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第七話『踏み荒らされる夢(前編)』

 私の人生は、このまま変わることなく、ただ緩慢に朽ちていくのだと思っていた。希望も、夢も、もはや語るには気恥ずかしいだけの過去の残骸にすぎない。

 派遣の仕事を転々としながら、漫然と日々をやり過ごす。預金はない。スキルもない。培われた経験すらない。胸を張って語れるような達成も、やりがいも、四十年という歳月のなかに一つも見当たらない。

 今、目の前に広がっているのは、ただ空虚さだけが満ちた、虚しいだけの毎日だ。

 四十という年齢は、想像以上に重たく、冷たく、そして残酷だ。何者にもなれなかった自分という事実だけが、湿った空気のように肌にまとわりついて、胸の奥をじわじわと冷やしていく。

 目の前にあるのは、ただ緩やかに傾いていくだけの時間だった。流されるように歳を重ねていけば、末路は見えている。浮かぶのは、悲嘆と悲観の未来図ばかりだ。

 いっそ今から普通に働き始めれば、社会の片隅に居場所を見つけ、形ばかりの穏やかな老後を迎えることもできるのかもしれない。夢を捨て、野心を忘れ、ただ日々をやり過ごすだけの、凡庸で無難な人生を送る。それが、この袋小路みたいな人生に、わずかに残された“正常”への出口なのだろう。

 けれど、そんな選択肢を掴むための意思も、勇気も、もはや残ってはいない。何かを変えようとするには、あまりにも多くのものを、こぼれ落としたまま来てしまった。 このまま、何も起こらず、何も変わらず、ただ日々をやり過ごしていけば、いずれ誰にも知られずに私の人生は終わっていくのだろう。

 あるいはその瞬間こそが安らかな最期と呼べるのかもしれない。

 だけど、この日、俺の人生は大きく変化した。

 そして往々にして、こういった変化というものは、良い方にではなく、むしろ悪い方へと転がり始める。

 それも、急な下り坂を石が転げ落ちるように、歯止めも効かぬまま加速度を増していくものだ。

 日曜の深夜。

 あと少しで、日付だけが月曜日になる。

 そんな時間帯に、私はまた、いつもの夜勤現場にいた。

 勤務開始の予鈴が鳴る少し前、倉庫の出入口付近には、十数人の作業員たちが、眠気を纏った顔でぼんやりと立ち尽くしていた。派遣も社員も入り混じっていて、誰もが口数少なく、空気だけがやけに重い。若い連中はスマホの画面を見つめたまま、微動だにせず、時折あくびを噛み殺している。

 この場にいる誰もが、心のどこかでここで働くことを望んではいない。低賃金で重労働なうえに、未来に繋がる希望があるわけでもない。どれだけ真面目に働こうと、給料は上がらない。ボーナスもない。正社員登用もない。頑張るだけ馬鹿を見る。そういう仕事だ。

 ただ、その日その日のノルマが設定され、割り当てられた作業をこなすだけ。必要なのは、歯車としての数であって、誰かであることではない。私自身も、そんな現実に内心では辟易していた。

 それでも毎回、始業前のこの時間には、作業着を着て、時間通りにここに立っている。私はその群れの一角に紛れながら、コンクリートの壁に掛けられた古びた時計を見上げ、針がわずかに動くのを、ただ無為に眺めていた。

 今夜もまた、同じような時間が繰り返される。

 低く響く機械音が木霊する建物の中、流れ作業と単調な命令が交差するなかで、私はただ黙々と、無感情に体を動かすだけの時間を過ごすことになる。

 そんなことを考えていると、胸の奥にじわじわと憂鬱が広がっていく。気づけば表情にも影が落ち、無意識のうちに気分が悪くなっていった。

 その時だった。

 ふと、どこかからの視線に気づいた。視界の端に、見慣れない顔が映った。最初は、新人だろうと軽く流した。

 だが、その男はまっすぐこちらを見ていた。目を細め、じっと私の顔を見つめている。背は低い。私よりも、頭一つ分は優に小柄だ。年齢は一回りほど上に見える。肌は陽に焼けて浅黒く、色褪せてくたびれた紺の作業着が、あちこちの現場を渡り歩いてきた日々の蓄積を、無言のまま語っていた。最初に抱いた印象は、嫌な感じの爺だ、と思った。

