第六話『過去に囚われた中年男』
夢を見た。
そこには、まだ将来に希望を抱き、夢を握りしめていた二十歳の自分がいた。漫画を描くことが、ただただ楽しくて仕方がなかった頃の自分だ。
かつては、夢と目標に向かって必死に進んでいた。時間とは残酷なものだ。その姿は、いまでは跡形もなく消えてしまった。
どんな人間にも、誇れる過去というものがある。
今の私は、夢に破れ、それでもなお靄のように形を失った目標へと縋りつき、袋小路に迷い込んだことすら自覚できずにいる。若さを失い、進むべき道を見失ってしまった。
そんな私にも、かつては他人に誇れる、わずかばかりの輝かしい時期があった。
中学時代、『ワンピース』に出会い、漫画家を志した。高校卒業と同時に、何度も親を説き伏せ、都内の漫画専門学校へ進学するために上京した。安くはない学費を両親に背負わせながらも、当時の私はその苦労など顧みず、胸を躍らせていた。
在学中、授業とアルバイトの時間以外は、ほとんどすべてを漫画に費やした。寝る間も惜しみ、体を削って描き続ける日々を過ごしていた。
想像力は途切れることなく、ストーリーの断片が次々と頭に湧き上がり、ペンを止めることさえできなかった。
そうして描き上げた原稿を、何度も出版社へ持ち込み、新人賞にも投稿した。
運命という言葉を信じたくなる出来事は、人生でそう多くはない。
だからこそ、その日、携帯電話の着信音が鳴った瞬間を、今も鮮明に覚えている。
見知らぬ番号にためらいながら応じると。
「集英社・週刊少年ジャンプ編集部の――」
受話器の向こうから響いた名乗りは、狭く閉じた現実を突き破る、鋭い衝撃のように胸へ届いた。
耳の奥に熱がこもり、指先が震える。言葉を返そうとしても、声が上ずるばかりだった。
ただ一つだけ、確かに感じていた。
この瞬間、自分の人生が動き出したと。
「君の漫画は粗削りだけど、将来性があると僕は期待している」
その言葉に、私は有頂天になった。努力が実を結んだという確かな実感が、胸を満たした。
自分の漫画が、初めて誰かに評価され、認められたのだ。胸の奥から熱がせり上がり、声にならない息が喉を塞ぐ。
嬉しさで泣いたのは、この時が最初で最後だった。
その日から、私には「担当」という存在ができた。私の原稿を読み、助言を与えてくれる人という意味での「担当」だ。
表情には迷いの影ひとつなく、まっすぐ前を射抜く視線は、上京してから身近にいた大人たちとは明らかに異質だった。
バイト先のコンビニの店長とも、専門学校の講師とも違う。静かな確信を宿したその眼差しに向き合っていると、不思議と胸の奥に力が満ちてくる。椅子に腰を下ろす所作さえ、揺るぎない目標を胸に抱いていることを物語っていた。
その人は名刺を差し出すよりも先に、原稿への指摘を始めた。コマとコマの間隔、キャラクターの立たせ方、セリフの密度、視線の誘導。厳しくも的確な言葉が、傷口に消毒液を流し込むように、痛みと清涼を同時に与える。
指摘の合間に、ふと彼が漏らした一言が今も耳に残っている。
「君の絵にはまだ伸びしろがあるよ。だからこそ、もっと量をこなす必要がある。とにかく描き続けるんだ」
その言葉は、心から嬉しかった。漫画家としてのデビューが約束されたわけではない。それでも、自分の未来がふいに開け、光が差し込んできたように感じた。
それから半年間、私は担当の助言を受けながら、描いて、描いて、描き続けた。ページを削り、セリフを削り、キャラクターを研ぎ澄ませる。漫画漬けの日々を過ごし、数えきれないほどのネームを描き上げた。
そのほとんどはボツとなったが、不思議と心は満たされていた。
そして、ついに自分でも納得のいく作品が生まれた。渾身の出来だった。文字通り、心血を注いだ一作だ。
