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作者: starsongbird

 思わず見上げた窓の向こうから、銀色の光が僕に注ぐ。

 僕を照らす明かり。この部屋を青白く染める灯火。

 ――月が出ているんだ。

 そう思った瞬間、背中を貫く感覚に僕は歯を食いしばる。

 次々と押し寄せる熱を持ったその感覚に、僕は再び顔を伏せる。

 部屋の中央でうずくまる僕。

 そして、僕の下で、仰向けに横たわる彼女。

 真っ直ぐに僕を見つめる彼女の瞳と、身体を止めどなく突き抜けていくうねりに、僕は目を閉じ、そして彼女を強く抱き締めながら祈りを捧げる。

 CASよ。

 僕に、力を。

 そして、彼女に、どうか救いを―――――。




「高室くん、留年しちゃったってホント?」

 四月当初の研究室に響き渡る月森明日未の声に、僕は両耳を押さえて聞こえない振りをする。

 そんな僕の様子に構わず、月森は「いやー、元気出しなよー」と嬉しそうに僕の背中を何度も叩く。

「月森、何がそんなに嬉しいんだ。へくしっ」

 自分の長い髪で作ったこよりを僕の鼻に入れようとする月森。

「お前、仮にも後輩だろう?」

 鼻水をすする僕に、月森はすっと顔を近づける。

「祐介くん、わたし、誰にでもこういうことするわけじゃないんだよ?」「僕にもするなよ。あと、下の名前で呼ぶな」「別にいいじゃないのさー」

 髪の先っぽをくるくると指先に絡ませながら口をとがらせる月森。

 去年の今頃は髪も短くって、素直で可愛い新入生だったのになあなんて思いながら、僕は大きなため息をついてみせる。

「まあいいじゃないの。今年からは同級生なんだし。わたし、ちゃんと代返しといてあげるよ?」

「性別違うだろ」

「物真似得意だよ? えーと、『つきもりー、二日酔いなんで自主ゼミ休むわー』。どう、どう?」

 それは誰の物真似だ、と思ったら周りの皆がおー、と拍手してる。そんなに似てたのか、今の。

「……じゃあ、木曜一限の国文学概論頼む」

 僕の言葉に、まかしとけと言わんばかりに月森は胸を叩く。

「うむ。一回につき『櫓太鼓』で一おごりで手を打とう」

 そう言って彼女は笑顔で舌をぺろっと出してみせる。

 ……二十歳を過ぎてそんなことしたって、別に可愛くはないのだが。



 僕と月森明日未は、この地方大学の小さな研究室の先輩後輩という関係だ。いや、だったというのが正しいか。

 もともと学年が一つ違うだけで、しかも彼女は一浪してるので同い年。人数の少ない自主ゼミで一緒になっているうちに、こんな上下関係の全くない間柄になってしまった。研究室のみんなからは、「お前達の夫婦漫才は学祭に出せるレベル」との評価をいただいている。僕は全然嬉しくないのだけれど。

 


「ということで、早速今日も飲みにいきますか。由喜ちゃんと三人でどう?」

 お猪口をくいっと傾ける真似をする月森。こいつはおっさんなんじゃないかと思いながら、僕は今週の予定を思い出す。

「あ、今日はバイトで明日は別件」

 僕の言葉に、「ちぇー」と頬をふくらませる月森。彼女は僕と同じで一人暮らしなものだから、用事がないと暇なんだろう。

「まあ仕方ないか。由喜ちゃん、今日どうするー?」

 振り返る月森の視線の先で、彼女と同級生の楠由喜がうーんと首を傾げる。

「そうですね、このあいだ録画した怖い番組でも一緒に見ます?」サイドで束ねた髪を揺らしながら、彼女はぽん、と手を打つ。

「うえー、由喜ちゃん怖い話好きだもんねえ」あからさまにやだーと言わんばかりの月森。

 楠の怖い話好きは、研究室内では周知の事実だ。昨年などは彼女の可愛い外見に騙された多くの男子が夜のデートに果敢に挑戦し、見事に玉砕しまくっていた。「あいつといるとホントに出る」とは僕の同期のコメントである。

「その番組はすごかったんですよ。久しぶりにわたしも怖かったです」と楠。彼女がそう言うのであれば、よほど怖い内容だったに違いない。

「楠、どんな番組だったの?」

 そう言って訊ねる僕。月森も興味深そうに耳を傾けている。

「んーと、幽霊屋敷を番組のレポーターさんが取材するんですけど、それがですね、東出雲町にあるみたいなんですよ」

「え、東出雲町って隣町の?」昔住んでいた町の名前が出て、僕は思わず聞き返した。

「はい。どうやら昔、そこに住んでいた家族三人が殺害されて、犯人も近くで自殺したっていう事件があったみたいで。そのお家に、毎晩出るらしいんです。ちなみに、番組でも映ってました」

「由喜ちゃん、やめてーっ!」

 両手をだらりと垂らす楠に、耳を押さえてわーっと叫ぶ月森。

 そんな月森に構わず、楠が言葉を続けた。

「わたしが見た時は、二階の窓に女の子が見えましたよ」


――――――Interrupt.


「やめてよう、由喜ちゃん……どうしたの、高室くん?」

「……テレビでそこまで映すなんてすごいな。月森、見たら泣いちゃうんじゃないか?」

「な、泣くわけないでしょっ! よし、由喜ちゃん、今日はそれ見よう! ……でも、他の映画とかも見ようね?」

「いいですよ。『呪怨』にしましょうか? それとも『回路』の方がいいですか?」「由喜ちゃん、お願いだから怖いのやめてー」

 涙声の月森を慰めようと、僕は彼女に救い船を出してあげることにする。

「月森、『死霊のはらわた』面白いぞ。外国映画なのにワサビとか出てくるし。月森、刺身好きだったろ?」

「なんで映画のイメージがワサビなのよ、絶対怖いんでしょーっ!」

 半分涙目の月森にぽかぽかと叩かれながら、僕は先ほどのメッセージに首を傾げる。

 脳裏に響き渡った「Interrupt」のメッセージ。

 それは、僕の頭にある『CAS』――コミュニケーション・アシスタント・システムが発したものだった。



 CASは、二十一世紀に発明された生体装置だ。

 外科手術によって頭に埋め込まれたCASは、脳全体に張り巡らされた神経細胞の動きを見ては神経伝達物質の分泌を調整する。脳の中を四六時中走り回る電気活動やら神経伝達物質の量やらをどう監視して調整してるのか、僕にはとても想像がつかないけれど、当時も今も、それはとんでもない発明なのは間違いない。それによって過度な脳の活動による病気の幾つかが治療され、言語機能に関する障害の幾つかが解消されたと、CASに関する本にはよく書かれている。

 そんなCASを僕は小さい頃に付けることになって今に至っている。

 CASは、月森に頭を叩かれている今だって動いてるし、楠を含めた三人での雑談の時も作動していた。ちなみに二日酔いの朝も働いているけど、頭の中で鳴り響く音と痛みは防いでくれないし、試験の最中も機能しているけど答えを見つけてくれたりはしない。

