第十三話『戻りゆく日常に、気づかぬ異変(後編)』
バスに揺られて二十分もすると、見慣れた住宅街の中を走っていた。
停留所で降りると、陽射しが真正面から刺してきた。十一月の半ばだというのに、歩き出してすぐ額にうっすら汗がにじむ。けれど、角を曲がるたび、木立の隙間を抜ける風には冬の気配が混じっていて、肌をかすめるたびに身がすこし縮こまる。
入院して二か月半が過ぎた。あたりまえだが、街は何ひとつ変わっていない。変わったといえば、あの真夏の酷暑のなか、うだるような熱気の上を歩いた歩道。その両脇で濃い緑に繁っていた街路樹が、いまはすっかり葉を落とし、冷たい空へ枝先だけを細く伸ばしていることくらいだ。車道脇の雨だまりの逃げ溝に、落ち葉が寄り集まり、細い茶色の筋を作っていた。街はもう秋の終わりで、静かに冬支度が始まっている。
移ろいゆく季節の風景を眺めながら、住み慣れた洞穴であるアパートへ続く道を歩く。
予定より二週間早く退院したせいか、ハイエースにはねられた身とは思えないほど、歩みは軽やかだ。駅からの道は歩き慣れているはずなのに、昼の光に洗い出された住宅街は、別の街のように見える。車道脇の逃げ溝には落ち葉が寄り集まり、細い茶色の筋を作っている。街はもう秋の終わり、冬支度へと静かに移りはじめていた。
行き交う人々も、見慣れない顔ぶればかりだ。買い物袋を下げた主婦、連れ立って歩く老夫婦、ベランダでは洗濯物が風にそよぎ、遠くからは子どもの明るい声が聞こえる。普段この通りを歩くのは、仕事へ向かう夜と、仕事明けの朝だけだ。周囲は暗いか薄明るいかで、静けさが街を覆っている。だが今は、日差しが街の隅々まで満たし、どこか賑やかだ。まるで見知らぬ街の中へ迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
昼の街の物珍しさに、私はつい視線をあちこちへ泳がせながら歩いた。傍から見れば、不審者に見えてもおかしくない。
交差点で立ち止まると、二、三人の視線がこちらに刺さる。気恥ずかしくなって、足早に横断歩道を渡った。
そのまま小走りの歩調で通りを歩きぬけ、交差点を渡りぬけていく。やがて、二か月半前に、私がはねられた交差点へとたどり着いた。
信号は青。歩行者が流れるなか、私はふいに立ち止まった。
点滅が始まり、人々が足早に横断していくあいだ、周囲をぐるりと見渡す。二か月半前の事故の痕跡は、どこにも残っていない。けれど、あの日に自分の身に起きたことだけは、いまも鮮明に、濃く残っている。
信号が赤へ移ろうとして点滅を始める。私は、その灯りが完全に赤へ変わるまで、じっと見つめ続けた。
もし、あの日がなければ。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
もし、あの日がなければ、私は今もなお夢にしがみついていただろう。不満を募らせ、不平をこぼし、怠惰の惰性に身を預けた日々。漫画家になるという夢を見上げているだけの、不毛な毎日を送っていたに違いない。
だが、もう違う。あの頃の自分は、すでに存在していない。私は漫画家になる夢をすっぱりと捨てた。何も生み出さない、あの無意味な日常へ戻るつもりはない。
信号が青に変わる。私は過去と決別するつもりで、横断歩道へと足を踏み出した。
立ち止まらない。振り返らない。
そのつもりだった。
だが、渡り切るその瞬間、二か月半前の自分の姿が視界に入り込んだ。張りぼての虚栄心と安っぽい自尊心を傷つけられ、怒りに涙ぐむ自分の姿を、確かに見た気がした。社会に、人生に、そして自分以外のすべてに不満を吐き散らしながら歩いていた幼稚な自分が、今まさに隣を並んで歩いている。
そんな錯覚に、思わず足が止まった。そして、振り返ってしまった。
もちろん、そこに何かがあるわけではない。ましてや、自分がいるはずもない。
視線の先にいたのは、自分の背後を歩いていた通行人の一人だった。
その人は、突然立ち止まった私を怪訝そうに見つめ、少し迷惑そうな表情を浮かべながら、私を避けて通り過ぎていった。
──今さっき感じたのは、一体なんだったのだろう――
首を傾げつつも、この時の私は「気のせいだ」と先ほどの違和感を振り払うようにして、前を向きなおして歩き出した。
横断歩道の先には、通い慣れたコンビニがある。あの店の防犯カメラが事故の映像を提供してくれたおかげで、私に落ち度がないことが証明され、示談も有利に進んだ。
「一言、礼ぐらいは言っておいたほうがいいか」
それに今日は月曜日だ。『週刊少年ジャンプ』の発売日。入院期間中、一度も目を通していない。現在ワンピースがどこまで進んだのか気になる。
「いらっしゃいませ」
店内に入るや、明るい声で迎えられた。レジには、普段訪れる早朝時には見かけない五十代くらいの男性が立っていた。私はそのまま雑誌コーナーへ向かう。棚の一角に、いつものようにジャンプが平積みされている。手に取って、慣れた指つきでページを繰った。だが、どこにも無かった。巻末の目次を確かめるが、タイトルは見当たらない。
「あれ、今週は休載か?」
小さくつぶやき、視線を元に戻すと、飲料棚から緑茶のペットボトルを取ってレジへ向かった。カウンターには中年の男性が立っている。目が合うと、向こうが先に会釈した。
「いらっしゃいませ」
「すみません、店長さんはいらっしゃいますか」
