第四話 九郎さんというお人 青松屋女将
コン。スコッ。ゴッ。ゴボッ。
「ああもう! 汚い音といったらありゃあしませんよ。散々待たせておいて、ようやっとというのに済みませんね。ちょっと一言文句を言ってきますから」
返事も聞かずに立ち上がり、畳の上を滑るように早く歩を進める。
ふすま戸を開け、板張りの廊下へと足を一歩踏み出す間際に「はい」という消え入りそうな小さな声が耳へと達した。
内からは入れ替えてまだ日も浅い畳イグサの匂い。外からは庭の木々の芽吹き始めている蕾や花、若葉の香り。
それらが混ざり合うかの様にして、鼻腔をくすぐってくる。
身体の向きを変えた後にかがみ、開けたばかりの戸に手を伸ばしかけ。
気が変わった。
若い娘さんが部屋の内に篭ったきりが好ましいとは思えない。
それよりも暖かな初春の日差しを浴びた方が良い。
温もりに満ちた微風を肌に感じれば気持ちぶりもいくらかは改まるに違いない。
高きに目を送り木蓮の白い花の咲き始めを、低きに視線を向けてツツジが赤い花を今を盛りに開いている、その様を眺めるほうが。
余程にマシというもの。
「そうそう。この離れから眺める庭の景色はうちの旅籠が誇れる出来栄えだと自負しているんですよ。せっかくですから、この戸は開けたままにしておきますからね。お待ちなされている間にじっくりご鑑賞というのも趣きがあると思いますよ」
さして返事を期待せずに立ち上がると再び「はい」という、か細い声が届いてきた。
音になって漏れ出でそうなため息をぐっとこらえて五歩ほど進む。
大きく息を吸いこみ、吐き出していく。
室内へため息として伝わってしまわないようにゆっくりと時間をかけて。
これほどの重い話を聞かされる羽目になるだなんて聞いてやしないよ。
文句の一つも言っておかないと気が済まないったらありゃしない。
もっとも、それより何より。
あの娘さんの目の届かないところで、頭の中を整理する時間が欲しかった。
離れ屋敷を後にして、渡り廊下を三つほど折れ曲がり、外庭に出る。
コン。ゴッ。と相変わらずな音を響かせている材木置き場へ顔を出すと、探していたお客人の姿が目に映る。
もっとも、音だけで人がいなかったらびっくり仰天な話でしょうけれど。
「お客人さん。こんなことは言いたくはないのですけどね。こう、もうちょっと良い音でやってくれませんか?」
ゴンッ。
「ちょっと、お客人さん。聞いてます?」
ドコッ。
「まったくもう。鈴鳴さん!」
「おっと、これは失礼を。尊敬している桃山無刀斎先生の教えに基づき一心不乱に励んでいておりました。気付くのが遅れてしまいました」
「桃山? そのお方が鈴鳴さんのお師匠さんなのですね」
「いえ、そうであって、そうではないのです。はるかに昔のお方ゆえ。いわば、心の師匠」
「ところで、さっきから呼んでいましたよ」
「ああ、それは女将さん、あなたが悪い。今の俺は客として過ごしていない。この旅籠で用いる為の薪を割っている。つまりは使用人です」
「はいはい、面倒くさいお人だこと。分かったから鈴鳴さん。働いているって主張したいのなら、もう少しは上手い具合に薪割りくらいはやっておくんなさいよ」
「女将、それは無理というものだ。この斧が良くない。ろくに研いでいないに違いない。それとだな、呼び名は九郎でいい。その方が私の好みです」
そう言ってニッと笑うその表情は、心よりそう思いこんでいるとしか見えず。
まるで、幼い子供のような無邪気さにいささか呆れてしまう。
しかしながら、かれの笑顔には不思議な吸引力のようなものがある。油断しているといつの間にか会話の主導権を握られてしまう。
そのことはこの五日の間に起きた色々な出来事を通じて実感させられていた。
もっとも本人がそのことに全く気付いていないという点には、おかしみを覚えてやまない。
ただ、およそ二十も歳の離れている若者に押されっぱなしというのも、しゃくな話で。
「それではきっと、うちにいる権造は斧使いの達人なのかもしれませんね。旅籠で下男働きをしているより、お城で雇ってもらって戦人となる方が向いているのでしょう」
「それだよ、女将! これはとんと気が付かなかった。権造さんに後で知らせてあげよう」
