第一話 ぼっちゃんと旅に出る 彦兵衛
「やあ、彦兵衛。先ほどの頂きで見たか、あの海を。どうやらこの大地。実は丸いのではないか。そう思えてならない」
「はあ、さようでございますか」
藤平九郎良俊ぼっちゃんの旅のお供をして二十と一日目を迎えています。
これまでも朧気ながらそうじゃないかなあと感じていたことがここ数日で確信となっておりました。
夢見がち、とでも言うのでしょうか。私、彦兵衛なんぞの頭では理解出来かねることをおっしゃることが時折ございます。
大地が丸かったら端っこはどうなるのです。落っこちてしまうじゃないですか。幼児でも分かる理屈です。
こういう時は話題を変えるのが一番でございます。
「海と言えば、その手前にちらりと望めたのが雲州で最も栄えている甘梨の町でございますよ、ぼっちゃん。ところでですね」
「待つのだ、彦兵衛。俗な話はひとまず置いておこう。今は、そう。詩を吟じたい気分なのだ」
んんんと喉の調子を整えておられる音が聞こえてまいります。
「故郷は既にはるか遠く万里のかなた。さすらうこと幾星霜。もはや実母の顔すら思い出せぬ。ただ己の武才を鍛え、世に立とう。孤高の士よ、ああ汝はどこへ行く」
「ところでですね。今日の」
「待て。無視というのは良くない。無粋というものぞ」
なるほど、確かにその通りです。同輩に対してでも失礼にあたるに違いありません。
その無礼をよりにもよってお仕えしている藤平屋のぼっちゃんに……我ながらいかがしたことであろうかと、我が身が信じられなくなる思いでいっぱいとなりました。
けれどもちらりと横目でうかがう限り、咎められている表情はなされておられません。どうやら口に出されていたそのままに、無粋ではあっても無礼とは考えられていないご様子。
私は「少しお時間をいただけますか」と言って立ち止まりました。九郎様も足を止められます。
ここは真剣に考えねばなりません。そうでなければ本当に無礼となってしまいそうです。
ですが、はたと悩みました。良いのだろうかと。
……ええい、言ってしまいましょう。
「大変申しあげにくいのですが、正直に応えさせていただきます」
「当然のことではないか。言ってみろ」
「私は詩そのものはよく知りませぬ。けれども、なんだか大げさに過ぎやしませんかね」
「ほほう、どの辺りが」
「いえ、間違ってはいないと思うんですよ。ですが、いささかその。どの辺りもこの辺りも正しく……ないような」
万里ではありません。その十分の一の千里にもほど遠いのです。藤平屋が店を構えている芸州高宮から雲州甘梨の手前までは、ざっとで百と十里程度です。
幾星霜というのは確か十年とか百年単位のはずです。そこら辺りに自信はなくあやふやではございますが、少なくとも旅に出て二十一日目が相応しいとは思えませんでした。
九郎様が実の母君のお顔を覚えておられるはずもありません。九郎様をお産みになった産褥の床でお亡くなりになられたのですから。
いったいぜんたいどこで武を鍛えておられるのでしょうか。武者修行とは名ばかりに各地を巡って歩いているだけのような。
お腰の刀にしても、一度たりとも抜いてはおられませんし。
「なるほど、彦兵衛はなかなか鋭いところを突いてくる。確かにいくらかの誇張を含んではいる。否定はしない」
ホッといたしました。思い切って正直に述べて正解だったのです。
この度量の広さには感心を覚えてしまいます。並の齢十六のお方が取れる態度ではございません。
と、思ってしまうのは身贔屓なのでしょうか。
「まあ、詩なんてものはだな。そういうものなのだ。気概が伝わればそれで良い」
「はあ、そういうものですか」
「そういうもの……なのだ」
再び歩き始めました。峠の下り道には二人の足音のみが響いています。
たまに遠くで烏がカアと鳴いておりました。
「そういえば彦兵衛。先ほど言いかけていたこととは何だ」
これはいけません。すっかり忘れておりました。
コホンと一つ咳払い、照れ隠しです。
