第二話 花の覚悟 佐代 前編
館の内々を隔てている扉の鍵を開ける、私の嫌いな音が微かに響きました。次いで廊下を渡ってくるせわしない足さばきも。
徐々に近づいてきます。その音は私だけではなく、全員の耳へも届いていたはずです。
けれども、誰もが気にもとめていないようでした。
何故なら、障子窓よりの陽射しが部屋に充分差しこんでいます。
ところがその足音は私たちのいる部屋の前を素通りせずに、ぴたりと止まってしまいました。
「おい、客だ」
ふすま戸を勢いよく開け放った男がそう小さく叫ぶかのように告げました。男の目にはいくらか赤い線が浮いて血走っており、興奮を隠し切れない様子でした。
瞬時にして、最前までのどこかのんびりと、それでいてゆるんだ気配は部屋から消え去りました。
「お前だ。千代鶴」
次に男が口にした言葉の、思いもしなかったその意味を頭が理解した瞬間、私の顔からさっと血の気が引いていくのが分かりました。
腰からは力が抜け手も足も震え始めてしまい、止める手立てがみつかりません。
まさか突然そうなってしまうとは考えてもいませんでした。
知りたくもないのに、分かりたくもないのに、無理くりに言い含められていた話とも違っておりました。
「冗談じゃないよ。そりゃあ私らはそれが仕事だけどねえ。お日様が沈まぬうちから客を取れだなんて、ふざけるのも大概にしておくれよ。そこまで落ちちゃあいないんだよ。ましてや千代鶴だって? この子は、まだ初花取りの旦那すら決まっていないじゃないか」
「そんなことくらい、お前に言われなくとも俺だって承知してらあ」
「じゃあ、なんでなんだい。理由くらいはお語りよ。それが私らへの筋ってもんじゃないのかい」
「話せば言うことを聞くんだな?」
「事と次第によりけりだよ」
「分かった、志な子。ちょっとお前だけ廊下へ出ろ」
「お断りだね。皆に聞かせられないって言うのなら、この話はお終りにしようじゃないか」
「一旦受けた客に帰れと言えって言ってるのか」
「そうさ、そう言ってるんだよ。私らが知ったことかい。そんなに客がお大事ってんなら、あんたにも穴がついてるだろ。尻で、もてなしてやりな」
「なんだとてめえ……」
この娼屋に身を置く女たちの皆に慕われている志な子さんの、店の男と言い争っている声が頭の中いっぱいにグワングワンと飛び跳ね轟いています。
ああ、私のことだと。
かろうじてそれだけが理解出来ていました。
「大丈夫、安心しな。こんな没義道な話。志な子姐さんがスパッと追い出してしまうに違いないよ。気を確かにお持ち」
私の肩に手をまわした三代松さんが、そう耳元でつぶやいき励ましてくれています。
そうなんだ。少なくとも今日がその日じゃあないんだ。
そう思えるだけで、ほんの少しだけど心が軽くなっていきました。
バンとふすま戸を叩く荒い音が耳へ達します。男が力任せに叩いていました。
その響きに相対するかのように、志な子さんを中心とした人垣が出来ています。
「分かった分かった。俺もお前らも落ち着こう。まずは座ってくれ」
そう言って男は部屋の中へ足を踏み入れると、ドスンと荒い音を一つ立て早くも胡坐をかいて座っています。
その様を見て、まず志な子さんがゆっくりと腰を降ろし、次いで他の女の人たちも後にならっていました。
「俺だって店の決まり事くらいは承知している。知った上で、お客人を受けたんだ」
「どうだかね。余程の話じゃないとこの志な子様が承知しないよ。昼のひなかに横紙破りも大概にしておくれよ。私が千代鶴はもちろん他の娘達にだって、指一本たりとも触れさせたりはするもんか」
「聞かせるからには承知してもらうぞ」
