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第十一話『夢を諦める覚悟』

 個室の天井は、白い下塗りで痕跡を塗り潰したように、シミひとつない。見られたくない何かを封じたかのように、厚くて真っ白だ。

 病室は、さまざまな匂いが混ざり合って独特の臭気が充満している。病院は性別も年齢も問わず人間を収容する。その点はどこか刑務所に似ている。入院患者と見舞い客が身にまとう人間の匂いを、消毒液で打ち消そうとして、かえって別の匂いをこしらえてしまったかのようだ。落ち着きの悪い臭気が院内を満たす。最初の数日はそれだけで酔ったが、入院して一か月も経てば、鼻のほうが馬鹿になってしまうらしく、今ではほとんど気にならない。慣れるというのは、便利だがどこか不気味だ。

 人生初の入院生活の一か月が、足早に過ぎた。横断歩道の真ん中でハイエースに撥ねられてから、もう一か月だ。時間は、こちらの都合など知らない顔で通り過ぎていく。暦のうえでは秋だが窓の外をのぞけば、都心の頭上にはまだ夏が居座っている。濃い青の空に入道雲が大きな胴体を横たえ、都市の中に聳え立つビルの群れを丸ごと影に入れている。病室の冷房は働いているが節電のためなのか、差し込む日差しの圧にじわりと負けて、室内の空気が少しばかり重い。今年の残暑は、手強そうだ。

 入院中は退屈で仕方がない。天井を見つめても、窓の外を眺めても、何かが起こるわけでもない。ベッドに横たわったまま無聊に辟易していても仕方がない。諦めて身を起こそうとした瞬間、激痛に襲われた。車に、それもハイエースというそこらの乗用車よりよほど大きな鉄の塊に撥ねられたのだ。無事なわけがない。体の至るところの骨が折れている。けれど、こうして無事に生きている。もがく余力があるぶんだけ、私は運が良かったといえる事故だった。

 医師の言葉は簡潔だった。


「重傷ですが、頭と内臓は無事。順調なら三か月以内に退院できます」そして、少し笑って「本当に運がよかったですね。神様に感謝しないと」と言った。

 その言葉に、私は不謹慎な言葉が真っ先に浮かび、素直に喜ぶことができなかった。ただ微妙な愛想笑みを浮かべて、曖昧に頷いて適当にやり過ごした。

 この程度の怪我で済んだ理由も、単純だ。撥ね飛ばされた先が、集積された可燃ゴミ袋の山だったからだ。それがクッションとなって、肉体への重大な損傷を免れたのは奇跡だ、と言われれば、そのとおりだと思う。けれど、素直にうなずけない自分が胸の暗がりにしがみついている。


「生き延びちまった」

 

 口に出すまいと思っていた言葉をもらした瞬間、空気がわずかに重くなった気がした。大きく吸って、吐く。そのたびに肋骨がきしむ。痛みは、ただ痛いだけではない。考えを悪いほうへ引っ張る重りでもある。生き延びてよかった、心からそう言い切れるほどの気分にはなれない。助かったことと、よかったことは、似ていて同じではない。そんなネガティブな思考が、いつまでも私を倒錯した鬱屈へ沈めていく。


「いっそ、異世界にでも転生させてくれたら、どれだけよかったか。」


 事故のあと、最初に意識が戻ったときに頭に浮かんだのは、それだった。車に撥ねられて死んだ私は、どこか別の世界へ送られる。その死は神様の手違いか何かで、その償いとして転生ボーナスのチートを授かり、人生をやり直せるのではないか、と本気で思った。

 いや、心の底からそれを願った。

 私は期待しながら目を開けた。視界に入ったのは、無機質な天井、LEDの光に照らされる病室、鼻を刺す消毒液の匂い、規則正しく鳴る機械音。目に映るそれらを前にして、車に撥ねられて病院のベッドにいるのだと、否応なく理解させられた。

