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第十二話『戻りゆく日常に、気づかぬ異変(前編)』

 母が実家へ戻ってから、半月が経った。

 怪我の治りは順調で、主治医の話では予定よりも早く退院できそうだという。事故直後には三か月と言われていた入院も、来週には終わりを迎えることになる。

 午後の陽射しを受けながら、病院の敷地内を気ままに歩く。先月までは、歩くたびに身体のあちこちが痛みに軋んでいたが、今ではたまに鈍くうずく程度になった。昼食を終え、漂いはじめた秋の気配に心を動かされ、気づけば外へ出ていた。冷え始めた空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと歩を進めていく。

 やがてベンチを見つけて腰を下ろす。

 目の前には一本の銀杏の木が静かに聳え立っていた。周囲の木々もすっかり秋の色に染まり、葉は黄金色に変わっている。風が吹くたび、葉がはらり、はらりと舞い落ちて、地面を静かに彩っていく。冬の到来を予感させる肌寒い風が木々の間をすり抜け、落ち葉を巻き上げながら通り過ぎた。

 秋の匂いが鼻をくすぐり、頬をかすめる空気には、すでに冬の気配が混じっていた。ふと見上げれば、空はどこまでも高く、雲は薄く長く伸びて漂っている。

 秋に彩られた世界は、思わず見惚れるほどに美しい。けれどその美しさは、ノスタルジックな感傷を伴って、胸の奥を静かに締めつけた。晴れ渡る空とは裏腹に、心の中にはひとすじの陰りが差している。

 その哀愁が呼び起こすのは、遠い日の記憶だった。

 中学生の頃。純粋に、ただ漫画が好きだった自分がいた。学校帰り、友人とその週に読んだ漫画の話で盛り上がりながら、同じ道を何度も歩いた。あの頃は、毎日が楽しくて、未来への不安なんて一つもなかった。


――あの頃に戻れたなら、どれほど良かっただろう。


 あの頃の自分が、今の自分を見たら。

 何を思うだろうか。何を言うだろうか。


 もし、人生をやり直せたのなら――。


「……きっと、結果は変わらないだろうな」


 ゆえに転生ものの主人公には、たいてい何かしらのスキルが与えられる。

 結局、才能がなければ人生なんて大きくは変えられないのかもしれない。


「我ながら、自嘲的だな」


 それでも、なぜか心はすっきりしている。こうして空を見上げていると、時間というものがどれほど容赦なく過ぎていくかを思い知らされる。

 事故の前は、まだ夏の盛りだった。汗だくになって働き、暑さに疲弊する日々をすごしていた。その感触が、まだ肌のどこかに残っている。

 けれど現実には、もう十一月。夏の気配は遠のき、空気には冬の前触れが混じりはじめている。


「あれから、一か月以上が経ったのか。」


 病室で母に「漫画家になるのを諦める」と告げたとき、窓辺にはまだ残暑の熱が射していた。突然の告白に、母は一瞬、意味を飲み込めず黙った。それからゆっくりと目を細め、寂しげに笑った。


「……あれだけ夢中だった漫画を、諦めるって言うのかい?」


 少し戸惑ったように、母は続ける。気遣うような声音だった。私が金銭的な事情や、母への遠慮から夢を手放すのだと受け取ったのかもしれない。

 私は「違う」とだけ短く答えた。

 母は、それ以上は何も言わず、ただ小さく頷いた。


「……そっか。アンタが決めたことなら、それでいいよ。でも、今すぐに結論を出さなくてもいいんじゃないかい? ゆっくり考えな。焦る必要なんて、どこにもないんだから」


 そう言う母の顔には、どこか安堵の色が浮かんでいるように見えた。私に見せまいとしていた不安が、ほんの少しだけ解けたのかもしれない。あとで義父の政治さんにもそのことを電話で伝えると、彼も静かに言ってくれた。


