熊もたおせる彼女は 1
「どうぞ、ヘイゼル王女殿下。お座りください」
「あの、わたくし既に王女ではないのですが……」
「どうぞ天幕のなかへ、殿下。どうぞどうぞ」
連れていかれたのはファゴットの森だった。
懐かしい場所ではあったけれど、ヘイゼルは最初からなんだかいやな予感がした。
ラウル・バーネスというこの男が、ずっと王女殿下と呼ぶのである。やんわり抗議しても訂正してくれないのも気にかかる。だがそこにこだわり続けるのも大人げない気がして、ヘイゼルは促されるまま天幕に入った。
そこにはお茶の支度がしてあった。
銀のポットに銀の茶器で、おままごとのように小さなカップ。
見た目にはかわいらしかったが、ひと口飲んでヘイゼルは一瞬言葉を探した。
まずい。
明らかにぬるいし、茶葉の扱いを間違えているのが味でわかる。
「いかがですか、王都の一流店で求めたものです」
「──ラウルさまのお心遣いに感謝しますわ」
ミシャはそばで控えているだけだったけれど、ヘイゼルが本音を顔に出さない努力をしているのがひしひしと伝わってきた。
「お菓子もどうぞ。こちらも流行の品です」
淡いピンクのマカロンをヘイゼルがもそもそと食べている間、ラウル・バーネスはしきりと都の話をした。
流行のカフェの話、女たちがどんなドレスを着ているか、最新のゴシップはどんなものか。ヘイゼルがどうにかこうにか相槌をうっていることに彼は気がつかない。
「こう見えてわたしも流行りの遊びは押さえておりまして、いつかヘイゼル王女が王都にお戻りいただいた暁には、ぜひあちこちご案内して差し上げたい」
「──ご親切なお気持ちに感謝ですわね」
「お茶をもう一杯いかがですか」
「どうも、頂戴します」
男は得意げである。どうやらヘイゼルを口説いているつもりらしかった。
ミシャからすれば信じがたいが、彼の行動を見る限りそうとしか言いようがない。
(しかもあのマカロン、値段が高いだけでまずいのよね)
自分で食べたことはなくても評判はよく聞くのでミシャは知っているのである。金泥で好みの文字や意匠を描いてもらえるので、恋人に送るのに人気があるのだ。
(あれは食べることじゃなくて、贈ることに意味があるのに……)
ヘイゼルの頭文字を書いたマカロンをすすめながら、ラウルはいう。
「いかがですか、王女殿下。今のお暮しにご不便なところはありませんか」
「特に、ありません」
「ご遠慮なく、ここには我々しかいませんから」
あらかじめ着地点を決めつけているような、いやな会話がしばらく続いた。
王都であれば華やかなドレスや靴が思いのままだということ。由緒正しい王族のお血筋が、このような辺鄙な場所で暮らしているのが残念でならないこと。慣れぬ暮らしでさぞつらいだろうということ。
「いつでもわたしを頼ってください。お力になれるかと思いますよ」
「あの、ですから何度もいったように、困っておりません……」
「控えめなお人柄も奥ゆかしい。よろしいのですよ、どんなお気持ちも吐き出してくださって」
彼はどうにかしてヘイゼルに『砂漠の暮らしはつらい、都が恋しい、帰りたい』といわせたがっている。
このままではらちが明かないと感じたのか、ヘイゼルはぬるいお茶を飲み干すと、区切りをつけるように背筋を伸ばした。
「ときに、ラウルさま。ご持参の書物があると伺いましたけど、お見せいただくことはできますか?」
「おお、もちろんです! こちらをご覧ください」
ラウルが取り出したものは、見るからに薄っぺらい読み物だった。
表紙は明るいブルーやカナリア色で彩られているが紙質は悪いらしく、ラウルの手の中でしなっている。
「こちらは今王都の女性がこぞって読んでいる流行の読み物でして。きっと王女殿下にもお楽しみいただけるかと」
ヘイゼルは困ったように眉を下げた。おとぎ話や恋愛小説は昔からきらいである。