 少なくとも、私を手違いで死なせるようなドジな神様は現れなかったし、人生をやり直す機会も与えられなかった。目の前にあるのは、みすぼらしく平凡な日々が続いていくという、冷酷な現実だけだ。

 体を動かそうとした瞬間、激痛が走る。全身を駆け抜けたそれが、ささやかな期待を粉々に砕いた。私はその痛みの中で、運命の残酷さをあらためて知り、心の底から絶望した。


「……あぁ、死にてぇなぁ」


 我ながら情けない声だ。あまりにみっともない嘆きに、自分で自分を嘲って笑えてくる。


「はぁ、つまんね」


 いつまでも天井を見つめるのにも飽きた。適当に動画でも見ようと視線を上げる。スマホはテーブルの上だ。手を伸ばしても届きそうにない。仕方なく、痛みに耐えながら上半身だけでも起こそうとした、そのとき。

 コン、コン。

 扉が等間隔に二度、叩かれた。

 呻くように返事をすると、病室の扉が開き、母親が入ってきた。


「明、着替え持ってきたよ」

「……あ、ありがとう、母さん」


そう言いながら、どうにかして上体を起こす。


「そんな無理して起きなくてもいいのに」

「無理しない程度には動かさないと逆に変に体が固まるって言われてるんだ。ほら、リハビリの斎藤さんがさ。少しでも早く退院したいし」

「そうかい。でも、無茶しても仕方ないよ。入院費用は全部、相手の保険会社が払ってくれるんだから」

「まぁね。でも、長く病院にいたって暇でしょうがないし、早く出られるならその方がいいだろ?」

「ま、確かに。私も病院生活はストレスで気がおかしくなりそうだったから」


 母は昨年、乳癌の手術で二週間ほど入院した。いまは術後の投薬治療の段階で、最初の強い薬は終わり、負担の少ない薬へ切り替わっている。経過は順調よ、と母は不安の色をひとつも見せず、軽く笑って言う。


「アンタほど長くはなかったけどね。三か月もいたら、私はどうにかしてでも抜け出そうとして、毎日看護師さんとひと悶着起こしてただろうさ」


 母親は小さく笑い、洗いたてのTシャツとスウェットをベッド脇のテーブルに置いた。「よいしょ」と腰を下ろしながら帽子を脱ぐ。短く、パーマをかけたような髪がのぞいた。抗がん剤の影響で一度はすべて抜け落ちたが、すぐに生えてきた毛はくるりと巻き毛のようになってしまったようだ。そのことを母親は朗らかに笑いながら言っていた。

 コロナ以降、ここの病院の入院患者への面会は一日三十分と定められている。それでも母は、毎日その三十分のためだけに訪れてくれる。


「具合はどう?」

「先週よりは、だいぶマシ。まだ痛むけど……それでも先週よりは、ね」

「ご飯はどう?」

「どうって、何も変わらないよ。ここ一か月、健康的な食事をさせてもらってる。いい加減、脂っこくて味の濃いものを食わして欲しい」

「確かにここの病院食はだいぶ質素だね。ラインで写真見たけど、あたしが入ってた病院とは大分違う。おかずの色どりは地味だし」

「豪勢な病院食って何だよ」

「いや、冗談じゃなくて本当だったんだから。入院したら痩せると思ったけど、そのおかげであんまり痩せなかったんだから」

「……そう、だったんだ……」


 母とかわす他愛ない冗談は、暗い気持ちをいくぶん紛らわせてくれる。さっきまでの鬱屈がどこかへ失せ、口元が自然にゆるむ。


「そうなのよ。だいたいさ、病院の中にコンビニがあるのって、良いんだか悪いんだか微妙でしょ。食事は悪くなかったけど、今まで食べられたものが急に制限されるって、けっこうストレスじゃない?」

