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第三話 花の覚悟 佐代 後編

「いいかい。よくお聞き」

 着物を剥がれ、長襦袢(ながじゅばん)をむかれ、肌襦袢(肌襦袢)のみに。

 つまりは下着のみとなった後に、香の滴を身体の方々へ垂らされ、上質な綿の長襦袢をかぶせられ、その上から絹の着物を着せられました。

 次いで薄化粧を塗られ、髪に油を付けられて。


 一つことが終わるたびに部屋から誰かかれかが去っていき、全てが済んでしまった今、部屋の中には二人となっていました。

 あとしばらくの時間が過ぎてしまえば、私は廊下を渡って母屋へと、別の部屋へと行かなければなりません。

 最期のひと時くらい、せめて一人にさせて欲しい。

 その願いをこめて、志な子(しなこ)さんの目をじっと見つめたのですが。



 志な子さんは私から離れるどころか、近づいてきます。

「こっちに来ないで。せめて今くらいは一人きりでいさせてください。逃げたりなんてしませんから」

 そう哀願するのが精一杯でした。


「分かったよ。この話が終わったら一人にしてあげるから。いいかい、よくお聞き」

 肩を落とし頭を垂れながら、はぁとため息が一つ漏れていきます。

 何をどうしたって何もかないやしないんだと。

 些細な願い事すらも許されないんだと。

 瞳が潤んでしまい、けれども泣いてなんてやるものかと歯を食いしばり。


「さっき確認したんだけどね」

 今更何をこの人は。頼りにしていたのに。

 裏切られたあげくにこの有様だというのに。

 私にとっては、今日銀粒貨五十枚で買われるより、たとえ十枚だろうとそれが一枚だろうと三十日の時間の方が余程に貴重で大切な価値を持っているように思えてなりませんでした。

 それをこの人はお金の多寡で……顔を引っぱたきたくなる気持ちが今にもあふれそうになっておりました。


「どうにも変だなと思ったんだよ。平次郎はこの店の店主ではないけれど、金主から実質的にこの店の差配に関して一任されているほどの男だ。それが表と裏を隔てている扉を開けっ放しのままで、しかも扉の向こう側に目を送っても男衆の一人も控えていない。とんだ間抜けっぷりとしか言い様がないんだけど、常の平次郎を考えればそんな失態に気が付かないままだったというのは、いかにもおかしい」


「はあ」

 そんなことを私に話して聞かせて何になるというのでしょうか。それが何であろうとどうでもいい。

 早く出て行ってと念じていました。

「野暮用にかこつけてそれの確認をしがてら、聞き出したのさ。銀粒貨五十枚の話だよ。私の予感がピタリと当たってね。これからあんたの、千代鶴の初花を取るお客人というのは、金判貨を出してきたんだってさ。ところで一つ尋ねごとだよ。金判貨一枚から引くことの銀粒貨五十枚はいくらだい?」


 だから、それが何だと。

 ただ、それくらいの計算も出来ないと侮られるのも悔しくて、すぐさま言い返しました。

「……銀粒貨五十枚」


「そうだね。そこを踏まえてよおっくお聞き。あんたは知らなくて当然なんだけど、この店に昼間っからそれほどの大金なんて置いてあるわけもないんだよ。この店の稼ぎは夜に私らが文字通り身体を張って稼ぐ金が全てだからね。つまり、平次郎が私らのもとを訪れていた頃、あいつの下の輩は大慌てで両替屋に走っていたという按配さ。それも一人きりじゃ行かせられないよ。なんていっても金判貨だからね。その金を持って消えてしまおうと悪心を抱いてもおかしくはない。私なら二人か、いいや三人で行かせるね。そしてこんな時間から表館に詰めている男衆の人数が多いはずもない。そもそも仕事がないからね」


 もう、いい加減にして。それが何なのですか。と口にしかけるもとどまりました。

 志な子さんの目には、親身に何かを私に伝えてくれようとしてくれている。そう感じられる何かが確かに映っている。そう思えたのです。

 ところが。


「あんたがここに連れて来られた経緯は承知している。親兄弟の借金のカタに売られたあげくにという、どうしようもなくて踏ん切りを付けざるを得ない身で来たわけじゃあない。だから、心よりの納得など今日であっても、たとえ三十日の先に旦那衆に初花を取られてであっても、一年後であっても、無理に違いない。そのことは分かっている」