「そのことでございます。今日の泊まりはいかがいたしましょうか。このまま脚を進めれば日暮れまでに甘梨の門をくぐることは可能です。ぶらりぶらりと歩むのであれば、この峠を下った先の川向こうにある村辺りが今宵の宿となりましょう。その場合はあらかじめ沢で魚でも獲ってから向かった方がよろしいかと。ぼっちゃんはどちらがお望みで」
「なるほど。どこまで進むのか、か。確かにそろそろ決めておいた方が良い」
「今まで、結構しなくても良い苦労を重ねましたからね」
「上手いな彦兵衛。九郎だけに苦労だと!」
「いやいや、その様な意は決して」
これは、なかなかおざなりにしてはならない問題なのでございます。
とはいえ、当初は九郎様の気分次第でした。
「風の吹くまま気の向くままこそが旅である。目的地を定めるなど風情にも面白みにも欠ける」という主張に従っておりました。
ところが、ろくな目には合いませんでした。
陽が落ちてしまえば、町へと通じる門は閉ざされてしまいます。どうしたって門の内に入れてはくれません。
門番の任に就いている者たちは門楼の上に引き上げてしまいますので、袖の下を渡そうにも渡しようがありません。
芸州でも備州でも雲州でも、所変われど訪れた全ての町で同様でございました。
夜になって後でも村には泊まれます。泊まれますが、日没前後に突然に訪れても良き食べ物にありつけたためしがないのです。
そりゃあそうだろうと思います。
どこの村であろうと、不意に訪れる旅人の落とす金なんてものをあてにして暮らしてなどいるはずもありません。当然、もてなしの用意などあるはずもございません。
飯そのものは心付けを余分に払えば出てきます。
けれどもそれは文字通りの飯なのです。添え物をいちじるしく欠いています。あっても菜っ葉か干し物程度。
量はともかく質の面でとても寂しいと胃の腑が訴えてまいります。干していない魚か肉を食わせてくれないか、と。
藤平屋の釜の飯を食べ始めて二十六年。すっかり舌が肥えてしまいました。
三十の歳を過ぎている私、彦兵衛にしてそうなのです。育ち盛り食べ盛りな十六歳の九郎様はもっとお辛い思いをされていたに違いありません。
まあ、まだ村ならば良いのです。
夜露をしのげる屋根、暖かな火、獣から身を守る壁くらいはありますので。
街にも村にも遠い地がとても辛いわけです。野や山の中に寝床をもうけるより他に手はないですから。
もっとも「いかにも修行らしいな!」と九郎様は当初喜ばれておりました。
しかしながら、そうはいってもモノには時期というものがございます。
梅の花の蕾がようやく開いたばかりなこの季節にあえて野に眠りの場を求めるのは……大変寒うございます。出来る限り遠慮したいものです。
九郎様もこの点については同じ思いに達してくださったのでしょう。
旅が十日を過ぎた辺りから、村か町にのみ一夜の宿を求めての旅に変じました。
「そうだなあ。村泊まりも悪くはないのだが、どうにも食べ物がな。今日は甘梨まで足を伸ばすとしようか」
「結構なご了見でございます。それがようございます。なんといっても、雲州で最も栄えている町ですからね」
ぱあっと満面の笑みを浮かべました。足取りも軽くなるというものです。四日続けて村に泊まっておりました。
美味しい食事と熱い風呂、それに旨い酒を思い浮かべるだけで自然と目尻が垂れ下がってしまいます。口も軽くなります。
「ぼっちゃん、あの大きな樹の根っこをごらんなさいくださいな。これは珍しい物を見たものです。ポンポンポンっと桃色も鮮やかな茸が生えていますでしょう」
「まさに傘などは小ぶりな桃のようだなあ。美味そうに見えるな」
「ところがですね。あれは煮ても焼いても干しても駄目な、一口食べたら半日は身体の震えが止まらなくなるという悪茸なのです」
「ほう、そうなのか。桃と言えば桃山無刀斎という武人がい」
「え? どうなさったので?」
「いや何。少し考えごとをだな」