 CASを付けていると言葉に詰まることはなくなるという話もあるけど、的外れなことは普通に口から出たりもする。

 間違いなく世紀の発明だけれども、普通の生活をしている普通の人には何の役にも立たない存在。

 だけど時々、Interruptというメッセージを発して自分をPRしてみたりする。

 CASとはそういう装置なのだ。



「穂村、こっちは全部洗ったぞー」

「あーい、店長、上がっていいですかー?」

 おう、ご苦労さんという店長の言葉に、僕とバイト仲間の穂村はエプロンを外す。

 タイムカードを押して外に出ると、穂村はおもむろに煙草に火を点けた。

「いやー、六時間も我慢すると煙草が美味いなー」

 ただの煙だろ、という僕の言葉に「いやいや、健康に悪い煙だよ」と笑って答えながら、穂村は紫煙をくゆらせる。

「そういえば高室、明日の約束覚えてるか?」

 穂村の言葉に頷く僕。

「飲み会だったっけ?」

 僕の言葉に、穂村は違う違うと手を振る。「明日はドライブだよ、ドライブ」

 その言葉に僕は顔をしかめてみせる。穂村には悪いけど、僕は男二人でドライブをするほど車には興味がない。

 そんな僕の表情に「ああ、二人っきりじゃない。あれだ、女の子を誘ってるよ」と言葉を続ける穂村に、僕は少なからず驚いた。穂村はいいヤツなんだけど、どう考えたって女の子を誘えるタイプじゃない。

 どうやら話を聞いてみると、たまたま大学の近くの居酒屋で友達と酒を飲んだ時に、近くにいた女の子が話に割り込んできて、結構盛り上がったらしい。それで今回ドライブに、ということになったようだった。

「それなら一緒にいた友人と行けばいいのに」と僕。

「いや、そいつ今回は遠慮するって言うし」

「? だったら、二人きりでドライブしたらどうだ?」

 僕の言葉に、穂村は指をもじもじさせた。大の男がそういうことをするのは止めてほしい。

「俺、女の子と二人で何を喋っていいか分からないし」

 僕は心の中で大きく天を仰ぐ。ドライブ中に僕にしか話しかけてこない穂村の様子が思い浮かぶ。なんでドライブすることにしたんだ、こいつは。

「……まあいいや。せっかく穂村が女の子を誘ったんだから、協力するよ」

「悪い、高室。恩に着るよ」

 手を合わせる穂村に、僕は「ただし」と言葉を続ける。

「ただし、今から酒おごってくれればだけど?」

 僕の言葉に天を仰ぐ穂村。僕は「安いもんだよ、ささ」と言いながら、飲み屋の並ぶ伊勢宮町へと穂村の背を押していった。




 自宅のアパートへ戻った僕は、千鳥足でベッドに倒れ込んだ。うー、頭がぐらぐらする。ついでにがんがんと鳴り響いてたまらない。

 穂村のおごりでお酒を飲んだのはいいけれど、気づけば今は朝の四時で、そろそろ新聞配達が来てもいい時間帯だ。

「たかむろー、これが本当に可愛い子なんだよお」と嬉し涙を流しながら酒を飲む穂村の話を聞いているうちに、こんな時間になってしまった。こりゃもう起きるのは昼過ぎになるなあ、なんて思いながら、僕は何とか布団に潜り込む。けろけろーというのも既に帰り道で済ませずみ。後はもう寝るだけだ。

 少し冷たい布団の感触の心地よさを感じながら、今日はぐっすりと眠られそうだと僕は床につき、そして深い眠りに落ちていく。



はずだった。



「みすずー、晩ご飯できたわよ。早く降りてらっしゃい」

 お母さんの声に、わたしははーいと答える。ふと机の時計を見ると、もう夜の七時だ。

 やりかけの夏休みの絵日記を閉じると、わたしはうーんと背をのばして窓の外を見る。

 すっかり暗くなった外の景色の向こうに、わたしは提灯の明かりを見つけたような気がして、ついにっこりしてしまう。

 そう、今日は夏祭りの日なんだ。

 わたしは立ち上がって窓の近くに歩いていく。窓を開けたら祭りのお囃子が聞こえないかなー、なんて思いながら。

 いつもはお父さんとお母さんと三人で行く夏祭りだけど、今年は近所のゆうすけくんと四人のお祭りだ。

 ゆうすけくんは近所の子で、わたしより五つ年下の男の子だ。いつも一緒に登下校したり、みんなで遊んでるけれど、ちょっと大人しくて、からかわれたりしてる。そんな時はわたしが助けたりしてる。

 いつもは別々に夏祭りに行くけれど、今回はゆうすけくんのお父さんとお母さんはお仕事みたい。

「美鈴ちゃん、ゆうすけのことお願いね」とゆうすけくんのお母さんにもお願いされたし、今日はわたしがゆうすけくんのお姉さんというわけだ。うん、しっかりしなくちゃ。

 わたしは窓から家の前の道路を見下ろす。もう少ししたら、ゆうすけくんが家に来るはず。

 その前にご飯を食べて、浴衣を着ておかないと。そう思ってわたしは身体を翻して部屋のドアノブに手をかける。

 その時、ドアの向こうから大きな音がした。

 ? なに? お母さんが食器でも落としたのかな?

 そう思って、わたしはドアを開けると部屋から出て階段を下りようとした。

「あ、お父さん」

 階段の下にお父さんの姿を見つけてわたしは声をかける。お父さん、お母さん大丈夫? って。

 その瞬間、お父さんはわたしの方を見て、

「美鈴っ、来るなっ!!」

 と大声で叫んで、そして、再び姿を消してしまった。

 ? お父さん?

 わたしが一歩階段を下りた瞬間。

 玄関の方から大きな音が何度も何度もした。

 そして最後に、苦しそうな声が聞こえて、一階が静かになった。

 ? なに? お父さん?

 わたしがもう一歩階段を下りようとした時だった。

 階段の下に、人影が見えた。

 わたしの知らない男の人だった。

 右手に真っ赤な包丁を持っていた。

 そして、わたしと、目が合った。

 次の瞬間、わたしは自分の部屋に駆け込んだ。ドアを閉じて鍵を閉めようとする。

 なに? 誰なの? 身体ががくがくしてくる。手が震える。ドアノブの鍵がつまめない。ドアの向こうから響き渡る階段を駆け上ってくる音が大きくなってくる。わたしは両手で鍵をつまんで回す。お願い。

 かちゃり、と鍵がかかった。

 次の瞬間、大きな音とともにドアが震えた。何度も何度もドアが揺れる。

 なに? 何が起こってるの? お父さん? お母さん? こわいよう……。

 きしむドアの向こうから聞こえる、ひゃひゃひゃひゃと誰かの笑う声に、わたしの目から涙が出てくる。誰なの、あの人は何でこんなことするのと、わたしの頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 その時だった。