「分かる? あなたなんかに分かるものですか! ふざけないでよ! あなたなんかに!」

 思わず、カッとなって声を張り上げていました。

 怒りと屈辱に加え、この期に及んで志な子さんが親身だと勘違いしていた自分が情けなくて悔しくて。

 他にも叫んでいたのですが何と言ったのか。それを全く覚えていないほど分からないほど、頭に血が上っていました。

 口からとめどなく吐き出されていた呪詛のような言葉が止まったのは、息が尽きてしまったから。ただ、それだけが理由でした。

 ふうふうふうと荒い呼吸を繰り返しながらふと目を向ければ、志な子さんの泣き出しそうな顔が見てとれ。

 ほんの少しだけ溜飲が下がりました。


「なばぃはってもわがぁぅもはわがぁ。わぁばうすぅゆぃのもだ」

 口をポカンと開けたまま、志な子さんの口元を凝視していました。

 こんな所でこんな時に、耳にするとは全く想像すらしていなかった言葉に驚いて。

 腰を抜かさなかったのは、元から座っていたから。

 それ以外の理由はないほどの衝撃を受けました。


「え? ……まさか!?」

「そうだよ、私とあんたは同じなのさ。あんた以外の者たちとは……違うんだよ。この意味は分かるね」

「はい。……ごめんなさい。さっきは少し、いいえとても言い過ぎました」


 素直に謝れる子は好きだよ、と。そうつぶやきながら志な子さんが私の肩をポンと一つ叩いてくれています。

 ありがとうございます、と私はこたえながら頭を下げました。

 再び頭を上げた視線の先には諦観に彩られた顔が映っていました。

「いいんだよ、あんたと違って随分と、そう随分と昔の話さ。言葉も半ば忘れてしまったくらいだよ。それに私なんてここ六年ばかりは一人の男に囲われている様なものだからね。他の皆に比べれば楽なもんさ」

「そうだったんですか。ああ、それが誰だか……。だからあの男に、平次郎さんに対してもあれほど強気で……」

「ああ、あんたはやっぱり馬鹿じゃないんだねえ。物覚えがかなりいいって聞いていた通りだ。どころか、なかなか鋭い。それが分かったのはありがたいねえ。ためらい心が減るってもんだよ」

「え?」

「いいかい、千代鶴。これから随分と酷いことを言うよ」

「……はい」


 何を言われてしまうのだろうか。これから起きること以上に、更に加えて酷いことなんてあるのだろうか。


「今から会う男のことを、この世で一番好いた男だと、心の底からそう思いこむんだ」

 呆然としてしまいました。そこまで自分を貶めたくなどありませんでした。


「千代鶴。目をそらすんじゃないよ! 大事なことなんだからね!」

 もしも口を開いてしまえば、罵る言葉がとめどなく溢れ出てくるに違いありません。今と比べればさっきの醜態なんて醜態の内にすら入らないほどに我を忘れて。

 きっとそうなってしまうと分かっていました。

 ただ、一方では志な子さんの有無を言わせぬ気迫に気圧されてもいました。

 結局、無言のままでコクリとうなずきを返すのが、私に出来るわずかなことでした。


「ことの最中だろうと、ことが済んだ後だろうと……。ああ、まだ足りないねえ。全然、全く不足だねえ。ことの前からも、どころかこの部屋から一歩足を踏み出したその時からだよ。この世で最も好いて好いて惚れ抜いて、それこそ狂ってしまいそうなほどに愛している男だってね。ひたすらにそう念じて信じこむんだよ。振る舞うんだよ。涙の一つや二つ見せるのは当たり前。甘えに甘え、尽くして尽くすんだよ」


 いくらなんでも酷すぎる。

 私を汚す言葉をこれ以上一語たりとも耳にしたくないのなら。

 この口を黙らせるには頬を張るしかない。ううん、張るくらいじゃ全く足りない。張り倒そう、かまうものか。

 とっさに身体をひねり、腕を振り上げた時。


「落としてもらいな」

「え? 落とす? 何を?」

 意味を全く理解出来ない言葉を耳が捉えていて、振り上げた腕をそのままに固まってしまいました。


「ああ、崩した言いまわしを知っているはずもないか。今日、身請けしてもらうんだよ。自分の年季値は平次郎から聞かされているだろ。私も知っているけど、念の為に言ってごらん」