慌ててしまう。
「よしてくださいよ。九郎さんはこの青松屋の差配をしているわけじゃあないんですからね。私から告げるまで権造に言っては駄目ですよ」
「なるほど。それは正しい道理。では、黙っておこう」
「絶対、言っては駄目ですよ」
「女将は心配性だな。言わぬと一度口に出しからには他言など。するはずもないではないか」
駄目なのは私の頭の方だ。くらくらしていた。皮肉が全くこれっぽっちも通じていない。
いったいぜんたい、どういう育ち方をすればこれほどのお気楽な思考が出来上がるのだろうか。
いけない。そもそもここまで足を運んで来た主な理由は、下手糞な薪割りに苦情を言いたかったからではなくて……。
頭の中を整理する時間が欲しかったからだった。
宿帳には鈴鳴九郎良俊という名が記されている。
職業柄、家名については詳しい方だと自負しているこの私が、ついぞ耳にしたことのない家名。訪ねたところ、芸州のお方だそうで。
紹介状の一つも持たずにうちの旅籠を訪れたお人が九郎さんでした。
初めてお会いしたのは五日ほど前の夕暮れ時。
門脇の灯りに火をともそうとしていたところに「泊まりたいのですが」と声をかけられたのが最初。
見た覚えのない顔だったので「すみませんが、一見のお方は申し訳」とまで言った時の、実に哀しそうな表情についついほだされてしまったのが運の尽き。
「ちょっとお待ちくださいね。空きを確認してみますから」と口に乗せていた。
玄関口に招き入れながらよくよく見れば、身に着けている着物は内着も羽織も上質な絹の平織り物として名高い芸州ちりめんで仕立てられており、帯は丹州の紺染め独特の二本筋入り、足袋もおそらくは筑州の黒木綿。
上から下まで、やたらと費えのかかっていそうな良き品で揃えられていた。
織り目のいくらかは汚れて褪せてもいたものの、旅をしてきたのならばそれくらいは当たり前の話。
腰に差している刀の鞘も随分と凝っていて、名乗られずともどこかの名の知れた富裕な家の若者であろうことは容易に推測出来た。
今後贔屓に利用してくれるのなら杓子定規に断ることもないのかもしれない、と頭の中で算盤をはじく。
これまでにも一見さんをお泊めしたことは無かった話でもないし。
もっともそれにしては、従者の一人も付いていないのがいぶかしく。
そこまで頭をめぐらせていた時に、はたと気が付いてしまう。
ああ、私はこの若いお人を、一見さんをあえて迎え入れるに足る理由を探していたのだ、と。
帳場に座り宿帳をめくる。
ただし確認するまでもなく、部屋が空いていることは承知していた。この青松屋で最も値の張る、並の部屋と比べれば一泊あたりおよそ十五倍の部屋が。
もっとも部屋とはいっても離れ屋敷丸ごとの一棟貸し。造りはもちろんのこと調度品も厳選した物しか用いておらず、取り立てて高い泊料というわけでもない。
六部屋が備わっていて主人用に最上等な三部屋。お付きの人たち用にやや格落ちの二部屋。更に落ちる一部屋、これは予備を兼ねた従者用。
なお、この離れ屋敷については部屋貸しなど過去にしたことはないので、一棟を借り上げてもらうより他はない。
とはいえ、払いについてはこのお人は大丈夫に違いないと、私の直感のようなものがささやいていた。
それでも商売は商売。まずは正値を告げよう。
多少でも困った顔を見せたのならば、お一人様ですから割り引かせていただきますよと訂正して半額にしてしまおう。
空けたままにしておいても銅丸貨一枚にもならないからね、と自らに言い訳をする。
もっとも、もしも半額でも渋るようならば、残念ながら私の目利き違いで単なる着道楽の類。
縁がなかったものとしてお引取り願おう。
そう考えをまとめ終えた後、一泊あたりの正値を告げた。
そして驚いてしまう。
すぐに、本当に瞬時に、まるで打てば響くかのように「それくらいでしたら、かまいませんよ」と返事が返ってきた。
いや、そこまでなら驚くほどではない。多少は感心する程度。
びっくりしたのは、懐の袋から取り出してきた二十日分の泊費をいくらか超えるであろう銀色の小山。
「数日は滞在すると思いますので、一応これくらいはお預けしておきますね」と。