 全体に漂っているのは、妙に馴れ馴れしい気安さだった。だが、その軽やかさはどこか作り物めいていて、表情の端々には抑えきれない軽薄さが滲んでいた。それが、やけに鼻についた。

 初めて見る顔のはずなのに、男はすでに周囲の作業員たちに気軽に声をかけていた。会話の内容までは聞き取れなかったが、話しかけられた相手は皆、困ったような笑みを浮かべていたり、露骨に迷惑そうな顔をしている。その反応のひとつひとつが、私が最初に抱いた違和感を裏付けるように、静かに積み重なっていった。

 私が視線の正体を確かめるように一歩足を踏み出すと、男は口元をわずかに緩めたまま、こちらから視線を逸らすことなく歩み寄ってきた。その目は、まるで旧知の友人でも見つけたかのような懐かしさを帯びていた。

 ためらいの色は微塵もない。男は馴れ馴れしく手を挙げながら、当然のように距離を詰めてくる。こちらの戸惑いなど、まったく意に介していない様子だった。

 男は、私の目の前で立ち止まると静かに言った。


 「もしかして、鳥山か? そうだよな?」


 唐突に名前を呼ばれて、思わず背筋が粟立った。一瞬、心臓が強く打ち、噴き出した冷たい汗が背中をつたう。

 とっさに記憶をたぐるが、思い当たる顔がひとつも浮かんでこない。そもそも、ここ十年で親しく言葉を交わした相手など、ほとんどいない。

 誰かと勘違いしているのでは?

 そう願いたくもなるが、男の目には明らかな確信が宿っていた。何より、男は私の名前を呼んだ。鳥山という苗字は、そう多くはない。懐かしげな視線を向けてくるが、こちらには何の記憶もない。

 

――誰だ? いつ会った? どこで?


 その問いだけが、思考の中をぐるぐると回り続ける。汗ばむはずの蒸し暑さの中、体温だけが一気に引いていく。頭の中で、過去に出会った人物たちの顔を断片的に照合する。

 けれど、すべてが一致しない。

 自分がどこ出身で、かつて漫画家を目指していたこと、そんなプライベートな情報を話した相手など、とうに記憶から消え失せている。


「おいおい、どうしたんだよ。お前、俺が分かんないのか? まさか忘れただなんて言わないだろうな」


 不意に向けられたその問いに、俺はとっさに曖昧な笑みを浮かべた。相手を不快にさせないように。そんな気遣いだけが先に立ち、うまく言葉が出てこない。まるで、壊れかけた機械のように顔の筋肉だけが無理やり動いている。


「たくっ、薄情な奴だな。俺だよ、俺──」


 男は溜息まじりに名を告げた。だが、その名にも声にも、私の記憶は反応しない。ひとつも思い出せない。

 それでも、黙ったままでは場が持たない。仕方なく、私は曖昧に相槌を打った。


「あぁ、はいはい……えっと、たしかに久しぶりですね。十年以上前ってなると……最後に会ったのは、えっと……確か……」


 言葉の端に迷いを滲ませながら、わざとらしく記憶を探る素振りを見せる。何も思い出せてはいない。拙い社交性をフル動員して、ごまかすしかない。知っているフリをしなければならない。わずかでも時間を稼ぎ、相手の口から記憶の手がかりがこぼれるのを待つ。

 そんな浅い演技を繕いながら会話を続けていると、男はふいに顔を上げた。何かを思い出そうとしているのか、眉間に皺を寄せながら、俺に人差し指を向け、上下に小刻みに振りはじめる。

 親しくもない相手に人差し指を向けられて、いい気分がするわけもない。だが、不快な表情を出すわけにはいかなかった。


 「ほら、あそこだよ、あそこ」


 男は右手の人差し指を突き出しっぱなしで、斜に構えたまま、左手で眉間を押さえた。頭を小さく傾けて、わざとらしく記憶を探っている。

 癖なのか何なのかは知らないが、私は内心、この男の話し方も態度も仕草も、じわじわと苛立ってきた。


「ほら、あそこ、あそこだよ。えっと……どこだっけかな」


 それでも、表情に出すわけにはいかない。仮面をつけたかのように笑みを崩さず、ただ無言のまま、男が思い出すのを待った。


「えっと~……あっ、思い出した!」


 男は、周囲の作業員たちにも聞こえるほどの声量で、突然話し出した。その無遠慮な響きが、まるで静けさの中に石を投げ込むように、周囲の空気をわずかに波立たせる。

 彼の話によれば、かつて世界規模の某ネット通販会社が運営する巨大な物流倉庫で、私と一緒に働いていたのだという。その言葉は、誰かに語りかけているようでいて、実のところ、周囲全体に響くような調子だった。