 持ち上げたままの腕を勢いよく振るのか、下げるのか。

 一瞬判断に迷い、結局はそのままの姿勢で口を開きました。

「初花取りの日より数えて一年以内なら金判貨で四枚。一日でも過ぎれば金判貨五枚と半分。つまり銀粒貨なら五百五十枚」

「うん、その通りだ。辛い話をよく覚えていたね。だからね、金判四枚。なんとしても今日、手に入れるんだ。出させるんだよ」

 私の腕へそっと志な子さんの手が触れてきて、優しくゆっくりと降ろしてくれました。


「そ、それほどの大金を持ち歩く人がいるのですか?」

「さあねえ、こればっかりは賭けの様なものだねえ。ただ本人が持ち歩いているかは問題じゃあない。分かるだろう?」

「……はい」

 志な子さんの言うことも分かる。分かりたくなんてないけれど。


「何故、今日かって話をするよ。それほど羽振りの良い男なら焦らずとも、自分が相方になるんだから、と考えてしまうかもしれないからね」

 心が見透かされていましたた。

 いきなり初めて会う人を、慕うを飛び越え、好きどころか狂うほどに愛せるそぶりだなんて、とても出来そうにもない。

 だから、せめて時間が欲しい。そう思っていたのです。


「あんたの(なり)を確かめもせずに銀粒貨五十枚をポンと出せる男は、少なくともこの甘梨(あまなし)界隈にはいないはずなんだよ。額もだけど、そんな大度な男なんて見たことも聞いたこともないからね。これがどういうことを意味しているのか、分かっているのかい?」

「いえ……」

「その男が再び店に訪れたとしても、当分の間あんたが呼ばれるなんてことはまずないよ」

「どういうことですか? 私が相方をやらされ……ない?」

「鈴駒があんなことを言い出した真の意図が分かっていないんだね。いや、あの娘は多分気付いて言ったわけじゃあない。いくらかは金のこともあるだろうけど、あんたをかばっての想いも確かにあったんだろう。だけど他の女たちは違うよ。銀粒五十と聞いた後にはほとんどの皆がそれまでとは打って変わってまるで仇のような目であんたを見ていただろ。この件に関しては、平次郎の策にまんまと乗せられてしまった私の落ち度でもあるんだけどね。まさか銀粒貨五十枚だなんて、それも一見(いちげん)の男とは。いくらなんでも想像の範囲外だったのさ。ごめんだよ」

 志な子さんは、拝むかのように私に両手を合わせ頭を小さく下げていました。


「千代鶴。あんた、自分の器量をどらくらいだと踏んでいる?」

「……悪くはない……方だと思います」

「随分と謙虚だねえ。甘梨で一番格の娼屋に手付かずの身体のまま売られてきたんだ。甘梨一ということは雲州一ということだよ。十人並みなら、それこそさらわれたその足で散々犯されあげく飽きた頃に叩き売られるか、生娘(きむすめ)のままだっとしてもこの店ほどの格ではない娼屋に売られてすぐにか、せいぜい十日もたたぬ内にか。どちらにしても、とうの昔に女になっているだろうさ」

 あまりにも明け透けなその言い様に背筋が震え、だけど何も言い返せず、頬に血が上り赤く染まっていくのを感じました。


「ところで、あんたのその器量。同い歳な鈴駒と比べるとどうだい?」

「鈴駒ちゃんの方が……その、器量は上だと思います」

「そうさ、身も蓋もないけれどその通りだろうね。しかも、あの娘はこれからもっともっと磨かれていくよ。その分だけ、お天道様(おてんとさま)が似合わなくなっていくだろうけどね。あの娘はあと数年もすれば、きっと大化けに化けるはずだよ。男どもも本人も今はとんと気が付いちゃいないようだけどね。甘梨の町どころか雲州どころか、上手く転がればそれこそ畿州の都にまでってくらいの器さ。それでもだよ、それほどの鈴駒でさえ、初花の値は……。ここで鈴駒の初花値を明かす気はないんだけどね。およその話は耳にしているんだろ? あんたたち二人は仲が良さそうだからね。あんたはここに連れてこられて……」