それがさも当たり前のことであるかのように言われてしまう。
前金をいただく。それは一見さんに限らず、当然のことだった。二泊までなら全額を。それ以上ならば半額を。
数日という言い様と、目の前に置かれた銀粒貨の枚数の差に驚いて。
「ああ、はい」と間の抜けた応対をしてしまう。
旅籠の一切を取り仕切る女将としては、実に呆けた声に聞こえたでしょうねと思う。この失態はしばらく忘れられそうにない。
ちょうどその時分の奉公人たちは、みな他のお客人の対応に追われており誰にも私の声を聞かれていなかったことが救いといえば救い。
自称武者修行の旅の途中の九郎さんが青松屋に、雲州は甘梨に居を構えるこの旅籠に泊まりを定めて今日で五日目を迎えている。
何事も起きなかったのは一日目だけだった。
うちの旅籠で最もお金払いの良い上客なお人が……。
やれ薪を割らせて欲しい、やれ馬小屋の手入れの手伝いをさせて欲しい、などと言い出して。
当初は戸惑いを隠せないでいた奉公人たちに「上客さんが旅籠の仕事というものを体験してみたいと言われましてね。いくらか変わってはいるけれど、気さくなお人柄ではあるから。ちょっとばかり面倒をかけますね」と言って回って説いて聞かせる必要は早々に無くなった。
泊まった翌日は薪割りを終えた後、気難しやな気のある下男の権造とともに釣りへ出かけていた。
三日目の夕方までには奉公人のほとんど全員がお客人様や鈴鳴様などとは呼ばなくなっており、九郎さんと声をかけるようになっていた。
あっという間に、この青松屋に受け入れられていた。
そして、四日目にぶらりと一人で出かけていき、戻ってみれば二人に増えていた。
「どうするのですか。困惑しているんですよ」
「女は女同士の方が良いかと。そう考えてお願いしたんだけどな」
「いらぬ印象を受けるといけないからと事前に九郎さんより話を聞くのを断ったのは私ですけどね。あの娘の話は、その。ちょっとばかり重過ぎるんですよ」
「女将、そう言われてもな。俺も困っているんだ。それこそ相見互いと言うだろう」
「いけませんねえ。その言葉の意味くらい承知していますよ。同じ立場の者が助け合うってことでしょう。何ですか? 九郎さんと私が同じ立場だって、そう言っているのですか?」
「二つも同じではないか。まず、同じ屋根の下で暮らしている。次に、同じ悩みを抱えている」
「……モノには言い方ってものがあるのですね。いいですか、私は旅籠青松屋の女将。九郎さんはその青松屋で一等上等な屋敷を借りている上客さん。娘さんの件に関しては私は話を聞くだけですよ。どこが同じというのでしょうか?」
あるべき返しが、来ない。
まさかそんな、とびっくりしてしまう。
うちの八歳になった息子の方がまだちゃんとそれらしい理屈をいくらかはこね回してくるに違いなかった。
二の矢、三の矢あたりまでは当然準備しているとばかり踏んでいたのに、大見得を切った末が思いっきり底の浅い一の矢だけだったなんて……。
このお人はこの先大丈夫なんだろうか、悪い人にコロリと騙されてしまうんじゃないだろうか、と心配になってしまう。
もっとも、困惑顔をしていた九郎さんがこっちを向いてニコリと微笑んできたのを見てしまうと、それほど心配などしなくてもいいのかもと思い直す。
ああもう! この笑顔が癖モノだった。これにほだされてしまう。こういうのを母性をくすぐられるっていうのだろう。
けれど、うちの亭主も奉公人たちも、息子の陽太郎もすっかり懐いてしまっているしで。男心をもくすぐっているらしく。
たちの悪いお人だ。
「分かりましたよ。あの娘さんの話を終いまできちんと聞いてあげますよ。その後で、じっくりと今後のことを相談するとしましょう」
「済まぬな。女将さん」
九郎さんがペコリと頭を下げていた。
「はーい。任されました」
作業場を後にし娘さんを待たせている部屋へと戻る途中、薪割りの音が聞こえてこないことに気が付き、ふと振り返る。
すると、まだ身体を傾けて頭を垂れている九郎さんの姿が目に入って来る。
あの調子じゃあ、私の足音が聞こえなくならない限りあのまんまなのだろうね。腰が低いというのか屈託がなくて素直というのか。
