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カウンターテーブル


 ある古い港町の角で、メルという麗しい娘がレストランを営んでいました。

 それはとても小さな店で、カウンター席が6つあるだけの大きさでした。しかしメルの愛想の良さと、素朴で飽きない料理の味に惹かれて、連日多くの人が訪れました。評判は海を越えて、はるばるメルの店に立ち寄る旅人がやってくるほどでした。

「なんて美しい人だろうか。それに、このスープの味。実に丹念な仕事だ。ウチの料理長も顔負けだ」

 ある日、一人の貴族が、メルに云いました。貴族はメルをひどく気に入り、次の日には花束を、その次の日には宝石をあしらった靴を持ってきました。

「これを穿いて、舞踏会に来てくれないだろうか」

 貴族は自信たっぷりに云いました。

「ごめんなさい。お気持ちはとても嬉しいけれど、それを受け取ることはできません」

 メルは精一杯、申し訳ない顔をして、貴族の申し出を断りました。

 その場面は、港町に住む5人の男女が見ていました。

「なんということだ。彼の贈り物を拒むとは!」

 その貴族はこれまで、欲しいと思ったものは全て手に入れてきた男でした。それが今、庶民の娘に、生まれて初めて拒絶されたのです。

 パスタの絡まったフォークを突き放すように投げ出し、貴族は席を立ちました。店にいた4人の客は、その後姿とメルの顔を交互に見つめていました。

 残る1人、一番奥のカウンター席に座った若者は、食べ残された料理を視ていました。 その男は貧しい家具職人の見習いでした。

(ああ、もったいないな)

 家具屋はそう思いながら、自分のパンをちぎり、トマトソースをすくって口に運びました。そうしてから、ぼうっとメルの横顔を眺めました。

(それにしても、貴族の申し出を断るなんて、どういうことだろう。こちらももったいない話だ。貧乏な僕が云うことではないが、彼女もそう裕福ではなかろうに。あの貴族についていけば、日がな一日カウンターに立つこともあるまい)

 家具屋は空になった皿を見つめながら考えました。

(本当に料理が好きなのかな)

 家具屋は一人でそう納得しました。家具屋自身も、今作っているテーブルの事で頭がいっぱいだったのです。

 ごちそうさまを告げ、家具屋は家路につきました。


 ※


 翌日、家具屋が工房でクルミを削っていると、店先からこんな会話が飛び込んできました。

「街角の店のメル、ついにあの大富豪も振ってしまったらしいよ」

「え、それは大変だ」

「しかし彼女、可愛い顔して手厳しいね。この前はええと、ほら、あの画商。珍しい美術展に誘われていたが、丁重に断ったそうだよ」

「まあ、あれだけ美人だからね。ひょっとしたら、どこまでいけるのか試しているのかもね」

「あるいは、もう既に恋人がいるとか」

「確かに。だが、いずれにしても、あんまりお高くとまっていると、そのうち痛い目をみるよ」

「違いない」

 豪快な笑い声の影で、家具屋は俯き、考えました。

(なるほど、ふうむ、物事にはいろいろな考え方があるものだな。おっと)

 どうも手の感触が狂っていることに、家具屋は気が付きました。息を整え、瞼を閉じると、カウンターの中で微笑むメルの横顔が浮かびました。

(いかんな。皆があまり美人、美人と騒ぎ立てるものだから、僕も気になってきてしまった。もっとも、あの貴族で駄目では、家具職人風情が好かれる道理もない。考えても仕方の無い事だ。まずはこのテーブルに集中しなくては)

 家具屋は一心にノミをふるい続けました。

 ところが、陽が傾き、仕事の時間が終わると、家具屋の頭にあることはやはりメルのことでした。家具屋は自分で料理を作ることができず、毎晩外食をしているのですが、家具屋が知っているレストランはメルの店くらいなもの。ですから、家具屋はほとんど毎日通う常連なのでした。それはどうしても気になってしまうというわけです。

