第六話 白猫と旅を始める 鈴鳴九郎良俊
「こ、こっちに来ないで」
警戒心をあらわにした、ややひきつり気味な震えを帯びる叫びが耳へと届く。
黙殺して一歩を踏み出す。
「近寄らないで」
目を大きく見開き、威嚇でもするかのようににらみつけてくる。
猫か、それもまるで懐こうともしない。実家で飼っていた、いや居ついていただけの白猫の容貌が思い浮かぶ。くすりと、小さく笑う。
「何がおかしいというのです」
「そこを動くなよ」
「嫌っ!」
心臓がトクンと一拍を打つ。ゆるやかに二歩。姿勢が前のめりとなり羽織の袖がはためく。三歩。鼓動がわずかに速まる。四歩。脚に袴が触れたきり張り付く。五歩。足のさばきが更に勢いを増す。駆けて八歩。
「力ずくだななんて!」
左腕を伸ばす。
防ぐかのように突き出されてくる右腕。手首を掴むやいなやグイと引き寄せる。「見損ないました!」という至近から咎めだてする悲鳴を無視し、かき抱く。左足の踵を軸にして身体をひねりあげる。独楽のようにくるりと。瞬時の回転。右の脚を振り抜いた。
足元で土くれが舞う。わずかの後、ベチャリという音が九郎の耳へ達する。
視界の先に見える岩には、潰れた蛇が圧されたように貼り付いていた。
九郎によって蹴り上げられた末の末路。宙を跳ばされ叩きつけられていた。
頭から半身にかけてが潰れており、あまり綺麗とは言えないであろう赤い花を灰色の岩に咲かせている。ピクリピクリと揺れていた尾も見る間に動きを止める。
どうやら間に合った。達成感からの笑みが一つ零れ落ちる。
ところがすぐさまに九郎の顔は苦痛で歪んでしまう。
腹にこぶしを貰っていた。
「うっ」といううめき声。それは自らの口より漏れ出でている。腕に込めていた力が自然とゆるむ。
と、ほとんど同時に胸をドンと押される。ふらついたところへ、更に脚払いをも貰ってしまう。
気が付けば、両の手と尻をしたたかに地面へ打ちつけられていた。
もっとも、春先の、野の柔らかな草土では手にしても尻にしても痛みなど大したことではない。
効いているのは腹の方への一撃だった。
なかなかに見事な打ち込みだなと思いながら、土にまみれた左手で腹をさする。
やや離れた位置から、荒くそしてとがった声がした。
「見損ないました!」
見上げるように首を傾ける。七歩ほどの向こう。声の主は仁王立ちで九郎を凝視していた。
「蛇だよ」
「蛇?」
「あっちの、岩を見ろ」
そう言って身体をひねり、自らの目線を灰色の岩のある方角へと向ける。
「潰れている蛇が見えるだろう。あれは紺斑蛇と言ってな。動きそのものは鈍いのだが、噛まれるとしばらくの後には全身が痺れる。放っておけばやがては死に至るというやっかいな毒持ちだ。俺が気付いたから助かったんだぞ」
「う、嘘よ。さっき私を襲おうと。やっぱりあなたは……」
「何がやっぱりだ。わけの分からぬことを。ならば、あの蛇は何なのだ?」
「そのような虚言、信じられません。私とは距離があったではありませんか。遠くから細き蛇が見えていたとでも言うのですか!?」
「見えるものは見えるのだよ。そうだな……」
「ほら御覧なさい。虚言ゆえに継ぎの言葉が出て来ない。口をつぐむしかないのですね!」
「あのうねうねと枝が曲がっている木」捨て置くことに決めこんだ九郎は右腕を伸ばすと、指先で方向を指し示す。「なんの樹なのかは知らぬが、赤い実が三つほど成っている。そこからの方が近いであろう。見えているな?」
「……確かに三つ、見えます。それがどうしたと」
「まあ、話は最後まで聞くものだ。真ん中の実のみ、わずかだが虫食いをされている。その位置はここから見て右上。髪の毛三筋ほどの隙間を空けて上下に二つの穴」
「う、嘘……」
「行って見れば分かる。ついでにあの灰色の岩も確かめてくることだ。紺斑蛇が潰れているのはさっき言っただろう。ちなみにあの蛇には上下に二本ずつ大なる牙があった。そのうちの、上の左側の牙のみ先端をわずかに欠いている」
「……まことに? それほどに見えているというの?」
「確認して来るんだな。俺が嘘を付いているかどうかなどすぐに知れる。そこに突っ立ったまま頭をこねくり回して悩むより、余程早かろう」
いぶかしげな表情を崩さないまま返事の一つも寄こさず駆けていく。その後ろ姿を目に留めながら、九郎は苦笑いを禁じえないでいた。
まさにあの白い猫のようではないか。