「みーすーずーちゃーんっ!」

 窓の向こうから聞こえた声に、私は顔を上げた。

 ゆうすけくんだ。

 わたしは転げそうになりながら窓を開ける。

 街灯に照らされたわたしの家の前には、かわいらしい水玉の浴衣を着たゆうすけくんが、わたしに向かって手を振っていた。

「みすずちゃーん、夏祭りに行こうよー」

 そう言って笑顔で手を振るゆうすけくんの姿を見て、わたしは涙がぽろぽろと出てくる。

「ゆうすけくん―――」

 たすけて、と言おうとした瞬間、後ろから響き渡る音がわたしの心に突き刺さった。

 だめだ。

 ゆうすけくんは、まだ、一年生なんだ。

『美鈴ちゃん、ゆうすけをお願いね』

 ゆうすけくんのお母さんの言葉が思い浮かんで、わたしは喉から出かかっていた言葉を呑み込んだ。

 わたしは、お姉さんなんだ。

 家の前できょとんとするゆうすけくんに、わたしは涙をぬぐって笑ってみせる。

「ゆうすけくん、わたしね、ちょっと遅刻しそうなの」

 わたしの言葉に、ちこく? と首を傾げるゆうすけくん。

「だから、晶おばちゃんの家で待っててね? 場所分かる?」

 わたしは通学路の途中にある晶おばさんの家を伝える。下校する時にときどき寄り道してお菓子を食べさせてもらったりする家だ。ゆうすけくんも覚えてるだろう。

「うん、晶おばちゃんの家で待ってる!」

 しばらくして、ゆうすけくんは笑顔で手を振ってくれた。

「みすずちゃん、早く来てね」

「うん、すぐ行くからね」

 わたしは精一杯に手を振ってみせる。そんなわたしの様子に、ゆうすけくんは手を何度も振りながら、わたしの家から走っていく。

 ゆうすけくん、浴衣姿かわいかったなあ。

 一緒に夏祭り行きたかったなあ。

 そう思うと、わたしの目からまた涙がこぼれてくる。

 でもきっと、二度と一緒に行くことはできないんだ。

 ドアを破ろうとする音が部屋に鳴り響く中、わたしは一人、泣き崩れていた。



 男が刺す。彼女の首を。彼女の背を、腕を足をのたうつ彼女に覆い被さり包丁を振るう度に飛び散る血が男の服に腕に顔に彼女の腹に背に顔に降りかかり叫び声と笑い声が部屋中に響き渡るのを止めろ止めろもうお願いだから止めてくれ―――――――――――っ!!!


 いくら叫んでも足りないくらいの絶叫を喉から絞りつつ僕はベッドから跳ね起きる。肺の中の全ての空気がなくなっても続く叫び声が、僕の身体を貫いていく。

 まただ、どうして、こんな。

 むせるように咳き込みながら、僕はベッドから転げ落ち、這いつくばりながら冷蔵庫へ向かう。

 次の瞬間、体中に駆け回る刺すような激痛に、僕はフローリングの上でのたうち回る。まるで彼女を刺した包丁が自分をめった刺しにしているような感覚に、もう出きったはずの叫び声が僕の喉から吐き出されていく。

 骨に刃が当たる。僕の背中に突き刺さる。僕の腹を首を頸動脈を裂いていく感触が体中を走り回る。そして、耳に男の笑い声が響き渡り、僕の幼なじみのすすり泣く声が僕の心を壊していく。フローリングの床をかきむしってもどうにもならない悪夢のような世界に、僕は耐えられず、もういっそのこと―――――。


―――――――――――Interrupt.


 その瞬間、世界に静けさが戻っていく。

 体中を走り回っていた激痛も男の哄笑も、そして彼女の悲痛に満ちた声も、全てが波のように消え去っていく。

 CASか。

 僕は荒い息をつきながら、フローリングの床から身を起こす。

 CAS。

 コミュニケーション・アシスタント・システム。

 それは、がらくたになった僕を救う、たった一つの救世主の名前だった。



 僕が幼なじみの藤村美鈴の死を知ったのは、彼女と最後に別れてから数年経った後だった。

 家に届いた配達物の包み紙に使われていた新聞に載っていた記事に、僕はあの日、何が起こっていて、そして自分が何もできなかったことを知った。僕が最後の挨拶を済ませた後に、彼女が全身を何十箇所も滅多刺しにされたことを知った。

 その次の日から、僕は毎夜彼女と出会った。

 僕と笑顔で別れる美鈴。そして、見ず知らずの凶人に襲われる美鈴。

 毎晩繰り返される惨劇に、僕は寝る度に絶叫と共に跳ね起きた。父に押さえられ、母に泣きつかれる中、僕は途切れることのない絶叫を喉の奥の底から吐き出し続ける毎日を繰り返した。

 僕の家族は東出雲町を去り、それでも何も変わらず悲鳴を上げ続けた僕は病院に運び込まれた。そして病室でも変わることなく、毎夜僕は美鈴の夢を見ては叫び声を上げた。

 そんな僕を救ったのが、CASだった。

 脳を開き、CASを埋め込む手術を行った翌朝、僕は彼女の夢を見なくなった。

 脳の中の電気活動や神経伝達物資を監視し、過度の反応を調整するというCASの機能が、美鈴の夢をInterruptしたのだった。

 そう、僕の今は、CASのおかげなのだ。


 でも。


 額の汗を拭いながら、僕は冷蔵庫の扉を開ける。扉と棚を埋めるビールの缶を手に取ると、僕はプルタブを開けて中身を一気に喉に流し込む。

 苦い。

 こんなもの、美味くもなんともない。

 それでも僕は、ビールを流し込まずにはいられない。瞬く間になくなった空き缶を放り投げ、僕は次のビールを開ける。もう一つのCASの機能を忘れ去るために。

 脳内の電気活動や神経伝達物質を監視し、調整をするCAS。僕の心が壊れそうになった時、Interrupt.の音と共に防いでくれるCAS。

 そのもう一つの機能は、『意思疎通支援機構』だった。

 昔読んだCASに関する本に、こんな感じで書いてあったことだ。

『時節に合った言葉というものがある。空気を読むという言葉もある。その場所、そこの雰囲気、そこにいる相手。さまざまな条件によってふさわしい言葉は違うだろう。CASは、君の持つ経験に沿って、その場に合った言葉を紡ぎ出す。言ってみれば、君のために「空気を読む」ことができるのだ』

 誰もが普段の生活の中で普通に行っていることを、CASは本人の代わりに機能する。美鈴の夢を見過ぎて壊れてしまった僕の代わりにCASは機能してくれる。

 友達と話す時も。

 演習で発表する時も。

 飲み会で馬鹿騒ぎする時も。いつも。

 そのことに気づかされたのは、高校の時だった。


『高室はいいなあ、CASがあるから』


 何でもない一言だった。その言葉を僕に告げたクラスメイトも、普段の何気ない会話の中で、何の深い意味もなく言ったのだと思う。

 でも、その言葉は、僕とCASを決定的に切り裂いた。

 こうして皆と楽しく話しているのは、僕ではなく、CASなんだろうか。

 好きだったクラスメイトに告げた告白の言葉は、CASが作ったものだったんじゃないか。 

 誰かに笑いかけ、そして誰かに笑いかけられることも、僕ではなくCASがしていることなんだろうか。

 僕のそんな思いにCASは何も答えてくれず、僕の心には少しずつざらついた砂が積もっていった。

 そしていつしか、僕は酒を飲むようになった。一人になった瞬間、その日にあった出来事が蘇り、その一つ一つが全てCASの行ったことだいうことを忘れるために、僕はひたすら酒を浴びた。操り人形のような僕を忘れるために。CASに支配された僕という存在を消し去るために。だから今日も、僕は次々とビールを喉に流し込んだ。

