第九話 一里の眼、零の刃 後編 鈴鳴九郎良俊
勝手が違っていた。木刀を握るのと真剣のそれはあまりにも異なっていた。
知らなかったのだ。斬る覚悟、斬られる覚悟を。
腕が震え、刃先が激しく乱れて揺れている。
このままでは駄目だ。何が駄目なのかすら皆目分からない。だが、駄目だということだけははっきりと分かる。
抜き身となっていた小太刀を鞘へ戻す。
どうすれば良いのでしょうか、無刀斎先生。
九郎は心の師に胸中で呼びかけるも、応えは届いてこなかった。
ハアハアと耳ざわりな音が一向に止まない。
気配を消すどころの話ではない。
まるで、蜂が舞っているかのようであった。抑えきれない荒いうなり声を周囲へ撒き散らし続けている。
こんなありさまでは何も成せやしない。荒事には一生涯無縁な大商家の箱入り娘ですら、存在をたやすく気配を察してしまえるだろう。
けれども口を閉じられない。分かってはいる。すぐにでも閉じるべきだと。だがしかし、心の臓が新鮮な空気を激しく求めてそれを九郎に許さない。
自らの。呼吸の音がいまいましい。
状況はどう贔屓目に見ても絶望的であった。
いよいよもって追い詰められている。
急斜面の端に、陽を受けてぬるりと光っている禿頭が見える。左右へ首を振り、身体の向きまでもを転じているらしい。時折、頭の鉢の向きが変わっている。
気付いて、いない……?
いや、まさか。
息の乱れに関しては、こちらが風下ゆえに達していないのかもしれぬ。と、言えないこともない。
だが、気はどうだ。隠すどころか、剥き出しとなって溢れんばかりとなっているに違いない。
気配で露見すると思ったからこそ踏み止まった。
けれどももしや、この判断は取り返しの付かない失態だったというのか。
ならば。
身体をひねりかけたその刹那。
坂下から追ってきた者の顎までがあらわれてしまう。既にして時期を逸していた。
風上からだというのに、音は微かにしか届いてこない。
長い距離をひたすらに駆けていたはずなのに。下生えの草や枯れ枝が折り重なっている上を踏みしだいているはずなのに。
これほどの整息の技と足捌き。
二つ揃った者を、九郎は故郷である芸州高宮で一度だけ目にしたことがある。
三年ばかり昔のこと。お城で開かれた御前試合で最後まで勝ち残っていた、確か高柳某という家名のみしか覚えていない武芸者と似ている。
追って来ていたのはやはり並みの剣の使い手ではなかった。どころか、当初の見立てよりも卓越の者。
かなうはずもないのだろうか。
俺の天命は、播州の名すら知らぬ山の中で終わっているというのだろうか。
全身を、髪の毛一本たりとも有しない頭の先から泥の雫が右の先にこびりついている草履までを、九郎が視界へ収めるまでにはわずかな時しか必要としなかった。
心臓の響きが激しさをより増していく。
ドクドクと早鐘を鳴らし続けている。
わずかにでも可能性を求める為、息の乱れを収め気を整えるべきであった。けれども、そのきっかけすら掴めずにいる。
うつむきがちになっている顔が、本当に下を向いてしまえば楽になれるのかもしれない。
もっとも、それは命が絶たれるということと同義である。
生への道を探らなければならない。それが九郎に今出来る唯一のことであった。
小太刀の柄に右の手を添え、左の膝をやや沈める。虚像であることは承知している。
けれどもただ一閃に賭ける、という気概を示せれば。
どこに刃が走るのか、初見ではいくらかは迷うはず。
ところが。
瞬く間に一歩。無造作というより他はないほどの動きで踏み込まれてしまう。
距離が縮まる。あと十歩の間。
禿頭男の、口角が上がり口が開いていく。黄色に汚れた上歯が見える。更に大きく。にやりと嫌な笑みが一つ生じていた。
だがおかしなことに、何故か脚は止まっている。
太刀を高々と片手でかかげ、右の手首をひねり、くるりと小さな円を描いていた。
嬲っているのだ、お前を。
目が、そう語っていた。
あえて右手のみで太刀を握っている。威嚇であり余裕でもあるに違いない。
分かっていても、隙を見て取れるほどの動きではない。
禿頭男の、衣の裾がわずかだが風にたなびいている。
筒袖上衣と裾を絞った野袴の組み合わせ。それは実に見慣れたもののはずだった。