 家具屋がドアを開けると、カウベルの音が虚しく響きました。家具屋は違和感に包まれました。

「おや、今日は誰もいない。そんなに早く切り上げたつもりもないのに……」

 時計を横目にいつもの席に腰かけると、メルも元気がありません。

「どうしたんですか?」

 注文よりも先に、家具屋は尋ねました。そうして、メルが泣いていることに気づきました。

「ごめんなさい……。実は、お店を閉めることになるかもしれません」

 メルのその一言は家具屋を絶望の淵に追いやりました。

「え」

 家具屋も言葉を失いました。

「あ、いえ、すぐじゃないですよ……ごめんなさい。何になさいます?」

 メルは涙をぬぐい、健気に笑いました。無理やり作った笑顔が、家具屋の焦燥を掻き立てました。

「アマトリチャーナ……それより、どうして」

 それが唯一、沈黙を埋めることのできる言葉でした。

 メルはしばらく黙って、フライパンを熱していましたが、ついに口を開きました。

「どうも、よからぬ噂が立っているようなのです」

「ああ」

 家具屋は納得しました。付き合いを断られた者の誰かが、腹いせにメルを貶めることを云ったに違いありませんでした。

「確かに、あなたは噂になりやすい……綺麗だし、でも誰にも靡かないので有名だから」

 メルは泣き笑いを零しながら、玉ねぎを刻み、軽く炒めました。甘い香りが立ちのぼりました。

「僕が云うことではないかもしれませんが」

 家具屋は煙から顔を背けるようにしながら、ぼそりと切り出しました。

「あまり無下に断ってばかりだと、幸せを逃しますよ」

「私、この店で料理を作っているときが一番幸せですわ」

 メルはそう云って、手早くソースをパスタに絡めると、皿に盛り付けて差し出しました。

「あ、どうもいただきます。──うん、美味しい」

 家具屋は思わず一口食べてから、フォークを置き、次の言葉を紡ぎました。

「あのう、しかし……それは外の世界を知らないからかもしれません。せめてデートくらいして差し上げても良いのではありませんか? あの貴族はともかく、この街には誠実な若者もいっぱいいるわけですし。いや、だいいち、お客が来なくなって店を閉めてしまっては、料理を作る幸せも無くなってしまうではないですか」

 メルの店が無くなるかもしれないということは、家具屋にとっても重大な事件でした。それに、この店が閉じると、メルも居なくなってしまうように家具屋には思えてなりませんでした。家具屋は、彼女の事はカウンターの中にいる姿しか知りませんでした。

「大丈夫ですわ……。もう少しは。お客さんもいらっしゃることですし」

(うーん、これは頑固な方だ。まるで生粋の職人のようだ。しかしそこが魅力的だ。って、おっと)

 家具屋は苦笑し、食事を続けました。


 ※


 その翌日も、その次の晩も、家具屋はメルの店に通い続けました。ところが、メルの店に行くのは、いつの日にやら家具屋だけになっていました。良からぬ噂というものが、これほど効果をあげるとは、家具屋には衝撃でした。

「おい、見習い家具屋、あんたまだメルの店に行くのかい?」

 ある日の夕方、酒屋の主人が家具屋を引きとめました。

「ええ。どうして?」

「あんた若いんだから、目を醒ましなよ。あんなあばずれの店で飯を呑むこたぁねぇ」

「あばずれ?」

 酒屋は酒臭い息を長く吐き出し、続けました。

「ウチも来月から仕入れをやめようかと考えてるんだ。美味く呑めなきゃ、酒に失礼ってモンだ」

 皆がメルを尊敬していた時代はもう過去のものになり、もはや一本の酒も惜しいという口ぶりです。

「なんて失礼な事を!」

「うわ、なんだこいつ」

 家具屋は思わず、殴り掛かっていました。酒屋は家具屋よりも肥えていたので、貧相な家具屋が逆襲されるのはあっという間のことでした。出っ張った腹と手持ちのウヰスキーボトルで一発、二発。家具屋は海に突き飛ばされてしまいました。