だが、それを口にすることもできず、ラウルが得意げに差し出しているそれを手に取ってぱらぱらめくったあと、ヘイゼルはゆっくり切り出した。
「こちらは……先ほどお土産として頂いた『帝王教育要諦』とはかなり毛色が違うとお見受けいたします」
「ああ、そうですね」
「あの書籍はいったい、どなたが選んでくださったのですか」
ずばり聞かれてラウルが一瞬答えに詰まる。
答えかねて、彼は強引に話題をそらした。
「なるほど、あの手の書籍がお好みでしたか! でしたらとっておきのがございます。きっと見たら驚かれますよ」
ラウルはいそいそとトランクの蓋をあけて重たげな書籍を取り出した。
「どうぞ、こちらです」
それを見た瞬間、ミシャはぞっとした。
あれは、あの毒々しい緑色の背表紙は。
(禁書ではないか)
ミシャは後宮勤めをはじめたころ、してはいけないことを真っ先に叩き込まれた。
入ってはいけない場所、通ってはいけない通路、口にしてはいけないこと、手をふれてはいけないもの。
特に書籍は扱いが難しく、一冊紛失しただけでも侍女の首など簡単に飛ぶのだと教えられた。だから背表紙の色を見ただけでわかる。あれは持ち出し厳禁の禁書だ。
(それがなぜここに……)
禁書とは、世に出すことを許されていない書籍である。
性的な描写が多く風紀を乱すものが有名だが、王族を揶揄したもの、国家機密や政治的な目的で閲覧や所持を厳しく制限するものも多い。
(この男が勝手に持ち出せるような代物ではない……では、誰が)
誰かが故意に持ち出させたのである。
なんのために。決まっている。
ヘイゼルが禁書を所持しているという既成事実をつくるためだ。
既成事実ができてしまえば、それを口実に難癖をつけられる。戦のきっかけにだってなる。
(なんてこと……)
ミシャは冷や汗が出そうだった。いやな感じに動悸が大きくなる。
(姫さまは王宮でお育ちではない。あれが禁書の色だということをご存じない)
割って入るか? いやだめだ。
一介の侍女がそんなこと、無作法すぎる。
(ここにいるのがガーヤさまなら)
ガーヤなら割って入ることができる。あのふたりには長い時間でつくられた絆がある。
(自分には、まだなにもない)
そうこうしている間にも、ヘイゼルはページをめくっている。
ミシャは両手を握りしめて心のなかで語りかけた。
だめです、姫さま。受けとってはだめ。
(それは罠なんです)
泣きたいような気持でそう思った時。ヘイゼルはぱたんと書籍を閉じた。
「ラウルさま」
「なんです」
「せっかくのお気持ちですけれど、わたくしには難しすぎて読みこなせないようです」
きょとんとした顔をラウルがした。ヘイゼルはにっこりとたたみかける。
「どうぞお持ち帰りくださいな」
「いやしかし、これは……」
「元あった場所にお戻しください。それから」
「はあ」
「改めて申し上げるのも野暮なことではあるのですが、わたくしは砦の頭領に嫁いだもの。既に人妻でございますので、このようなお誘いは以後お控えいただけたら嬉しく思います」
ラウルは間の抜けた顔でそれを聞いていた。
最初はなにをいわれているのか理解できないようにきょとんとしていたが、やがてじわじわ理解が追いついてきたらしい。頬に赤みがさして目の下がひくつく。
「ち……地位のある貴婦人はそのような子どもじみたことを仰らないものですよ。みな結婚してからいろんな男性と楽しむものなのです」
「そうした貴婦人は、わたくしとは意見が違うようですね。とはいえ、そうした女性も都では多いのでしょう。わたくしの考えをラウルさまに押しつけようとは思いません。どうぞ、同じ考えの女性と楽しい時間をお過ごしください」
ラウルの顔がさらに赤くなる。口がぱくぱく閉じたり開いたりする。なにかヘイゼルを傷つけるようなことをいおうとしていることがわかる表情だった。
ラウルがばっとミシャのほうを見た。ミシャはぎくっとする。
自分が標的になる寸前のいやな空気だった。




