第五話 目利き 青松屋女将
「いきさつ話は佐代さんからおよそ聞かせてもらいましたよ。まずは私の出した思案から。といったんは考えたのですが、九郎さん」
旅籠青松屋の離れ屋敷の内で最も奥まった一室に、私と九郎さんの二人きりで、どちらが上座というわけではなく、相対して座っている。
旅籠の喧噪は全く聞こえてこない。庭の木々の若葉や花の、初春の薫りも届かない。触れることが適うのは、少し前に淹れた茶の香りばかり。
「なんでしょう」
「いくらか確認したいことがあります」
なんとも悩ましい騒動に巻きこまれてしまっている。
「佐代さんが言うには、指一本触れられてもいない。それでも佐代さんの身請けのお代を九郎さんが払った。それに相違はございませんね」
一応の思案はまとまってはいたものの、九郎さん自身の声を聞かなければならない。
私の、これまでの旅籠の女将として培ってきた全ての目利き力で、ほんの少しでも嘘やためらいを感じられたのならば思案そのものを変えてしまおう。そう、意を決している。
そこを間違えてしまえば、若い娘さんの一生が大きく歪んだ方へと曲げられてしまうかもしれない。
そのような失態をしでかしてしまうなど、雲州は甘梨でも最も格のある青松屋の一切を差配する女将へ話を預けてくれた九郎さんへの礼を失してしまう。
一介の青松由枝としても、同じ女の身として合わす顔がないというもの。
「その通り」
全く淀みのない返事を耳にし、まずは一つ安堵する。
佐代という名の娘の言葉は信ずるに足ると考えてはいた。
だがしかし、そうであっても。
身も蓋もない言い方でもって事実を並べ立ててしまえば、しょせんは買われた弱い立場。
更に加えて昨日初めて会ったばかりの私に向かって、既にことに及んでいる仲などとは恥ずかしくて口が裂けてでも言えはしないだろう。
その気持ちも充分過ぎるほど分かる。
「では、次に。何故、娼屋などに入ったのですか?」
ここが佐代さんの話しぶりでは今一歩も二歩も腑に落ちなかった。というよりもありえるのだろうか、という疑念を拭いきれないでいる。
うだうだとあれこれ推測を重ね悩むよりも、九郎さんに直接聞いてしまう方が誤解のしようもないというもの。
「ああ、そのことか女将。いや、恥ずかしいことなのだが」
「何が今更恥ずかしいというのです。立派な男たろうとしている若いお人が昼のひなかから娼屋に出入りするよりも恥ずかしきことがあるとでも?」
「その通り」
「いえ、ですからね」
「ああ、済まない。庭に色を添えてみたくなってな」
「九郎さん。真面目な話なんですよ。ここは、きちんと分かるように語るべきでしょう」
そぶりをうかがう限り、茶々を入れているようには見えていない。だけども、そう言わなければと思っていた。
「ここの離れ屋敷の庭のことだ。花の名はよく知らぬが高所に白い花を、低きには赤いツツジの花を。だけではなく松の枝ぶりとその色合い。表座敷より座して眺めれば、晴天に映え、曇天には彩りを添え、夕暮れ時の茜色をも一景として取りこんでいる。実に見事というより他はない。そうであろう」
「庭を誉めてくださるのはありがたいのですが、今は」
分かっている、とでも言うかのように九郎さんが一つうなずいている。
「けれどもな。数日の間、同じ姿勢で同じ景色を眺めていたせいか、ふといたずら心が芽生えてしまった。いや、庭に勝手に手を加えようなどという無礼無粋を考えたわけではない。たとえば表座敷に寝転がり庭を眺めるとする。庭と室の間へ、縁側に別の花でも置いてみたくなった、というわけだ」
「つまりは、ことの根本はこの旅籠自慢の庭が原因だと?」
「それは考え違いというもの。何か一つが原因というわけではない。女将が何故娼屋に入ったのかと尋ねてきたので答えたまでのこと。これはあの娘、佐代に聞いて知ったのだが。花が頭で花の名前が尾に付いている二文字屋号の店はすべからく娼屋を差すらしいな。そのことを存じてなどいなかった。結果として、知らなかったがゆえの縁となっている」
「本当に?」
「ここで嘘を付かなければならぬ理由がない」
「まあ、それはそうかもしれませんね。ですが、九郎さんは芸州から雲州まで旅をされて来られたのですよね。道中では当然他の町などに泊まる機会も多くございましたでしょう。そのあたりでも全く気が付かれなかったのですか?」
「町に泊まったことがないわけではないのだがなあ。過半は野や山で寝ていた。残りはほぼ村泊まり、町というのはそうだなあ」
指を折って数えている様子が目に入る。
まず左手の親指が曲がり、次いで人差し指。……そこで早くも止まっていた。
え、それだけ? と声が漏れそうになるのを抑える。
およそ二十日ほどの旅路だったと耳にしている。なのに町泊まりがわずかに二日きり? この旅籠一番の上客さんが?