「私が店長ですが……あれ、もしかして夏に事故に遭われた方ですか」
「はい、そうです」
「あの時は大変でしたね。もう、お体の具合は大丈夫なんですか」
「今日、退院したばかりなんです。運がいいことに大した後遺症もなく」
「それはおめでとうございます。お怪我が回復なさったなら何よりです」
「あのときは本当にお世話になりました。映像を警察に提供していただいて助かりました。直接お礼を言いたくて、今日立ち寄りました」
「いえいえ。あの日はたまたま私が早朝から店に出ていまして、すぐに録画を確認できたんです」
「そうだったんですか。おかげで相手方との示談もすんなり終わらせることができました」
緑茶を差し出すと、スキャナが短く鳴り、店長はレシートを二つ折りにして手渡した。愛想の良い笑みのまま、わずかに会釈する。
「また何かありましたら遠慮なく。……いや、何もないのが一番ですが」
「ええ、問題ごとなんてないほうがいいですしね」
お互いに会釈を交わして、コンビニを出た。特に何かを期待していたわけではなかったが、やり取りは実に簡素だった。
外の空気は冷たく、ペットボトルの冷えが掌からじわじわ上がってくる。キャップの先端を人差し指と中指に引っ掛けてぶら下げ、ここから二、三分のアパートへ向けて歩き出す。
「そういや、このコンビニで何か買ったのっていつ以来だ」
思い出せる限りでは、去年、ドラゴンボールの作者鳥山明が亡くなった直後に、巻末の弔意メッセージが載ったジャンプを買ったとき以来だ。
「そもそも、俺、このコンビニで何回買い物したっけな」
ほぼ毎日、出勤の通り道として十年近く通ってきたのに、記憶に残る買い物は今日を入れて二度きりだ。店長の顔は知らなかったが、向こうは俺の顔を覚えていたのだろう。けれど会話は拍子抜けするほどあっさり終わった。
「まぁ、来年の今頃はもうここを使うこともないだろうしな」
そんなことを考えているうちに、住み慣れた安アパートの前に着いた。
「まぁ、何かが変わっていたりするわけないよな」
昭和築の木造二階建てだ。全体的に老朽化が顕著で、良くいえば昭和レトロの風合い、悪くいえばただのボロアパート。外壁は陽に焼けて色が抜け、二階へ続く鉄階段は錆ついている。
ポケットに手を入れて鍵を探りながら階段を上がる。部屋の前で鍵を差し、回す。
二か月半ぶりに、我が家へ帰ってきた。たった二か月半。十年以上変えることができなかった私の人生だった。けれど、この二か月半のうちに私の人生は大きく変わった。少なくとも私の内側では多くが変わった。人生で初めての交通事故に遭ったおかげで、十年以上しがみついてきた元漫画家としての矜持を手放し、中学生のころから抱き続けてきた「漫画家になる」という夢を諦めることができた。この部屋で暮らすのも、あと数か月だろう。来年の春には部屋を引き払い、実家に戻って新しい人生を始める。
「何も変わらないけど、自分自身は大きく変わった」
ドアを開けて部屋に入る。この時の私は、世界は何一つ変わらず、変わったのは私だけだと思っていた。だが、それは違っていた。
私だけではない。
世界もまた、大きく変わっていたことを、この時の私はまだ知らなかった。
ドアを開けた瞬間、鼻先にふっと嗅ぎなれない空気が流れ込んだ。
一瞬、部屋を間違えたかと思うほど見違えている。住み慣れたあの、埃っぽく湿り気を帯びた生活臭が消えているのだ。代わりに、こまめに掃除された清潔な香りが、心地よい空気となって部屋いっぱいに満ちていた。
「ずいぶん、綺麗に掃除してくれたんだな」
久しぶりに我が家へ戻ってきて、口をついて出たのが、その言葉だ。
入院中、母がここで寝泊まりしていた。だからだろう、部屋は掃除が行き届いている。私はたしかにずぼらだが、汚部屋というほどではない。かといって、潔癖でもなかった。
出しっぱなしだった布団は、部屋の隅にきちんと畳まれている。
いつもは洗濯物をしまうのが面倒で、仕事着や下着を定位置に適当に積んでおいたが、それも見当たらない。おそらく、押し入れの中にある衣装ケースに仕舞われたのだろう。
中年男の一人暮らしに染みついたずぼらさは、きれいに拭い去られていた。
部屋の変容をひととおり見渡し、座卓の前に腰を下ろす。座卓の上には、ノートPCだけがぽつんと残っていた。いつもなら無造作に散らばっているはずの道具たち――原稿用紙、ペン、インク瓶――それらが見当たらない。きっと母が片づけたのだろう。
ノートPCだけが、座卓の隅に置物のように鎮座している。おそらく、機械に弱い母が、変に触って壊してしまったらと考えて、片づけなかったのだろう。
コンビニの緑茶をひと口含み、改めて室内に目を巡らせる。
「にしても、見違えるほど綺麗になってるな」
そう思った矢先、窓際の隅のカラーボックスに目が止まった。どこか異様だ。
「ん?」
そこに“あるはずのもの”がない。立ち上がって覗き込み、棚の中をくまなく確かめる。
「あれ……無くなってる?」
そこに並べておいた『ONE PIECE』の全巻と、上に置いておいたはずの『週刊少年ジャンプ』2024年17号が、そっくり消えていた。代わりに、座卓の上に出しっぱなしだった原稿用紙やペン、インク壺などの道具類が、きちんと収まっている。
「……どういうことだ?」
押し入れの中も見たが、どこにもない。
母が勝手に捨てた?