いったいぜんたい、どうしたというのでしょうか。九郎様は突然に足を止められました。
「おかしい……」
何が、でしょうか。私は慌てて周囲に耳をかたむけます。物取りの賊の足音でも聞こえやしないかと少しびくついておりました。
しかしながら、聞こえてくるのは風にざわめいて樹木の葉がわさわさとこすれる音くらいです。
「特にこれといっておかしな点など」
継ぎの言葉を思わずごくりと飲みこんでしまいました。何故なら、九郎様のご様子が。
「やい、彦兵衛!」
突然の激しい口調。何なのか、私には見当が付きません。
「はい」
短くそう応え、九郎様の言葉を待つしか手立てなどございません。
ふぅっというため息のような音がまず聞こえてまいりました。
「おかしいではないか。俺の愛読書である桃山無刀斎一代記にも記してあった。武者修行だぞ。一人で行わないでなんとする」
あ。もしやこれは……。
「いやもちろん、生まれて初めての旅。それゆえに彦兵衛が数日ほど旅の手ほどきをしてくれる。それは納得していた。道々における彦兵衛の助言の数々は、なんとも心に染み入って感じられたのだ」
ああ。やはりこれは……。
黙って頭を垂れるしかありません。
「気がつけば……二人旅は既に二十日を超えてしまっている。なんだかんだと世話を焼いてくれる彦兵衛、お前に頼ってしまっていた点が多々ある。それは認めよう。しかも加えて、このまま時を過ごしていくのならば、旅心地は良いだろう。実に頼りがいのある、幼き頃よりの見知った、おまけに気の合う者と一緒なのだ。だが果たしてこれは……百歩譲って諸州見聞はまだしも……武者修行と呼べるものなのか? 答えよ、彦兵衛」
もはやこれまで。そう思わざるを得ませんでした。いつのまにか意識せぬまま、地に片膝をついておりました。
「うつむいてやり過ごそうなど……認めぬ。こっちを見よ」
私はますますもって頭を深く垂れるより他はございません。
「見よ、彦兵衛」
その哀しんでいるかの口調にとうとう負けてしまいました。私はゆっくりと顔を上げ、九郎様を見上げました。
山道で良かった。そう思いました。
ちょうど樹木も盛んに生い茂っている辺りでしたので、陽の光がさほど差しこんではおりません。私の、涙濡れている汚い顔をお見せしないですんだのです。
「まこと、その通りでございます」
短い言葉を搾り出すのが私の精一杯でございました。
「分かれば、良い」
九郎様は、場違いにみえる爽やかな笑顔を私に向けてくださっていました。
「怒っては……おられないのですか」
「怒る道理がない。ほんの数日の供。それを二十一日も案内として一緒に過ごしてくれた。もしもただ今この時この地より駆けに駆けたとしても、芸州高宮へ戻るにはおよそ十日はかかろう。旅立ちの日から指折り数えれば、合わせて三十日を超える留守ということになる」
「はい」
「藤平屋に戻っても、ただ叱られるでは済まぬかもしれないぞ。禄が削られるかもしれない」
「よろしいのです。私が望んだことでございます。禄など、また稼げば良いだけのことです」
「俺から、一筆書こう」
「およしになってください。その様なことを成されてはこの彦兵衛という男の……立つ瀬がありませぬ!」
嬉しくなっておりました。
九郎様からしてみれば、数多いる奉公人の一人に過ぎない私へみせてくださった細やかな心遣い。
その恩に比べれば、少々の叱責や減俸があったとしても何ほどのことではありません。
それに恐らくは、旦那様も奥様も話せば事情は分かってくださると思いますし。
……とはいえ確実にありそうな女房からのきつい折檻を想像すると、身体が震えてきそうです。
「もしも、最初からずっと一人旅であったと考えれば。野や山で無事に風邪もひかずに一夜が過ごせたのかすらあやしいな。旅籠のあるであろう町はまだしも、村ですんなりと泊まりの場を求め得たかどうかも自信がない。書物や人づてで耳にした知識とは細々とした点で相違があったのだ」
私は涙の筋を袖で拭いながら九郎様の話に耳を傾けておりました。