ただ、今はその点を掘って問うことに意味は無い。
「備州は柳井。同じく備州は戸坂。二町だな。初めての旅ゆえか、町へ入れば旅籠を目指して一直線。夕餉と風呂を済ませてしまえばすぐに就寝。翌朝にしても朝餉を食べれば町を出発という始末。ここ甘梨でのように町に腰を落ち着けていたこともないゆえかな」
「それでは、故郷では?」
「ハハハ、女将」
「何がおかしいのですか」
「済まぬ。それこそ無理というものだ。生まれ故郷の芸州は高宮において、一人きりで町を歩いたことなど一度たりともない。しかもその手の店のある通りには面している道すら目にしたことも、当然足を踏み入れたこともない。そちらに行ってはなりませんとお付きの者に言われてなお、わざわざ行くのは馬鹿の所業であろう」
……まさかうちの八歳になる息子よりも世間知に乏しい十六歳の箱入り息子が存在していようとは。
目の前にいるというのに、信じられない思いがする。
しかしながら、全く言いよどむそぶりすらも見せないその様は……よくもまあ、ご両親は供すらいない一人旅を許したものだと感心するやら呆れてしまうやら。
「つまりは、花椿屋が娼屋だと気が付いてはいなかったと。まあ、知らぬお人は知らないでしょうからね。では、入ってからどうして佐代さんを買うという話になったのですか?」
「そこなのだよ、女将。花椿屋と記してあったゆえに軒をくぐってはみたものの、入り口付近にも奥の方にも花の鉢一つすら見えない。不思議に思い、尋ねたのだ。ここは何を扱っているのか、とね。すると、花を扱っていると答えが返ってきた」
「花……ねえ」
ああいう店で働く女のことを指してそういう言い回しがあることは知っていた。娼屋のことを花屋と言っても大抵の大人には通用するくらいだ。
ただし、知っていないとなれば通じるはずもなし。
どうやら、嘘ではないらしい。
「花など一つも見えぬではないかと言ったら、この時間はお見せ出来ないんですよと。妙なことを口走るものだと思った。だが、商いというものにはそれぞれの店の事情もあろう。ましてや俺など初見の者だったからな。そうですかそれでは、と立ち去りかけたところに……。これは後に知ったのだが店で一番の立場の男が、帳場から声をかけてきた。早桜でしたら少しお待ち時間をいただくこととなりますがご高覧いただけますよ。いささか値が張りはしますが、と。そう口上を述べてきた」
早桜、か。
早いとは若いということ。十四歳の娘になら適した言い回しだろう。
二人きりで話をしていた折々において、感情の高ぶりに合わせるかのように頬へ血がのぼってほんのり桃色と染まっていた。
白い肌に薄っすらと桃色の差すあの娘のその有様は、言われてみれば確かに桜を連想させられる。
言い得て妙だ。なるほどと納得せざるを得ない。
そう思ってしまっている我が身に腹が立つ。口惜しい。悔しい。
「それは是非とも愛でたいものだ。まだ梅がようやく開花したばかりなこの季節に桜とは、願ってもいない良き話。だが、一つ残念。雅な花を語るに値など、野暮を混ぜるのは好みではない。と返した」
娼屋の筆頭番頭だか店主だかは知りもしないけれど、早桜うんぬんを口に出した時には既に九郎さんの形を確認し終えていたに違いない。そう察した。
上から下までとても良い仕立てもので身を覆っている。
加えて、眉目秀麗とは言い難いものの、目や口元には卑しさの欠片も感じられない。
更には、一代二代で成り上がった程度の者の子とは明らかに異なる、代を重ねて積み上げてきた者にのみ時折見受けられる極自然に身に付けたのであろう鷹揚な立ち居振る舞い。