「まぁ……そうだね……」

「それで、栗饅頭をこっそり買ってさ。看護師さんに見つからないようにして食べてたのよ」

「……へぇ」

「病室も、あんたと同じ個室だったんだけどね。あんたのアパートよりいい部屋だったよ。電子レンジに冷蔵庫、小ぶりのキッチンまであって。ラインで送った写真、見たでしょ?」

「……あぁ……そうだったね」


 けれど、母へ向ける後ろ暗い負い目は消えない。向かい合って言葉を重ねるたび、贖罪の十字架は重みを増し、心に影が差す。声は細り、何を話せばいいのかわからなくなる。


「まぁ、初めての入院で手術だったけど、私としては案外イベントみたいで楽しかったのよ。あんたは? 人生初の入院生活は」

「……まぁ、そうだね……さすがに楽しめる要素はないかな」

「そう? この病院の個室、ちょっと味気ないもんね。中のコンビニも品揃えもいまいちよね」

「…………うん……そうだね」

「あと二か月も入院生活が続くんでしょ? 考えただけでも気が滅入りそうよ」

「……うん」

「……でも、本当にアンタが無事でよかったよ」


 沈黙がじわりと水のように広がる。

 母も、私の内側に沈むものを察したのだろう。一度だけこちらの顔色を確かめ、すぐに窓の外へ視線を逃がす。空調の音だけが規則正しく鳴っている。母は、私が抱え込むこの罪悪感を母に告白するつもりはない。


「……母さん」

「何だい?」

「いや……その……、そっちも大したことなくて、本当によかったよ」

「……そうだね。お互いにね」


 昨年、母の乳癌を知ったときも、入院のあいだも、さらに投薬治療が続く間も、私は一度として見舞いに戻らなかった。定期的に電話で様子は聞いていたが、直接会いに故郷へ帰ろうとはしなかった。母が癌を患ったと知らされてから、こうして面と向かって言葉を交わすのは、今日が初めてだ。その単純な事実が、私が母へ向ける負い目の源になっている。

 気まずい沈黙の間が流れる。それに耐えられなくて、私は話し出す。


「……そういえば、政治さんは、今ごろ何してるの?」

「今朝、電話で話したけど、この暑い日に道路の補修工事だって」

「相変わらず、忙しそうだね」

 

 政治さんは、私の義父だ。私が漫画の専門学校を卒業し、『ジャンプ』で連載を始めた頃に、両親は離婚した。母は「あの人とは元々、性格が合わなかったからね」とあっけらかんと言う。私と妹が成人したら別れるつもりだったらしい。二年ののち、母は政治さんと再婚した。温厚で、懐の深い人である。血のつながらない私のことも実の息子のように気にかけ、生活に困窮すれば嫌な顔ひとつせず経済的に支えてくれた。感謝と申し訳なさが重なって、どうしても頭が上がらない人だ。

 母が乳癌で入院していた間、私は帰らなかった。その代わりのように、政治さんは仕事を続けながら、ほとんど毎日病院に通い、抗がん剤治療の期間も変わらず手を尽くした。この人がいたからこそ、いま母はこうしていられるのかもしれない。


「政治さんには、今回の件でいろいろ迷惑かけて……ほんと、申し訳なかった」

「しょうがないでしょ。動ける状態じゃなかったんだから」


 事故の当初、加害者である運転手は自分に非はないと言い張った。青信号で直進したところへ私が飛び出してきたのだと、相手は主張し始めた。私自身、事故の記憶は衝撃で不鮮明かつ曖昧で、真っ向から反論できない。

 これは面倒なことになりそうだと危惧していたところ、運よく交差点先のコンビニの防犯カメラが、ちょうどその瞬間を捉えていた。歩行者信号は青だったし、相手がスマホを見ながら運転している姿がばっちり記録されていた。さらに、新聞配達の人が私のことを覚えていてくれて、現場を目撃していたと名乗り出てくれたのだ。新聞配達の人の証言では、車側の信号は間違いなく赤だったとのことだ。