私に期待を寄せ、何かと助言をくれていた編集者も、初めてその原稿を褒めてくれた。
やがて、その作品は編集部会議へと回されることになった。
実際に雑誌へ掲載されるか否かは、そこで決まる。会議が行われているその日、私は気が気でなかった。胃が不安と緊張で圧迫されて、何一つ喉を通らなかった。
学校もバイトも休み、部屋に籠って携帯電話の前に座り込み、息を殺してその着信音を待ち続けた。
携帯電話が鳴った瞬間、心臓が大きく跳ね、息を飲んだ。受話器越しに響いたのは、編集者の落ち着いた声だった。
「鳥山君、おめでとう。赤マルJUMPに読み切りとして君の作品を載せることになったよ」
これまでの人生で、一番嬉しかったのは、この瞬間だったかもしれない。胸の奥が熱くなり、咽び泣いたのも、この時が初めてだった。
読み切りは好評だった。アンケートの結果も悪くはなく、ほどなくして、担当から新たな連絡が入る。
「次はこの作品で連載を狙おう」
その言葉を聞いた瞬間、背筋から頭の先まで総毛立った。
読み切りとして描いた作品を、この担当編集者と幾度も話し合い、連載用に練り直していった。やがて連載会議を通過し、掲載が決まったとき、中学生に抱いた夢はとうとう現実へと姿を変えた。
「次の話で最終回にしましょう」
その一言は、私の足元をすくい、舞台の床板が外れたように、夢から冷たい現実へと一瞬で突き落とした。落ちる間際、掴もうとしたものは何ひとつ形を保たず、指の間からさらさらとこぼれ落ちていった。
単行本の1巻が発売される頃には、連載はすでに終わっていた。書店の棚から自分の本が消えるのはあっという間で、それは皮肉にも、私の夢がいかに脆く、儚いものだったかを突きつけるようだった。成し遂げたはずのことは、大きな栄光などではなく、世の中に無数に転がる、取るに足らない出来事のひとつにすぎないことを思い知らされた。
その現実の冷酷さを、身をもって思い知ったのは、ずいぶん後になってからだった。連載終了直後の私は、気力を失うどころか、むしろ漲らせていた。終わりを告げられても、私はペンを握り、新しい漫画のネームに向かっていた。
書き上げたネームを担当へ送り、返ってきた助言を胸に刻みながら、私は描き続けた。だが、結果はすべて「ボツ」だった。
その二文字が積み重なるたび、机の上の原稿用紙は鉛みたいに重くなる。ページをめくる指も、線を引くペン先も、いちいち沈む。描いているのに、前へ進んでいる感覚だけが消えていった。
今思えば、この頃から私は、漫画を描くことを「苦しい」と感じ始めていた。
そしてちょうどそのタイミングで、デビュー前から面倒を見てくれていた担当編集が外れ、別の担当へと変わることになった。
それからの日々は、まさしく悪夢という日常が続いた。
いくつのネームを見せたか思い出せない。その全てが「ボツ」の二文字で切り捨てられた。どれだけ時間も体力も睡眠も削って描いても、返ってくるのは報われる言葉じゃない。努力の量に比例して返事が良くなるわけでもない。ただ、こちらが必死であればあるほど、足元だけが沈んでいく。
常に担当者から返ってくるのは、冷笑まじりに、費やした時間と努力を踏みにじるような言葉ばかりだった。
その一言一句が、心に小さな棘のように突き刺さり、奥底をじわじわと暗くしていった。
新しい担当編集の名は、小西。私はこの男を、たぶん一生忘れることはできないだろう。許すこともできない。二つ年上で、小柄で地味な顔立ちをした男だった。初対面の時から、どこか人を見下すような目つきと横柄な態度が気に入らなかった。