「ふた月です」

「なら、こんな店からは少しでも早く抜けたいって皆の気持ちは分かっているね。まあ、中には私みたいなのもいないわけじゃあないけれど」

「そんな……。はい」


「今日のあんたのお客人は、二度目は必ず鈴駒が付くよ。三度目は他の誰だかは分からないけれど、少なくともあんたじゃあない。四度目も五度目も」

「あの男の差配次第ということですか?」

「平次郎は頭の切れる男だよ。娼屋なんぞで働かなくとも表稼業の大店の番頭だってひょっとすれば務まるだろうさ。何故か居ついてあっという間に、私の情夫からこの店を任せられるほどに伸し上がったんだよ」


 言葉とともに息の熱が伝わってくるほどに、志な子さんは半ば身を乗り出すようにして私に近づいてきていました。


「その平次郎が女衆にでっかい煽りを入れてくれたわけさ。ど太い客が、それもここいらの金持ち以外の、いわばしがらみの一切ない手付かず者が現われたってね。わざわざ皆の前であんたの初花値を明かしたのはあいつなりの計算だよ。おまけに鈴駒のあげた声への返答。あれは、誰がその男に付くのかはまだ決めてはいない。千代鶴が付くのは初花だからだって言外で語っていたんだよ。二度目は鈴駒を充てる。さあ、三度目は誰が手を挙げるんだ? とね。この店のやり様からして五人から八人は充てられるね。女衆を競わせるのさ。同時にその男をがっつり取りこんでしまおうって次第さ」


 肩へ触れられている手の先からは熱と震えが同時に伝わってきます。


「年季明けの金を自ら貯めきって抜けるか。身請けで囲われるか。どちらにしても、あんたのお客人はここの女たちにとって垂涎の的だよ。だから、あんたの勝負は今日だ。今日初花を取られてしまえば、明日からはあんたにも客が付いちまうんだ。平次郎があんたの初花代の取り分を二十五枚から三十枚に増やしたのは優しさや同情なんかじゃあない。明日からの稼ぎを、初花が三十日も早まった点を考えればね。ここの仕事は、あんたが頭ん中で想像している以上に辛いよ。酷い話だけどそれに比べれば、一人の男の囲われ者に納まる方がはるかにマシなんだよ。今日を逃せば少なくとも当分は沈んだっきりとなるよ」


「……はい」

 否も応もないんだ。

 失いたくなどないけれど、失う以外に道がないのならば、虚を実に変じさせてでも今日私を高く張る。

 それが、私の手で選べる未来(さき)では唯一なんだ、と。

 覚悟のようなものが心に定まってくるのが分かりました。


「そう、その(つら)だよ。いい目になってきたじゃないか」

「ようやく……気持ちの踏ん切りが付きました」

「そうかい。さんざん酷いことを言ってごめんだよ。抜けてしまえば、あんたはまだ若いんだ。男をとっかえひっかえさせられる女郎よりは、囲われ者を選び取るんだ。妾として気に入られれば、一時的にも故郷に戻れる手立ても見つかるだろう。金を持っている男ってのは総じて見栄っ張りだからね。しかもあんたは親兄弟に売られた娘じゃあないんだ。さらわれたあげくに娼屋にいた娘を抜けさせて、一時でも親元へ戻したとなれば誰にも文句の付けようの無い甲斐性ぶりを見せつけることになる。男にとっては大した誉れさ。私には……今更もう無理だけど、さ。さて、話が長くなっちまったねえ。一人きりにしてあげるからね」


 志な子さんはそう言って後、無言で一つうなずきスッと立ち上がりました。

 待って、と私は声を発しました。

 いぶかしげな表情を浮かべている志な子さんは、それでも再び腰を降ろしてくれました。


「ところで、志な子さん。いえ、志な子姐さん。ここまでざっくばらんに裏の話を明かしてくれたということは……もしも私が今日もこの裏館に再び戻る羽目(はめ)となるのならば……今後は、少なくとも今日の様には援けてなどはくれないと。そういうことですよね」


