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第九話『踏み荒らされる夢(後編)』

 名前を呼ばれて、反射的に肩が跳ねた。驚いて振り向くと、そこに立っていたのはうぬぼれ屋だった。


「は、はい?」


 突然すぎて思考が追いつかず、素っ頓狂な声が漏れる。うぬぼれ屋は私の反応を面白がって口角を吊り上げて、嘲るような笑みを浮かべた。


「いや、鳥山さんって漫画、描いてたの?」


 思考のゴミ山に埋もれていた意識が、ぐいと現実へ引き戻される。時計に目をやると、休憩まであと数分という時間だ。無意識に手を動かしていたせいで、時間の経過を感じていなかった。気づけば、作業レーンを流れる荷も、いつの間にか緩んでいる。

 うぬぼれ屋は、安っぽい笑みを貼りつけたまま、覗き込むようにこちらを見る。喉がからからに乾き、言葉がうまく口まで上がってこない。


「え、な、何の話?」

「いや、さっきさ、新しく入ってきたオッサンから聞いたんだけど。オッサンが、鳥山さんが漫画家だったって言っててさ。しかも本出したって言ってたんだけど、本当なの?」


 その瞬間、内側で乾いた音がした。自分の中で、ピシッと細い亀裂が走ったかのような音だ。


「え? ちょ、ま、な、何で?」


 何か言わなければ。誤魔化さなければ。そう思うほど、言葉は砂のように指の間から零れ、口元まで届かない。もどかしさが、さらに冷静さを剝いでいく。


「何、そのキョドり方。え、何? マジな話なの?」

「い、いや、そ、それは……その」

「マジで漫画家だったの? スゲェじゃん。どこの出版社? ジャンプ? サンデー? それともマガジン?」

「い、いや、だからさ……あの」

「ひとまず、鳥山さんが描いたっていう漫画のタイトル、教えて。作家名も」

「あ……そ、それは……」


 うぬぼれ屋がポケットからスマホを取り出しながら聞いてくる。誤魔化す余地は、もうない。さっき入った細いヒビは、瞬く間に大きな亀裂へ広がり、外側に塗り重ねてきた仮の顔が、ぱらぱらと剝がれ落ちていく気がした。


「……鳥山さん?」


 うぬぼれ屋は液晶をタップする指を止め、こちらを見上げてくる。安っぽい笑みは貼りついたままなのに、好奇心で見開かれた目だけが乾いている。明らかに私の反応を面白がっている。道端の小石を無邪気に蹴るときの、あの幼稚な視線だ。面白半分の好奇心に薄い嘲りが混じっている。虫眼鏡の焦点の熱が皮膚を焼くように、じりじり刺さる。眉間には細い皺が入り、口角はわずかに吊り上がっている。その笑みには、相手への配慮がひとかけらもなかった。ただ自分が楽しむために人の心を無視して軽く踏み抜くときの顔だ。悪意の自覚がないぶん、性質が悪い。

 緊張で喉の奥がきしみ、声が上手く出ない。頭の中に文字は浮かぶが言葉にならず、喉の裏で何度も砕けた。遠くでレーンのローラーが低く唸りつづけ、空気はじわじわと薄くなっていくように感じる。


「確か、鳥山が書いた本ってのはこれだな」


 私の過去を暴露し、この状況を作った張本人の老害が、背後からスマホの画面を突き出してくる。うぬぼれ屋は喜々として顔を向けて、老害が持つスマホの画面に吸い寄せられる。


「あれ? もう売ってないんだ」

「まあ十年以上前だしな。なにより売れなかったみたいだし、そんなに刷らなかったんだろうな。すでに絶版だ」

「アマゾンのレビューも全部☆1かよ。レビューは……『最悪につまらない』『読む価値なし』って、なのに古本だと千円以上とか高値が付いてんだけど。ウケる!」


 うぬぼれ屋の軽快な笑い声が、私の心に深く突き刺さる。錆びた鋸で同じ箇所を何度も挽かれるように、私の自尊心はぼろぼろに裂かれていく。


「まあ、実際に古本屋で見かけて、昔読んだことあんだよ」老害が、面白い冗談でも思いついたような表情を浮かべて言うと、「え? どうだったの?」と、うぬぼれ屋が興味津々と身を乗り出す。

「本人を前にして言うのも悪いが、正直、何が面白いのか分からなかった。オレはさ、漫画っていえば北斗の拳とか男塾とか、そういうのしか読んだことがなくて、今の新しい漫画なんて読んだことないからってのもあるかもしれないけどな。知ってるか?」

「古すぎ。名前は聞いたことあるけど、読んだことはないよ」

「いまの流行りはよく分からんが、それでも面白いとは思わなかったな。まぁ、絵が地味、ってことくらいしか覚えてねぇな」

「うわ、なんか主人公がルフィに似てんだけど。てか絵柄がまんまワンピースっぽいんだけど。これパクってね?」

「ワンピースなら読んだことはないが、見たことはあるけど、確かに。主人公はルフィっぽいな」


 二人は、嘲笑まじりに楽しげに言葉を交わす。二人の間で行き交う言葉の真ん中で、その漫画の作者である私が立っているというのに、遠慮はひとかけらもない。無神経に面白おかしそうに、私の描いた漫画を貶めていく。二人が「つまらない」と物笑いの種にしているその漫画を、私がどれほどの苦しみで描いたのかも知ろうともしない。目の前でその言葉に傷ついている人間がいるのに、見ようともしない。傷口を、喜々として抉りつづける。

