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第四話『夢に縋る中年男(前編)』

「彰さん、昨日休みだったみたいだけど、何してたの?」


 ベルトコンベアから絶え間なく流れてくる荷物を、何も考えず、ただ機械のようにカゴ車へと積み込んでいた。単調な作業の中に埋没していたそのとき、背後から軽い調子の声が飛んできた。振り返らずとも、それが誰の声かはわかっていた。同じ派遣会社に属し、同じ倉庫の空気を吸っている、六つ年下の若い男だ。

 わざわざ名前を記すほどの相手ではない。来年の今ごろには、別の現場で、別の誰かと、また同じように中身のない言葉をやり取りしているのだろう。所詮、その程度の縁でしかない。ここにいる全員、私にとってはかりそめの関係に過ぎない。どうせ、いつか名前も顔も、その時には忘れてしまうだろう。強いて名を与えるなら、「うぬぼれ屋」とでもしておこう。実際のところ、今の私にとって他人とは、その程度の存在でしかないのだ。

 私は手を止めず、一瞬だけ視線を横に滑らせる。


「暇だったんで、パチンコ行ってましたよ」

「勝ったの?」

「勝ってたら、今ここにいませんよ。負けたんで、しぶしぶ出勤してるんです」

「やだねぇ。パチンコなんて、時間と金の無駄じゃん。ま、ここで働いてるやつなんて、だいたいそんな底辺ばっかだけどさ。あ、でも彰さんは別。彰さんは、俺、いい人だと思ってるよ。ホントに」

「……それは、どうも」

「俺はさ、そういうくだらないことには金使わないんだよ。もっと有意義な使い方をしないとね。そのおかげで、あと五年働けば、毎月五万以上の不労所得が入るようになるんだ」

「……それは、よかったですね」

「でも、五年って長いよな。本気出せばもっと早く辞められるんだけどさ。ずっと本気出すって言ってて、まだ出してない。でもまあ、本気出せば、金なんていつでも稼げるって思ってるからさ」

「それでも、あと五年我慢すれば……“FIRE”ってやつ、でしたっけ? 私はよく知らないんですが、それが実現するんでしょ?」

「まあね。完全にリタイアは無理だけど、月の半分働くだけで済む生活ってやつ? ……でも、その五年が、キツイんだって!」


 うぬぼれ屋は肩をすくめ、笑いながら自分の持ち場へと戻っていった。相変わらず名前通りの男だ。言葉も態度も尊大で、やたらと高い自尊心が透けて見える。

 うぬぼれ屋との会話を聞いていたのか、近くにいた女性が話しかけてきた。


「パチンコで負けたんですか? そのあと何してたんです?」


 どんな相手にも笑顔を絶やさず、誰の言葉にも器用に合わせて応じる。良くも悪くも、愛想だけの女だ。職場の男女からの好感は、これ以上なく分かりやすく割れている。持ち上げる者もいれば、露骨に距離を取る者もいる。

 仮に彼女に名前を付けるなら、「八方美人」だ。媚びているわけでもなく、かといって心の底から好意を持っているようにも見えない。愛想はあるが、腹の内で何を思っているのかは分かったものではない。

まあ、私としても彼女に対して思うことは同じだ。同じ職場で働いているというだけの関係でしかない。彼女のことを深く知りたいとは思わないし、向こうもまた、こちらに興味などない。それくらいは、話している素振りでわかる。


「ふてくされて、ずっと酒を飲んでました」

「どのくらい飲んでたんですか?」

「打ち終わったのが夕方だったんで、六時からですね。だらだらと寝るまで飲んでました」

「負けたのに?」

「負けたからこそ、です。飲まなきゃ、やってられないでしょう」

「でも、そんなこと続けてたら、お金なくなっちゃいますよ〜?」


 八方美人はけらけらと笑った。その笑顔には年齢相応の皺が刻まれていたが、不思議と、それを感じさせない柔らかさがあった。やがて彼女も、自分の作業へと戻っていった。

 再び、機械のうなる音と荷物のぶつかる音だけが、空間を満たしていく。

 私は、静かに息を吐いた。


「……ま、ギャンブルもやってないし、酒も飲んでないけどな」


 呟きは、倉庫を満たす機械の唸りと、どこかで荷物が下ろされる雑多な音に紛れた。

 この二十年で、私が身につけたものと言えば、上手に嘘をつけるようになったこと。あと一つは、他人に対する許容量が、いい意味でも悪い意味でも増えたことくらいだ。まあ、どうでもよくなっただけかもしれないが。

 年下にタメ口を利かれても、気にするような自尊心なんて、とっくに捨てている。会話を円滑にするための自然な嘘も、いつの間にか板についた。

 これが成長と呼べるかは分からない。けれど、社会に出て以降、私が唯一、身につけた技術であることは確かだ。

 私が派遣労働者として三年前から働いているのは、都内にいくつか点在する、大手企業の物流倉庫だ。

巨大な鉄筋コンクリートの建造物の中に、日々、多くの人間が集まり、倉庫内に響き渡る雑多な重低音に圧迫されながら働いている。

 その光景は、まるで巨大なアリ塚の内部のようだ。この職場を動かしているのは、労働契約や規則ではない。もっと原始的で、閉鎖的なものである。それは、古くから日本という共同体の根を形づくってきた“村社会”の性質だ。年功序列というよりも、ただ“長くいる”というだけで、古株は新人に絶対的な優位を持ち、見えない壁を築く。