苦心惨憺の末に新しいネームを描き上げても、「つまらない」「ボツ」、その二言であっさりと切り捨てられた。どうすれば面白くなるのかという、まともな助言を受けた記憶は一度もない。
前の担当者のように、一緒に作品を作り上げようとする熱意は微塵も感じられなかった。
小西について覚えているのは、軽薄そうな物腰と、私という売れない漫画家を面白がるような冷笑が、常に顔に張り付いていたことだけだ。
「あのさ、もっとファンがつくような可愛いヒロイン描けないの? アンタの女キャラ、萌えがないんだよ」
小西は吐き捨てるように言い、仕上げた原稿を僕の足元へ投げた。
誰かを本気で殴りたいと思ったのは、あの瞬間が初めてだ。
床に散った原稿を拾い集める屈辱を忘れることはないだろう。
「アンタさ、あの『ドラゴンボール』の作者と同姓同名なのに、漫画の才能がないんだよ。絵に魅力がない。はっきり言って下手。せめて話だけでも面白ければいいのに、それすらない。漫画家としての才能がね、一ミリもないの。“とりやまあきら”って名前なのに。いっそ改名してきた方がいんじゃない?」
小西は私の名前を何度もネタにして嘲笑った。両親がくれた名前を物笑いの種にして楽しんでいた。
この名前でからかわれることは幼い頃からあったが、こんなふうに嘲られたのは初めてだ。そんな時、名前を恥ずかしいと思う自分も嫌いだったし、それをネタに蔑まれることへの怒りで、胸の内側が焼けるようにもだえた。
いつからか、私は自分の名前を呪いのように感じるようになっていた。
心からこの男が憎くてたまらなかった。毎日顔を合わせるたびに、いつか殺してやると頭の中でその場面を想像していた。悔しくて見返してやろうと必死になって原稿を書き続けた。けれど小西は、それを快感でも覚えたかのように踏みにじり続けた。
この俺の漫画家としての人生に終止符を打ったのも、この男だった。
最後に会った日も、小西はあの薄い笑みを浮かべていた。才能のない人間が夢を失う瞬間を、特等席から眺めているみたいに、心の底で楽しんでいる笑みだ。
「鳥山さんとの契約だけどさ、今月で終わりだから」
興味の欠片もない声で告げ、さらに言葉を重ねる。
「まあ、どうしても読んで欲しいなら持ち込みに来てもいいよ。でも俺も暇じゃないから、そこんとこは汲んでよね。時間が空いてたら目くらい通してやるから」
ニヤリと口元を緩め、視線をわずかに下げる。
「でもさ、もう気づいてんだろ? アンタには面白い漫画、つまり“売れる漫画”ってのを描く才能がないってこと」
口元が、相手の傷口を指で押し広げ、その痛みを愉しむ人間だけが浮かべる、いやらしい笑みに歪んだ。
「前の担当が何を言ったか知らんけど、あの人もう集英社辞めて他へ行ったじゃん。正直、漫画を見る目なんてなかったと思うね。漫画が好きなのは分かったけど、それだけ」
一拍置いて、わざとゆっくり続けた。
「だから俺がハッキリと言って、アンタに引導を渡してやるよ。アンタは漫画家にはなれない」
その声音には、努力を嘲笑う者だけが持つ、薄く冷たい優越感が滲んでいた。汗も、必死に伸ばした手も、何ひとつ評価せず、ただ“才能”や“運”といった一言で切り捨てる。
それだけならまだしも、この男は、その全てをあざ笑っていた。夢のために積み重ねてきた日々を、唇の端に嘲りを浮かべながら踏みにじっている。
「これまでアンタのネーム、全部ボツにしたじゃん。その時点で察してくんないかな。このままだと、アンタの人生までボツになっちゃうよ。叶わない夢だと、諦めなよ」
そこからの記憶は、ほとんど霞がかかったように曖昧だ。はっきりと覚えているのは、胸の奥に宿った黒く滾る感情を、どうにか暴れさせまいと必死に押さえ込んでいたことだけ。