「お前が納得したんなら、それでいい」


 二人とも、私のことを思ってくれている。それがはっきりと伝わった。

 夢を諦める。

 簡単そうに見えて、実際は難しい。夢に真剣であればあるほど。

 けれど、いざ受け入れてしまえば拍子抜けするほど容易だった。叶わない現実にようやく頷いたとき、胸の奥に沈んでいたしこりが、すっと消えた気がする。

 長いあいだ私を苦しめてきたものは、気づけば跡形もない。

 いつ以来だろう、この解放感は。心がこれほど穏やかなのは久しぶりだ。暗澹とした未来が消えたわけではない。それでも今の私には、もう鬱屈はない。

 普通の人生を送ること、普通の仕事をすること、それが具体的に何を指すのか、まだわからない。それでも一つだけ、決めていることがある。少なくとも来年の春までには荷物をまとめ、実家へ戻るつもりだ。

 上京してから二十年以上の月日が流れた。漫画家になるためだけに、月五万の古くて心細いアパートで暮らしてきた。暗くて狭い洞穴のようだったその部屋から、いまようやく外へ踏み出せる。

 新しい環境に足を入れる不安や恐れはある。けれど、朽ちた夢にいつまでも縋りつくよりは、ずっとましだ。

 ここからが、新しい道の最初の一歩。私の人生は、ここから二度目を歩き始める。

 気持ちに余裕が生まれたからだろうか。ようやく、そう思えるようになった。

 ここに至るまで長い時間がかかったが、やっと漫画家になるという夢を諦めることができた。私は『ONE PIECE』のような漫画は描けないし、尾田栄一郎のような漫画家にもなれない。その事実を受け入れて、いまは静かに前を向ける。

 風が吹く。秋の色なき風が、銀杏の枝々を鳴らし、葉を揺らす。木々は静かにざわめき、舞い上がる落ち葉が擦れ合う音は、さざ波のように流れていった。物悲しい秋声が、心の傷にゆっくりと染み入ってくる。

 秋の郷愁は、捨て去った夢の輪郭をかすかに浮かび上がらせ、胸にひとつ穴を開ける。それでも、長く心に沈んでいた鉛は消えた。重りのない心は軽く、晴れ晴れとしている。今は、ただ季節の移り変わりのなかで、すこしだけ心が凪いでいる。


「あの、すいません」


 心地よい日差しを瞼に受け、秋の風を頬に感じながら目を閉じていたところへ、不意に声が落ちてきた。

 はっとして目を開けると、ベンチの正面に作業服の男が立っている。その表情にはどこか切迫したものがあった。何事かと思って見返すが、男は次の言葉をどう切り出せばいいのか迷っているらしく、口を開きかけては閉ざし、とうとう黙りこんでしまう。


「……えっと、何でしょうか?」


 問いかけても、男は何も言わない。申し訳なさそうに視線をそらし、口の端だけがわずかに動く。気まずい沈黙が、風の音に紛れて長く伸びた。


「あの、私に何か用でも?」


 返事のない男を前に、私は訝しんで、その顔をじっと見た。年齢は私と同じくらいだろう。刈り上げた短髪に顎に髭を生やしている。服の上からでも鍛えた体つきがわかる。できれば距離を置きたいタイプの男だ。それでも、よくよく目を凝らすと、その顔立ちにはどこか見覚えがあった。