何故にこれほどまで急に毛嫌いされているのか、九郎には全く見当がついていない。
俺は、命の恩人のようなものであろうに。
もっとも昨日までは少なくとも嫌っているようには見えなかった。好かれているどうかはともかくとして、いくらかは慕われてさえいる気がしていた。
だが、何故に今日になって。
さっぱり分からない。
頭をこねくり回して悩んでも、か。まさに、最前に自らが口にした言葉の通りだろう。
九郎は匙を投げるように天を仰ぐ。
青い空にぽかりとただ一つきり浮かんでいる雲が、ゆるやかに東から西へと風に乗って流されていく様が見てとれた。
わずかにしばらくの後。
そよりと揺れる風が運んでくる草木の匂いに、混じるものがあった。足の響きが野に置いたままの尻より伝わってくる。
気にせずに上体を傾け空を眺めたままでいた。
すぐに声が聞こえてくる。意外と近い距離から。
「まことでございました」
ハアハアという息遣いも耳に届く。何も逃げるわけでもなし。それほどに、息を切らしてまで駆けて戻ってくることもないだろうに。
「だから言ったであろう」
「お目がよろしいのですね!」
感心しきりといった声色であった。
どうやら、機嫌が直ったのかもしれない。
そなた、鶴ではなく実は猫なのだろうと言いかけ慌てて口をつぐむ。あの旅籠の、甘梨は青松屋の女将と交わした約定を危ういところで思い出していた。
それは、二度と再び忌み名を口には出さないというものであった。
「俺自身は物心付いた頃より、当たり前だがこの両の目でのみ物を捉えておる。ゆえに、他の者との差異など、実のところよくは分からぬ」
「それもそうですね」
笑っているかのような口調。更に近づいてくる。スッと、音も立てずに横に座る気配がした。
「ここから、あの実に空いた虫食い穴が見えているだなんて」
耳に息がかかってくるような。甘い果物の、桃のようなふわりとした好みの香りもただよってくる。
悪くはない気分だなあ。
九郎がそう感じていると、不意に目の前を影が横切っていった。
たった今、腰を降ろしたばかりだというのに、早くも立ち上がり慌てたように距離を取っている。
ふぅとやや大きめの息を一つ繰り出した後に、九郎は傾けていた上体を戻す。探すまでもなく視界に入る。
「おい、猫娘」
「な! 私は。いえ、拙者は佐代乃介です。お忘れですか!」
長い髪を後ろで束ね、男物の羽織袴を身にまとう眉目秀麗と言っても言い過ぎではない少年。その形をした娘が一人、ぷうとむくれていた。
頬に血をのぼらせ、白い肌を桃色に染めながら。
どうしてこうなったのか。
九郎はここ数日の慌しい変転を思い浮かべてしまい、なんとも奇妙奇天烈なことだなあと笑うよりも他になかった。
話は五日ほどさかのぼる。
九郎は雲州は甘梨の町において様々ないきさつが重なった結果、佐代という名の娘を娼屋から身請けしていた。
四日前。逗留を続けていた青松屋の女将に、佐代の今後の身の振り方についての思案を委ねた。
行きがかり上の、九郎からみての縁があったから援けたとはいえ、若い娘を一人買ってしまったことには変わりない。
買った男があれこれどうこう言って聞かせるのでは、買われた娘にしてみれば主人が代わっただけの話かもしれない。
それよりも、娘と同性の女に一切を任せよう。九郎が甘梨の町で最も頼みに思っている者に。
その方が万事上手くことが運ぶに違いないと考えた。
九郎にしてみれば、佐代を彼女の生まれ故郷である羽州のどこかの港まで送り届けてくれればそれでことが済むはずだった。
具体的には、交易の船に上客として同乗出来る手配をきっと女将が整えてくれるに違いないと。もちろん、手向けとしていくらかの貨幣は渡すつもりでもあった。
羽州に着いてより先、無事に故郷の町か村までたどり着けるかは冷たい言い様ではあるが佐代の運と才覚次第。
そう思っていた。
もっとも、他の思案が思い浮かばなかったがゆえに、という点は否めない。
ところがである。
女将からは「九郎さん自らが送り届けてあげるのが筋というものでございましょう」「男の甲斐性というものでございましょう」と諭されてしまう。
「いや、それは困る。俺は武者修行の身ゆえに」と言ってはみたものの、不敵な笑みを一つ浮かべられ「武者修行ねえ」と言われてしまう始末。
さすがに文句の一つでも付けようとした。