芸州でも備州でも雲州でも丹州でも、この播州でも。それこそ、そこら中で掃いて捨てるほどに見ることが出来る。
だが装束全てが、帯すらも全く同系の染め色となると全く印象が違って見えた。
異様である。
あえて似ているものを探すとすれば、絵巻物でのみ目にしたことのある忍装束あたりか。
いくらか色褪せている衣は、まるで周囲の草や木の葉と溶けこむかのような色をしていた。
ひたすらに守りに徹すれば、小太刀で太刀の斬り込みを数合は受けることが出来るかもしれない。もしかすれば十合ほども。
けれども、いずれは刃がこぼれるか曲がるか。最悪の場合は折れてしまうに違いない。
刀身の厚みが太刀と小太刀では比べるまでもなく異なっていた。
かといって、攻めに転じられるとは到底思えない。腕前の差は歴然としている。
九郎にも太刀がないわけではない。
雨斬という名を持つ黒鋼の太刀がある。だが、それは錆びて朽ちた状態で鞘に収まっている。
残念ながら、毛ほどの傷をつけることすら望めそうになかった。
無手よりはマシという程度であろう。
禿頭の男は笑みを浮かべたまま九郎の方へと、また一歩ほど踏み込んで来る。更に一歩。
隙がまるで見いだせない。
ハッっとして、我に返る。
気付けば、既に八歩の距離。あと何歩だろうか、この者の間合いまでは。九郎の脳裏に死という一字が嫌が応にも浮かびあがる。
だが不意に。突如として男はまたもや歩みを止めていた。
「こわっぱ。返答次第では見逃してやらんでもない」
しわがれたその声は、不快感をもよおす音を有していた。
錆びて油も乾ききった金物細工が軋んでいるかのような。耳のすぐ側で蚊が唸っているかのような。
思わず後ずさる。
言葉の意味を頭が理解するよりも先に身体が反応していた。恐怖ゆえに違いない。
余りにも無防備な後退。
ほんのわずかに死ぬ場所を違えるだけ。その程度の意味しか持たないであろう退き。
その試みもわずかに二歩ほどで潰えてしまう。脚が止められていた。
振り返らずとも分かった。
汗にまみれた衣の背中越しに樹の幹が触れている。ごつりとした感触が腿へ、尻へ、背へ、首筋へと伝わる。
加えて、生い茂る下草に隠れていたのであろう。樹の根に足をとられていた。身体の平衡を失ったあげく、無様な態でずるりと滑る。
よろめき、前へ前へとたたらを踏む。三歩ほど。
慌てて、無理やり両膝を落とすとともに左右の手を地面に押し付ける。石くれの突起が左手のひらへ圧を加え、鋭い痛みを訴えてくる。
もっとも、手の苦痛など何ほどでもなかった。
そのまま足を進めていれば、刃が皮膚へ触れていたことだろう。いや、肉と骨を断たれていた。
それが首なのか胸なのか、どちらにしても九郎の身体には致命的としか言い様のない傷が生じていたはず。
禿頭男にとっての最も得手の間合いが何歩なのかなど、九郎には知る由もない。
だが、今は既に七歩の距離。
おまけにまるで犬のように、地べたへ九郎は両手両足を付けていた。
舐めまわすかのようなねっとりとした視線が、全身を這っている。背がぶるりと震え、肌にぞわりと粟が生じた。
これは、無理かもしれない。もはや生きることは。
踏み止まったのは浅はかな考えであった。
圧倒的なほどの力量の差。一太刀たりとも交わしたわけではない。だが、既に思い知らされている。
格が違う、と。
しかしながら、同時に説明しがたい何かをもわずかだが感じ得ていた。
まだ、きっと。大丈夫だ。そう、九郎は念じる。
俺をただ殺す気ならば、既に五度は死んでいる。
ならば、殺さない理由があるはず。何かを問いたいと口にしていたのは、油断を誘っていたわけではないのかも。きっと、まことに違いない。
今は他にすがれるものもなし。
もしもそれが大いなる勘違いだとしても、嬲られるだけの畜獣のような姿勢で頭を垂れたままの死などごめんであった。
せめて両の足のみで地を踏みしめる。
そこに大して差などないことくらい承知の上。
とにかく、微かにただよう違和感の正体を見つけ出す。以外の道はない。
立ち上がり、顔を上げる。息は荒く乱れたまま、静まる気配はない。
直視する。また一歩、無造作に詰められてしまう。わずかに六歩の間。