 夕陽がすっかり沈むころに、家具屋はびしょ濡れの躰を引きずってメルの店に行きました。

「まあ! 家具屋さん! 一体どうしたのです?」

 メルは目を丸くして驚きました。家具屋は切れた唇を気にしながら、少し笑いました。

「ちょっとした喧嘩です。僕も男なので、喧嘩のひとつもしますよ」

「手は、足は、大丈夫なの?」

 メルは本当に心配してくれているようです。

「ええ。すぐにやられちゃいましたから、痛めつけられずに済みました」

 家具屋がそう云うと、メルはやっと微笑んでくれました。

「強くなるためには、しっかり食べないとだめですよ」

 メルは微笑み、云いました。

「同感です」

 家具屋は唇を歪めました。

「でも、お願いだから、馬鹿な真似はやめて」

 メルははっきりとした口調でそう云いました。そうして、はっと気づいたように口元に手をやり、ごめんなさいと小さく呟きました。

 メルは温かいコーンスープを注ぎ、家具屋に差し出しました。家具屋はそれを一口飲み、生き返る思いをしました。が、飲み終えると、途端に苦しい気持ちになりました。もうスープくらいしか喉を通らないという感じです。目の前ではメルが俯き、ため息をついています。その原因も明確で、最近、メニューが少なくなっていることに、家具屋は気付いていました。

(ある材料を使って、相変わらず美味しく作っているけれど、見ているのも辛い。こんな気まずい食事は限界だ)

「あのう、メルさん」

 家具屋は両手をカウンターの上に置き、改まって切り出しました。

「気分転換してみてはいかがでしょうか。いくら料理が好きで、作るものが美味しくても、ずっとカウンターの中に居ては解決しない事もあります」

 家具屋は考えながら、しかし矢継ぎ早に、ノミをふるう気持ちで云いました。

「週末、一緒に海を見に行きましょう」

 それは家具屋の精一杯のデートの誘いでした。しかし言葉云っている瞬間から語尾までの間に、いろいろな考えが頭をよぎりました。

(ああ、しまった。こんな、誘い方は失敗だ。僕は結局、料理ではなく、すっかりこの女性に魅せられている。僕は彼女を心配しているのか、彼女に癒してほしいのか、どちらも否定できない心地だ。挙句、虚栄を張って、弱みに漬け込むような云い方をした。我ながらひどいものだ)

「いや、まあ、つまり」

 家具屋はもごもごと次の言葉を探しました。

「……ごめんなさい」

 優しく、静かな声が、はっきりと、そう応えました。

「私、お客さんと外に行くことは、しないんです」

 家具屋は呆然とした心地でその言葉を受け止めました。

「ああ、いや、ハハ、そりゃ、そうですよね」

 家具屋はすぐにそう返しました。そうして、深く息を吐き出しました。

「ごめんなさい。本当に」

「いえ、こちらこそ、なんだかすみません」

 二人はお互いに謝り合いました。それはとても悲しい言葉の応酬でした。

「失望させてしまいましたね」

 家具屋は云いました。

「え? 失望だなんて、そんな」

「無理なさらないでください。でも──今となっては信じてもらえないかもしれませんけど──あなたの料理は本当に、とても美味しかったです。ごちそうさまでした」

もう自分が何を口走っているのか、よく解からなくなりながら、家具屋は立ち上がりました。白い皿の上には、まだ食べかけの料理があり、それがとてつもなく後ろ髪を引きましたが、立ち止まるわけにはいきませんでした。家具屋は今にも泣き出しそうな気分だったのです。

「待って」

 メルが云いました。

 その言葉は家具屋の耳に届いていましたが、家具屋は聴こえなかったふりをしてドアを開き、立ち去りました。


 ※


「しまった」

 家具屋のノミが、作りかけの装飾に大きな傷を刻みました。

熱気漂う工房の奥で、煙草をふかした一人の大男──家具屋の師匠、ドミニクがそれをじっと見ていました。

「休―憩!」

 地響きのような掛け声が工房を駆け巡りました。ドミニクの声です。職人たちはぴたりと手を止め、それを下ろさないままに額の汗をぬぐいました。そうして、皆無言で、部屋を出て行きました。

