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王国滅亡? 私はもう関係ありません

作者: 小林翼
掲載日:2026/02/05

婚約破棄を告げられたのは、薔薇が咲き誇る王宮の庭園だった。


「リディア、君との婚約はなかったことにする」


第一王子アルベルトの言葉は、春の陽光の下であまりにも冷淡に響いた。隣には、淡い金髪を揺らす男爵令嬢クラリスが寄り添っている。


リディア・フォン・シュヴァルツは、その言葉を静かに受け止めた。驚きはなかった。ここ数ヶ月、アルベルトがクラリスに夢中になっていることは、社交界の誰もが知る事実だったからだ。


「聖女の力も持たず、これといった才能もない。君はシュヴァルツ公爵家の名に相応しくない」

「そうですか」

「それだけか? 泣きも喚きもしないのだな」


アルベルトの声に、わずかな苛立ちが混じった。リディアは薄く微笑んだ。泣いてほしかったのだろうか。自分を捨てることで、優越感に浸りたかったのだろうか。


「殿下のお幸せをお祈りしております」

「……ふん。明日の夜明けまでに王都を出ろ。君の新しい領地は、北の果ての竜の谷だ」


竜の谷。その名を聞いて、さすがにリディアの表情が強張った。


かつて竜族が棲んでいたとされる呪われた地。百年以上前に人々は逃げ出し、今では荒れ果てた廃墟が残るのみだという。事実上の追放だった。


「リディア様、お可哀想に」


クラリスが甘ったるい声で言った。その瞳の奥に、隠しきれない愉悦が光っていることを、リディアは見逃さなかった。



翌朝、リディアは簡素な馬車に揺られていた。


供は老齢の従者ハインツただ一人。父である公爵は、娘の追放を止めようともしなかった。むしろ、無能な娘が王家との縁談を壊したことに激怒していた。


「お嬢様、お体は大丈夫ですか」


「ええ、ハインツ。むしろ、清々しい気持ちよ」


それは強がりではなかった。王宮での日々は息苦しかった。聖女の力を持たないリディアは、常に比較され、蔑まれてきた。アルベルトとの婚約も、彼女自身の意思ではなく、家同士の取り決めに過ぎなかった。


馬車は北へ北へと進んだ。緑豊かな平野は次第に険しい山岳地帯へと変わり、空気は冷たく、澄んでいった。


七日目の夕暮れ、ついに竜の谷の入り口に辿り着いた。


「これは……」


ハインツが息を呑んだ。リディアも馬車の窓から身を乗り出し、目を見張った。


荒れ果てた廃墟を予想していた。しかし、眼前に広がっていたのは、信じられないほど美しい光景だった。


切り立った崖に囲まれた谷間に、翡翠色の湖が静かに横たわっている。その周囲には、見たこともない花々が咲き乱れ、夕陽に照らされて宝石のように輝いていた。


そして、湖の中央に浮かぶ小島には、白亜の城が聳え立っていた。


「呪われた地だと聞いていたのに」

「お嬢様、何かがおかしい。引き返しましょう」


ハインツの声は震えていた。しかし、リディアは首を横に振った。引き返したところで、待っているのは冷たい故郷だけだ。


「行きましょう。あの城が、私の新しい住処なのでしょうから」


馬車が谷に入った瞬間、リディアの胸の奥で何かが脈打った。



湖畔に馬車を停め、リディアは城を見上げた。小島へ渡る橋はない。泳いで渡るしかないのだろうか。


その時、湖面が波立った。


水の中から巨大な影が浮かび上がる。銀色の鱗、月光を閉じ込めたような瞳。それは、伝説の生き物だった。


「竜……!」


ハインツが腰を抜かした。リディアも足が竦んだが、不思議と恐怖は感じなかった。竜の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。その視線には、敵意ではなく、何か別の感情が宿っているように思えた。