私にしても初めて会った時にそこら辺りは素早く目利きを済ませてもいた。
上客を、それと知っておめおめと逃がすような差配人など、どのような商売でも相応しくない。
もしもそのような愚人が差配していれば、店は傾かずとも繁盛などしないだろう。
花椿屋といえば、甘梨で最も値が張り、しかも繁盛している娼屋ということくらいは耳にしている。
「早桜ならあると言われ、是非とも愛でたいと。そう応えなさったと」
口に出してみれば、ああそういうことかとスッと腑に落ちてくるものがあった。
これは通人による隠語符牒遊びだ。
娼屋の者から見れば、金を持っていそうな一見者がいかにも遊び慣れているいるとしか思えない当意即妙な口ぶりを聞いてきた、ということになる。
「その通り」
「おかしいとは思われなかったのですか? 佐代さんから聞いていますが、銀粒貨で五十枚を求められたのでしょう。本物の花だとすれば、この値は度を越して、いいえ越し過ぎています。それに私はそれほど詳しくはありませんが、その……そういう買いごとだとしてもそれほどの値が付いたなどというのは、一度も聞かぬ話ですよ」
これまでもだったけれど、これからがもっと肝要だった。
目の仕草、唇の動き、膝に置かれてある手の指先一つ。全てを見ながら、声色も息遣いも聞き逃してはならない。
それが佐代という娘へしてやれる私の、今出来る精一杯だ。
「それは了見の違いというものだ。考えてもみて欲しい。今、梅が咲き始めている。ということは桜が咲きを見るにはおよそ三十日は早い。そうであろう」
何を言い出すのかと身構えていたところに、のん気にも花談義。いくらか拍子抜けしないでもない。
「そうでしょうね。九郎さんのその見立てにさしたる間違いはないと思いますよ」
「では、明らかではないか」
誤魔化しにかかっている? いや、挙措の一切にその気配は感じられない。
「分かりかねますね。きちんと説いてもらいましょうか」
「そうか、では。良いか、女将。今日……ではないな。昨日の時分に桜を見ることが適っていたとする。それは、三十日の時を購ったことと等しいのだ」
何を御託を並べて、と口を開きかける。
けれども、とっさに下唇を噛み締めて声を押し止めた。
というのは、佐代さんが似たようなことを口に出していたことを思い出したからだった。
確か、こう。
初花取りが三十日遅くなるのなら今銀粒五十枚なんていらない。それが十枚だろうと一枚だろうと、その方がはるかに良い。間際までそう思っていたのだ、と。
つまり、鏡合わせの表と裏のような時。その金銭的価値。
「値、そのものについては?」
「娼屋での初取りとかいったか。その相場など、知ってなどいない。ああ、今もな。銀粒貨五十枚が一枚となろうと銅丸貨一枚となろうと金判貨一枚となろうと分からぬゆえ、それが高いか安いか適値なのかを判断出来るはずもなし。となれば、ただ払えるか払えないかのみとなる。そして俺は、桜を三十日ほど早く見るという、時そのものを購う費えとすれば高くもない。そう思えた。ゆえに、銀粒貨五十枚という値に同意をしたのだ」
なるほど、確かに理はある。
物の値というのは日を超えてしまえば捨て値同然となるものもある。たとえば、鮮魚などはそうだ。
……突然に九郎さんが商いの道理を弁えているかの様に感じてしまっていた。
そんなはずはない、この良く言って能天気なお人が。
ぶるりと胸中で一つ頭を振った。
「まあ、こんなことを言うのは女将という商いの達者なお方に対して失礼にあたるのだが。一つ聞いて欲しい」
「聞きましょう」