だが、故郷芸州高宮の地において擦り切れるほどに読みふけり今ではほぼ諳んじている桃山無刀斎一代記の一節を思い出す。
いわく、男子たる者の心根。女には、たとえそれが余程の女傑であろうとも理解され難きものである、と。
なるほど無刀斎先生は正しい、と益々もって尊崇の念を深めていく。
もっとも男の甲斐性や武者修行の件は置いておくにしても、言うだけは言ってはみた。
しかしながら「雲州より羽州へは晩秋にならなければ、船など出やしませんよ」と告げられてしまう。
なんでも途中の、賀州の沖合いにひどい難所ありとのことだった。
「ほぼ一年中、波高く渦も方々に巻いているのですよ」「南の州から北へは晩秋のおよそ二十日。北から南へは晩冬の同じく約二十日。それ以外は直に結ぶ船など無いのですよ」と。
それではと別案を示したものの「雲州から狭州まで船。狭州から賀州まで陸路の後に再び船? それも良いでしょう。しかし狭・賀両州の間にそびえ立つ高峰は?」と。
ならば、晩秋まで青松屋に留めてやってはくれないか。費えなら払うゆえに。という我ながら優れた閃きだと思えた申し出は実にあっさりと蹴られてしまう。
「なんという酷い仕打ちでありましょうか」「故郷へ一刻でも一日でも早く帰り着き、おやごさんに無事な姿を見せたいというお佐代さんの心情が理解出来ぬのですか」と。
同席していた佐代にしても「これ以上の費えを鈴鳴様に出してもらうわけにはまいりませんし、何よりも帰れる手立てがあるのなら早く帰りたいです」とうったえてくる。
確かにそれもそうだ。まことに酷いことを言ってしまった。と九郎も同意せざるを得なかった。
とはいえ、それでは一人で帰ってもらいましょう……などと、いくらなんでもさすがに口に出せたものではない。
歳若い女の一人旅など、それも遠く離れた羽州までなど。
無理に決まっていた。
「では、どうすれば良いのだ?」「俺が送り届けるのはなるほど筋かもしれぬ。それはともかくとして、若い男女の二人旅などそれこそ筋の通らぬ話。そうまで言うからには女将には良い思案があるのか?」と尋ねてみたのが運の尽き。
「筋が通ればよろしいのですね」と言われ「筋さえ通れば」ととっさに返しを入れたのが、いかにもまずかった。
ニコリと笑みを浮かべた女将に「確かに聞かせていただきましたよ。それでは少々お待ちください」と言質を取られてしまう。
何も言い返せないうちに、佐代と共に席を後にする女将の後姿をただ呆然と見送るより他はなかった。
そして、少々どころではない時間をただ一人きりで待たされたあげくに現われたのは……男物の服装に身を包んでいる佐代であった。
恐らく胸にはさらしを巻いているのだろう。
胸元をいくらか超えるほどの長さはあったはずの髪はやや短く切った様子。それを後ろで、まるで馬の尾のように束ねていた。
他にも違和感があった。よくよく見れば頬がややぷっくりとしている。なんでも綿を口中に含んでいるとのこと。
合わせてしまえば、見目麗しい歳若な男の形と成っていた。
実に大したものだと感心を覚えてしまう。
着る物と髪型、それにわずかに輪郭を変えるだけで少年に見えてしまっていたのだから。
佐代という名の娘が男の形をしていると事情を知っているにも関わらず、である。
知らない者がパッと見る限りでは、まさか女が化けているとは考えないであろう。
とはいえそれでも「女将これは無理がある」と言って言えないことはなかった。
しかれども、それではいかにもな横車。と、九郎は心の中でそう思わざるを得なかった。
結局「よろしゅうございますね」と女将に念を押されるがままに、うなずくより他はなしとなる。
こうしてぐうの音も出ないまま、九郎は羽州まで佐代を送り届けるという務めを引き受けたのであった。
されど不思議なもので、縁でもあり定めでもある、とここ最近お気に入りとなっている言い回しを心の内で呟いてみれば、あっさりと受け入れることに抵抗感はさして感じなかった。
そしてその自らの心のあり様には、おかしみをいだいてもいた。
もっとも、いくらかの葛藤が心の内で生じなかったわけではない。
羽州に向かうとなれば、本来の目的地よりかなり逸れてしまう。
とはいえ、八百年以上もおざなりにしていたようなもの。遅れるとはいえ、一年もかかるわけでもなしと。
そう思えばいったん脇に置くことへのためらいなど消え失せた。
一度決まってしまえば否も応もない。