気負されている。
いや、そうではない。そもそも俺に気など。良くも悪くも読めぬ。では何だというのだ、これは。
突然に、ドクンと心臓が一つ跳ねた。
頭蓋がまるで締めつけられているかのように痺れを帯びている。
脚はまるで鉛と化したかのように重い。腕も他人のものであるかのように上手く力が入らない。
己のものではないかのようだった。
怖れから心が萎縮し、身体をもしばっているのか。それとも妖かしの術とでもいうのか。
更に一歩、近づいてくる。
とその時。
禿頭男の頭越しに陰りを見せ始めていた陽の赤き光が、目の中に溢れた。
ありえない失態をしでかしてしまう。この一瞬一瞬が命を賭けた節所だというこの時に。
九郎の目に映る全てが真白に塗りつぶされている。
悟られるわけにはいかない。見えないまま、見えているかのように振舞うしかない。
「何を、知りたい?」
声が揺らいでいた。情けないことではあったが、隠し通せるものでもなかった。
「あの娘とどこで知り合った。お前のような若い輩との接点があるとも思えぬ」
佐代乃介のことを女だと知っている。そうとしか思えない口ぶりであった。
「娘? 何を言っているのか分からぬ。誰のことだ?」
ようやく周囲の色が戻ってくる。
「そうか……。ならば半里をきった辺りでお前に視られていたのは偶然。そして五町では必然、か。やはりその程度の者」
視ることに何か他の意味でもあるのだろうか。九郎には見当も付かない。
「何だそれは? 他の者よりもいくらか遠くは見える。だが……それだけのことだろう?」
「もういい、小僧。興味が失せた。たまたま往来で一緒に肩を並べて歩いていた。その程度の間柄か」
問いたい、という衝動を抑えるには並々ならぬ努力を擁した。
「さっきからおかしなことを。あれは少年だろう」
「まあ、な。視えていないのならば、そう受け取るのは無理もない。だが、あれは女が化けて男の形をしているに過ぎぬ。お前は騙されていたんだよ。分かったなら……分かるな?」
「それがまことだとしても。そういうわけには、いかぬ」
「ほほう。ひと時の縁であろうと、身を挺して盾とならんとするか。その意気、嫌いではない。むしろ好み。しかしなあ、これ以上かばい立てしてどうする。さあ、言え。俺は優しいんだ。見逃してやると言っただろう。言葉として出すのが恥だと言うのならば、指し示すだけでもかまわないぞ。どの道へ逃げた?」
禿頭の男は九郎へ返答をうながすかのように、クイっと顎を動かし視線をそらしていた。
少なくとも、今は斬られることはない。それを悟った九郎は左足を一歩下げる。半身をひねり背後を向いて、せわしなく視線を上下させる。
九郎の後方には獣道が交差していた。上へ二本、下に向かって一本。
偶然ではない。
禿頭男の追跡は九郎と佐代の逃げ足を軽く凌駕していた。差が開くどころか時を追うごとに、ひたすらに縮まるばかりであった。
このままでは追いつかれるだけと知れたゆえ「追っ手は一人。こちらは二人。別れて逃げる方が良い」と告げる。
口を開きかけた佐代へ「言い争うている時などない」と諭す。何か言いたそうな素振りを見せていたものの、しばらく押し黙った末にコクリとうなずき道を別れていた。
去り際に「後で必ず見つけてください」と小声で囁かれ、九郎は「当然のこと」と応じていた。
ここは、足止めを試みるのならばこの場所しかない。そう九郎が決断し踏み留まっている地である。
ただ、木刀と真剣では何もかもが異なっていた。
再び前を向く。
すると、意外なことに禿頭の男は微笑を浮かべている。
まるで今にも九郎の頭を優しく撫ででもしようかといわんばかりな、実に穏やかな表情。
だが、その手は空ではない。
大振りな太刀を両手で握っている。九郎の頭に手が触れる時は、髪を撫でるのではなく頭蓋が断ち斬られる時に違いない。
「一度結んだ縁を、易々とおざなりにするようでは男が下がるというもの」
うつむきがちとなっていた目線を再び上げる。正面をしっかと見据える。
「縁ゆえに援けるのだ。俺よりも歳若な少年なら当然のこと。それがお前の口上通り若い娘となれば、なお更ではないか。義とは、そういうものだろう?」