いや、あの母がそんな真似をするはずがない。
泥棒?
だとしても漫画だけを持っていく間抜けがいるか。第一、侵入の形跡もないし、盗るなら真っ先にノートPCだろう。古いPCで売ったところで大した金額にはならないが、この部屋の中で唯一の高価な物だ。
首をかしげながら、座り直して母へ電話をかけた。
「あ、お袋? 今、部屋に着いたんだけど、ちょっと確認したいことがあるんだけど。あのさ、ワンピースとジャンプ、どこにやったの?」
『え? ワンピース? ジャンプ?』
要領を得ない返事だったので、落ち着いてゆっくりと説明し直した。
「ほら、窓際のカラーボックス。お袋が漫画の道具を仕舞ってくれたあそこ。あれ、仕舞う前には漫画が入ってたでしょ? その本、どこにやったのかを知りたいんだ」
「なに言ってるのか分からないけど、私は何もしてないわよ。散らかった服を畳んでしまったのと、座卓の上の原稿用紙や道具を、近くのカラーボックスに入れただけ。ほかは触ってないわよ」
「いや、そのカラーボックスに漫画が入っていたはずなんだけど」
問い詰めるつもりはない。けれど、同じやりとりが続くうち、声がわずかに尖ってしまった。
『え? 何も入ってなかったけど?』
「そんなはずないだろ」
思わず声を荒げてしまった。
「本当に空っぽだったわよ。 もしかして、泥棒? でも、私が入った時、荒らされた跡なんてなかったわよ。ほかに無くなってるものは?」
「漫画だけが無くなってる。もし泥棒なら、真っ先にPCが消えるでしょ。本当に知らないの?」
「だから、何も知らないってば」
母の声も、気づけば少し大きくなっていた。こちらの問いはいつの間にか“詰問”の調子を帯び、向こうの返答も“疑いを晴らす”響きへと硬くなる。その温度差が、電話越しにもはっきり分かる。責めたいわけじゃない。たとえ捨てられていたとしても、怒るつもりはない。なのに、会話だけがじわじわと口喧嘩めいて熱を帯びていく。
「……分かった。悪かったよ。別に疑っているわけじゃないよ。信じるから、漫画のことは気にしないで。それじゃ、また後で」
埒が明かないまま、区切るように電話を切った。
本当に知らないから。そう言う母の声は、嘘をついているようには思えない。
では、『ONE PIECE』全巻と、『週刊少年ジャンプ』2024年17号は、いったいどこへ消えたのだろうか。
「意味がわかんねぇ」
考え込んでいても始まらない。とにかく続きが気になる。二か月半も入院していたのだから、新しい単行本の一冊や二冊は出ているはずだ。
スマホで大手の通販サイトにアクセスし、「ワンピース」で検索する。
表示された画面を見て、世界が一瞬、止まった気がした。
何が起きているのか、すぐには理解できなかった。思考が停止し、自分が何を目にしているのか理解できなかった。
なぜなら、スマホの画面に並んでいるのは、女性用のワンピースばかりだったからだ。
漫画の『ワンピース』は、一冊も出てこない。
「……はぁ?」
その瞬間、私はようやく知ることができた。
世界から漫画の『ワンピース』が、消えている。少なくとも、今それに気づいているのは、この世界で私ひとりだけだということに。
そして数分後、私はさらに知る。『ワンピース』というタイトルの漫画を知っている人間が、世界で本当に私ひとりなのだと。