ほんに変わったお人だ。
さあてと。
頼まれたからには、引き受けたからにはせめて話くらいは最後まで親身に聞いてあげないとね。
ここで放り出してしまえば、この青松由枝様の女が下がってしまいますよと。
とはいえ、ちょっとばかりこれまでのことを整理しておこうかね。何しろ、スットンキョウ過ぎて……見てもびっくり、聞いてもびっくりだったからね。
昨日のお昼頃、ちょっと町をぶらついて来ると言って青松屋を後にした九郎さんが、陽の傾きかけた頃に二人連れで戻ってきた。
もう一人のお人は深めの笠を、その下には頭巾をもかぶっているので容貌が分からない。
おまけに、出掛けに九郎さんが羽織っていた外套で首元から脚元までをすっぽりと覆っていて。その外套は、元々九郎さんの膝下あたりまでの丈だったので、布地の下が土で汚れており、その様子がなんだかおかしくて。
ははあ、きっとあの中には奉公人の誰かしらの子供でも入っているに違いないって。
女将、と小声で招かれ、はいはい誰でしょうね? と。
笠を外して頭巾も取って下にある顔を確認したところ……出てきたのはなんともまあ可愛いらしい顔をした娘さん。
ただ、戸惑いや不安などを顔いっぱいに貼り付けてもいた。
九郎さんいわく、事情があるのでこの娘さんも青松屋に泊めて欲しいと。
驚くやら、呆れるやら、情けなくなるやら。
無理というものです。悪ふざけも大概にしないといけませんよと声を荒げずにはいられなかった。
ここいらでは、ついぞ見かけたことの無い娘さんだけど、おやごさんは今頃大慌てで探し回っているに違いないんですよって。
日が暮れきってしまうまでに送り届けてあげるのが、立派な男の甲斐性ってもんですよって。
見損ないましたよ。鈴鳴さんは武者修行の途中なんでしょうに、女の子を引っかけてしかも宿屋に連れこもうだなんて……今すぐにでも荷物をまとめて出て行ってもらいましょうって。
ちょうど水を張った桶がすぐ近くにあり、言っているうちに段々と腹も立ってきていたので柄杓に手を伸ばしたところ。
いやそれは困る。ああ、水もだが。何故ならこの娘はこの甘梨の町の者ではないんだ、と。
ここで一人にしてしまえば見知らぬ町の、それも夜の町に放り出してしまうこととなる。
この娘の事情は後で話すので、せめて今晩だけでも泊めてやってくれないか、と。
そういう事情じゃあしょうがないねとうなずきかけ、ハッと気が付いた。
婚儀もあげていない男女を一つところに泊まらせるような、この青松屋をそんな安い旅籠だと思っているのですかってね。
そうしたら。
もちろん俺の使っている離れ屋敷を丸ごと明け渡すつもりだった。俺はどこでもいいからって。
いやまあ、そこまで言われてしまうとねえ。
よくよく考えれば、いえ考えなくても上客の九郎さんにそんな扱いは出来たものではないし、かといって別部屋を用意しようにも空きがなかったし。
どうしたものかと悩んでいたら、ひょっこり顔を覗かせたうちの亭主が口を出してきて。
鈴鳴様は、たとえば息子と一緒の部屋でもかまわないのですかって。
ああ、まずいと思ったんだけどもう後の祭り。
うちの亭主は旅籠仕事にはほとんど顔を出さず、趣味ごとばかりに熱心なものだから……九郎さんがどんなお人なのか、この時点ではよく知ってなどいなかった。
後で尋ねたところ、当然断られるだろうなって思っていたって。
それじゃあしょうがない。申し訳ないけれど、娘さんには大部屋で一夜を過ごしてもらおうって、そう言うつもりだったって。
何と言っても上客の方が大切だからねと。
ところが、それは良い思案だ! と九郎さんは一も二もなく同意。
うちのご亭主殿は逆に困ってしまい、私が心配しなくても大丈夫ですよと言っても聞く耳持たず。
結局三人で、亭主と息子と九郎さんが一つ部屋で寝ることに。
朝になって起こしに行ってみてみれば……まるで息子が一人増えたかのように、兄が突然出来たかのような懐きっぷりを見せられてしまい。
ほんに九郎さんは困ったお人ですよ。
ああ、離れ屋敷の庭に咲いているツツジの赤が見えてまいりました。娘さんの話を聞かないとなりませんね。