 穂村と酔っぱらって馬鹿話をしたCASを消し去るために。

 月森たちとふざけ合うCASを忘れるために。

 何本ものビールを開け、ようやく僕の意識が薄れていく。

 朝の到来を告げる山鳩の声が窓の外から流れ込んでくる部屋の中、僕は今度こそ、深い眠りにつく。

 それしても。なぜ今頃、美鈴の夢を僕は見たのだろうか。CASを付けてからずっと、こんなことはなかったのに。

 しかし、そのことを考える前に、僕の意識はCASと共に眠りの淵へと落ちていった。



「それじゃあ、ちょっと待ち合わせ場所に行ってくる」

 そう言って車から離れる穂村に片手を上げながら、僕は助手席のシートに深々ともたれかかる。

 夕方の駅前を行き交う人を、僕は何とはなしに目で追ってみる。

 CASは起動しているけれど、誰と喋る必要もない時間。それはCASに苛まれることもない、美鈴の夢におびえることもない、とても貴重な時間だった。

 そんな大切な時間がこんこん、という音で中断される。僕はため息をつきながら窓ガラスを開け、「初めまして」と穂村の隣にいるであろう彼女に挨拶をしてみせる。

 はずだったのだが。

「あれ?」

「あれ?」

 僕と車外にいる人影が同時に声を上げる。

「あれ、楠? あ、なんで月森までここに?」

「そういう高室くんこそ、こんなところで何してるの?」

 互いを指さす僕と、そして月森。

「あれ、三人とも知り合いだった?」

 立ちすくむ僕ら三人の前で、穂村が一人ずれた笑みを浮かべていた。



「まさか月森とドライブをするなんて、高室祐介、一生の不覚」「あ、なに、そういうこと言ってくれやがるわけですか」

 国道九号線を東に走る車中は賑やかだ。とは言うものの、喋っているのはほとんど僕と月森だけれど。

 空気の読めない穂村を問い詰めたところ、どうやら居酒屋で意気投合したのが楠だったらしい。あの楠の興味をどうやって引くことができたのか興味津々だが、穂村は「まあ、その、いずれ分かるよ」と言葉を濁してみせた。あれだ、きっとマニアックなホラー映画の話でもしてたのだろう。

 で、もう一人。月森がなぜここにいるのかというと。

「そりゃあ、由喜が変な男にかどわかされてはいけないからね」と胸を張る月森。

 確かにこいつには姉御肌なところもあるなと納得の僕に、楠が静かな声でそっと囁く。

「明日未と昨日、夜中に怖いテレビを見たんですけど」「ああ、研究室で話していたあれ?」

 その言葉に頷く楠。

「そうしたら、明日未、怖くて家に帰れなくなっちゃって。『わたしも付いてくー!』って泣きながらわたしに懇願しました」「由喜ちゃんそれ言っちゃだめーっ!」

 半泣きで楠の口を塞ごうとする月森に、僕は大きくため息をついてみせる。

「月森、ワサビ美味しそうだったろう?」「高室、あんたも何てもの見せてくれるのよ! あんなのワサビじゃなーい!」

 後部座席から僕の首を絞める月森にタップしてみせる僕。大丈夫ですかと言いながら助けるつもりの欠片もない楠。そんな様子に苦笑する穂村。

 僕らを乗せた車は左手を流れる大橋川から離れ、やがて松江市から東出雲町へと入っていく。

「そういえば穂村、ドライブでこっちに行くのは珍しいな。大根島とか宍道湖周遊とかじゃないのか?」と訊ねる僕。この時期なら海ホタルを見る、というのもありだけど、わざわざ美保関まで行こうとしているのかな、と僕は首を傾げる。

「高室さん、そんなところには行かないですよ」と穂村の代わりに答えたのは楠だった。

「え、じゃあ黄泉比良坂とか?」と聞く月森に僕も頷く。東出雲町にはそういう名前の旧跡があるのだけれど、楠の好みからしたらそんなとこぐらいしか思い浮かばない。

「違いますよ。ふふ、もうすぐ分かります」

 小さく笑う楠にちょっと不安そうな顔の月森。

「ふーん、他に東出雲町に何かあったかなあ」と呟きながら、僕は街中に入った車の窓から何気なく外を眺める。

 街灯に照らされた街並み。

 知らない街並みの中に、時おり昔からの覚えのあるお店を見つけて、僕は少し懐かしい気持ちになる。ああ、あそこのお店では母と一緒に買い物をしたな、と。

 次の瞬間、僕は愕然と周囲を見回していた。

 変わってしまっているけど、確かに見覚えのある街並み。それは間違いなく、僕が昔住んでいた東出雲町の一角の風景だった。そう、この通りを過ぎて、コンビニエンスストアのある角を右に曲がって。

「穂村さん、もうすぐでしたよね?」「ああ、そこを右に曲がってしばらく行ったところだよ」

 僕のイメージ通りに車は曲がっていく。住宅街の少し外れにある一角へと、ゆっくりと進んでいく。

 僕の脳裏に、一人の少女の姿が浮かび上がる。

『ゆうすけくん、わたしね、ちょっと遅刻しそうなの』


―――――――――Interrupt.


「穂村さんから話を聞いて、わたし、一度来てみたかったんです」「由喜ちゃん、ここって」

 月森の声に、楠はくすくすと小さく笑う。

「明日未ちゃん、ここがね、昨日一緒に見たお家なんだよ」

 楠の言葉と同時に、車がゆっくりと一軒の家の前で止まる。

 街灯に青白く照らされた、一昔前の二階建ての家。

 そこは、僕の幼なじみ、藤村美鈴の住んでいた家だった。



「ふーん、今は姿が見えないのね」

 ――――Interrupt.

 車から飛び出し、錆びた門扉をくぐっていく楠を月森と穂村が追っていく。

 ――――Interrupt.

 玄関のドアを開け、暗闇に包まれた家の中に、楠の姿が消えていく。

 ――――Interrupt.

 入り口の三和土でみんなに懐中電灯を渡す穂村と、「由喜ちゃん、ちょっと、だめだよ、こんなの」と楠を止めようとする月森。そんな彼女を無視し、家のあちこちを照らす楠。

 ――――Interrupt.

 明かりに浮き上がる、壁にかけられた油絵。上がりかまちのカーペット。所々が黒く滲む床。

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 CASが僕の思考を止める。何かを見るたびに引き起こされる僕の思考を止めようと、CASが僕の頭の中で悲鳴を上げているのが分かる。

「ここにもいないのね。やっぱり上に行くしかないのかしら」照明の陰になって表情の見えない楠の声が響き渡る。楠の持つ懐中電灯の明かりが、美鈴の部屋へとつながる階段を浮かび上がらせる。

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

「さあ、行きましょうよ」

 その言葉に続いて聞こえる、階段のきしむ音。「由喜ちゃん」という声に、続けて「高室くん、由喜ちゃんを止めて、お願い」と月森の言葉が僕に投げかけられる。

 でも、僕は月森に何も言葉をかけることができない。

 何か口に出した瞬間、今の僕は、きっと壊れてしまう。

 それを防ぐためにCASは僕の思考を中断させようと必死に稼働する。だから僕は何も考えられない。何も喋ることができない。

 楠に続けて階段を上っていく足音が暗闇に響いていく。

 その後に続く僕。美鈴の部屋へと足を進める、僕。

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 一歩一歩進む度に頭の中に響き渡るInterruptの作動音は先ほどから止むことはない。警告を鳴らし続けるCAS。その度ごとに脳裏に走る美鈴の顔。知らない男の姿。夕闇の中に、鈍く光る包丁。

 おそらく、もう、これ以上の負荷にCASは耐えられない。お願いだから、もう。

 その時、僕の歩みが止まる。

 二階にたどり着いた四人。その前にある、蝶番の外れて傾いたドア。何度も見たことのあるドア。

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

「開けますよ」とドアノブに手をかける楠。

 ――――Interrupt.