 その音が耳に届いた瞬間、心の奥底に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくるのを感じた。ぼやけていた映像に、ピントが合わされたかのように過去の輪郭が、少しずつ、静かに、だが確かに、鮮明になっていく。


 ――そうだ。たしかに十年以上前。


 私は巨大な倉庫で、派遣会社を通じて働いていた。そして、目の前にいるこの男と会話を交わしていた時の光景がぼんやりと思い出すことができた。


「何、今はここで働いてるの? いつからよ」


 唐突に尋ねられて、私はわずかに間を置いて答える。


「……えっと、三年ほど前からですね」

「ふーん。じゃあその前は?」

「まぁ……似たような物流倉庫を、転々と」


 そう答えると、男は顎をさすりながらニカッと笑った。どこか人を小馬鹿にしたような軽さが滲んでいる。


「それで、ずっと派遣生活か。お前ももう四十だろ? そろそろマジめな働き方した方がいいぜ。人生、詰むぞ?」


 思わず眉がぴくりと動いたが、表情は曖昧な笑みにとどめた。少しずつ、この男との記憶が蘇ってくる。この男がどんな人間で、私がどう思っていたのか。それだけは鮮明に覚えていた。


――俺はこのオッサンが心底嫌いだったな。


「で、稼ぎはそれだけなのか? 今の派遣会社からの給料だけで生活できてんのか? 言っておくがな、真っ当な社会人は真っ当な会社で真面目に働く。そうじゃない奴は、ろくな死に方をしないぞ」


 そう、この男は昔からこうだった。年齢と肩書を免罪符に、他人のプライベートな領域にずかずかと踏み込んでは、自分の常識を押しつけてくる。言葉の端々から、見下されているのは明らかだ。誰も望んでいないのに延々と喋りつづける。その傲慢さに腹が立つ。人の心の温度差に気づかず、いや、気づこうともしない。

 だから私は、心の中で彼を「老害」と呼んでいた。今も、その呼び名しか浮かばない。


「……まぁ、ぼちぼちと」

「ぼちぼちってなんだよ。月いくら稼いでんだ? いくらなんでも二百万はいってんだろ? お前じゃ、三百万は無理だろうしな。まぁ、副業でもしてりゃ別だろうが、どうせそんなことしてないだろ?」


相手の心情などまるで意に介さず、土足で無遠慮に踏み荒らしてくる。おそらく悪意はないのだろう。本人にしてみれば、ただの軽口、あるいは親しみのつもりなのかもしれない。この老害は、かつて「俺は何言っても許されるからな」と言っていたことがある。思い上がりもいいところだ。それは“許されている”のではない。“許してもらっている”だけだ。相手に強いている我慢を、何ひとつ考えていない。

 けれど、だからこそ厄介だった。無自覚であることが、何よりも質が悪い。


「生活できている程度には、稼いでますよ」

「だから、それがいくらだって聞いてんだよ。言えない話でもないだろ?」


 交わされ続ける言葉に、苛立ちがふつふつと湧き上がる。他人の収入を尋ねることがどれほど無作法な行為か、この男は本気で知らないのだろうか。家族でもなんでもない他人に、しつこく聞きつづける。それが、どれほど非常識で、どれほど失礼なことか。

 そんな当たり前の常識すら、この老害には通用しないらしい。しかも、こちらがあえて答えをぼかしても、なお具体的な数字を聞き出そうとしてくる。いったい、何のために。どんな意図があって、そんなことを私から引き出そうとするのか。