声は自らの期待を裏切っていた。いくらかの震えを掻き消しきれないでいる。
だが、一音一音噛み締めるかのように強く発した。
「ほう、こわっぱ。いや、名も知らぬ男よ。最前から震えている割には言うではないか。この土壇場においての肝の据わりよう。なかなかどうして大したもの。まあ、それならそれでもよい。どこまでその強がりが通用するのか試してやる」
あざけりを有する低くしゃがれた声が耳へ届く。当初高々とかかげられていた太刀は、既に胸元にまでゆっくりと下げられていた。
踏みこまれ振り下ろされても何合かは受け切れる。だがいずれ。
苦痛は一瞬であろう。次いで、速やかなる死が訪れる。
風が、禿頭男の臭いを運んでくる。鼻につくそれは獣脂を燃やしているかのようであった。
気がかりの音はまったく聞こえてこない。風下という点があるにしろ、どうやら遠くまで離れおおせた模様。
もう少し経てば、陽も落ちる。
無事に故郷の羽州にまでたどり着ければ良いのだが……。
あとは佐代の運と才覚次第か。
畿州の都まで見つからずにたどり着けさえすれば、一等格の旅籠へ駆けこめばいい。紹介状などなくとも、雲州甘梨の青松屋の女将と縁を結びし者と伝えれば無下に追い出されることもないだろう。居続けをしている間に、文を取り次いでもらえれば上客として遇されるに違いない。あとは供を五人や十人付けてもらい陸路で羽州を目指すか、雲州甘梨まで引き返して船の出る晩秋まで旅籠に篭るか。
……始めからその手があった。何も俺が供をしなくとも。何故気が付かなかったのだ。いや、一度受けたからには。生きている限りは俺の務めだ。
幸いは、丹州は室井の町で佐代の太刀を買い求めた時以来、錦袋を預けたっきりとなっていることか。どちらの道を選んだとしても、金で困ることだけはないだろう。
……いや、おかしい。そうでは……ない。
そうであったか!
突然にして九郎は閃いていた。否、違う。散らばっていた思考の端と端とを合わせ結んだ末の理解を、確信を得た。
禿頭男は、俺と同じき者ではないだろうか。つまり、眼の達者だ。
しかも俺より遠くは視えず、俺と異なり夜目は効かず、俺と同様に気配を読むのは常人以下の不得手だ。
でなければ、あれほどの気を撒き散らしていたのだ。坂の手前でわざわざ足踏みをし、右往左往する意味が分からぬ。
視えしゆえに、視えるものが全ての者。
そう考えれば、いくら樹木の生い茂る急斜面の裏側に潜んでいたとはいえ、あれほどの遠距離に留まったまま探し続けていた理由の説明が付く。
俺と佐代の気はあたり一面そこら中にただよっていたはず。
少なくとも、足捌きや距離を詰められて以降の挙動の節々から感じられるほどの剣技の達者者であれば、気を容易に察せられて然るべき。
更には、この場で俺をすぐに殺そうとしていない。
これも理由が付く。何故ならば、もう少しすれば陽が没してしまうからだ。
間違えた道を選んでしまえば佐代には追いつけなくなる。夜目が効かないからだと考えればつじつまは合う。
ここは播州とはいえ、すぐそこは畿州。
人の往来に混ざってしまえば、そうそう無法など出来るものでもない。
とはいえ……恐るべき者には違いない。
視られるだけで身体が呪縛でもされたかのような妖かしの正体は分からないままだ。けれども、視線がそれさえすれば身体は動くことは先ほど明らかとなった。
更に言えば、俺も同じ技を操れるかもしれぬ、と踏んでいたのであろう。それならば、一歩一歩と刻むように接近していたのも道理である。
禿頭男のそれは七歩で肌を這って、六歩でがんじがらめを成せている。
技の道理は皆目見当もつきはしないが。
この肌を這う感覚をもしも八歩以上で俺から浴びせられたなら、この場を去るか別の手段を用いていたと考えればつじつまは合う。
そして、群れではなく個なのも僥倖。
恐怖にただ操られる者は見えるもの見えなくなる。恐怖を頼みとし見なければならない。
俺なんぞを殺すだけなら機会は何度もあったのだ。その後に佐代を追えばよい。
もしも逆の立場ならばきっとそうする。
何故そうしないのか。
出来ないのだ。わずかにでも離れていれば気配を読めない。夜目にも自信がない。
ならば、機はある。
それまでは可能な限りの時を稼ぐべきであった。