「だから聞いてからだよ。その後で決めるのはこっちだ。あんたじゃあない。それが私のお役でもあるんだからね」
「言うぞ」
「もったいぶるんじゃないよ」
「……五十枚だ。銀粒貨で」
この男は今なんて言ったのだろう。
五十枚? ……きっと私の聞き間違え。
けれども誰もかれもが、声をあげようともしていません。
私を抱き寄せてくれたままな三代松さんの、ごくりと唾を飲みこむ生々しい音が身体越しに伝わってきています。
ドクンと心臓が大きく跳ねました。
「ふかしてるんじゃあ、ないんだろうね?」
志な子さんの、先ほどまでとは全く異なる調子の声が耳へ流れこんできます。
「ここで嘘を付いて、何の得が俺にあるというんだ」
「初花取りの旦那をあんた一人の差配で勝手に決めるっていうのかい?」
「そこまで言うのか。なら、志な子。言わせてもらうが、初花取りでの相場くらいお前がよおっく知っているだろう」
「あんた何を……」
「黙っていないで言ってみろ、志な子。千代鶴を、いくらでここいらの旦那衆に入れ札させているかを。まあ、まだ早くとも三十日は先のつもりだったけどな。今時点でいくら付いてる」
「そんな……よしておくれよ。……平次郎さんだって知っているだろ。それをここで、当人の千代鶴はまだしも他の皆の前で話して聞かせるだなんてのは、筋が」
「今更、ふざけるんじゃあないぞ。お前が俺にここまで言わせているんだ。俺にしたって、ここの上がりで飯を食っている身なんだよ。どう思っているのかは知らないが、お前たちへ通さなくちゃあいけない筋ってものくらいは弁えているつもりだ。だから昼間っから客を取らせる気はなかった。一見の客を断るつもりで五十枚って吹っかけたんだよ。いくら初花だろうと、とんでもねえ金額だってことくらいは分かるだろ。さあ、これで廊下に出ろって言った意味が理解出来たか。さあさあ、言ってみろよ。いくらだよ。嘘を並べ立ててもこっちは知っているんだからな」
「最高で……銀粒貨十一枚。もっと積んでおくれよと頼んではいるけれど、多分あと二枚か三枚」
押し絞るかの様なその声を聞いた男は満足そうに小さくうなずいた後、うなだれてしまっている志な子さんの肩をポンと一つ叩きました。
「皆も聞いたな。そりゃあ、それぞれの初花値は違っただろうよ。勘違いするなよ、高いの安いのの話をしているわけじゃあない。明け透けにペチャクチャしゃべってまわるもんでもねえしな。だけどな、いいか。これだけは忘れるな。言わせているのはお前らだ」
突然、私の斜め後ろから悲鳴めいたややかん高い声があがりました。
「さよちゃんはこんなにも嫌がって、おまけに震えているじゃない。それに三十日も早まるだなんてひどいよ! 代わりに私が!」
「おい、さよじゃねえ! こいつは千代鶴だ。この場限りで聞かなかったことにしてやるが、他所で口にしているのを耳にしたら承知しないからな。そもそも冗談じゃねえ、鈴駒。お前、初花は先月に散らしているだろうが」
「そんな……だってだって。銀粒貨五十枚だなんて。半取りで二十五枚だよ。たった一回でそれだけ貰えるだなんて……年季明けが随分と。ねえ平次郎さん、お願いします。私で、私の方がいいと思うの」
「人の話を聞いてんのか? 馬鹿かお前は。初花だからそれだけ出そうって話だってことを理解出来てねえのか? 初見の、それもとんでもない太い客を騙くらかしてどうするんだよ。銀粒貨五十枚だぞ。それをポンと出そうってお客人が二度と店に来なくなったら大損になるってことくらい、分かるだろうが」
「でも、でも」
「ああもう。よし分かった。鈴駒、お前の見上げた心意気は買おうじゃないか。気に入った。そりゃあ一日でも早く年季明けしたいよな。このお客人が今後もしも花替えを望めば、まずはきっとお前を推してやる」