 ドミニクはのしのしと職人たちをかき分け、座りこくる件の見習い家具屋のもとにやってきました。

「おいおい、一体どうしちまったんだ、これは」

 ドミニクはごつごつした手で装飾椅子を撫でながら、家具屋に尋ねました。

「はあ。すみません」

 ドミニクを見上げた家具屋の顔は、青ざめ、げっそりと痩せこけていました。ドミニクはぎょっとしました。

「なんだ! どうしちまったんだ。ロクなモンを喰ってないだろう」

 ドミニクは家具屋の横の小さな椅子にどっかりと腰かけました。砕けてしまいそうなくらい、椅子が軋みましたが、どうにか壊れませんでした。

「あのなぁ、そりゃあ確かに、うちの工房は、安月給かもしれん。だが、弟子たちに人並みな生活をさせるくらいの誇りはあるぞ」

「いえ、そういうわけでは」

「だったらちゃんとしたものを喰うことだ。しっかり食べないと生きていけんぞ」

 その言葉に、家具屋の肩がびくりと震えました。

(何処かで聞いた台詞だ……ああ、そうか、あの店に最後に行った晩、メルがそう云ったのだ)

 気付くと、家具屋は、また泣き出したい気持ちになってしまいました。

「実は師匠」

 家具屋は、涙の代わりに言葉を吐き出しました。ドミニクは、何も云わずに先を促し、黙って事情を聴きました。

「──というわけで、断られることは分かっていたはずなのに、予想以上に気まずさが堪えるということなのです。また、そもそも、僕にはメルにあげられるものは何もないのだと気付いたのです。あげく、海を見るなどと、わけのわからぬ事を……子供ではあるまいし」

 そうして、家具屋が最後まで愚痴を吐き出すと、ドミニクはこう云いました。

「なあんだ、そんなことか」

 次いで豪快な笑い声。

 切実に語っていただけに、家具屋は驚きました。

「な。師匠。そんなこととは失礼な。いくら師匠といえども、聞き捨てなりません」

「聞き捨てならないというのなら、ちっとはマシな家具を作れるようになって欲しいもんだ。先人の話は真摯に聞いておくことだぞ」

 痛いところを突かれ、家具屋はぐっと押し黙りました。その隙に、ドミニクは云いました。

「まあ聴け。基本的に、男に女の考えは分からん。それは男が女じゃないから当たり前だ。向うの考えを読み取ろうとするだけ無駄ってことだ」

 ドミニクは遠くを見つめるようにしながら、煙草の煙を大きく吐き出しました。

「うちのカミさんもそうだった。長く一緒に居ると、やっと、ほんの少しだけ分かるようになったりするもんだが」

「は、はあ」

「だから初めは何回失敗したってへこたれん事だよ。図太く生きろ。飯を食いに行くという正当な理由もあるわけだし、また会いに行けばいいだけじゃないか。本当に好きだってことを態度で示すんだ」

「しかし」

 家具屋は云い淀みました。

(彼女が凋落した悪女だという噂は決して信じたくないが、たとえそれにしたところで、家具屋の見習い風情しか声をかける者がいないということが、どんなに彼女を傷つけることだろう)

「くどい」

 ドミニクの図太い声が、家具屋の脳裏に立ち込める暗雲を叩き壊しました。

「とにかく、俺の弟子である以上、飯はしっかり食って、まともな働きをしてもらうからな」


 ※


 その晩、家具屋は空きっ腹を押さえながら、メルの店の前に現れました。気恥ずかしい思いもありましたが、とにかく平静に努めようと意気込みました。

(師匠への尊敬の念がさせるのか、そろそろ頃合いなのか、いずれにしても我ながら単純なものだ)