竜が口を開いた。


「待っていた」


低く、美しい声だった。


「我が名はヴァイス。この谷の主だ。お前を、ずっと待っていた」

「私を……?」


リディアは困惑した。会ったこともない竜が、なぜ自分を待っていたというのか。


「お前の中に眠るもの。それが目覚める時を、千年待った」


ヴァイスの巨体が光に包まれた。次の瞬間、竜の姿は消え、代わりに一人の男が湖畔に立っていた。


銀色の髪、月光のような瞳。この世のものとは思えないほど美しい青年だった。


「驚かせたな。人の姿の方が話しやすいだろう」

「あなたは、竜王……」


古い伝承を思い出した。かつてこの地を治めていた竜族の王。人間との戦いに敗れ、眠りについたという。


「よく知っているな。だが、伝承には誤りがある。我は敗れたのではない。待っていたのだ。真の聖女が現れるのを」

「真の聖女?」


リディアは苦笑した。


「お間違いでしょう。私には聖女の力などありません。だからこそ、こんな場所に追放されたのですから」

「違う」


ヴァイスが一歩近づいた。彼の指先がリディアの胸に触れる。その瞬間、リディアの体内で何かが弾けた。


眩い光が溢れ出す。


「これは……」

「目覚めたな。お前の中に眠っていた、古代竜族の血が」


リディアは自分の手を見つめた。淡い燐光を放っている。体中に力が満ち溢れていく。これまで感じたことのない、圧倒的な魔力。


「我ら竜族と人間の間に生まれし者。それが真の聖女だ。千年に一度しか現れぬ、奇跡の存在」

「そんな、私が……」

「王都の神殿で測れる聖女の力など、真の聖女の欠片にも満たぬ。お前の力は、封印されていたのだ。この谷に来ることで、ようやく解き放たれた」


リディアは呆然とした。無能だと蔑まれ続けた自分が、真の聖女だったなど。


「だが、力の制御には時間がかかる。しばらくはこの谷で、我と共に過ごすことになるだろう」


ヴァイスの言葉に、リディアは頷くことしかできなかった。



それから、リディアの新しい生活が始まった。


城での暮らしは、想像以上に快適だった。かつて竜族の使用人たちが暮らしていたという城は、魔法によって保存され、今も当時の豪華さを保っていた。


ハインツは最初こそ竜王を警戒していたが、ヴァイスが礼儀正しく、リディアを大切に扱う様子を見て、次第に態度を軟化させていった。


「お嬢様、今日の訓練はいかがでしたか」


「少しずつ、力の扱いが分かってきたわ」


夕食の席で、リディアは微笑んだ。ヴァイスの指導の下、彼女は日々力の制御を学んでいた。それは困難な修行だったが、充実感があった。


「お前の上達は目覚ましい。やはり、眠っていた血が完全に目覚めつつあるのだろう」


ヴァイスが穏やかに言った。人間の姿でいる時の彼は、どこか寂しげな空気を纏っていた。千年の孤独が、そうさせているのかもしれない。


「ヴァイス様は、ずっとお一人でここにいらしたのですか」

「ああ。我以外の竜族は、人間との戦いで滅びた。我だけが、真の聖女を待つために生き延びた」

「千年も……」


リディアは胸が痛んだ。どれほど孤独だっただろう。どれほど辛かっただろう。


「寂しくはなかったのですか」

「……慣れた。だが、お前が来てからは」


ヴァイスが言葉を切った。月光のような瞳が、まっすぐにリディアを見つめている。


「久しぶりに、生きている実感がある」


リディアの心臓が跳ねた。



日が経つにつれ、二人の距離は縮まっていった。


ヴァイスはリディアに様々なことを教えた。魔法の制御、竜族の歴史、世界の真実。彼の知識は深く、話は尽きることがなかった。


リディアもまた、自分の過去を語った。王宮での辛い日々、冷たい家族、婚約破棄の顛末。ヴァイスは黙って聞き、時折、静かな怒りを瞳に宿した。


「お前を蔑んだ者たちは、愚かだ。真の宝石を見抜けなかった」

「宝石だなんて、大げさですわ」

「大げさではない」


ヴァイスがリディアの手を取った。その手は驚くほど温かかった。


「我にとって、お前は千年待ち続けた希望だ。だが、それだけではない」

「それだけでは……?」

「初めて会った時から、お前に惹かれていた。聖女としてではなく、リディアという一人の女性として」


リディアの頬が熱くなった。こんな言葉をかけられたのは、生まれて初めてだった。