「……あれ、えっと」


 喉の奥で言葉がもつれる。思い当たる相貌の輪郭が、ゆっくりと像を結んでいく。

勘違いでなければ、目の前の男は――私を撥ねた、あのハイエースの運転手だ。

 直に会うのは初めてだ。相手の顔は、資料に添えられた写真で一度だけ見ている。だが、こうして向き合うと記憶は心許なく、確信は揺らぐ。

 もし人違いだったら。

 その逡巡が、ひと瞬きのあいだに脳裏をかすめた。


「あの……もしかして……」


 私が相手の名前を言うと、男は一拍の沈黙ののち、男は目を伏せ、次の瞬間には膝を折っていた。道端に両手をつき、深々と身をかがめる。


「申し訳ありませんでした!」


 乾いた地面に額が触れた音が、小さく響く。秋の風が銀杏の葉を鳴らし、はらりと一枚、男の背へ落ちた。

 目の前で、いきなりの土下座に驚かないはずがない。突然のことに理解が追い付かず、言葉が追いつかない。


「ちょ、ちょっと、やめてください。頭を上げてください、お願いします」


 ベンチから慌てて立ち上がり、しどろもどろに手を伸ばす。男は舗道に額を押しつけたまま、声だけを震わせた。


「本当に、本当に……すみませんでした……」


 嗚咽が混じる。何度も繰り返される謝罪を前に、胸の奥に妙な罪悪感が湧いた。私のほうが悪いことをしているような気がしてくる。

 私は膝をつき、男のそばに身をかがめた。土下座した背中に手を添え、肩を軽く叩く。


「いいですから。もう大丈夫ですから。とにかく、顔を上げてください」

「すみません、すみません、すみません、すみません……」


 彼は顔を上げようとしない。消え入りそうな声で、同じ言葉を何度も繰り返す。涙がぽとり、ぽとりと落ち、地面に濃い斑点が増えていく。喉の奥で震える嗚咽が、物悲しい秋風の音に細く混じった。その痛ましい姿は、見ているこちらまで胸の底が暗く沈みそうにさせる。

 いつのまにか、敷地内を散歩していたほかの人たちの視線が、何事かとこちらへ集まりはじめていた。


「ほら、ここじゃ目立ちます。一度、落ち着きましょう。ゆっくりでいいから、起き上がって」


 私は男の脇へ腕を差し入れ、上体を引き起こした。彼は抵抗しようとはしなかった。地面からゆっくりと顔を上げると、嗚咽を漏らしながら立ち上がる。私より背が高く、胸板は厚い。その体つきに似合わず、まるで病人のように力なく、私に導かれるまま先ほどまで私が座っていたベンチへ向かった。腰を下ろすよう促すと、彼は無言で従い、両手で顔を覆ったまま小刻みに震えている。耳を澄ますと、唇の隙間からは、かすれた声音で謝罪の言葉がこぼれ続けている。

 その痛ましい姿に、胸の底で静かな憐憫とした同情がゆっくりと湧き上がってくる。


 ――わかっている。


 彼の謝罪が何を指すのか。彼は、事故の責任を私に押しつけようとした。最初の供述で「私がよそ見をしていた」と嘘をついた。だが、のちに出てきた映像と証言で、その嘘は覆された。母と義父は激しく憤り、私も当初は相手に対して腹も立ったし、恨みもした。

 けれど、こちらを見ることもできず、両手で顔を覆って涙を落とす大の男を前にしていると、怒りも憎しみも湧いてこなかった。


「……なぜ、嘘をついたんですか?」


 できるかぎり柔らかい声で問いかけた。責めるつもりはない。不誠実をなじる気持ちもない。ただ、彼が何も語らないままでは埒が明かないと思っただけ。あと、やはり純粋に疑問に思ったからだ。

 しばしの沈黙ののち、彼はゆっくりと両手を外し、こちらへ顔を向ける。こわばった喉をいったん鳴らし、前を向いたまま、低い声で言った。


「……魔が、さしたんです」


 細く掠れた声だった。言葉を探すように、途切れ途切れに続く。


「金も……仕事も……何よりも、家族……子供たちの将来を考えてしまったら」


 彼は、胸の奥に溜めてきたガスを吐き出すように語りはじめた。

 高校を出て現場に入り、働きながら資格を取り、賃金の端を少しずつ貯めた。三十で独立し、外構と舗装を請け負う小さな工務店を起こしたという。三十で事業を立ち上げ、現場を駆け回るその姿は、世間でいう“普通の社会人”そのものに見えた。いや、それどころか、結婚して子どももいると聞けば、むしろ“成功者”と呼んで差し支えないのかもしれない。