佐代の為にはもちろんこと、九郎自身の為にも。
翌日から羽州にあるという佐代の故郷を目指しての、一歩また一歩と足を運ぶ二人旅が始まりを告げたのであった。
まずは雲州を抜けての丹州入りを目指している。
「なあ、さ……佐代乃介」
「なんでしょう」
「昨日までとはあからさまに態度が異なっている理由を教えてくれいないか? 俺が何かをしたのか?」
尻の辺りがいくらか湿っているような按配だった。ゆえに、早く立ち上がりたかった。
けれども今そうしてしまうと、余計に機嫌を損ねてしまいそうな予感を抱いている。
まあ、乾けば尻の泥など落ちるからと、野に腰を降ろしたままで九郎は佐代に問いかけを発していた。
「ふと、疑念が頭をよぎったのです」
そう呟いたきり、佐代乃介こと佐代がプイと横を向き頬を赤く染めている。
その様を見て、九郎は違和感を感じていた。何であろうとわずかに考え、合点がいく。
ああ、桃色を超えて赤くなるといけないな。目鼻立ちの整った少年ではなく、少女が男装をしているように見えてしまう。
今後、留意するように諭しておかなければ。
……ただ、今それを言うのはまずいだろうなあ。
上に姉が五人もいれば――兄も三人いるが――その上、父親より母親に――正確に言えば養母ではあるが――育てられてきた九郎であった。
何となくではあるものの、女心の機微というものを少しは察せられる。
「鈴鳴様は」
「九郎さん。だろ」
「九郎さんは、その……」
何をためらっているのか。さっぱり不明である。
じっと目を向けていると、頬どころか顔中が赤く染まりつつあった。まるで、熟れて熟した野苺のような。
「お、男が」
「男が? なんだい?」
「その、お、お……お好きなのではありませんか?」
顔も耳も羽織からのぞかせている手の、指の先までをも真っ赤に染めあげた佐代が、その場でしゃがみこんでいた。
予想だにしなかったことを言われた九郎は、当初言葉の意味を頭の中で咀嚼出来ずにいた。やがて、呆然としてしまう。
どれほどの時が経ったのであろう。とても長い時間かもしれぬ。
……だが、空を見上げれば先ほどぼんやりと眺めていた雲が、ほんのわずかばかり西へ位置を変えているだけであった。
「おい」
ようやく口から出した声は掠れていた。これはいけないといったんは口を閉じ、唾を飲みこみ喉を潤す。
その声を耳にした佐代が「ひぃ」と一声漏らし、後ずさり始め体勢を崩したあげくに尻餅を着いている。目は、これ以上ないほどに見開いてこっちを向いたままだ。
何故? ……あ!
「おい、だ。さっきのは、はい、ではない!」
「け、けれども! だから、あの場で私にお手を付けようとはなさらなかったのですね!」
何が、だから、だ。
それほどに操を散らしたかったのか。それならば、先ほどの蛇退治時の勝手に勘違いしたあげくの狼狽振りはなんだ。
などとは口が裂けても言って良いことではない。
空に浮かんでいた一つきりの雲がはるか西へ流れていった頃、ようやく佐代は納得し得た様子で「分かりました」と口にした。
一応の疑いは晴れる。再び、昨日までの様に並んで歩くようになったのだ。
もっとも、心よりの納得だとは到底思えない。
「陰間は不浄でございますよ」とボソリと呟かれる。
そもそも陰間とは何だと問い返せば「お、お、男同士でのその」と。
詳しいものだなあと言いかけた口をつぐむ。
……娼屋にその身を無理くりに置かされていたゆえにか。若い生娘には不似合いな知識。
されど、てらいもなく口に出せるのは。もはや過去のものとして区切りが付いたゆえであろうか。
女心の微細など九郎に分かるはずもない。
一つ言えることは、初めて会ったあの日よりも、二人旅を始めた三日前よりも、昨日よりも。今日の方が憂い少なく振舞えるようになっている。それくらいか。
今はそれで充分ではないだろうか。
暗い影など羽州へ着くまでに拭って消せれば良いのだ。そして羽州はいまだはるか遠くにあり。
縁がなければ援けなどしなかった。
けれども、縁あって援けたからには九郎には責がある。
「俺は女が好きなのだ」
「こ、こっちに来ないで」
半ばおどけた様子でそう言う様は、蛇にかまった時よりも、同じ文言でも随分と様子が異なっている。そう九郎には感じられた。
猫だな。懐いたかと思えば離れる。実家に居ついていた白猫の面を思い出す。
小さく、くすりと笑った。