「我は竜だ。人間から見れば、異形の存在だろう。だが、もし許されるなら」


ヴァイスが跪いた。竜王が、かつて無能と蔑まれた令嬢の前に膝をつく。


「お前を、我の伴侶として迎えたい」


リディアの目から、涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなかった。


「はい」


震える声で、彼女は答えた。


「喜んで」



二人が結ばれてから、一ヶ月が経った頃。


リディアの力は完全に覚醒し、今や彼女は大陸最強の聖女となっていた。谷の外の世界が、大きく変わり始めていることを、二人は知らなかった。


それを知らせたのは、一羽の鳥だった。


ハインツの元に、王都から密かに手紙が届いた。差出人は、かつてシュヴァルツ家に仕えていた侍女だった。


「お嬢様、これを」


手紙を読んだリディアの顔から、血の気が引いた。


「どうなされた」


ヴァイスが心配そうに尋ねた。リディアは震える声で答えた。


「王国が……滅びかけているそうです」



手紙によると、リディアが去ってから、王国では異変が相次いでいた。


まず、農作物が枯れ始めた。次に、疫病が蔓延した。そして、隣国との戦争で連敗を重ねた。


神殿の高司祭は宣告した。聖女の加護が失われたのだ、と。


「クラリスという娘が聖女だったのではないのか」


ヴァイスが眉を顰めた。リディアは首を横に振った。


「クラリスには確かに聖女の力がありました。でも、それは偽りの力だったのかもしれません」

「偽りの力?」

「神殿で測定される聖女の力は、祈りと儀式で一時的に高めることができます。彼女はそれを利用して、聖女を名乗っていたのでしょう」


真の聖女はリディアだった。彼女が王国を去ったことで、無意識のうちに王国を守っていた加護も消えてしまったのだ。


「王国の民は苦しんでいます。罪のない人々が、飢えと病に倒れていると」

「お前は、戻りたいのか」


ヴァイスの声は平坦だった。しかし、その瞳には複雑な感情が渦巻いていた。


「戻りたくはありません。あの場所には、辛い思い出しかない。でも……」

「罪のない民を見捨てられないのだな」

「はい」


リディアは俯いた。ヴァイスの手が、彼女の頬に触れた。


「我も共に行こう」

「え……」

「お前を一人で行かせはしない。それに、千年も谷に閉じこもっていた。たまには外の空気を吸うのも悪くない」


ヴァイスの言葉に、リディアは泣き笑いの表情を浮かべた。



王都に着いたのは、それから十日後のことだった。


かつて栄華を誇った王都は、見る影もなく荒廃していた。建物は崩れ、路上には病人が溢れ、人々の目からは希望の光が消えていた。


「酷い有様だ」


ヴァイスが顔を顰めた。人間の姿を取った彼は、灰色のローブで銀髪を隠している。竜王の正体を知られれば、混乱を招くからだ。


「あなた、見て」


リディアが指差した先に、大きな垂れ幕があった。


『聖女クラリス様の祈りにより、王国は救われる』


「まだ、あの女が聖女を名乗っているのか」

「形だけでしょう。本当の力がないことは、皆分かっているはずです」


二人は王宮へ向かった。門番に止められたが、リディアが名を名乗ると、顔色が変わった。


「リディア様……! シュヴァルツ公爵令嬢の……」

「王に会いたい。取り次いでくれますか」



謁見の間に通されたリディアを待っていたのは、予想通りの光景だった。


玉座にはアルベルトが座っていた。先王が疫病で亡くなり、急遽即位したのだという。その隣には、青ざめた顔のクラリスが立っていた。


「リディア……! なぜお前がここに」

「お久しぶりです、アルベルト陛下」


リディアは淡々と言った。かつての婚約者を見ても、心は凪いでいた。


「王国が危機に瀕していると聞きました。民を救うため、力を貸しに参りました」

「力だと? 無能なお前に何ができる」

「では、見せましょう」


リディアが手を掲げた。その体から、眩い光が溢れ出す。謁見の間にいた全員が、息を呑んだ。


「これは……聖女の光……!」

「しかも、この密度は……」


大臣たちがざわめいた。クラリスの顔が蒼白になる。


「嘘よ……この女に聖女の力などなかったはず……!」

「封印されていただけです。真の聖女の力は、あなたの比ではない」