 だめだ。

 ――――Interrupt.

 そのドアを開けないでくれ。

 穂村と月森を見る僕。まるで彫像のように固まった二人。

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

 ――――Interrupt.

「さあ、入りましょう」

 楠の声と共に、ドアノブの回る音が響く。

 ゆっくりと、美鈴の部屋が視界に入る。

 楠の懐中電灯の明かりが、カーペットに浮き上がる濃い染みをくっきりと浮かび上がらせる。

 そして。


 ―――――――Can't Interrupt――――


 CASが、砕け散った。

 その瞬間、僕は喉の奥の奥から叫び声を迸らせながら、転げ落ちるように階段を、廊下を、そして玄関を飛び出していた。





「……高室くん?」

 美鈴の家の庭でぼんやりと佇む僕の背中に、月森の声が届く。

「大丈夫?」

 心配そうに僕に声をかける月森に、けれど僕は何も答えられない。

「顔色悪いよ? 車に戻って休む? ううん、早くここから帰ろう」

 ――いや、大丈夫だよ。

 ――ああ、早く引き上げよう。

 頭の中に次々と言葉が浮かんでは消えていく。どの言葉を拾えばいいのか、何を口の端に上らせればいいのか。それを選んでくれていたCASは、壊れてしまってもうどこにもない。

 僕の目の前で、心配そうに顔を覗き込む月森。

 その肩越しに見える美鈴の部屋の窓に、僕の脳裏にあの日の光景が浮かび上がり、だめだ、見せないでくれ、もう嫌なんだ。

 助けてくれ、CAS―――。

「……CAS? 高室くん、CASがどうかしたの?」

 月森の声に、いつの間にかうずくまっていた僕は彼女を見上げる。僕の背中をさする、心配そうな月森の顔。だけど、僕は彼女に声をかけることができない。

「もう駄目なんだ。僕には、もう、CASがない」

 ぐちゃぐちゃになった頭のままで、僕は彼女に、脈絡もない言葉を吐き出していた。





「はい、コーヒー。甘いの飲むと落ち着くよ」

 月森の差し出した缶コーヒーを受け取る。

 僕たちは二人、コンビニの前にしゃがみ込み、黙ってコーヒーをすすった。

 コンビニへの道すがら、僕は月森に打ち明けていた。

 昔、この辺りに住んでいたこと。

 自分には藤村美鈴という幼なじみがいたこと。

 一緒に夏祭りに行くはずだった日に、彼女が殺されたこと。それがあの家だったこと。

 そして、そのことを知った自分はCASを付けたこと。それからずっと、みんなと話し笑うことをCASがしていたこと。月森とふざけ合うのもみんな、自分じゃなく、CASがやっていたこと。それがたまらなく嫌だったことを。

 僕が涙と一緒にそんなことを話している間、月森は何も言わず、ただ僕の手を引いて歩いていた。

 僕の言葉を聞いて彼女がどう思ったか、CASが壊れてしまった僕には分からない。

 けれど、彼女の手の温かさは、僕の冷え切った手のひらから伝わってきていた。

「高室くん、あのね」

 缶コーヒーを置くことりとした音と一緒に、月森が呟く。

「美鈴ちゃんのこと、わたし、何て言っていいか分からないけれど、あのね」

 地面を見つめる彼女の横顔を、僕は黙って見つめる。

「CASのこと、そんなに気にしなくていいと思うよ」

 ぽつりと呟く月森。

 彼女の言葉の意味が分からず、こんな時に助けてくれたCASも今は無く、僕は黙り込む。

 しばらくの時間が過ぎた後、再び月森が口を開く。

「高室くん、CASが自分の代わりに人とコミュニケーションとってるって言ってたけど、わたしは違うと思う」

 うつむく僕の隣で、月森が言葉を続ける。

「嬉しい時の言葉、悲しい時の言葉、CASは別に辞書を持ってるわけじゃないよ。ふざけて相手の頭を叩く加減、べろべろばーって舌を出してみせること、CASを付けてる人みんなが同じことをするわけじゃないよ。CASが高室くんの中に棲みついて何かしてるわけじゃないよ。高室くんのしたいことを、CASがお手伝いしてるだけなんだよ。だからね」

「違う」

 彼女の言葉を遮るように僕の口から言葉がこぼれる。

 こちらを見る月森と目を合わせないまま、僕は地面に言葉を投げかける。

「違う。僕の言いたいことじゃないことでも、CASが勝手に喋るんだ。僕が思うより早く、CASが動いて口を開くんだ。僕とCASは違うんだよ」

「それは違うよ」

「違わない」

「違う」

「違わない」

 月森の言葉に、僕は意地になったかのように言い返す。こんなことが言いたいわけじゃないのに。コーヒーありがとうとか、今日はごめんとか言いたいのに。ぐちゃぐちゃの頭の僕は、違う違うと繰り返す。

「高室くん――――」

「月森には分からないんだ」

 月森の言葉を遮るように、僕は頭を何度も振る。

「CASを付けている僕の気持ちなんて、月森には分からない。僕を置いてきぼりにして喋るCAS。それを遠くから眺める気持ちなんて、CASを付けてない月森に分かるわけがないんだ」

 僕は荒い息を吐きながら、両手で顔を覆う。

 違う。こんなことが言いたいわけじゃないのに、と。

 僕と月森との間に静かで冷たい時間が流れた。

 やがて。

 ぽつりと月森が呟いた。

「分かるよ、わたしにだって」

 僕は顔を上げ、隣の月森を見た。

 少し悲しそうな、でも笑顔の月森がそこにいた。

「分かるよ。だって、わたしもCASを付けているから」

 彼女はそう言って夜空を見上げた。



「わたしね、いじめられっ子だったんだ、ずっと」

 缶コーヒーに時々口をつけながら、月森はぽつりぽつりと話し始めた。

 小学校のこと。

 中学校のこと。

 高校のこと。

 そして、高校一年生の夏、CASを手に入れようと思ったこと。そのためにお金を貯め始めたこと。

 お小遣いだけじゃ足りなくて、アルバイトを始めて。

 色々なアルバイトをして、高校三年生の終わりに、ようやくお金が貯まって。

 手術を終えた病室で、つるつるになった頭を鏡で見た時、嬉しくて何度も何度も頭を撫でてみたと彼女は笑ってみせた。

「わたしね、CASが大好き」

 僕に向かって彼女は言った。

「CASのおかげで、今のわたしがある。どんなにいじめられても、毎日ただじっとうつむいて黙ってばかりだった自分を、CASは助けてくれたよ。みんなと一緒に飲み会で騒いだりする時も、自主ゼミで話し合ったりする時も、ううん、朝みんなにお早うって挨拶する時だって、CASがわたしを助けてくれてる。こんなに楽しい日々、わたしには初めてのことだから」