 つまり、私に過失がないことは、映像と証言で揺るがない形になった。事故直後、病院で目を開けたとき、人生には底などなく、このまま不幸の真っただ中へ落ち続けるだけだと絶望した。自分の人生には良いことはもう起きることはなく、悪いほうへばかり転がっていくだけだと決めつけていた。けれど今は、ほんの僅かに、傾きが変わった気がする。


「どうかしたの?」

「いや……政治さんには、今回のことも含めて、本当にいろいろ世話になってさ。まだちゃんと礼も言えてないし、申し訳ないなって」


 入院して身動きがとれないあいだのことは、義父の政治さんがすべて引き受けてくれた。警察、保険会社、病院の事務、証言してくれた人への返礼まで。実の息子でもないうえに、ろくに働きもせず、親孝行らしいこともしてこなかった私に、なぜそこまで尽くしてくれるのか。考えれば考えるほど、自分自身の存在が情けなく思えて鬱屈とした感情に押しつぶされそうになる。


「そんなの気にしなくていいのよ。政治さんは、あんたのことを自分の息子だと思ってるって、いつも言ってる。籍だって、あんたが望むならいつでも入れるつもりだって。あの人、本気で言ってるから」

「……うん、それは聞いているよ……ありがたいね」


 それは本心からの言葉だ。だが、口にした途端、なぜか嘘くさく響く。義父への感謝はある。いつか返したいとも思っている。けれど、その思いと同時に、真逆の感情が立ち上がって、義父への感謝を濁らせる。尽くされれば尽くされるほど、助けられれば助けられるほど、何もできない自分の無力さが否応もなく浮き彫りとなる。惨めで、みっともなく、ふがいない。そう思うたび、たまらなく自分が嫌になる。そんなことでぐずぐず悩んでいる自分の矮小さも、また嫌になる。 


「なんだい。気落ちしたような声を出して」

「いや……なんだか、こんなに色々してもらっちゃって、申し訳ないなって思ってさ」

「さっきも言ったけど、家族なんだから気にすることは何ひとつないの。いまのあんたが気にするのは、少しでも早く治して退院すること」

「あぁ……そうだね。うん」


 母が癌だと電話で知らされたとき、私はたしかに心配した。けれど、帰省しようとは微塵も考えなかった。

 私が交通事故で入院したと知るや、母と義父はその日のうちに車で出て、一晩かけて都内の病院へ駆けつけてくれた。


「何か食べるかい? リンゴ剥こうか?」

「いや……今はいいや」


 どうして、私は母の知らせを受けたとき、すぐに飛び出さなかったのだろう。あの頃の私は、どこかで他人事のように処理していたのかもしれない。産んでくれた母親なのに、これまで散々迷惑も負担もかけてきて、これからもかけるくせに。

 心配はしていた。

 それでも、どこかで「大丈夫だろう」と楽観的に思っていた。軽く見積もっていたのだ。

 私と違い、妹夫婦はすぐに見舞いに行ったという。「来たって何もできないのに」と電話でそのことを話す母の声はどこか嬉しそうだった。


「……そういえば、先週、親父が見舞いに来たよ」


 漫画家になることを反対されたかどうかに関係なく、もともと私は実父と折り合いが悪かった。『ジャンプ』の連載が決まり、漫画家として第一歩を踏み出したときに少しだけ関係は和らいだが、打ち切りになって今の生活が続くようになってからは、再び悪化した。以来、長く連絡も取らず、顔を合わせることもなかった。一昨年に十数年ぶりに会って話して以降は、数度だけ電話でやり取りをしている。父と子の関係にしては、あまりにも希薄だ。