 自嘲気味に笑うと、少し勇気が出てきました。家具屋はドアを開きました。

「いらっしゃいませ。──あ」

「こんばんは」

 久しぶりに見るメルの横顔は、やはりとても美しいものでした。しかし、家具屋はいつもと違うものに気が付きました。

「その頬、どうされたのですか?」

 メルの顔には、大きな絆創膏が貼ってありました。

「いえ、その。──どうぞ」

 メルは長い髪をかき寄せてそれを隠しながら、家具屋を椅子に誘いました。家具屋はメルの顔から視線を外さずに、おどおどと腰かけました。

「もしかして、誰かにやられたのですか?」

 家具屋は心配して尋ねました。

「え? ああ、違います。転んだんです。本当に」

「転んだ?」

「はい。そこの角で」

「は、はあ……」

「誰かみたいに、喧嘩をしたわけじゃありません」

 メルはそう云って悪戯っぽく微笑みました。久しぶりに会ったはずなのに、家具屋とメルはすっかりもとの和やかな雰囲気に戻っていました。

 その日の食事は、家具屋をこれ以上なく元気づけました。


 ※


 時計が午後九時を回った静寂、家具屋は食後の安ワインを飲み、メルは食器を洗っていました。

「どうして」

 ぽつりとメルが切り出しました。

「え」

「どうして、最近いらっしゃらなかったんですか?」

「ああ、いや」

 家具屋はぼりぼりと頭を掻きました。

「お分かりでしょうに。ちょっと気まずかったんです」

 家具屋は正直に云いました。嘘を云うのは苦手でした。

「私も、待っている間、ずっと気まずかったですよ。もう会えないのかと」

 それは、とてもしっとりとした声でした。落ち着いていた胸のざわめきが、どっと勢いを吹き返しました。その言葉をどう受け止めれば良いのか、家具屋は考えあぐねました。

「いやはや、まあ。でも、もうお気にせずに。良いんです。やっぱり、ここの料理さえ食べられれば僕は」

 家具屋は慌てて付け加えました。

「でも、カウンターの外にいるメルさんも、一目、見てみたかったな」

 アルコールが手伝って、家具屋はそう云ってしまいました。メルの洗い物をする手が、ぴたりと止まりました。

(あ、まずい。またやってしまったか)

 家具屋は俯き、二人の前に横たわるカウンターをじっと見つめました。

「いいですよ」

 それは、何か大きな決断をしたような声色でした。そうしてメルは、ゆっくりとカウンターの淵を辿り、こちらに歩いてきました。家具屋は言葉を失い、息を呑んでそれを見ていました。清楚な長いスカートが、揺れ出てきました。

 メルは家具屋のほうをじっと見つめ、全身を灯りの前にさらしました。

「え、あ、いや」

 家具屋はカウンターの方を向き、思わず視線を逸らしました。調味料の並んだ棚が見えました。

「家具屋さん。驚かないで、見てください」

 メルはいつになく真剣な声でそう云いました。

 そうして、長いスカートをゆっくりとめくり上げるではありませんか。

「ちょっと待った。一体何を」

 家具屋はもう気が狂いそうになりながら、頭を抱えました。

(一体これは、どういう展開だ。僕はいびつな夢を視ているに違いない。あるいはあの晩、海に落とされたときに、僕は死んでいるのだ、たぶん)

 そんなことを考えながらも、恐る恐るメルのほうを振り返ると、そこには驚くべき光景が広がっていました。

 長いスカートの裾の下、そこにあったのは、しなやかな足首ではなく、二本の細い円柱でした。鈍い金属光沢が、家具屋の煮え切った頭に冷や水を浴びせました。

「な、これは、一体」

「ついに、見せてしまいましたね」

 メルは震える声でそう云い、ぱっとスカートから指を離しました。

「家具屋さん。これが、私が外に出ない理由ですわ。私はメリュジーヌ。怪物なの。しかも噂通りのあばずれ女。昔の恋人に、両足をさしあげたのです」

 家具屋はメルの足元にくぎ付けになっていました。もう見えないか細い二本の義足は、すっかり瞼の裏に焼き付いていました。

「失望したでしょう?」

 先日のお返しと云わんばかりに、メルは云い放ちました。

「そんなこと……ああ、こんな秘密が……なんということだ」

 家具屋は頭を抱え、考えました。

「家具屋さん。あなたは素朴で優しい人ですわ。あなたが毎日、料理を食べてくれたこと、私、とっても嬉しかったんですよ。でも、あなたこそ、このお店の中しか知らない。洗っても流せないような汚れたものとか、とても優しい人とかね……」