別れの言葉を述べておられる。それが分かってしまっていたからです。
「彦兵衛よ、今日までの働き、実に苦労をかけた。寂しくはなるが武者修行なのだ。従者付きでなんとする。この藤平九郎良俊、遅まきながらもようやく気づきを得た。気づいたからには、新たなる一歩を踏み出さねばなるまい。分かるな、彦兵衛」
「ぼっちゃま」
「聞くのだ、彦兵衛」
「ぼっちゃま」
「なんだ」
「藤平ではなく、鈴鳴かと」
「あ」
いらぬ口を叩いてしまいました。藤平でも鈴鳴でも、どちらでも良い……わけではございませんが、口を挟む機というものがございます。
とんだ失態をしでかしてしまいました。
「そうだ、その通りではないか! 実に良き点に気が付いた!」
背中がむず痒くなってきそうです。そこまで誉められるようなこととも思えませんし、誤りでございましたでしょうに。
「いいから立て、彦兵衛。供ではなく、いくらか年の離れた兄上姉上……はこれ以上はさすがに多過ぎるな。そう、友のようであった! そのように思うている。友との別れに膝をつくやつがあるか」
一瞬、我が耳を疑いました。次の瞬間、立ち上がり叫んでおりました。
「九郎様! なんというもったいなきお言葉! この彦兵衛、生涯の誉れと致しまする!」
「俺も、お前と一緒に過ごした日々を忘れぬぞ。実に面白く興味の尽きることない旅路を過ごせた。感謝している」
そうおっしゃいながら九郎様の腕がすっと私の方へと伸びてまいったのです。
何事かと戸惑う間もなく、着物の膝にべったりと付いていた土をはたき落としてくださいました。
我が目を疑いました。身体の震えが止まりそうにもありませんでした。
言葉だけではなく態度でも、友として遇してくださっておられるのです。ならば、私も供ではなく友として応えねばなりません。
「分かりました。この彦兵衛も実に楽しく充ちた日々でございました。名残惜しくありますが、本日ただ今を以って暇をいただきます。早々に藤平屋へ戻ることと致します。九郎様のと、と、友でとして」
いきなりは無茶というものでした。声の震えを抑えるのがやっとでした。
わずかでも頭で考えてしまうと絶対に無理です。
息をすっと吸いこみ、吐き出しました。勢い任せで声を発していくより他には思いつきませんでした。
「す、鈴鳴九郎良俊殿の友であります!」
「そうだ、よう言うてくれた。友だ。俺は藤平屋の息子。そこにこだわっている限り、俺がどう言おうと彦兵衛が俺のことを友とは呼べぬ。だが、そうではないのだ。藤平屋の息子として旅をしているわけではない。鈴鳴九郎良俊として諸州見聞をしているのだ。彦兵衛、よくそこに気が付いた!」
「はい!」
別れの時はもうすぐそこに迫っておりました。
「差し出がましいのですが、皆々様方へは折に触れ便りを出してくださいませ。何もなくとも月の変わりには文をお書きになるのがよろしいでしょう。元気にやっておりますだけでも充分なのでございます」
「ああ、分かった。きっと便りは出そう。しかしな、父上母上兄上姉上たち、全てに文を記すのか。それだけでも十通。甥子や姪子のことも勘定に入れると……いささ気がめいってしまいそうになる」
「それは……確かに一苦労でございますな。では、こういうのはいかがでしょう。旦那様へ託してしまうのです。皆々様へも文を廻してくだされ、伝えてくだされと一筆記しておけばよろしいかと」
「なるほど、さすがは彦兵衛。良き知恵働き」
「きっとですよ。忘れずにお願いいたしますよ。ほんにご心配なさっていらっしゃるんですからね」
「ばか野郎、彦兵衛。愁嘆場は好きじゃないんだ」
九郎様はそういうと口を閉じ、樹木の隙間よりわずかにうかがえる空を見上げておられました。
「そんなことよりもだな、空だ。見てみろ、どうだあの鶴の舞う姿。皆にはこう申しておいてくれ。縁であり定めでもあると。さ、早う去るのだ。ここより先は二人道ではない。一人で進まねばならぬゆえな」
何をおっしゃってるのだろう、と。鶴?