「そりゃ、来るでしょ。実の父親なんだから」

「正直、来るとは思わなかったよ」

「来なかったら、あんたの戸籍、こっちに移してたわよ」


 実父は見舞いに来ただけでなく、義父の政治さんと協力して事故の後始末も手伝ってくれていた。

 病室で会ったとき、親父は封筒をひとつ差し出した。短く「足しにしろ」とだけぶっきらぼうに言って。中身は聞かなくてもわかる。

 拒むことはせず、私は自然に受け取った。封筒を握った瞬間、自分の情けなさに打ちひしがれた。


「言わなくても知っているよ。私も会ったしね。それで何を話したの?」

「……まぁ、色々と。といってもほとんどが事故に関する話ばかりだったけど、本当は何か別のことの話もしたそうだったけど」

「ふ~んまぁ、アンタは長男だしね。あの人なりに何か思うことでもあるんでしょうよ」

「……そうか」


 家族のやさしさはありがたい。それは嘘じゃない。けれど、その温かさに触れるたび、ふがいなくみっともない四十歳になった自分の姿がくっきり見えてくる。

 やさしさに触れるたび、負い目が色を濃くし、胸の底から冷たい重しがせり上がる。母に、義父に、実父に、私はどれだけ寄りかかっているのだろう。家族の脛に歯を立てて、相手が倒れるまで噛み続ける寄生虫のようだ。


――害虫のまま生かされるくらいなら、いっそ殺してくれ――


 そんな言葉がよぎる。カフカの『変身』の主人公みたいに、漫画家を目指す私という存在が、家族をただ苦しめるだけの存在でしかないと自覚できる。


「明、どうかしたの?」

「……」


 ただ、家族の資源を食い荒らすだけの金食い虫。それが私だ。


「ちょっと、聞いているのかい?」

「……」


 あの物語のラストが頭に浮かぶ。 生活を苦しめ、家族にとって重荷でしかなかった虫に変わった主人公が死んだとき、家族はその重荷から解放され、明るい未来を思い描くことができた。


「ねぇ、明ったら」


俺も、あの虫みたいに……

……そうすれば、家族は……


「明!」

 光のない真っ暗な思考に沈んでいた。

 突然、肩を揺さぶられる。その衝撃で、絶望の底に沈んでいた意識が現実へと引き戻される。はっとして顔を上げると、母親が心配そうな目で私を見つめていた。


「な、なに、どうかしたの?」

「どうかしたのって……あんた、急に黙り込んで、何を言っても返事しないんだもの。心配するに決まってるだろ」

「あ、あぁ……ちょっと考えごとしてた」

「何か、悩んでることでもあるのかい?」

「まぁ、色々と……」

「そんなに思い悩んだってしょうがないだろ? もっと前向きに考えなさいよ。大体、この程度のケガで済んだんだから。後遺症だってないし、退院すればまた普段通りの生活ができるって、お医者さんだって言っていたし」


 普段通りの生活に戻るというのは、派遣の仕事に出て、安い給料で惨めな日々を送りながら、将来への不安を抱えたまま過ごすことだ。漫画家になるという夢も捨てきれず、見通しのきかない暗い未来を、なるべく考えないようにして生きるだけの日々が続くことになる。

 あの安アパートで、ただ時間をやり過ごすように暮らす生活に戻ることを、素直に喜べるはずがない。


「お金のことなら大丈夫よ。相手方の保険で、しばらく困らないだけの手当てが出るから安心しなさい。だから焦らず、アンタは元の生活に戻ることだけを考えていればいいの」


 私は、またあの日々に戻りたいのだろうか。

 暗く狭い洞穴のような部屋で、ただ時間を潰すだけの日常に。

 人生に絶望し、才能のない自分を嘆き、社会や世間を恨み、呪いながら。

 あの哀れで愚かなサンショウウオのように。


「……そういえばね。先月、血液検査をしたんだ。抗がん剤の治療を続けてるから定期的に採血があるんだけど、数値は問題なかったよ。レントゲンも撮ったけど、再発は見当たらなかったみたいだよ」