 その壁は目には見えないが、常にこちらの動きや言葉を制限し、空気を変える。長く居座る者ほど、その内側で安住し、外から来た人間を試し、選別し、ふるいにかける。

 ここでは能力や努力は二の次だ。重要なのは、古株と敵対しないこと。そのために必要なのは、適度な挨拶と、当たり障りのない会話である。つまり、典型的なブラックな労働環境と労働条件が揃った場所である。

 こういった場所で何より大切なのは、いかに自分の姿を偽るかということだ。良くも悪くも、目立ってはいけない。そつなく仕事をこなし、それなりの社交性を保ち、職場の人間とは適度な距離を置く。それが、この場所で生き残るための唯一の方法だ。そのほうが何かと都合がいい。

 だから私は、自分の“キャラ”を作り上げ、それを日々演じている。今の派遣会社に勤めてからというもの、ずっとその仮面を被り続けてきた。

 ギャンブル好きで、働くのが嫌いなクズ中年。仕事はそつなくこなし、話せばそれなりに明るく、年下にも腰が低く、何を言われても怒らない。そんな“親しみやすいオッサン”という仮面をつけて、この場所で働いている。

 そのおかげで、ときには不愉快なことを言われたり、軽んじられたりもするが、対人関係のストレスは概ね軽微に抑えられている。

 ここは大人が形成する社会だ。学校のような露骨ないじめは滅多にない。少なくとも、表面上は。

だが、それがまったく存在しないわけではない。この“親しみやすいオッサン”というキャラのおかげで、面倒な状況を避けてこられた。厄介ごとに巻き込まれにくい。

 けれど、もちろんデメリットもある。その“デメリット”が、今まさに目の前に立っている。


「おい、鳥山!」


 背中に、甲高くしわがれた声がぶつかってきた。振り向かずとも、誰の声かは分かる。「腰抜け」だ。胸の奥から嫌悪と苛立ちがじわりと立ち上がり、小さく舌打ちが漏れそうになるのを押し殺す。


――気安く呼ぶんじゃねぇよ――


 その本音は、誰もいない周囲と、倉庫を満たす機械のうなりが飲み込んでくれた。


「鳥山、さっきから呼んでんだろうが」

「……何っすか?」


 私は、ずれかけた仮面を素早くかぶり直し、今気づいたような顔で人の良さそうな笑みを作って振り向いた。

 案の定、そこに立っていたのは、この倉庫を管理している大手企業のグループ傘下で最下層の会社の社員だった。俺より一回り年上で、無駄に威張り、まるで自分の手足であるかのように命令してくる男だ。俺はこいつを心の中で腰抜けと呼んでバカにしている。


「あれ、やっとけ」


 指さした先には、二リットルの飲料水が六本入った段ボールケースを、人の背丈ほど積み上げたパレットが並んでいた。それをカゴ車へ積み込めという命令らしい。


「いや、それ俺の仕事じゃないですって」


 派遣会社からは、それは契約外労働だから応じる必要はないと確認を取ってある。過去には派遣会社から正式に抗議が入ったこともあった。


「どうせ暇してんだからいいだろうがぁ!」


 ちょうどラインが止まっていたのは事実だ。だが、それとこれとは話が違う。


「そういうことじゃないですよ」

「大した物量じゃねぇだろ。今だって手が空いてんだからいいだろうが」

「なら、他の人だって同じでしょうが。そいつらに頼めばいいでしょうが。大体、派遣の俺や他の奴じゃなくて、そっちが直接雇ってる作業員がいるでしょう? そいつらにやらせればいいじゃないですか」

「他の奴らはダメだ。使い物にならねぇし、下手すりゃパワハラで訴えられっからな。全く、最近の若い奴らは口ばっか達者で、楽して金を稼ぐことしか考えやがらねぇ」


 鏡を見てこい――その一言が喉まで出かかったが、ぐっと押しとどめる。普段は無駄に偉ぶり、機嫌が悪ければ挨拶すら無視するくせに、こちらが挨拶しなければ文句を言って咎めてくる。曰く、「社会常識がないのか」と厚顔無恥にも、平然と言ってのける。

 しかも、こうして話しかけてくるのは自分に都合のいいときだけだ。命令しても揉めない相手を選んでいるところに、この男の臆病さが露見している。逆らわず、口答えもしない相手とはつまるところ、私である。

 こいつは、自分の不遜な態度や不満げな言動を、私が“許してやっている”という事実を知ろうともしない。許されているのではなく、許しているだけだ。それを勘違いして、「こういう態度でも通る」と甘えている。ただ、それだけのことなのに。

 こいつだって、楽なほうへ楽なほうへと選んで動いている。その点で見れば、こいつが吐き捨てた「口ばっか達者な若い奴ら」と何ら変わらない。こういう年長者こそ、老害と呼ぶべき存在なのだろう。