編集部を出て、出版社を離れ、家に着くまでに俺の心は、ゆっくりと、しかし確実に、どす黒く濁っていった。小西が俺の心に落としていった、無邪気を装った悪意は、耳の奥で何度も反芻され、形を変えながら胸の中を這い回る。
それは私の中の憎悪が、醜いムカデやヤスデの群れとなって節くれだった足をうごめかせ、心の隅々をじわじわとまさぐり、奥へ奥へと黒く染み込んでいった。
悪意は音もなく、しかし確実に染み込み、怒りと憎悪の色で、俺という人間の内側を一面に塗りつぶしていった。
腹が煮えくり返る、などという生ぬるい感情ではない。
この時ほど、心の底から誰かを殺したいと思ったことはなかった。それほどまでに、小西の言葉は私の存在そのものを踏みにじったのだ。
帰宅後、私はまるで怒りと憎しみを紙に叩きつけるように漫画を描いた。
そして、この瞬間から今日に至るまで、私はずっと呪われ続けている。漫画という名の鎖に絡め取られ、抜け出せなくなったままだ。
あれから十年以上が経った。
様々な出版社に持ち込みをし、数えきれない漫画賞に応募した。だが、そのどれもが実を結ぶことはなかった。
月日が経つごとに、漫画に向かう時間は減り、情熱は削られ、夢の輪郭は霞んでいく。それでも、あの日に私の漫画家になるという夢に突き立てられた“ボツ”という言葉の釘は抜けることなく、胸の奥に深く突き立てられたままだ。
ずるずると、今も私は、その夢に縋っている。原稿用紙を広げ、ペンを握る。だが、線は引けない。
ネームは浮かばず、新しい物語も思いつかない。
思い悩めば悩むほど、漫画を描くことは楽しみからただの苦しみへと変わっていった。気が付けば、漫画を描く時間は減り、やがてペンを持つこともなくなっていた。机の上には白紙の原稿用紙だけが残り、埃をかぶっている。かつて部屋の空気を満たしていたインクの匂いも、今は跡形もなく消えてしまった。
爪の奥にこびりついて落ちなかった黒い汚れさえ、もうどこにもない。
漫画家を目指しながら、漫画を描いていない。描くことすらできなくなっているのに、それでも手放すことだけは、どうしてもできなかった。
自分が漫画を描くのは、漫画家になるという夢に縋っているのは、ただ単に小西を見返してやりたいという復讐心からきているのだろうか。
もうそれすらも分からなくなっている。派遣の現場で汗にまみれ、埃をかぶって帰宅する。
机の上では、白紙の原稿用紙が、あの頃の時間から止まったままだ。ペンもインクも乾き、固まり、もはや使い物にならない。描こうが描くまいが、白紙は変わらぬ白さで、ただそこに横たわっているだけだった。
その前に座る私は、もはや夢を追う人間ではなく、夢の残骸を抱えた亡霊のようだった。どれほど苦しくても、かつて漫画を描くことに情熱を傾けていた私は確かに輝いていた。
だが、その輝きこそ、今の私を呪い続けているのかもしれない。
夢は、叶わなければただの重りになる。
それでも私はまだ、この重りを抱えたまま、立ち止まっている。矮小さと卑屈だけを年ごとに増しながら、他人を妬み、社会を呪い、自分を偽って。私の人生の歯車は、夢という硬い石を噛み込み、狂い、いびつに歪んだまま止まってしまった。
小西への憎しみも、漫画を描けなくなった苦しみも、私の人生の時計そのものを錆びつかせてしまった。私だけが取り残され、針の動かない文字盤の前で時間だけを見送っている。
この袋小路のような安アパートの一室で、私はいつまでこの残骸となり果てた夢を抱きしめているのだろうか。
分からない。
答えはすぐそばにあるはずなのに、理解しているはずなのに、私はそれを認められない。きっと、私は行きつくところまで堕ちても、このままなのだろう。
ああ誰か、こんなクソのような人生なんか終わらせてくれ。