 だからね、と彼女は僕を見た。

「だから、高室くんもCASのせいだ、なんて思わないでほしい。CASはね、高室くんを守るためにあるんだから。高室くんを苦しめるものじゃないんだよ?」

 そう言って微笑んだ月森に、僕はけれど、何も言葉を返すことができなかった。

 そんな僕を見て、彼女は寂しげな表情を一瞬浮かべた後に腰を上げた。

「わたし、二人を呼んでくるね。今日という今日こそは由喜を叱らないと」

 彼女は空き缶をそっとゴミ箱にしまうと、「高室くんはここで待っててね」と言って住宅街へと姿を消していく。

 僕はそんな彼女の後ろ姿を見ながら、ぼんやりと星の瞬く夜空を眺める。

 CASが助けてくれたと笑う月森。

 靴を捨てられ、鞄の中身を隠され、遠足のグループで除け者にされ。いつもいつも一人にさせられてた月森。そんな自分を助けてくれたCASを大好きだと言った月森。

 そうだろうか。CASは僕を押さえ込んでいたのではなくて、僕をいつでも助けていてくれてたのだろうか。

 星空を眺める僕のこころに、昔の記憶が飛び飛びに浮かび上がる。美鈴の夢を見て毎夜叫び声を上げていた、壊れてがらくたになった僕。それを助けてくれたCAS。がらくたになって、人と満足に話すことが出来なくなっていた僕。それを助けてくれていたCAS。

 そして、僕を守るために、壊れてしまったCAS。

 いつの間にか視界がにじんでいたことに気づき、僕は何度も顔をぬぐった。

 CASは確かに僕を守ってくれていた。夢に脅え、人を怖がっていた僕を。それなのになぜ、僕はCASを嫌うようになってしまったのだろう。自分が言おうとしたこと、思ったことを、CASは僕が言葉を詰まらせないように手伝ってくれていただけなのに。

 コンビニの前、店内から漏れる明かりに照らされながら、僕は一人うずくまって、ずっと涙をこぼしていた。



 いくばくかの時間が経った後、僕はコンビニから美鈴の家へと足を向けていた。

 まだ肌寒い四月の夜の空気に白い吐息をこぼしつつ、僕は一人、薄暗い住宅街を歩いていく。

 沈黙してしまったCASのことを考えながら。

 そして、十数年前の夏に別れた、僕のたった一人の幼なじみのことを考えながら。

「うん、すぐ行くからね」と僕に手を振った美鈴の顔を、僕は頭痛と共に思い浮かべる。

 夢に現れる美鈴の目の周りににじんでいた涙に、あの時気づいていたら。美鈴の声が震えていることに気づいていたら何かが変わっていたのだろうか。靄がかかったような頭には答えは出てこないのだけれど。

「わたしが見た時は、二階の窓に女の子が見えましたよ」

 昨日の楠の言葉が思い浮かぶ。

 もし美鈴ともう一度会うことができたなら。

 そう思い顔を上げると、そこにはもう彼女の家があった。

 家の前に止まる穂村の車には、まだ誰も乗っていなかった。

 みんな、まだ家の中にいるんだろうか。そう思いながら、僕は美鈴の家を振り返った。

 そこに、彼女がいた。

 二階の窓から僕を見る、藤村美鈴の姿が、そこにあった。

「美鈴?」

 思わず声を上げる僕に、窓から身を乗り出した彼女はこう言った。

『ゆうすけくん、わたしね、ちょっと遅刻しそうなの』

 ――――彼女の言葉に、首を傾げる僕。

『だから、晶おばちゃんの家で待っててね? 場所分かる?』

 うん、晶おばちゃんの家で待ってる!

 僕は大きく頷き、彼女に手を振ってみせた。

 みすずちゃん、早く来てね。

『うん、すぐ行くからね』

 そう言って手を大きく振る美鈴。僕は晶おばちゃんの家へと足を向ける。早く美鈴ちゃんが来るといいな、なんて思いながら。


 ……――――――Inter――…―rupt.―――――………


 CAS!?

 次の瞬間、僕は愕然と振り返った。

 何だ? CASが作動したのか? 壊れたはずのCASの作動音に呆然としながら、僕は暗闇に包まれた美鈴の部屋を眺める。そして大きく首を振る。

 それよりも、今のは間違いなく十数年前のあの日の光景だった。僕が美鈴と別れたあの日、彼女が殺される直前のやり取り。どうしてそれが今。いや、だとすれば。

 だとすれば、美鈴は今から、殺される―――。

 そのことに気づいた瞬間、僕は彼女の家へと飛び出した。

 門扉を抜け、開きっぱなしの玄関のドアをくぐり、三和土へと駆け上がる。

 そこには、懐中電灯に照らされた固まりが一つ、転がっていた。

「……楠?」

 僕の目の前に倒れていたのは楠だった。腹を押さえうずくまる彼女に僕は駆け寄る。抱えようとした僕の手に伝わってくるぬるりとした感触。僕の脳裏に、玄関先で大きな音を立てた美鈴のお母さんの姿が走り、僕は楠の身体を必死で揺すった。

 「う、ぐ……」と彼女の口から苦鳴が漏れる。息がある。まだ生きてる。僕はポケットをまさぐり携帯電話を取り出す。大丈夫、まだ彼女は生きてる。消防署を呼び出す音が闇の中に響き渡る、お願いだから、早く出てくれ。

 その時。

 楠を抱える僕の脇を、何かが、通った。

 振り向く僕の視界に映る背中。

 スーツを着た、右手に真っ赤な包丁を握った人影が、そのまま玄関を抜け、外へと姿を消していった。

 ―――――――美鈴!

 僕は楠を床に横たえると、階段へと駆け出した。

 階段下に倒れる穂村の息を確かめると僕は階段を走り、走り、走り、二階の美鈴の部屋へとたどり着く。

 蝶番の壊れたドアに身体をぶつけ、部屋に飛び込んだ僕の視界に月明かりが差し込み、そして。

 そして、目の前の光景に、僕は泣いた。

 銀色の光が差し込む美鈴の部屋。

 その中央には、体中を切られた月森明日未の姿が、黒い血だまりの中に浮かんでいるばかりだった。



 二週間後、僕はリノリウムの廊下を歩いていた。

 あの日、僕はあの部屋ですすり泣いているところを逮捕された。つながりっ放しになっていた携帯電話から、救急隊員が警察に通報したようだった。

 僕は月森たちとは別に警察に連れていかれ、そして取り調べを受けた。同級生三人に対する傷害事件の被疑者として。

 同じ研究室の仲間を、なんで殺そうとしたのか。

 なんであんな廃屋まで行ってそんなことをしたのか。

 刑事は取り調べの中で時には机を叩きながら僕に尋ねた。「お前、あそこの家で起きたこと、知ってるんだろう」僕の身上を知った上で聞いてきた刑事に、僕は飛びかかり、逆に何発か殴られ、そして拘留部屋に放り込まれた。

 昼夜を問わずに行われた取り調べが終わったのは、十日ほど経った頃だった。

「お前の服に付いていた返り血、切りつけた時の付き方じゃないってさ」刑事はわざわざ親切に教えてくれた後、「それに、三人ともお前じゃないって言ってるよ。良かったな」そう言って僕を警察署から追い出した。

 ――生きてるんだ、みんな。

 僕は泣きながら警察署を出た。迎えに来ていた父親からは一発殴られ、そして「良かったな」と抱き締められた。

 そして今日。

 僕は病室のドアを開けた。

「あ、お見舞いに来てくれたんだ?」

 僕の姿を見つけた月森が、ベッドから身を起こして僕に手を振る。

 パジャマから覗く手や首元、いたるところに包帯が巻かれた彼女を見て、僕は一瞬目を閉じ、そして苦笑いしてみせる。

「月森、ミイラ男みたいだな」「ミイラでもなければ男でもないです」

 口をとがらせる彼女を見て吹き出す僕。そんな僕を見て笑い声を上げる月森。

 その途中で、月森がシーツに視線を落とす。

「月森?」

「高室くん、あのね」

 僕と目を合わせないようにしたまま、月森は言葉を続ける。

「わたし、ちゃんと喋れてるかな?」

 包帯だらけの両手でシーツを握り締め、月森が呟く。

「あの日ね、わたしのCASが壊れちゃったかもしれないんだ。『Can't Interrupt』って、聞いたことのない音がしてね。高室くん、わたし大丈夫かな? 変なこと言ってない? おかしなこと言ってない?」

 月森の目から、ぽろぽろと涙がこぼれだした。

「いやだよ、わたし。昔みたいにいじめられるの、わたし、いやだよ。CASがなくなるなんて、わたし、耐えられないよ――」

 そう言って、彼女はシーツに顔を埋めた。

「月森――――――」


 ――――――――――Interrupt.