「商いというのはそもそも信用があってこそであろう。その店の者が口に出す値を疑っていかがする。たとえその場でいくらか余分に儲けたとしても、長き目で見れば失うものの方が大となろう。違うか?」
わきの下にじわりと汗がにじんでいる。それが分かった。生唾をごくりと飲みこんでしまわない様に意識する。
大げさに言ってしまうならば。
赤子がしゃべった。それも齢を重ねた大店のご隠居様のような言葉を。
そんな感覚に陥っていた。
決して九郎さんというお人を下にみていたわけではない。
ただ、商いに造詣が深いとも、知恵多いとも思ってなどいなかった。
ところがこの有様。
佐代さんに関する件は抜きにしても、この目の前に座している鈴鳴九郎良俊という若いお客人の器量を、私は目利きし損ねていたのかもしれない。
ううん、かもしれないではない。そうに違いないと。
脇に置いてあった湯の身茶碗を手に取って、口中に湧いていた生唾ごと茶を飲みこむ。生ぬるい茶が喉を通り、胃の腑へと流れこんでいく。
「ところがだ、女将。結構な時間を待たされて後、ふすま戸が開いた。遂に桜を見ることが適うと心躍らせていたところへ現われたのは、妙に気を張っている年若い娘が一人きり。これは面妖なこともあるものだと。そこで尋ねたのだ。ところで桜はまだかな、と」
……訂正してしまおう。きっと私の最前の思いは目利き違い、なのかもしれない。
やはり、どこかしら抜けているお人だと。
「その期に及んでもまだ気付かれていなかった、と。そういうわけですね」
呆れ声とならないように意識しなければならなかった。
「実に呆け者としか、自らを返りみればそうとしか言いようがないな」
「それにしても」
言いかけて気付き、やや声の調子を落とす。
「それにしても、据え膳食わぬはなんとやらとも申しますでしょうに。いえね、一等始めの九郎さんの言。疑っているわけではないのですが、まことにその……」
「指一本触れてなどいない。それは筋が違うというもの。花を愛でる時を購ったのであって、その。娘の身体を買ったわけではない」
目の前に相対しているお人の評価が二転三転してワケが分からなくなってきつつあった。
ただ、佐代さんの今後がかかっている。その為にも確かめるべきは確かめておかなければならない。
「それでは、お聞きしますが。何故に身請けという話となったのでしょうか。女の口から言うのは大変はばかりがあることです。ですが、あえて問いましょう。その、抱いてもいない娘さんの身請け金を払うというのは度を越えているのでは?」
「その通り。桜というのが本物の花ではないことをようやく知った以上、その場に留まっていても意味も益もなし。早々に立ち去ろうとしたのだ。ところが、な」
「ところが?」
「すがるような、いや実際にすがってきたわけではない。気迫がな。いくらなんでも無理筋な話だとは承知していますがお願いします、身請けしてくださいと頼みこまれてしまい」
あまりの言い様にあんぐりと口を開いてしまい、そのはしたなさに慌てて口をつむぐ。
ところが無意識の内に発していたらしい「阿呆ですか」という自らの声が頭の中でこだまする。
いくらなんでも、お客人に対して無礼というものだった。
さっと血の気が引く。
せめてお詫びの言葉を口にしなければと息を吸い吐き出す間際に、九郎さんの声が聞こえてきた。
「そんな頼みを受けたなれば、まさに阿呆だ。そうに違いない。だが、いくらなんでもそこまでの阿呆ではない」
「すみません。言い過ぎました」
「いやいや、逆の立場なら当然同じように叫んでいたと思う。ゆえに、全く気にしてなどいません」