「ああ、千代鶴。あんたはやっぱり賢いんだねえ。そうだよ、そういうことさ。今はまだ私もお大尽様の姿形も歳も嗜好も知らないけどね。少なくとも金をたんまりと持っていることは分かっている。先にも言ったけどね、店としての儲けを考えれば、正直なところ若いのが好みなら千代鶴よりも鈴駒を推すよ。手管好みなら他の娘たちだ。あんたが持っている、ただ今この店にいる女たちが唯一かなわないモノは、初花。それだけなんだよ。散らしてしまえば……他の皆と同列さ。お役の上でも贔屓なんて出来やしない。だから、あんたを援けてやれるのは今だけなんだよ」


「当然です。私が志な子さんの立場ならきっとそう考えます」

 そうこたえた時、チリンチリンという鈴の音が部屋に響きました。

 部屋の天井から伸びている細い紐が上下していて、紐の先で結ばれているからくりの鈴が揺れていました。


「そんな! 本当に、ほんっとうにすまないことをしたね。一人の時間を作ってやれなかっただなんて、情けないね……」

 唇を震わせている志な子さんの手をそっと握り、離しました。

「いいんです、志な子さん。おかげで覚悟は定まっていますから」


 畳の上に手を添えて音を立てずに、すっくと立ち上がっていきます。

 悔しいですが、このふた月の間というもの言葉遣いや行儀作法、いくらかの学問や教養を叩きこまれて過ごしてきたので自然と所作が身体に馴染んでいます。

 右足を一歩。次いで左足を一歩。

 この(ふすま)を開けた時から私は……。


 トドンっという音が背後から伝わってきました。その音は耳に馴染んだものです。

 かつての私が、座り姿勢から立ち上がる時に発していた音とそっくりでした。

 この館の内で暮らす羽目となってより真っ先に矯正されてしまった、今では懐かしい響き。

 当然ながら、志な子さんが出す様な音ではありません。

 思わず足を止め、振り返りました。すると視線の先は意外なものを捉えていました。

 見下ろす形で目に映る、唇をじっと噛み締めたままな志な子さんは、まるで幼い子供のようで、とても頼りな気にも見えて。


 気が付いた時には、身を投げ出すかのように志な子さんを抱擁していました。

 もう行きます、と告げた後に身体を放すと目が交差し。

 不意に言の葉が、私の口から漏れ出でていました。


「羽州は岩崎の鍛治師弥彦の娘佐代として、お礼を申し上げます」


「あ、あんた。何、素性を語って……ご法度(ごはっと)だよ。知らないわけじゃあないだろう。こういう店では互いの身の上には深入りしないのが暗黙の決まりだよ」

「いいのです。さらわれて売られて後に、三月もの時間を作っていただけたのはあなた様の援けがあったからこそだと承知しています。今日、ひと月短くなってしまいましたが、その月日を失う価値のある稀有な機も同時に得ていると、わざわざ教えてくださいました。これまでの親切、そして本日の親身よりの真心の一切、忘れません」

「それでも、よくないんだよ。語っちゃあいけないんだよ。甘いよ。そんなんじゃあこの先ここでは」

「いいのです。私は二度とこの待ち部屋には戻ってきませんから」

「あ」


「……教えてください。必ずお伝えします」


 何を、とは添えませんでした。そんな言葉は必要ない、と確信していました。

 

「きっとだよ。きっと、きっとだよ。お願いだよ。もしも再び羽州に戻れたのなら、由比って町の東はずれにある戸田という集落を訪ねてやっておくれよ。そこに忠介と美祢という……ああ、もうおとっつあんもおかっつあんもおっちんじまってるかもしれないね。それでも兄の太吉か弟の次助はきっと生きているはずさ。田畑を耕しているはずさ。こう伝えておくれ。澄美(すみ)はもう……し、し、死んじま……」


「心配をかけていることでしょうが、生きています。やんごとない事情があって居場所を明かせないことを許してくださいと。必ずお伝えいたします」


「ああ千代鶴は、お佐代はやっぱり頭の良い子だよ。私に、お佐代ちゃんの年の頃に今くらいの知恵があればねえ」


 一筋の、今にも途切れてしまいそうな薄い糸を拠り合わせ紡いでいるかのような。

 澄美さんのか細い声は、かすれて、震えていました。


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