第五話『夢に縋る中年男(後編)』
湿った夏の空気が肌にまとわりつく。アスファルトの匂いが、熱を含んだ空気とともに肺に入り込む。宵闇の名残を抱えた空が、ゆっくりと白みに溶けていく。汗の乾きかけた肌が、朝の湿気を吸って重く感じられた。
早朝の帰宅路は、静けさに満ちているはずなのに、倉庫に充満していた機械音の残響がまだ耳朶の奥で木霊し、心をじわじわと沈めていく。
仕事中に芽生えた他人への悪感情と、そんな自分への自己嫌悪が入り交じった毒が、家路の一歩ごとに血の中へ染み出してくる。まるで、ドラクエの毒沼を延々と歩かされているような感覚だ。
横断歩道が近づく。一秒でも早く家に帰りたいのに、赤信号が、これ見よがしに渡る直前で灯る。まるで運命が、わざわざ私を苦しめるために仕掛けた悪意のようで、吐き気を催すほど苛立つ。
そこへ、向かい側にいつもの男が現れる。
早朝ランニングを日課にしているらしく、今日もブランドロゴを大きくあしらったランニングウェアに身を包んでいる。
同年代の男性。だが、私とは違う生き物のようだ。高収入で、地位も安定し、人生は順風満帆で、その自信に満ちた姿は、私の古びた服と年収二百万にも届かない現実を、容赦なく浮かび上がらせる。
心の奥に、濃い泥を塗り込められるような気分の悪さを覚えさせる。嫉妬と羨望がじわじわと滲み出し、胸の中を腐らせていく。
青信号が灯ると、彼は軽やかに駆け抜けていった。
何度も同じ場所、同じ時間にこうして鉢合わせしているはずなのに、きっと相手は私の存在など覚えてもいない。顔さえ記憶に残っていないだろう。
それが、さらに気分を損なわせる。こちらはこれほど否定的な感情に染まっているというのに。
考えまいとすればするほど、惨めさが浮かび上がり、苛立ちが足を速める。妬みと嫉み、その毒が理性を食いつぶしてしまう前に、早く家へ辿り着きたかった。だが、横断歩道のたびに赤信号が行く手を塞ぐ。
その都度、反対側に全身をブランドで武装し、幸福を絵に描いたような顔をした老夫婦、若い女。若い男女のカップル、自分と同じ年位の夫婦、自分よりも社会地位の高い様々な老若男女が姿を現す。
赤信号。
また赤信号。
そして、また赤信号。
――何故、運命は俺を苦しめる。一体、俺が何をしたというのか。俺の何が悪いというのか。
いったい帰宅までに、あといくつ信号があり、あと何度この胸の奥を掻き回されねばならないのか。人生そのものが、ただ意地悪をしているようにしか思えない。
赤信号。足を止める。
「神様、そんなに真っ当に働かない俺が悪いっていうのか?」
私は週に五日働くことは滅多にない。週に三日以上は休みをいれるようにしている。そんな怠惰な私を、運命の女神が薄い笑みで眺めている気がした。
かつて休日を多くすることには、確かな意味があった。漫画を描くために、月の労働日数を二十日以下に抑えていた。収入が削れても構わない。自由に使える時間のほうを優先したかったからだ。仕事がある日でさえ、帰宅してから眠りに落ちるまでのわずかな時間にネームを練り、出版社へ送る原稿を描き続けた。そんなふうに、漫画に時間を捧げる日常を送っていた頃がかつての私には確かにあった。
また、赤信号。
立ち止まった瞬間、脳裏に部屋の光景が浮かぶ。座卓の上には、放置されたままの白紙の原稿用紙が広げられている。ペン立ての底で眠るGペンは、もう何年も紙を走っていない。
「……意味なんて、なかったけどな」
最後に本気で描いたのが、いつだったかも思い出せない。新しいネームも浮かばないくせに、“漫画家になる”という夢だけは離さずにいる。描きもしないくせに、夢の残骸だけを握りしめて。
滑稽で、みっともなく、情けない。本当に自分は漫画家になりたいのだろうか。その問いが胸の底にこびりついて離れない。