「そうなんだ。それはよかったよ」


 母のがん治療が始まって一年あまり。まだ完全に安心できる時期ではない。しかし、その報告は、少なくとも胸に沈殿する不安の一つを消してくれた。


「本当によかったよ」

「それで、明……」

「……何?」

「……明、あのね」


 母は何かを言い出しかけて、ためらうように口を動かし、それから思い直したように唇を閉じた。


「……何、どうかしたの?」

「いや、やっぱり何でもない」


 一体、母は何を言いかけたのだろう。視線を落とした顔に、沈鬱の影が差している。言葉が途切れた途端、重たい沈黙が部屋に沈殿した。

この沈黙に耐えきれず、私も何か話題を探そうと視線だけをあちこちさまよわせるが、言葉は出てこない。

 私と母は、しばらく気まずい静けさの中で目のやり場を失ったままだった。

 最初に沈黙を破ったのは母だった。気まずそうな声音で、ゆっくりと口を開く。


「……明、今も“まだ”漫画を描いているの?」


 私は何と答えればいいのかわからず、悄然と母を見つめた。母はまっすぐこちらを見ていたが、やがてそっと視線を落とし、私の目から逃れるようにそらした。


「座卓に原稿用紙と道具が出ていたから、今もまだ描いているのかと思って」


 母は看病のため、私の安アパートで寝起きしている。当然、部屋のすべてが目に入り、私がどんなふうに暮らしているかも見えてしまう。座卓には、まっさらな原稿用紙の束が置かれ、乱雑に放置された道具類を見れば、私が長いこと漫画を描いていないことが一目瞭然だ。


「アンタ、昔から言ってたものね。いつかプロの漫画家になってやるってね。実際、ちゃんとジャンプにアンタの漫画が載ったし、単行本だって出したしね」


 早く何か言わなければ。これ以上、母の口から漫画の話を続けてほしくない。

 理由はうまく言えないのに、心をひきむしられるような焦燥に駆られて落ち着かなくなる。

 それでも言葉は一つも思い浮かばない。頭の中は、座卓に置きっぱなしの原稿用紙みたいに真っ白だ。


「今でもアンタが描いた漫画本は大切にしまってあるよ。アンタが夢を成し遂げた証だからね」


 仕事場で“老害”と“うぬぼれ屋”に嘲られた夜が、つい先ほどのことのように蘇る。それでも、あの二人に私の漫画を口にされるより、母の口から触れられることのほうが、私の心をいっそう強く苦痛で縛りつけた。


「大丈夫よ。まだ四十歳になったばかりなんだから。人生はまだまだこれからなんだよ」


 明るい声音で励まそうとするその心遣いが、かえって私の胸をきつく締めつける。気を遣わせている事実までが重なって、苦悩は一層深くなる。

 私が漫画家になると言った日から、家族でただ一人、母だけが味方だった。専門学校へ通う話が出たときも、渋る父を言葉で押し切り、パートでの貯金を生活費にと手渡してくれた。私の漫画が雑誌に載ったとき、いちばん喜んだのも母だった。

 そんな母が癌になったとき、私は一度も会いに行かなかった。何もしなかった。何もできなかった。金がないのは事実だったが、どうにかしようという気にもならなかった。生活は何ひとつ変えず、適当に働き、適当に休み、だらだらと無作為に時間を浪費していた。摘出手術のあとも、抗がん剤の投与が続くあいだも、一度だって会いに行かなかった。


―このクズが――


 私は親孝行ひとつしない、ろくでなしの息子だ。老いた母のやさしさに縋るだけのダメ人間だ。病の母の資源を食い荒らす害虫だ。

 誰も責めないのなら、せめて自分で責めていないと、この嫌気で気が滅入りそうになる。


「大丈夫よ。まだまだチャンスはいくらでもあるんだから。退院して、いつものリズムを少しずつ取り戻して、また描けばいいの。描いていれば、頑張っていればきっといつか報われる日がくるはずよ」