「こちらからも、いくらか尋ねたいことがある」
九郎の声を無視するように足がぴくりと動く。だがそれはすぐに止まり、禿頭男の口から黄色い歯がのぞいている。
「慈悲心に欠けるであろう、な。俺よりはるかに劣るとはいえ視れる者の頼みを無碍にするのは。一つだけ問いを許そう。その後に、身体を一寸刻みに斬ってやろう。早く殺してくれと、あの娘の行方をしゃべりたくなるまで刻んでやろう」
やはり、であった。
この禿頭男は俺の口を割らせる手札しか、実は握っていない。九郎の背後にある三又の道を選び間違えたくないのだ。
一つきりか。
問いたいことは佐代を追っている理由。もしくは眼について。
だが、その二つはいずれも危険であった。いらぬ警戒心を呼び寄せてしまう可能性が少なからずある。
かなわぬまでも不器用にも盾となる覚悟を定めている者には、相応しくない。
疑念を毛ほども抱かせず、禿頭男の矜持をくすぐるに足る問いをすべきだった。
息を吸いこみ、音として吐き出す。
最前までとは真逆で、声に震えを帯びさせる為にこそ努力が必要であった。
「何故多勢で襲わなかった? 名は知らぬが、貴殿は一等頭抜けた武技の達者とお見受けする。独りでそれほどの武を誇るのならば。仲間がいれば少年を、いや違ったのであったな。娘を捕らえることなど容易であったであろう」
「一つではないが、まあよい。答えなど明らかであろう。俺一人で充分ゆえよ」
腕の上腕の筋肉がぴくりと弾み、太刀の先はわずかに揺れていた。
「俺は優しい男だからな。若い娘を多くで姦すなど哀れであろう。そのようなことをすれば、嫌われてしまうであろう」
勝ち誇るかのように、上唇を舌で這いずり舐めていた。
「さてとおしゃべりはお終いだ。早く口を割れば割るほどに、俺の優しき思いが生じる可能性は高いぞ。選ばせてやる。耳ならば左か、右か。それとも鼻が良いか。最初に捨てたいのはどれだ?」
間に合わぬか……。あと、わずかな時を稼げさえすれば。
眼が利き過ぎるゆえなのであろう。その代償として、恐らくは他者より著しく劣る欠点。
陽の反射光を直接眼へ受ければ視界が途絶える。それは常の人も同様。けれども戻るまでの時がゆうに倍は、いやそれ以上かかるのだ。
と、その時であった。
秘かに最も危惧していた事態と転じていた。
山中をこだまするように、盛大に音を撒き散らしながら山肌を滑り降りる者の轟きが反復しつつ九郎の耳へと達する。
風下から伝わるはずがない。それはわずかに前方。ほぼ真上、やや左上からだった。佐代を駆けさせた上の道の一つはどうやら大きく曲がりうねっていたらしい。
樹齢の若いやや小振りな黒松が生い茂ってる辺り。およそ四十歩の距離。
近過ぎる。まずい!
更には下草を掻き分け踏みしめ、太刀を振り回し枝葉を払う音。どうやら、足を滑らせたのではなかった。佐代自身の意思で更に近づいている。阿呆、何故戻って来る。
当然、とうに気付かれている。
禿頭男の太刀は、振り上げられたまま止まっている。
九郎に向けられていた圧するほどの視線が揺れて薄れ、離れた。
九郎ではなく、黒松の林の方へと身体をひねり目を這わせていた。
不意に悟る。わずかな隙と機が。重なりあって突然訪れた。
「何をしている! 逃げろ!」
あえて声を張り上げる。素早く抜いた小太刀を平に、水平にかまえる。
直後に、零歩を踏み抜く。
左足の草履の底に触れていた小枝が派手な音とともに折れた。
瞬時に向きを戻して浴びせられる視線。再び、九郎の腕も脚も固まる。身動きが取れない。踏み込んで来る。瞬く間に一歩詰められる。
最早、俺の口を割らせる必要はないということだろう。
知っていた、それは。最前から計っていた、角度と向き、高さ。小太刀の平が陽を受けている。
眼の中へと吸い込まれていくかのように差す、まばゆき光。
呪縛が再び解ける。
足先で地を穿つ。えぐるように蹴り上げる。無数の土くれが天高く舞う。上がり、すぐさま方々の枝葉に弾む。音を、耳へ撒き散らしてくれればそれでいい。
気配を、余程の至近でなければ読めやしない者の姿がそこにあった。
目を失い、耳を塞げば。棒立ちの壁と化す。
禿頭男のやや左正面。駆ける、三歩。瞬く間にわずか一歩の間。刃がうねり、襲いかかってくる。