「何のために休むんだろうな」
また、赤信号。
ここまでくると偶然とは思えない。
信号機の赤い光が、じっと私を見据え、夢という蜃気楼を追って進もうとする私へ「あきらめろ」と囁いている気がした。
その灯りは、私が縋り続けている夢の残骸を血のような色に染め、嘲るかのように瞬いていた。
「どうせ休んだところで、漫画を読んで終わるだけだしな」
休日は、ネットの片隅にある違法アップロードサイトで、あらゆる漫画をだらだらと読み、時間を溶かしている。
かつては給料のほとんどを漫画本につぎ込んでいた。ほかの漫画から自分の漫画に何か一つでもアイディアの足しになればいい。そんな執念を抱いて、購入した漫画本を読みふけっていた。だが今では、その全部を生活費のために売り払ってしまっている。
そんな自分が、いまは液晶の向こうで、無料で違法に流されている漫画を読んでいる。ただ読んでいるだけだ。目的も、考えもない。惰性で読み流している。昔は、漫画家を目指す人間として、そういうサイトの存在を嫌悪していた。だが金がなく、仕方なく覗き始めた最初の頃は、ページをめくるたびに小さな罪悪感が胸の奥で引っかかった。
けれど、それも長くは続かなかった。収入のほとんどが生活費に消えてしまい、それ以外に金を使う余裕なんてない。その現実が、罪悪感をすり潰していった。
ただひとつ、『ワンピース』だけは売らずに残してある。どうにか今も、最新刊だけは買い続けてきた。けれど、それもいつまで続けられるのかは分からない。
「……正直、ワンピースだって、昔のように面白いと思って読んでいるわけでもないしな」
中学の頃、夢に向かって歩き出した。
あれから二十年以上。夢は色を失い、目標は輪郭を失った。それでも何かが、私の手を離してくれない。諦めれば楽になると知りながら、その最後の指先の力を抜けない。もはやそれは夢ではなく、ただの重りだ。
赤信号。
ここまでくると笑えて来る。運命は徹底的に俺を惨めな気分にしたいらしい。
向かい側には、犬を連れて歩く母親と娘が立っている。娘は中学生くらいだろうか。同級生の多くは結婚し、家庭を築いている。
もしも、夢を早々に捨て、普通に働いていたなら、俺も平凡で、何の変哲もない“普通の人生”を歩んでいたのだろうか。
あの娘と同じくらいの子どもがいても、おかしくはない年齢だ。そんなことを考えていたせいか、娘と目が合いそうになり、慌てて視線を逸らした。不審がられるのも、妙な誤解を招くのもごめんだ。逸らした先に、いつも仕事帰りに立ち寄るコンビニの看板が見えた。
「今日は月曜日か」
雑誌ラックの真ん中には、週刊ジャンプが積まれているはずだ。コンビニに入ったらそれを手に取り、ワンピースだけを立ち読みする。そして何も買わずに店を出て、家へ帰る。
明日は休日だが、何も変わらない。いつもと同じ過ごし方をするだけだ。スマホで違法サイトの漫画を漁り、違法動画でアニメを流し見して終わる。座卓の上、白紙の原稿用紙が視界の端に映っても、ペンを握らぬまま一日を終えるのだろう。
そんな日々を、この先もずっと繰り返していくのだろう。私は袋小路みたいな人生を、意味もなく歩き続けている。やがて行き止まりに突き当たるまで。
「本当に、俺はダメな人間なんだ。どうしようもない社会不適合者なんだ。」
嘆きのような独り言と同時に、信号が青に変わる。口を固く結び、横断歩道を渡る。犬を連れた親子とすれ違う瞬間、交わされる笑い声が、胸の奥のどこか柔らかい場所を無造作に踏みにじっていく。その響きが遠ざかるほど、胸の内に冷たい空洞だけが残った。
「……惨めだ」
その言葉とともに踏み出した足は、鉛を流し込まれたかのように重かった。