「―――駄目だなあ、月森は」

 僕の言葉に、きょとんとした表情で僕を見上げる月森。

「説明書を読んでないのか? 『Can't Interrupt』っていうメッセージはな、『遮断できませんでした』っていうCASからのごめんなさいメッセージだよ。知らなかったのか?」

「……初耳だよ、そんなの」

 目尻に涙を溜めたままの月森に、僕は意地悪そうな顔をしてみせる。

「そのメッセージを初めて聞いた時にメーカーに電話したら、『256ページに書いてあります』ってさ」

 僕の言葉に、泣きはらした顔のまま彼女が僕を見据えた。

「……嘘でしょ」

「うん」

 僕と月森は顔を見合わせ、

 そして、同時に笑い出す。

「月森はいつもと同じだよ。ミイラ男だけどな」

「乙女に対してミイラ男とか言うから、高室くんはもてないんだよ」目尻を拭いながら怒ったふりをする月森。

「あ、お前、人が気にしていることを」と、月森の言葉に憤慨する僕。あかんべーをしてみせる月森。

 それはいつも通りの、僕と月森の間の光景だった。



「……美鈴ちゃん、最後まで顔をかばってたのかな」

 指まで包帯で包まれた手で傷ひとつない頬をさすりながら、月森はぽつりと呟く。「美鈴ちゃんに、お礼を言わないといけないね、わたし」

 僕の脳裏に、背中を丸めてカーペットに縮こまる美鈴の姿が浮かび上がる。


 ――――――――――Interrupt.


「あのな、月森」

「うん?」

 僕の言葉に顔をこちらに向ける月森。たぶん、身体中に切り傷の痕が残る彼女の姿に、僕は言葉を続ける。

「あの日は、ありがとう」と。

 僕の言葉に、月森は一瞬きょとんとした表情をして、そして「いやいや、わたし、何もしてないよ?」と、慌てたかのように手を横に振る。

「あんなこと言っちゃったから、高室くん怒ったかなって、わたし少し心配してたくらいだよ」

「いや、本当にありがとう。そして、ごめんな。本当に、ごめん」

 目の前で首を下げる僕に「なになに、なんでそんなに謝るのかな」と、もっと慌てる月森。顔を上げた僕の前の彼女の表情はなぜか真っ赤になっていて、僕はなぜかおかしくなる。

「月森、顔真っ赤だぞ」「高室くんがぺこぺこするからでしょ」「じゃあもう一回謝ってみるか」「やめてー、傷口から血が出ちゃうでしょ」

 ふざけ合う僕ら。真っ白な病室の中、僕らは今まで通りのやり取りの時間をしばらく過ごす。

「……さて、そろそろ帰るよ」と席を立つ僕。

 そんな僕に、なぜかもじもじする月森。

「?」

「あ、えーと。もし暇だったら、明日もお見舞いに来たりしないかなー」

 こっちを見ずにぼそぼそ呟く月森に、僕は思わず苦笑する。

「ああ、そういえば楠も穂村も退院したんだっけ」

「そうなのよ、二人ともお見舞いに来てくれなくって。本当に薄情なんだから」

 頬を膨らませる月森に、僕はやれやれと首を振る。

「はいはい、それじゃあまた来るよ」

「今度は土産を持ってきてもいいよ?」

「……だったら『スクワーム』のDVD持ってきてやるよ。月森、確かスパゲッティ好きだったろ?」

「スパゲッティのDVDって、絶対怖いやつでしょ」

「いや、気持ち悪いヤツだから大丈夫」

「何で入院中の女の子にそんなもの見せようとするのよー!」

 ぽかぽかと僕を叩こうとする月森をかわし、病室のドアへと逃げる僕。

 あかんべーをする彼女に手を振りながら、僕は心の中で呟く。

 月森、本当にありがとう。

 そして、本当に、ごめん、と。

 きっと、二度と見舞いに来ることはできないだろうから。



 夜の重い緞帳がゆっくりと降り始める中、僕は一人、美鈴の家を見上げていた。

 ポケットから取り出した携帯電話の時計は午後六時五十九分。

 もうすぐ、あの時間がやってくる。

 僕は携帯電話をしまい込むと、再び二階の窓を見上げる。

 月森たちが刺されたあの日の、あの光景。

 あれは、ずっと夢に出てきた、美鈴が殺された時のものと同じだった。

 美鈴と同じように体中を刺された月森。

 楠が見たテレビ番組に映った、二階の少女。

 それはおそらく、あの夏祭りの日の出来事が、今も、いや、あれから毎日繰り広げられていることを示していた。

 僕が美鈴に手を振ったあの日から。

 僕が彼女を忘れ去ろうとしていた日々も、ずっと。

 薄暗い拘留部屋の中でそのことに気づいた時、僕の心は決まった。そして、僕は、ここにいる。

 だから。今度こそ。

 携帯電話が午後七時を告げる。

 僕は美鈴の部屋を見上げる。じわりと湿ってくる拳を握る。そして一度目を閉じ、軽く息を吸って僕は叫んだ。

「みーすーずーちゃーんっ!」

と。

 そして、あの夏の日と同じように。

 そして、二週間前と同じように。

 藤村美鈴が、二階の窓に姿を現す。

 あの時と変わらない幼なじみの姿に、僕の胸の裡から何かがこみ上げてくる。でも、それは今することじゃない。

 僕は彼女に向かって大きく手を振る。美鈴、夏祭りに行こう、と。

 僕の言葉に、何かを叫ぼうとして、そして口をつぐむ美鈴。顔をごしごしと何度もぬぐって、そしていつものように彼女は口を開いた。

『ゆうすけくん、わたしね、遅刻しそうなの』

 だから、晶おばちゃんの家で待っててね。

 彼女の言葉に、僕は大きく頷き、そして。


 ―――――――――――Interrupt.