リディアの声は穏やかだったが、揺るぎない自信に満ちていた。


「馬鹿な! この女は偽物だ! 誰か、この女を捕らえなさい!」


クラリスが叫んだ。しかし、誰も動かなかった。リディアの放つ聖なる光を前に、偽りの聖女の言葉は虚しく響くだけだった。


「陛下」


リディアはアルベルトを見据えた。


「私は王国を救いに来ました。しかし、条件があります」

「条件だと……」

「クラリスの偽聖女としての罪を裁くこと。そして、追放された者たちへの謝罪。それが叶えられないなら、私は谷に帰ります」


アルベルトの顔が歪んだ。屈辱と怒りが入り混じっている。しかし、彼に選択肢はなかった。


「……分かった」


絞り出すような声だった。



リディアの祈りによって、王国は救われた。


疫病は収まり、枯れた大地には再び緑が芽吹き始めた。民は喜び、リディアを真の聖女として讃えた。


クラリスは偽聖女の罪で修道院に送られた。アルベルトは公式に謝罪し、リディアの追放は取り消された。しかし、彼女に王都に残る気はなかった。


「本当に、行ってしまうのか」


出発の朝、アルベルトが門まで見送りに来た。その目には、複雑な感情が宿っていた。後悔かもしれない。あるいは、失ったものの大きさにようやく気づいたのかもしれない。


「私の居場所は、もうここにはありません」

「しかし、お前は聖女だ。王国にはお前が必要だ」

「聖女としての務めは果たしました。これからは、定期的に祈りを捧げに参ります。それで十分でしょう」

「リディア……」

「お元気で、陛下」


リディアは微笑んで、馬車に乗り込んだ。そこには、ローブ姿のヴァイスが待っていた。


「良かったのか。あの男は、まだお前に未練があるようだったが」

「ええ、良かったのです」


リディアはヴァイスの手を取った。


「私の愛する人は、あなただけですから」


ヴァイスの目が穏やかに細められた。彼はリディアの手を握り返し、その額に口づけを落とした。



馬車が王都を出て、北の山道に差し掛かった頃。


「ヴァイス様、一つお願いがあるのですが」

「何だ」

「この谷を、追放された者たちの安息の地にできないでしょうか」


ヴァイスは少し驚いた顔をした。


「追放された者たち?」

「私のように、不当に追放された人たちがいます。行き場のない人たち。私は幸運にも、あなたに出会えた。でも、そうでない人たちもたくさんいるはずです」

「……なるほど」


ヴァイスはしばらく考え込んだ後、頷いた。


「良いだろう。谷は広い。真に苦しむ者たちを受け入れる場所にするのも、悪くない」

「ありがとうございます」

「礼には及ばぬ。お前の優しさが、我を動かした。それだけだ」


リディアは幸せそうに微笑んだ。かつて無能と蔑まれ、追放された少女は、今や竜王に愛される真の聖女として、新たな人生を歩み始めていた。



それから数年が経った。


竜の谷は「希望の谷」と呼ばれるようになり、行き場のない者たちの安息の地となった。リディアとヴァイスは彼らを温かく迎え入れ、共に穏やかな日々を送っていた。


ある晴れた日の午後、リディアは湖畔のベンチに座り、腹部に手を当てていた。


「どうした」


ヴァイスが隣に座った。


「何か、変わった様子があるか」

「ええ、少し」


リディアは照れくさそうに微笑んだ。


「新しい命が宿ったようです」


ヴァイスの目が大きく見開かれた。千年生きた竜王が、初めて見せる驚きの表情だった。


「本当か」

「はい」

「お前と我の、子が……」


ヴァイスの声が震えていた。喜びと感動で、言葉が続かないようだった。


「千年、待った甲斐があった」


彼はリディアを抱きしめた。強く、しかし優しく。


「お前に出会えて、本当に良かった」

「私もです」


リディアは夫の胸に顔を埋めた。


かつて無能と呼ばれ、捨てられた少女。彼女は今、竜王に溺愛される最強の聖女として、誰よりも幸せな日々を送っていた。


そしてその幸せは、これから生まれてくる新しい命へと、受け継がれていくのだった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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