そうは言われても、下げることを惜しむような頭を後生大事に首に乗っけているなど、私自身が納得出来かねるというもの。
「ご配慮、ありがとうございます」といい、身体を深々と傾けた。
「なんのことだか。既に忘れてしまいました」
頭を上げて見てみれば、そう言ってニッとまるで照れているかのように笑っている。
この笑顔を凝視するのは……ほだされる気持ちとなるのは今はまずい。あえて、視線をわずかに外す。
私はともかく、佐代という娘さんの、大げさに言えば今後を左右してしまう。判断を間違えてはならないという務めを負っている。
「あなたには実に済まないことだがまことの桜を見たかっただけなので、と断りを入れた。縁のない者にかまうほど人物が出来ているわけでもないゆえに」
「佐代さんには悪いですが、慈善にしても度が過ぎましょうからね。何か裏があるのでは、と勘繰ってしまいます」
そうなのだ、結局のところ九郎さんは身請けしてきている。何故そういう運びにという点は声として聞いておかなければならない。
「女将、裏も表もない。心外なことを言う」
「九郎さんはそういうお人でした。言葉のあやとはいえ、すみません」
「分かってくれているのならば良い」
そういうお人だと、短い付き合いの中ではあったものの私は承知していた。
だけど、佐代さんはきっと知るはずもない。
「それでそこから、どうして?」
「室を去ろうとしたのだが、このまますぐに席を立たれてしまわれるのは困りますと震え声で言われてしまってな」
「まあ、それはそうでしょうねえ。お茶の一杯も冷めない時間しか過ごさずに帰るというのはさすがに」
そこまで口にして気付く。
あまりのはしたなさに、顔へ血が瞬時にのぼっていく。
とその時、ズズッという音が聞こえてきた。
「冷めたお茶というのも、なかなかに味わいがある」
そう言って目線を逸らしてくれている九郎さんの姿が目に映った。
これまでに何度もお茶を共に飲む機会があったけれど、音を鳴らしてなど一度も記憶していない。
この気遣いは、とても心に沁みいる。
あえて礼の言葉を返さず、私もズズズと音を立てながらお茶を一口ほど飲んだ。
「無理くりに去るのは酷いことだと知った。となれば、室に留まりひと時を潰すより他はない。かといって、することもない。仕方がないので生まれ故郷の話や旅の道中で起きた出来事などを語って聞かせていた。その流れであの娘の話となって、な」
「……つまりは、結局は同情したと?」
「そうではない。時に女将は、縁というものをどう捉えている?」
「縁ですか。縁は大事にすべきことでしょうね。たとえばこの場で私と九郎さんが一人の娘さんのことで話しこんでいるのも、縁あればこそですから」
突然に何をと思わないではなかったものの、意図が分からず凡な返しをするより他はない。
「その通り。おろそかにしてはならぬもの」
「でしょうね」
「あの娘の、店での名を耳にしてしまったのだ。千代鶴と」
「千代鶴……ですか」
やや細身で脚がすらりと長く、そしてきめ細かな白い肌。容貌だけなら桜だろうけれど、全体を見れば鶴というのはいかにも似合い。
ハタと我に返り、すぐさまに首をぶるりと振って否定する。
その名は娼屋で付けられた、いわば忌むべき名。あの娘の名は佐代。それ以外に相応しい名などあってはならない。
「その名を、二度と再び口にしてはなりませんよ」
「もちろんのこと」
「良いご分別です。それで?」
「実はこの旅の道中で天空を舞う鶴を見かけたことがあってな。それは、それまでずっと付いて来てくれていた彦兵衛という者と別れなければならない時だった。彦兵衛に告げたのだ、縁であり定めでもある、と」