「最初は、上手くいっていたんです」


 暗く沈んだ声音で、彼は言葉を継ぐ。

 だが、コロナ禍ののち、仕事は目に見えて減り、売上は年々右肩下がりになった。資材は値上がり、元請けの単価は叩かれ、こちらの見積もりは削られる。毎月のリース代や倉庫の賃料といった固定費だけが、容赦なく積み上がる。人手の確保は難しく、工期は遅れがちになり、電話は朝から晩まで鳴りっぱなしで、物事は悪いほうへばかり傾き続けた。段取りは崩れ、クレームは重なり、やがて寝ても覚めても資金と仕事の計算ばかりをするようになっていった。

 彼の話を聞くうちに、私は彼が他人のように思えなくなっていった。


「あの日も、工期が押している現場へ向かっていて……。早朝なのに元請けから電話が鳴って、慌てて取ろうとして視線を外したんです。次の瞬間、前を向いたら――あなたがいて。慌ててブレーキを踏んだのですが、間に合わずに」


 私を撥ね飛ばしてしまった。そう語る彼の両手は小刻みに震え、ハンドルを握る形のまま固まっている。指先だけが痙攣するように震えて、なかなか止まらない。あの瞬間は、いまも鮮明な映像となって脳裏に再生されるという。以来、彼は車を運転することができなくなってしまったらしい。


「本当に、申し訳ありませんでした」


 痛みに耐え、絞り出すような声だった。

 私が弁護するのも妙な話だが、彼は衝突の直後、逃げなかった。すぐに車を降り、私のもとへ駆け寄った。私は運よく集積されたゴミ袋の山に落下していたので致命的なダメージを避けることができた。埋もれた身体を引き起こし、意識と呼吸を確かめ、救急車を手配したのも彼だった。それを後になって聞かされた。もし彼がそのまま逃げていたら、私は助からなかったかもしれない。


「ただ……警察の方に状況を説明しているうちに、少しずつ頭が冷静になっていって。そうしたら一気に、これからのことが怖くなってしまったんです。気がついたら、口が勝手に……あなたが信号を無視して飛び出して来たと」


 嘘をついてしまった。と、彼は懺悔するように言った。

 話しているあいだ、彼は私のほうを見ようとしない。いや、見られないのだ。横顔には哀切の影が落ち、涙に濡れた眼には怯えの色が滲む。恐怖にふるえるような低い掠れ声は、途切れ途切れになりながらも言葉を紡ぎ続けた。

 膝の上で握られた両拳は、いまもなお、わずかに震えている。

 銀杏の葉がひらひらと、音もなく落ち続ける。枝を鳴らす風とともに、物悲しい沈黙だけが二人の間を満たしていく。


「私がしたことは、決して許されないことだとはわかっています。ですが」


 そこから先の言葉を、彼は無理やり飲み込んだように見えた。

 罪悪感と社会の重圧に押し潰されそうなその姿を前にしていると、いつのまにか私は彼に自分を重ねていた。

 漫画家になる夢を追い、働きながら描き続けた日々。

 報われない努力が積み重なるうちに、私はいつしか漫画を描くことをやめていた。夢が叶わないと解っていながらも、それを認められずにダラダラと時間だけを消費してきた。そんな自分とは違って、彼は決して諦めなかった。暗澹たる日々に嘆きながらも、必死にもがき続けてきたのだ。

 胸の底に広がっていくのは、怒りでも恨みでもない。

 これは、憧れというやつだろうか。

 必死に生きようとする彼を、私は素直に羨ましく思う。

 理由もなく、無性に彼を応援したくなる。

 こんなに頑張っている人間が、たった一度の過ちで、たった一度つまずいただけで、人生を失っていいはずがない。今日ここへ来るのだって、きっと必死の思いだったはずだ。罪悪感に押し潰されそうになりながらも、自らの罪を直視し、自らに罰を課すようにして、彼は私に謝罪の言葉を重ねた。