 そして、CASが動き出す。

 僕のために。僕を守るために。

「うん、分かった。でも、僕は行かないよ」

 僕は美鈴に笑ってみせた。

 次の瞬間、僕は彼女の家に飛び込んだ。玄関をくぐり、二つの影の傍らを過ぎ、二階への階段を駆け上る。

 階上に見えるきしむ扉とその前に立ちふさがる影に、僕は全力でぶちかました。

 よろめく影。弾ける扉。そして、部屋の中に転がり込む僕。

 僕の姿に悲鳴を上げる美鈴を見つけ、僕は思わず泣きそうになる。でも、それも今することじゃないと、彼女にそのまま覆い被さった。

 僕の胸元で泣き叫ぶ美鈴を強く抱き締める。

 美鈴、今度こそ、君を守ってみせるから。

 背後から、ひゃひゃひゃひゃという笑い声と共に黒い影が延びてくる。



 思わず見上げた窓の向こうから、銀色の光が僕に注ぐ。

 僕を照らす明かり。この部屋を青白く染める灯火。

 ―――月が出ているんだ。

 そう思った瞬間、背中を貫く感覚に僕は歯を食いしばる。

 次々と僕の背中を貫く刃物の感覚に、僕は再び顔を伏せる。

 部屋の中央でうずくまる僕。

 そして、僕の下で、仰向けに横たわる美鈴。

 真っ直ぐに僕を見つめる彼女の瞳と、僕の背を首を、足を腹を突き抜けていくうねりに、僕は目を閉じ、そして彼女を強く抱き締めながら祈りを捧げる。

 そして。

 ―――――――――――Interrupt.

 苦痛の中から僕を引き上げるCASの作動音が響き渡り、

 ―――――――――――Can't Interrupt―――……

 全てを遮断することができず、CASが砕け散っていく。

 しかし。

 ―――――――Now Reboot.

 そして。

 ―――――――Now loading CAS.

 何度砕け散っても。

 僕を守るため、何度も、何度も、何度も壊れては蘇るCASの音。

 CASが砕けそして立ち上がり続ける世界の中で、僕はただひたすらに祈り続ける。

 CASよ。

 僕に、力を。

 そして、彼女に、どうか救いを――――――。



 夕映えが少しずつかすれていく薄暮の中、僕は部屋の中で一人佇んでいた。

 埃の積もった机の上を指で軽くなぞりながら、僕は薄汚れたカーテンから外をぼんやりと眺める。

 街灯に明かりが灯き始める世界の中、こちらを見上げる月森と視線が合い、僕らはお互いに手を振ってみせる。お互いの服から覗く包帯だらけの腕が、僅かに残る夕陽に赤く染まる。

 僕らは二人、再び美鈴の家を訪ねていた。

「どうしてまた美鈴ちゃんの家に行くの?」

 白い病室の中、見舞いに来てくれた月森の質問に、僕はベッドで横になったまま答えた。

 美鈴を助けることができたのか、僕は確かめないといけないんだ、と。

 全身を覆う包帯の奥から湧き上がる刃物の痛みをこらえながら、僕はそれだけはしないといけなかった。

 あの日、僕は美鈴を守るために部屋に飛び込み、そして体中を滅多刺しにされた。あの日の美鈴のように、あの時の月森のように。

 でも、壊れては蘇るCASの音が響き渡る世界の中、僕は気を失い、そして救急隊員に助けられた。だから、僕には分からなかった。今度こそ美鈴を助けることができたのか、が。

 僕の言葉を聞いた時の月森は、少し黙り込み、そしてため息をつき、最後に笑顔を浮かべて言った。

「じゃあ、わたしも一緒に行こうかな」

 美鈴ちゃんに、乙女の顔を守ってくれたお礼を言わないとね、と。

 だから僕らは再び、美鈴の家を訪れたのだった。

 けれど、一緒に家に入ろうとする月森を僕はいいよと断った。納得できず頬を膨らませる彼女に、僕は苦笑いをしながら言った。

「万が一にでも、僕が月森を滅多刺しにするなんてことになるの、嫌なんだ」と。

 そして僕は今、一人こうして美鈴の部屋にいる。

 時計の針は午後六時を回ったあたり。あと一時間もすれば、またあの時間がやってくる。僕は窓辺から視線を移し、包帯に包まれた手のひらをじっと見つめた。

 僕は、美鈴を守ることができたのだろうか。

 あの夏祭りの日から毎日繰り返されてきた光景。それは、この家に焼き付けられたフィルム映像のようなものなんだろうかと僕は思う。僕が何をしようとも、次の日には同じように始まり、同じように終わる、ひたすら巻き戻される、想いを焼き付けたビデオテープのようなものなんじゃないだろうか。

 もし、そうだとしたら。

 だとしたら、僕は何度でもこの家の前に立ち、この部屋に飛び込んでみせる。あの日できなかったことをしてみせるためなら、何度でも。


『ううん。ゆうすけくん、もう大丈夫だよ』


 その時だった。

 僕の耳に、彼女の声が聞こえた。

 振り返る僕の前に立つ、あの日と同じ、けれど見ることができなかった美鈴の姿。

 ――――――想いは、ビデオテープなんかじゃなかった。

 あの日着るはずだった浴衣を着た美鈴が、僕に笑顔を向けてくれていた。

『ゆうすけくん、わたし、うれしかったよ』

「美鈴、ぼくは――――」そこまで言って、僕は胸がつかえて、そして堰を切った涙が次々と目からこぼれてくる。ごめん、ごめんと、僕は馬鹿みたいに何度も繰り返していた。

 そんな僕を見て、美鈴が困ったような顔をする。ゆうすけくんは、わたしがいないと、ほんとうに泣き虫なんだから、と。

 僕は彼女の前でただただ泣き、そして美鈴は僕の頭を何度も優しく撫でてくれた。

『ゆうすけくんは、わたしを助けてくれたよ。だからわたし、もう苦しくない――――』

 その言葉と一緒に、僕の頭を撫でる美鈴の手の感触が薄れていく。

 顔を上げる僕の前で、美鈴の姿が少しずつ、しかしはっきりと薄れていく。

「美鈴、僕は君に謝らないといけないんだ。あの日、僕は君を助けてあげられなかった。だから」

 だから、ごめん。

 涙をこぼす僕を見た美鈴は、最後にもう一度笑って、そして言ってくれた。

『わたし、もう一度ゆうすけくんに会えてうれしかったよ。ゆうすけくん、わたしの分も、いっぱい長生きしてね。約束だよ――――』

 その言葉に、僕は涙を拭う。

 分かった、約束するよ、美鈴。

 そして、くしゃくしゃの顔のまま、僕は彼女に笑ってみせた。

 そんな僕を見ながら、彼女は最後まで笑顔を浮かべ、そして消えていった。

 ありがとう、そしてさようなら、美鈴。

 彼女の姿が完全に消えてしまうまで、僕は泣き笑いのような表情のまま、ずっとそこに立っていた。



「……高室くん?」

 階段を上がってくる音に、僕は顔をごしごしと拭いて振り向く。

 そんな僕の様子に、月森はにっこりと笑顔を浮かべ「美鈴ちゃんには会えたんだね」と軽く僕の肩を叩いた。

 夕闇の訪れた美鈴の部屋の中で、僕は何度か鼻をすする。「あのな、月森」

「うん?」

「CASがあって、本当に良かった」

 僕の言葉に頷く月森。そんな月森を見て、僕は少し顔が赤くなる。

 そして僕らは二人、そっと手をつないで美鈴の部屋を後にする。

 あの日、僕を守るために砕け散ってしまったCAS。

 だけど、僕は信じている。

 CASは今、ただ眠っているだけだということを。

 いつの日か、僕のこころに辛く悲しいことがあった時、いつものように僕を救ってくれることを。


 静かに鳴り響く、Interruptという作動音とともに―――

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