 その質量の小さな女は、一筋の涙を頬に伝わせながら、悲しいことを云い出しました。

「ねえ、街に出てみてください。きっと毎日食べたくなる料理が、毎日会いたくなる人が、私の他にいるはずですよ」

 家具屋は燃えるような目つきで、その顔を直視しました。そうして、頬の傷がどうしてついたのか、急にその意味を悟りました。家具屋が料理を残して店を出たあの晩、メルは家具屋を追いかけようとしたのです。

 家具屋は、わななきました。

「違う」

 絞り出すような声が、重い静寂を切り裂きました。

「あなたは人魚姫だった……それだけのことだ」

 云うと、メルは声を漏らして泣き始めました。

(この人は、ずっと一人で、世間を生きてきたのだ……)

 家具屋は、メルの勇気にもらい泣きしそうになりながら、残りの酒を煽り、勢いよく席を立ちました。

「ちょっと待っていてください。絶対に、お店を閉めてはだめです」

 そう言い残し、家具屋は店を出て、潮の香りの向こうに消えていきました。


 ※


 家具屋が再びメルの前に現れたのは、朝日が昇る頃でした。メルは、家具屋がもう二度と戻ってこないような不安に駆られながらも、懸命に待ち続けていましたが、憔悴しきってカウンターにつっぷして眠ってしまいました。

「メルさん」

 家具屋はやさしく窓を叩きました。

「まあ、家具屋さん」

 メルはゆっくりと立ち上がり、一歩二歩とドアに近づいていきました。ガラス越しに見えた家具屋の顔も、だいぶ疲れているように見えました。髪は汗で額に張り付き、瞼も今にも落ちてしまいそうです。

「おはようございます。プレゼントをお持ちしました」

 そう云って、家具屋は一歩横にどき、メルの視線を外へと促しました。その仕草は、貴族が舞踏会に誘うように、あるいは画家が傑作を披露するときのように、恭しいものでした。メルは窓に指紋を重ねて、朝日の中を見つめました。

「まあ!」

 それは、世界で一番美しい車椅子でした。

 家具屋は深夜、工房に戻り、作りかけの装飾椅子をメルのために改造していたのでした。

 メルの驚く顔を見ると、家具屋はすぐにそれを店内に運びました。メルも待ちきれないふうにドアに駆け寄りました。

「これを、私に?」

「どうぞ。さ、座ってみて」

 口許を押さえていたメルの手は、ほどなくひじ掛けへと導かれ、温かい木の感触を感じ取りました。車椅子は小気味の良い微かな軋み方で、メルを受け止めます。家具屋がゆっくりと押すと、車椅子は円滑に二人を店内に導きました。

 家具屋はこの店の構造──椅子の間隔や、カウンターの高さや、メルが料理道具を手に取りやすい場所──を熟知していました。メルはあまりの心地良さに脱帽しました。

「あのう、姫。いかがでしょうか。この椅子で、どうかお出かけしてみませんか?」

 家具屋は真剣に云いました。メルは、家具屋からは見えないはずの顔を両手で覆い隠し、泣き笑いしました。

「ありがとう、家具屋さん。本当にありがとう……」

 こうして、メルと家具屋は、その朝、一緒に店の外に出ました。石畳がしっとりと朝露に濡れ、海風の穏やかな朝でした。

「ねえ、家具屋さん」

 涙が乾いたころ、メルがぽつりとつぶやきました。

「はい」

 家具屋は真剣に云いました。メルは恥ずかしそうにはにかみ、そして申し訳なさそうに尋ねました。

「ごめんなさい、一つ教えてもらって良いかしら?」

「え、なんでしょう?」

「家具屋さんのお名前……。実は私、まだ知らなくて」

 車椅子の中で、メルは小さい背中をさらに小さく丸めて、じっと前を視ています。

「なんと、そうでしたか」

 家具屋は笑い、しばし空を仰ぎました。少し遅れて、メルも笑ったようでした。二人の頭上では、白い海鳥がゆっくりと、ゆっくりと旋回していました。


 END


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