 それが親切のつもりなのか、ただの好奇心なのか、私には理解できない。

 この老害の厚顔無恥ぶりには、もう怒りすら通り越して呆れる。

 年上だからといって、何でも許されるとでも思っているのだろう。そういう年長者は、いくらでもいる。ただ長く生きているというだけで、自分が偉いと勘違いしている。

 だから「老害」なのだ。

 だが、そういう問題ではない。そもそも、他人の収入を問うというのは、単なる好奇心からではない。あれは、相手との格差を可視化するための問いだ。

 どちらが上で、どちらが下か。勝っているのか、負けているのか。

 その境界線を、無遠慮に数字で引こうとする。そんな浅ましさと、鈍さと、傲慢さに満ちている。

 この老害は、昔からそうだ。他人を値踏みするような目で見て、自分より下と見なせば、容赦なくその価値を貶めてくる。そして、自分の価値観を、まるで正論であるかのように塗り付けてくる。

 相手の事情も、思いも、何ひとつおかまいなしに。

 それがどれだけ傲慢で、どれだけ不躾なことか。そんな想像力すら、この老害には存在しないのだろう。

 言葉を返す気も失せて、私はただ、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。


「いくらなんだよ。そんな隠すような大した額じゃねぇんだからさ。年収だと、二百万くらいか? 俺の見立てじゃ、せいぜい二百万をちょっと超えるくらいだろ?」


「……はいはい、大体そんなもんですよ」


 私は、なるべく淡々と答えることで、このやり取りを終わらせようとした。男は満足げな笑みを浮かべたが、その視線には、相手を見下す色が露骨に宿っていた。その目を見て、自分の返答がまずかったと悟った。だが、もはや訂正のしようもない。男が何か言い出そうと口を開くのを見て、私は心を平静に保つための守りを固めた。


「そんなんじゃ、老後どうすんだよ。真面目に働けよ、そろそろ。そんな少ない収入で貯金できてんのか? 年金は払えてんのか?」


 次々と繰り出される言葉は、ただの会話の皮を被った刃だ。予想していたとおり、私はそれらを聞き流し、曖昧な相槌だけを置く。


「まあ、意外と、なんとかやれてますよ」

「ほとんど税金と家賃で持ってかれるだろうが。ほかに仕事とかしてんのか?」

「まあ、色々とですよ。別にいいじゃないですか」

「そりゃ、お前がどんな人生を生きようが自由だがな。で、他にどんな仕事してんだよ」


 心の奥では、毒気が泡立っていた。


 ──うぜぇ。気安く話しかけてくるな。黙ってろ。年上だからって、何を聞いてもいいわけじゃねぇ。言えば許されるってもんでもねぇ。俺はお前を喜ばせるための道化じゃない。こっちは社会の底辺で、やっとの思いで生きてんだ。上から目線で値踏みする暇があるなら、自分の足元でも見とけ、この老害が。さっさとくたばりやがれ――


 頭の中は、老害に向けた悪口で埋め尽くされている。心の中も悪意であふれ返り、愛想良い仮面がはがれ落ちてしまいそうだ。今にも罵詈雑言が喉元までせり上がってくる。


 ――落ち着け。ここで感情的になっても、俺にメリットは一つもない。あるのは社会的リスクだけだ――


 唇だけを愛想笑いの形に固め、ただ相槌を打つだけの機械になったふりで、会話をやり過ごすことに努める。

 だが、その時。老害の目が、何かを思い出したように細められ、今、私が最も聞かれたくない場所へ、ためらいもなく土足でずかずかと踏み込んできた。


「……あれ、そういえば、お前さ。昔、漫画家目指してるって言ってたよな? なんか本も出してたことがあるって言ってたよな」


 胸の奥で、何かがぱきりと割れた。冬場の凍った水たまりに足を乗せた時のような音だ。その瞬間、ふっと奈落の底へゆっくりと落ちていくような錯覚に襲われ、天地の向きが定まらなくなる。

 胸の奥が急激に冷えていく。呼吸の仕方すら忘れかけるほど、強い衝撃だった。


 ──やっぱり、こいつ覚えてやがった――


 心臓の奥が凍りつき、脈拍だけが妙に速くなる。過去に漫画家を目指していたこと、そして今も漫画家を目指していること。それらは決して他人には知られたくないし、見られたくもない、触れられたくない。私にとって最も大切な領域だ。


「確か、その話を聞いて、俺、お前の本を探したことがあったんだよな。どんな本だったかな……」


 続く老害の記憶の引き出しの音に、私は心胆を寒からしめられた。ちょうどその刹那、始業のチャイムが響く。無機質な電子音が、空気を切り裂いて会話を中断させる。


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