九郎はようやくホッと安堵の息を胸中で吐く。


 その後、夕餉の片づけをする。とはいっても木椀と箸を川の水で洗うだけのことだが。

 なるほど、確かに俺は佐代の言っていたように言葉が足りぬ。加えて、話しぶりに工夫も足りぬのであろう。

 九郎は手を動かしつつ反省をしていた。


 水辺から焚き火のある場所まで歩を戻す。

 振り返ってみれば日暮れの、没しかけている陽の作り出す影がいつの間にか沢の中ほどにまで達していた。

 冷えた冷えたと口に出しながら、火のそばへと向かう。

 寒がり過ぎですよと言われ、佐代乃介が平気過ぎるのだと返す。ふと見れば、最前まで座していたはずの平たい石が消え失せている。

 いぶかしく思い、目を転じる。火へ最も近くまで寄れる風上の位置に、石を動かしてくれていた。


 出来た気遣いだというのに、それをさも些細なこととでもいうかのようにわざわざ口にはしない。その心意気への謝辞を示すべく、九郎も無言のまま頭を垂れる。心へ沁み入ってくる。

 腰を降ろすやいなや、手をかざす。火の暖かみが身に沁みる。



「ところで。一つお尋ねしたいのですが」

「なんだろう?」

 おだやかな気持ち、そのままに返しを入れる。


「九郎さんの太刀。鞘の造りも随分とぶ厚くて、柄の織り糸も凝っていて。きっと、かなりの業物なのでしょう。ですが、一度たりとも手入れをなさっている様子を見たことがありません。たまには抜いて、打粉を振ったり油を塗ったりなされなくてもよろしいのですか?」


「ああ、この太刀か。これはな、実のところ用を成さぬ」

 怪訝な表情を浮かべている佐代へ鞘ごと渡す。

「抜いてみろ」

「よろしいのですか」

「ああ」


 恐る恐るかと思いきや、意外であった。慣れているかのような手つきで柄を握ると、素早く音も立てずに鞘から抜いている。


「こ、これは!」

「ハハハ。見ての通り。役には立たぬであろう」

 驚いた声があがるのは九郎の思惑通りであった。

 だが、それは間違っていた。


「これは! ……黒鋼(くろはがね)!」

 それは小さな叫びだった。だが鋭く、そしてえぐるような響きを有していた。

 音が九郎の耳から去った後、声は途絶えている。

 沢の流れる、それまで気にも留めていなかったせせらぎが、やけにうるさく感じられた。

 太刀と九郎の顔、戸惑いを顔いっぱいに浮かべながら相互に目をやっている。頬が桃色から赤へと転じかけている。


「何だそれは?」


 応えが返ってこない。


「聞いたことがないのだが」


 吹き降ろしの谷風がヒュウウとうなり、九郎の皮膚を刺すように(さいな)んでぷつりと去った。

 佐代は叫んだきり、無言を貫いている。

 目を見開き九郎の瞳の、奥底を覗きこむかのように身を寄せてくる。息が肌にわずかに、触れる。甘い、九郎好みの匂いがした。


「口吸いがしたいのか?」


 茶化しを入れる。けれども、まるで動じた気配もなく。


 ゆっくりと離れていった。(のち)、唇が動いた。

「九郎さんは嘘がお下手ですね。顔に、瞳に、出過ぎていますよ」

 泣いているような、笑ってもいるような。囁きの音が耳へ届く。


「……何故、それと。黒鋼と分かったのだ?」


「お忘れでしょうか。私の父は羽州は岩崎という地で鍛治師をやっております。鍋などの鋳物を打っています。と以前に語ったことを」

「羽州の鉄瓶だろ。あれは良きものらしいな。我が家では鍋や瓶といえば羽州物といった按配で、よく目に付いていた。養母上(ははうえ)も、姉上が嫁ぐ時には特に求めて一等良き物を購っていた」