 彼は間違いを犯した。それは確かだ。だけど彼は決して悪人なんかじゃない。

 人生で一度も過ちを犯さない大人などいるはずがない。誰だって間違える。だからこそ、やり直す機会はあるべきだ。常に清く正しくなど、生きられない。

 人生は、何度だってやり直せる。やり直していい。たった一度の過ちで、すべてを失う必要なんてない。


「……もう、いいんじゃないですか」


 感情が溢れた。

 小さく呟いた私の言葉に、彼は驚いたように顔を上げた。初めて、まっすぐに私を見ているような気がする。その視線がなんだか気恥ずかしくて、私は小さく微笑み、視線を前へ戻した。秋風が銀杏の枝々をなでる音が、静かに続く。


「私たちは、たまたま最悪なタイミングで、最悪な出会い方をしてしまっただけなんですよ」


 彼は嘘をついた。それは罪だ。その事実をなかったことにはできない。ただ、その嘘はすべてが自分のためではない。家族への思いが、誤った利他へと手を引いた。だからといって、その罪が許されるわけではない。

 それでも、少なくとも私に関していえば、もう彼を赦している。無実ではないにせよ、彼はすでに十分、罰を受けてきたのだ。

 なにより、この事故の示談はすでに済んでいる。私は相手方の保険会社の提示を受け入れ、彼自身も社会的な制裁を受けた。これ以上、私が彼を苛む理由も理屈もない。少なくとも私は、もう何も望まない。賠償も、謝罪も。

 もう十分だ。彼は、すでに償った。 

 少し前の私なら、こんなふうには考えられなかっただろう。社会の底で足掻き、漫画家への夢にしがみついたままだったなら、私は激しく怒り、彼を憎んでいただろう。

 だが、今は違う。

 落ち葉の音がかすかに続くなかで、私は静かに息を吐いた。


「それに、私としては、相手の保険から支払われる慰謝料のおかげで、どうにか生活を立て直せそうです。だから、むしろ感謝しているくらいですよ。轢かれて良かった、なんて言い方は不謹慎かもしれませんけど」


 彼のほうを見て、苦笑する。彼はどう反応すべきか測りかねているようだった。


「ずっと、漫画家になる夢を追ってきました。でもこの事故を機に、ようやくその夢を諦めることができました」


 彼がはっと息を呑むのがわかった。私は慌てて彼のほうへ向き直る。


「あ、違います違います。事故が原因じゃありません。後遺症もないですし、ほら、この通り」


 両腕を大げさに振って見せる。彼はまだ心配そうに眉を寄せた。


「もともと、私には才能がなかったんです。なのに認められなくて、ずっと夢を追っているふりをしていただけでした。でも、この事故をきっかけに、ようやく認められた。自分には漫画家になる才能はない。自分は漫画家にはなれない」


 彼は視線を宙に泳がせ、言葉を探すように口を開きかけては閉じる。その不器用な気遣いが、なぜだか嬉しかった。私は小さく笑って言う。


「なんにしても、あなたのおかげで、私は人生をやり直す機会をもらえた。だから、恨むどころか、感謝しています。あなたにとっては複雑でしょうけど」


 私は立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばす。見上げた秋空は高く、澄み切っていた。風が、心地よい。


「だから、あなたも、自分を許してあげてください」


 彼をまっすぐ見つめ、手を差し出す。


「ここから、きっと良くなります。お互いに。ゆっくりでも、ちゃんと、良くなります」


 彼は涙ぐみ、立ち上がると、差し出した私の手を両手で包んだ。深々と頭を下げる。


「あ、ありがとうございます……」


 消え入りそうな声だった。長いあいだ背負ってきた重荷が、ふっと解けたように思えた。

 堪えきれず、彼の頬を新しい涙が伝い落ちていく。

 誰かのために何かをしてやれた。そう思えたのは、これが人生で初めてだ。

 風が渡り、カサカサと落ち葉が流れていく。地面を覆う黄金の薄片が、床をなぞるように擦れ合い、小さな波音のようなざわめきを立てた。

 私は空を仰ぎ、彼は俯いたまま肩を震わせる。

 私たちは、これから先のどこかで、この日を「始まりだった」と呼べる気がした。秋の光が枝の隙間から零れ、二人の影を、そっと並べて伸ばしていく。

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