 器量の小さい、気の弱い狂犬め。こういう老害がいつまでも日本に巣くっているから、この国は良くならない。苛立ちから、そんな言葉まで頭をよぎる。


「とにかくだ。お前しかいないんだ。俺がこうして頭を下げてお願いしてんだ。やってくれるだろ?」


 胸を反らせ、顎を上げたままの男のどこが頭を下げているというのか。喉までせり上がったその言葉を、ぐっと飲み込み、代わりに人の良さそうな笑みを唇に貼りつけた。


「まぁ、手が空いているんで、暇つぶしにやってあげますよ。ただし、次からはちゃんとそっちの会社が雇っている人間にやらせてくださいね」


 もし俺が精神的に図太く、何を言われようが何をされようが微動だにしない人間だったなら、こんな社交性は必要なかった。職場の全員に煙たがられ、陰口をたたかれようとも平然と笑っていられる胆力があれば、仮面をかぶる必要もない。

 だが、残念ながら俺はそこまで強くない。

 だからこそ、こういった職場で生き延びるためには、この村社会のシステムに恭順するのが、一番楽なのだ。

 飲料水を積んだパレットの荷を下ろしていると、遠くから怒鳴り声が響いた。手を止めて声の方を見ると、さっき「五年後にFIREする」と豪語していたうぬぼれ屋が、肩で風を切るようにこちらへ歩いてくる。


「何か、すごい怒鳴り声が聞こえたけど……もしかして君かい?」


 そう訊ねると、彼はまだ怒りが冷めきらない様子で、早口にまくし立てた。


「いや、今日この現場に初めて来た爺さんいただろ? あいつ、作業手順を間違えてたから。違うって言って教えてやったんだよ。そしたらいきなりキレやがって」


 状況はすぐに理解できた。年下にタメ口で、しかも上から指示された年上が、その態度にキレた。それだけのことだ。こうした現場では、よくある揉め事である。


「まぁ、相手は君より二回りは年上だからね。もう少し言葉を選んだ方がいいですよ?」


 結局、この職場の人間関係が最悪で最低な理由は、突き詰めれば一つだ。人はみな、“見下せる相手”を探している。自分より優れている部分ではなく、劣っている部分を見つけては、そこに安心する。「あいつよりはマシだ」と心の中でつぶやき、自分を慰める。

 上京してから二十年近く。派遣として数えきれない現場を渡り歩く中で、私はそれを嫌というほど学んだ。


「そういえば、彰さん。明日はどうするの?」

「休みだよ」

「彰さんって、やたら休日が多いけど、何か他の仕事でもしてんの?」

「してないですよ。夏だし、こんなクソ暑いときに汗だくになってまで働きたくないっての」

「うわ、ダメな大人だ。ダメ人間だ」


 からかうような口調に、私は笑って肩をすくめた。

 周囲から見れば、私は“働くのを嫌がる中年のオッサン”である。まともな大人の部類には入らないだろう。人当たりがいいぶん、余計になめられるのは仕方ないし、実際休みが多いのだから仕方ない。何よりも、他人から見下されるのは、このキャラを演じることのデメリットの一つだ。

 この職場の誰もが私を見下しているし、バカにしている。

 だが、それは私も同じだ。周囲を“作り上げたキャラ”で欺きながら、心の奥では同じように他人を見下している。


「どうせ休んだって、パチンコで金と時間を浪費するだけだろ?」

「そうだね」

「何でそんな無駄なことするのか、俺には理解できないよ」

 

 そう言いながら、彼は頼んだわけでもないのに、パレットから飲料水のケースを軽々と下ろしていく。


「別にやらなくてもいいんだよ?」

「いいよ、どうせ暇だし」


 若く、実績もないくせに自信過剰で、口も態度も横柄。会話をしていると、時折こちらの神経を逆なでしてくることもある。正直、あまり長く話したくない相手だ。

 それでも、悪い奴ではないことは分かっている。

 では、なぜこの男に好意を持てないのか。

 たぶん、私は心のどこかで彼を軽んじているのだ。

 年下のくせに生意気な態度と物言いをし、周囲を見下したような考えを平然と口にする。そんな相手に、ため口をきかれるのが癪に障るのだろう。

 人は欠点を探し、見下せる相手を求める。それは、私自身にも当てはまる。自分の姿を偽り、本音を隠し、心の中で他人を馬鹿にする。

 そんな自分の内面の醜さに、うんざりしている自分がいることは、前々から知っていた。

 結局、俺もうぬぼれ屋と同じだ。

 尊大な自尊心を抱え、他人を見下しては自分を有能だと錯覚している。ただの低能で無能な人間だ。救いのないことに、四十を迎えた今も、その性根を改められない。

 ぶつくさと愚痴をこぼしながらも、こうして私の作業を手伝ってくれる若い男を見て思う。

 私と彼を隔てるのは、たった一つ。彼にはまだ若さがあるが、私にはもう残されていない。

 それだけで、どうしようもなく哀しい。

 作業終了のチャイムが倉庫内に響く。外に出ると、地平線からこぼれた光が街の輪郭を薄く浮かび上がらせていた。

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