「本当ですね」
「いいか。あくまでも、お客人が希望すれば、だぞ」
「あ……はい、分かりました」
私のことなのに、私が全く関われない。そして、身動き一つも取れない。それだけはっきりとしていました。
「そんなわけだ、千代鶴。急いで着替えるんだ」
嫌なの! やめて! と叫びをあげたつもりでした。
ですが、ひぃっという音が漏れただけです。喉がからからに引きつりきっていて声となりませんでした。
耳元で「しっかりおし」という声がします。
反射的にさっと視線を向けた先にあった三代松さんの顔には同情や憐憫以外の何かがべったりと貼り付いていました。きっと思い違いに過ぎないのかもしれません。
ですが、ふと、そんな気がしてなりませんでした。
「皆も千代鶴の準備を手伝ってやれ。急げよ、だけど丁寧にな」
まるで他人事のような、男のその言葉が頭の中へと響き渡っています。
行きたくない、嫌よ。
このままずっと座ったままで時を過ごす手立てはないの? 誰か教えて! と、首を振りそれだけでは足りなくて身体をも振って、周囲をせわしなく見回しました。
だけども、目に映る情景は私の望んでいたものではありませんでした。逆さでした。
向けられてくる視線のほぼ全てがほんの少し前までとはまるで違った色を伴っていて、まるで私を突き刺しでもするかの様。痛いのです。
「五十枚だってさ。うらやましいねえ」という声を誰が口にしたのかは分かりません。
くすぐったくなるほどの近さで、吐く息の生暖かさとともに耳の中へ直に放りこまれたその音の塊りは、あまりにも低く、そしてくぐもっていました。
私がここに連れてこられてから、ただの一度たりとも耳にしたことのない、怖くてそして哀しい音でした。
三代松さんが急かすかのように手を握ってきます。
促されるまま立ち上がる以外の道は無く、上等な着物を身にまとう為に別の部屋へと足が、嫌なのに一歩また一歩と刻むように進んでいきました。
はたと我に返り、脚に力をこめるとようやく踏み止まることがかないました。
「およそ三十日も早まってしまったんだ。しかも日暮れてもいない時間だ。随分と酷い話なのはこっちも充分承知している。だからってわけじゃあないが千代鶴、お前には半取りに大きく色を付けて銀粒貨を三十やる。ああ、そうそう。三枚ほどは、志な子お前の了見に任すからこの場にいる皆で分けてくれ。お前たちの、このひと時の時間を奪ってしまった俺からの詫び料だと思ってくれていい」
男のその言い様に対して、応じる声はあがりませんでした。
ですが目にも見えず耳にも聞こえない空気が、左右からも前後からも容赦なく私へ向けてどっと押し寄せてくる。それが分かりました。
男の声の意味するところを理解したのは、この場にいる人の中では恐らく私が一番最後だったのでしょう。
気が付いた時には、誰かの手が背へ触れていました。
初めは一つ。それが二つ、三つ、四つと。
押され、それでも脚をこわばらせ踏ん張っている私をあざ笑うかのように、畳の上を足袋がつるりつるりと滑って進み、止める手立てなどなく。
その時でした。
「平次郎さん、ちょっといいかい」
救いの声が聞こえたのです!
ああ、志な子さんだけはまだ諦めていなかったんだ! きっと私を助けてくれようとしているんだ!
背を押す手という手の圧が、明らかに弱くなり、すぐに全てが消え去りました。
「今更なんだってんだ、志な子。まだ言い足りないことがあるのか?」
「別の話だよ。ちょっとこっちへ」
そうなんだ。もう私のことなんてここのみんなに、志な子さんにとっても済んだ話なんだ。
全身の力が抜けて。
私は半ば抱きかかえられる様にして、部屋を後にいたしました。