 先ほど、母はなんと言っただろうか。


――まだ漫画を描いているの?――


 その言葉がよみがえる。母は、私がもう描いていないことをきっと知っている。部屋に置かれた真っさらな原稿用紙を見たのだから。


「昔から言ってたよね。好きな漫画を描き続けたいから漫画家になりたいって。私はね、お金とか成功とかより、母親としては息子には、本当に好きなものことをし続けてほしい。後悔のない人生を歩んでほしい。だから、私はアンタの夢を応援し続けるって決めているの」


 息子を慰める母の優しさが、槍となって私の心を貫いた。

 四十になっても夢の名目で親に迷惑をかけながら、実際には描いてもいない。努力の跡すらない白紙を抱いたまま、私は息子でいる。母は病を抱えながら、それでも私を信じると言う。その事実が、自分自身がいかにダメな人間なのかを私に突き付けてくる。


「それに私はね、アンタは漫画家になれるって信じているの」


 その一言で、長く胸の奥に据え置いてきた張りぼてが崩れた。

 連載していた過去を薄い装甲のようにまとい、虚栄と虚飾で穴をふさぎ、見返してやるという自尊心で体面だけを支えていた。

 母の言葉が、その継ぎ目を留めていた糸を静かに断ち切った。

 残滓のようにこびりついていた夢も、過去の栄光も、ぽろぽろと脆く崩れ落ちる。その下から露出したのは、漫画に向ける情熱を失った、むき出しの私自身だった。

 ずっと前から、漫画家になろうとしていなかった。

 とっくに、その夢を追ってはいないんだ。

 私は、もう漫画そのものが好きではなくなってしまっている。


「だから、アンタは何も心配せずに、夢を追いかけ続けなさい。大丈夫よ。お金なんて、案外なんとかなるもの。昔から言ってるでしょう、人生はなんとかなるってね」


 母が微笑みながらそう言った瞬間、視界がぐにゃりと揺れ、私は慌てて顔を伏せた。熱いものが頬を伝い、ぽとりぽとりと落ちていく。


「明、どうかしたの」


 顔を上げられない。今、自分がどんな顔をしているのかわからない。そもそも、どんな顔で母を見つめればいいのかもわからない。

 母のやさしさに対する後ろめたさが、胸の内側から世界を狭くしていく。夢という名の牢に押し込められ、金という足かせをはめられた囚人みたいだ。

 どうしてここまで苦しまなければならない。なぜ、これほどの痛みを抱え続けねばならない。夢を追うことが、こんなにも過酷で残酷だとは。いつになれば解放されるのか。

 普通の大人なら、どこかで夢を諦めて、まともな仕事を見つけて、普通の生活を始めていく。けれど私は、その「普通」という選択肢をどうしても選ぶことができない。

 こみ上げる嗚咽を噛み殺していると、母がおずおずと声を落とした。


「明……あのね。これ、受け取って」


 母はそっと封筒を私の膝に置いた。中身は、すぐにわかった。


「多くはないけど、少しでも足しになればと思って」


 どこまで落ちれば気が済むのだろう。私はいつまで家族を、母を苦しめ続けるのだろう。

黙って封筒を握り、震える手で中身を引き出す。紙の擦れる音。十枚。十万円。

その重みが、私の心を完全にへし折った。顔を上げる。母の顔がにじむ。両頬を伝う熱は止まらない。


「……母さん」


 呼ぶと、母は一瞬だけ困惑したように目を揺らし、それから無理に口角を上げた。私を心配させまいとする、ぎこちない笑みを浮かべている。


「なに?」

「俺、家に帰るよ」

「…………え?」

「漫画家になるのを、諦めるよ」  


 今、私はどんな顔をしているのだろう。  笑えているのか、悲しんでいるのか。母をこれ以上心配させたくないから、少しでもましな表情になっているといいのだけれど。  

 それでも、不思議と胸の奥だけは澄み渡っていた。長く曇っていた空が一気に晴れ、狭く薄暗い袋小路から抜け出したみたいに、心がふっと軽くなる。

 こんなすがすがしさを覚えるのは、一体いつぶりだろうか。

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