 太刀をするりと鞘に戻し、再び九郎の方へと身体ごと乗り出すように近づいてくる。


「こちらはお伝えしておりませんでした。不要と思っていたもので、他意はありません」

「聞こう」


「今は亡き祖父は羽州において、それなりに名の通った刀打ちでした。いえ、自ら打つ刀は並の出来ばえで、理由は知りませぬが修繕の腕のみが頭抜けていたそうです。それゆえにか、幼き頃より刀の目利きを間近で目にする機会も多々ありました。ただ一度きりでしたが、羽州北部の領主羽橋(はねはし)家より修繕の為にと特に預かった太刀を目にしたことがあります。名を崖断(がけたち)という黒鋼の太刀を」

「そうであったか」

「しかしこれは……」

「これは?」

「いったいどれほどの歳月を。放っておけばこれほどまでに無残に錆びて朽ちるのでしょう」


 咎め立てているのではなく、ひたすらに嘆いているような声色であった。

 とぼけてしまおうと再び案じるも、九郎の考えは揺れる。


 明日別れる、という間柄ではない。羽州は、はるかかなた。まだ遠いのだ。

 しかも、良き腕前であったらしい刀鍛治の祖父は既に亡くなっていると先ほど口にしていた。父は鋳物打ち。

 ならば……さしたる問題はないだろう。いや、だが。やれるだけはやってみよう。


「知りたいのか?」

「是非とも」

「およそ八百年だ」

「は、八百年! 信じられませぬ! ありえませぬ! そのような!」


 赤きに顔が染まっていた。


「まあ、済んだことだよ。それ以上は言ってくれるな。うら若い娘にそうまで言われてしまうと、我が家の父祖代々の皆々様たちの立つ瀬がないというもの。打ち揃って哀しまれ、涙に暮れておられることだろうよ」

「九郎さんの実家は呉服屋とお聞きしていましたが……(かた)っておられたのですか?」


 聞き流されてしまう。


「そうではない。俺の生まれる以前からずっと呉服屋だ。百年前も二百年前もそれ以前も。昔な、遠い昔。戦人(いくさびと)どもを束ねる旗頭家(はたがしらのいえ)であった、というだけだ」


「黒鋼の太刀にはすべからく名がある、と祖父より聞き及んでいます」


 元々は語る気のなかった手札をあえて晒してみせたにも関わらず、ピクリとも喰い付かれず。あげく、踏み込まれっきりとなっている。


「ほほう、そうなのか?」

「誤魔化さないでください。この黒鋼の名をお教えいただけませんか」

「そう言われてもな。誰が打ったものかなど分からぬ」


「私は、名を訊いているのです。銘など尋ねてはおりませぬ」


「……雨斬(あめきり)という。さあ、もう良いだろう。返してくれ」


 太刀を受け取りながら、九郎は後悔の念を覚えていた。

 この場における一笑を得るつもりで、太刀を、錆びた太刀をわざわざ抜かせて見せたのである。

 実家に呼び寄せた研ぎ師にしろ刀鍛治師にしろ、芸州においては一等の名高き者だった。

 その両名が一見しただけでは、錆びだらけの朽ちた太刀を前にして、明らかに肩透かしを喰らった表情を見せていた。

 それでも恐らくは、これも高い礼金を既に貰っている仕事だからというその思いのみで、丹念に観て触れて触って。

 ようやく黒鋼と知れたものを。

 まさか佐代が、一目見ただけでそれと断じてしまえるなどとは……。

 全く予想だにしていなかった。


「俺にはこの小太刀が」そう言って腰に差したままの、脇差にしては長く太刀にしては短い鞘をポンと叩く。「あれば充分だ」


 笑いに紛れさせようとした試みは全てが失敗に終わった。佐代は、全く反応していなかった。


「あめきり……」

 そう小さく呟きいたきり、九郎をじっと凝視している。

 否、正確に言うのならば。

 雨斬の太刀を見つめていた。


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