全く見えません。ああ、何かわずかな染みが空にあるようなないような。
そんなことよりも、九郎様よりの大切な言伝です。
きちんとしっかりと確実に藤平屋の皆々様へお伝えしなければなりません。
どういう意味だと問われた時に「はあ、分かりません」などとは恥ずかしくて言えたものではございませんゆえに。
「ぼっちゃんは相変わらず目が良うございますなあ。ゴマ粒にしか見えませんが。それで、鶴が何でございましょう?」
「あれこそが今の我が身というものよ。例えてみたまでのことよ」
なるほど。比喩だったのでした。
いえ、そうではないかなあと薄々は感づいていたのですが、あまりにも突拍子がなくって。念のために確認しておいて良かったです。
「ははあ、さようでございますか」
「空を舞う姿が、実に相似しているではないか」
まあ、一羽と一人が同じという意味なのでございましょう。
「縁とは? 定めとは?」
当然あるべき返しが……ない。まさか。
「あははは。彦兵衛には分からぬか。されど、分からぬもまた一興というものよ」
ああ、これはきっと……。
九郎様は、奥様が掌中の玉を磨き上げるかのようにお手元で育てられたお方。
気分のままに雰囲気で大見得をきられる癖は、親から子へとしっかりと受け継がれておりました。
そんな気がしていたのですが、確信を得てしまいました。
旦那様はもとより、他の八人の兄姉様方には見受けられない点でございます。
奥様の血を直接は引いてはおられぬ九郎様のみが、奥様の玉に瑕な癖の唯一の後継者とは……。
人の世とは不可思議かつ面白きものでございます。
「気分だ気分、特に意味は無い。思わず言ってみただけのことよ」
「はあ。で、ございますか」
「よい、忘れてくれ。では、さらばだ彦兵衛。達者でな」
少々どころではない強引さで以って、別れを告げられてしまいました。言った者勝ちとでもいうのでしょうか。
半ば呆然とした後にふと気が付けば、早くも歩を進めておられる九郎様の後ろ姿が目に映っています。
「どうかお気をつけて!」という言葉を、心を込めて私はお贈りさせていただきました。
……そのしばらく後のことでございます。私は峠を登る身体の向きを反転させました。
九郎様のもとを目指し、脱兎のごとき勢いで坂道を駆け下ったのです。
つづら道を五度ほど曲がった時、九郎様の頭をちらりと道の端に捉えることがようやくかないました。
「九郎様!」
乱れる息やもつれかけている足にかまっている場合ではありせん。叫びました。私の声が山間を縫うかのようにわずかにこだまし、直後には耳へと戻ってきます。
それでも声そのものは届いていたのでしょう。九郎様の足が止まりかけます。
ですが、すぐに最前までよりいくらか早く足を動かされておいででした。
「九郎様!」
「未練ぞ、彦兵衛!」
振り返ってすらいただけません。
けれども、何と言われましょうが、かまいやしません。私は九郎様のもとに行かねばならないのですから。
「九郎様!」
「くどい! 去ね!」
「ですが、錦を!」
「何を言ってい」
ああ、ようやく立ち止まっていただけました。気が付かれたに違いありません。
滑るように駆けました。九郎様のお側近くまで。
旅の当初、九郎様はしきりに足を止めては進むを繰り返しておられました。
不思議に思い、訳を尋ねてみると「どうにも収まりが悪い」とおっしゃいながら、羽織の内懐より錦の袋を取り出されたのです。
そりゃあそうでしょうとも。生まれてこの方自らの手で銭など持ち歩いたことなどなかったでしょうから。
落としてはいけないからと私に預けられ、それっきりでございました。
町や村で何かを購う時も全て私がおこなっておりました。
実に危機一髪というものでございました。
あわや無一文の旅をなされるところでした。
くるりと身体の向きを変えられた九郎様。
ほんの少し足がもつれておられます。ここは見なかった振りをすべきでしょう。
顔がほんのり赤く染まっておいでです。これも気付いていない振りをすべきでしょう。
私の肩もわずかに震えておりました。
きっと、駆けたせいです。それ以外の原因などございません。
ところが、驚きました。
わずかに、目をそらしていただけなのです。心の臓が、トクントクンと二拍している時間程度です。
再び視線を向けた九郎様の表情には、動揺の欠片が全く見当たりませんでした。
ニコリと微笑みながら私から錦袋を受け取られ、まこと実に自然な動作で懐へ収められたのです。
なかなかに出来ることではございません。
見事なまでになかったことにされておいでです。
私ならば、顔を茹でたタコのごとく赤く染め上げ、くどくどと言い訳をいたしてしまうことでしょう。
「さらばだ!」
「お元気で!」
後ろ姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けました。
芸州高宮の藤平屋へと戻る一人旅の道すがら、折に触れ私は思わずにはいられませんでした。
九郎様は実は大人物なのかもしれない、と。この頃はそんな気がしてならないんですよ。