分かっていた。至近ならば動けることくらい。
分かっている。確信の持てない剣捌きには常の力が篭らないことくらい。
右足が地へめりこみ軸となる。左脚を斜めに振り上げる。離れて跳ねて宙を舞う太刀。左手が達した刹那。皮膚へめりこむ指先。沈む身体。左膝を落とす。右の足に力を込めて跳ぶ。伸び上げる右腕。小太刀ゆえの片手技。
零の刃。
刃先が鳩尾をうがつ。下から上へと刀身が瞬く間に吸いこまれていく。
突き上げた直後に身体ごとぶつかる。
肉を貫く。刃先への微かな抵抗。骨を断つ。更に柄をひねる。柄を握る手を通して、九郎にとって初めての感触が伝わってくる。
殺ったのか。震えが、背から首へ、頭へと突き抜けていく。
脚が止まらない。身体が傾き過ぎており、衝突した勢いそのままに押し続けていた。不意に抵抗が消え失せる。直後に、足が宙を舞う。
慌ててその場に倒れこもうと試みる。
だが、突然に衝撃が走る。
まさか生きている!? いや。
ならば、太刀を飛ばしたとはいえ眼は戻っているはず。
ならば、脚はとうに止められていたはず。
ならば、この背を覆う両の腕は。
そうか、既に意思無き二本の棒。
禿頭男と九郎は一つ塊となって山の斜面を転がり落ちていった。
腕や背や脚や頭に、樹の根や石くれが衝突しては離れていく。身体のあちこちより訴えてくる苦痛に、顔がゆがむ。
派手な音を山中に響かせながらひたすらに転落していく。
やがて音が変わった。
水の流れる音が聞こえる。どうやら川原まで転がったようだった。
もはや、動く気力が尽きかけている。腕や脚、後頭部に背中、身体のふしぶしが悲鳴をあげているかのようだ。
まとわりつく鉄が錆びているような臭い。手を腕を濡らす生暖かい血。
額が焼けるように熱い。突かれているように痛い。
不意に意識がぷつりと暗転していた。
「戻ってきて!」
声が上から降っている。聞きたくない音だった。何故だ、何をしている! 早く逃げるんだ!
吐く息が、上手く言葉とならない。
いや、あの禿頭男は既にこの世の者ではない。
転がり落ちていった。どこに怪我を負ってしまおうとも胸元だけは傷とは無縁だろう、とそう思っていた。
けれども何故だか、あばらがひどく圧を受けている。仰向けに、寝転ぶように伏していた。
閉じたきりであったまぶたを薄く、そっとわずかに開く。既に日暮れていた。
薄雲の向こう側。わずかに欠けている小望月が目に入る。月の位置から察するに少なくともあの戦いから一刻は過ぎているようだった。
黒き髪が揺れて照らされ跳ねて輝いていた。
腹の上に軟らかな重みが乗っている。
衣の前がはだけられ、心の臓の上を押され続けていた。
手のひらからは熱が、指の腹からは柔らかさが、時にはくすぐったさをも伴っている。
まとめてしまうと不思議なもので、ひたすらに痛い、としか言いようがない。
ただ、この苦痛は心地良さを伴っていた。
息をそっと吸いこむ。桃のような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。それほど悪い気はしない。
無意識のうちに腕を上げかけていた。ハッとして押し止める。地へと再び戻す。
沢の、せせらぎの音が背中から伝わってくる。
「存外に重いのだな。佐代は」
一瞬止まって見えた細く白い腕と手。瞬く間に叩きつけられ、思わずうめき声が漏れる。直後には身体から重みの一切が消え失せていた。
「佐代乃介です。またお忘れになって」
声なのか息なのか、細い音の連なり。ふわりとした音の塊りが耳の中を直に触れてくるかのようだった。
「前にも言ったであろう。桃色と染まる頬が更に赤みを増してしまえば娘にしか見えなくなるのだと」
「気を失われたままでした。私の介抱が功を奏したのです。まずは口にすべきは礼の言葉ではありませんか。それを、よりにもよって重いなどと」
プイと横を向き、頬を膨らませている。
なにも溺れたわけでもあるまいし。気を失った者の胸を叩いてどうこうなるものか、と九郎は思う。
だがそんなことは実に些細なことなのであろう。
最前に戻れないものか。あの不可思議な心地良さをもう一度味わいたい。
などとは口に出せはしない。