「え? お一人の旅をされてこの地にというわけでは? ああ、いえ。それはただ今には関係のない話となりますね。お置きくださいませ」
「鶴を目にして彦兵衛と別れた。ところが再び鶴が現われた。これは実に縁であり定めではないだろうか。そう思えたのだ」
「……さようでございましたか」
他に何と言えば良いのか、さっぱり見当が付かなかった。
そもそも、鶴は分かる。縁も定めも分かる。
だけれども、縁であり定めでもあるというのは、私に学が足りないのだろうか。分からない。
何となくなら察せられないでもない。きちんとした解を得たくなる。問いただしたい。
けれども、それは私の興味という個人の問題に過ぎない。
今においては些末以外のなにものでもない。
「無いと踏んでいたご縁が実は佐代さんとの間にはあったのだと。ただその一点のみゆえに、身請けを引き受けなされたと。相違はございませんね」
「その通り」
「指一本たりとも触れてはいない間柄の娘を一人、金判貨四枚もの大金で店のくびきから解かれたと」
「その通り」
「さりとて妾として囲う気は無い。解くにあたっての代価を、それが何であろうと求める気も無い。娘の、佐代さんの将来のみを案じた思案をこの私にお求めであると」
「その通り」
「実にご立派な心根でございます。見事なる甲斐性ぶりでございます。この青松屋、代を重ねること五代。今は亡き先代の父より暖簾を継ぐにあたりまして総領娘たる私は、日々のことを残した帳面をも受け継いでおります。今日という日は、これほどのご了見を記せるこの誉れ。きっと、私の代における格別な出来事となることでしょう」
「なに当然のことを成したまで。縁あらば援けるのは義である。我が家ではそう教えられてきた。女将とは知り合ってまだ日も浅いが同じ心根を持っている。そう思い、あの娘のことを頼んだのだ」
実はこのお人、大人物なのかもしれない。ふと、そう思わざるを得ないでいた。
いや、今はそのあたりの目利きにかまかけている場合ではない。
「それでは、私の思案を」
「うむ」
「ああ、その前に」
息を吸いこむ。そして吐き出す。
「お佐代さん!」
その声に応じて戸が、私の背後のふすま戸がわずかな軋みとともにすっと横へ滑る音が聞こえた。
「失礼ながら、全てを聞かせていただいておりました。鈴鳴様、女将さんは悪くありません。無理を承知で私が頼みこんだことなのです。どうかお許しを」
目で見ずとも見えていた。畳の正面に手を添えて深々と頭を下げている佐代さんの様子が。
目で見えている正面の九郎さんは……目を見開き驚きをあらわにしていた。
ことの始まりからはともかく、途中からは気付いているのではと踏んでいたのだけれど。
隠しおおせない気配が生じてしまっている、と。武芸などにトンと心得のない私ですらヒシヒシと感じられていたというのに……。
まさか、自称武者修行の身でありながら、これほど立ち上っていた気を悟れていなかったとでも?
いいえ、そんなわけが。ありえぬこと。
だけどもしかし、九郎さんの挙動はそうとしか見えず。
「佐代さん。こちらへ」
私の右腕の示す場所。右手側、下座にあたる位置に佐代さんが物音一つ立てないたおやかなる挙措でもって腰を降ろしていく。
視界の端に映っている九郎さんの顔の口は、未だにポカリと開いたままだった。
大人物かどうかの目利きはひとまず置いておこう。よく分からないお人だということだけは確かだ。
正面を向く。コホンと一つ咳をする。
「それでは、私の思案をお伝えいたします」