 嘲る声が冷たい楔になって内側へねじ込まれてくる。胃の底が抜け、膝が砂に埋もれていく。耳の奥で乾いた砂がさらさら降り積もり、視界の端が煤けて遠のく。

 浮かび上がるのは、苦心惨憺と漫画を描き続けた自分の姿だ。睡眠を削り、食事の最中でさえペンを離さず、必死に原稿用紙に描き続けた日々とその苦労が思い出される。その一枚一枚の記憶が、二人の吐き出す言葉で、汚く踏み荒らされていく。


「えっと、タイトルは何? おっと、タイトルでググったらジャンプ歴代打ち切り最速漫画ランキングに入っているのを見つけたぞ」

「こっちも同じようなサイトを見つけたぞ。ひでぇな、劣化ワンピースとか書いてあんぞ」


 うぬぼれ屋と老害が互いに嗤い合う。その底意地の悪い笑い声が、いつまでも鼓膜にまとわりつく。

 

――抑えろ。耐えろ。我慢だ。


 心の中で自分に言い聞かせながら、込み上がる激情を必死に押し込める。焼けた砂を少しずつ飲まされる拷問のようだ。腹の底が怒りで煮え立つ。ここで感情を爆発させれば、先々面倒なことになるのはわかっている。職場での立ち位置は傾き、周囲の人間は自分を見る目を変えるだろう。これまで必死に取り繕ってきた仮の姿が剥がれ落ちる。そうなった先で、自分はどう振る舞えばいいのだろう。そんなことばかりが頭をよぎる。

 だから、二人の嘲笑に耐え続けなければならない。

 私の苦痛など知りもしないで、二人は軽く弾む声で続ける。


「打ち切りランキング上位? それって、つまらない漫画の証明だろ。そんな漫画に千円も出す人、いるんだな。鳥山さん、自分の漫画持っているんでしょ? 試しに売ってみたら?」と、うぬぼれ屋は唇の端に下卑た笑みを貼りつけたまま言う。

「まったく、どれもこれもひでぇ言い様だ。『描き方も知らん』『マンガ好きの素人の落書き』『作者は面白い漫画が何なのかを知らない』、いくら何でもこれは言いすぎだろ」


 そう言ながら、老害が首だけこちらへ回す。目尻の皺は笑いの形で固まっている。

 私がどんな思いをしているのか、二人はわかっているのだろうか。いま自分たちがどんな表情で言葉を投げ合っているのか、それを自覚しているのだろうか。これはただの見世物だ。私を道化にして笑うためのショーでしかない。

 酷薄な笑みを浮かべながら私へ投げられる言葉は、小石みたいに軽い。軽いくせに、確実に当たって痛い。二人は自分たちの残酷さに気づきもしない。悪気のない顔で、無邪気に私を嘲り続ける。

 私は必死に耐えた。拳を強く握り、奥歯を噛みしめ、怒りを喉の奥でせき止める。爪が掌に沈み、血が頭へせり上がり、鼓動が速まる。嗤い合う二人を殴り飛ばしたい衝動に、理性が何度も押し流されそうになる。


――だめだ。絶対にダメだぞ――


 愛想笑いも、怒りの表情も、感情を外へ出せない。表情筋は固まり、顔は他人の皮を貼りつけられたみたいに動かなかった。


「んで、鳥山さん」


 うぬぼれ屋が一歩こちらへ寄り、まるで私の奥底を暴いてやろうという目で覗き込んできた。明らかに舐めきっている。ニタニタとした笑みを浮かべたまま、私を見下ろす視線が刺さってくる。その無礼な態度に、喉の奥でせき止めていた怒りがふたたび噴き上がりかけた。うぬぼれ屋の目に、私への敬意など微塵もない。あからさまに侮り、軽薄に笑っている。口元が底意地悪く歪み、私を面白半分でつついて遊ぶ玩具とでも思っているのだろう。他人の痛みに興じるような熱が、その瞳にじわりと滲んでいた。

 私は息を整えるふりをして、怒りを必死に飲み下し続けた。


「今もまだ、漫画描いてんの?」


 うぬぼれ屋の口から投げられたその言葉が、私の中に落ちた瞬間、空気の密度が変わった気がした。何かが割れたわけでも、崩れたわけでもない。ただ、音が消える。世界が、息を止める。喉の奥がきゅっと縮み、言い訳が形になる前にほどけていった。

 倉庫の片隅で鳴るローラーの金属音だけが残り、私はその無音の中で、これまで見て見ぬふりをし続けてきた現実を突きつけられていた。

 世界が静かに、私を押しつぶすように狭まっていく。それと反比例するように、私の意識は沈んでいった。何か冷たい場所へ。遠く、遠くへ。


 ――今もまだ、漫画描いてんの?


 うぬぼれ屋の問いかけだけが、何度も頭の中で反響する。

 ふと、視界の中に、私が暮らす部屋の光景が浮かんだ。薄暗い安アパートの一室。敷きっぱなしの煎餅布団。座卓の上には、ペン立てに無造作に突き刺された筆ペン。うっすらと埃をかぶった白紙の原稿用紙が、広げられている。

 もう終わった夢の遺影のようにも見えた。

 うぬぼれ屋の問いに対する答えは、ずっとそこにあった。けれど、言葉にならなかった。声が出なかった。


「あれ、鳥山さん? どうかした?」


 うぬぼれ屋が怪訝な顔を向けてくる。


「おいおい、そんなこと、いちいち聞いてやるなよ」


 老害が口をはさむ。唇の端に、薄く卑しい笑みを浮かべながら、知ったふうの顔でどこか得意げに。


「まったく、お前は察しが悪いな。礼儀がなってないんだよ。年上に対する礼ってものがあるだろ。こういうのは、あえて聞かないのが常識だ」

「いや、常識とか礼儀とか、どうでもいいんで。ただ気になったから聞いただけなんだけど」

「今までスルーしてきてやったがさ、年上に対する言葉遣いくらいできないのか?」

「はぁ? 何言ってんの。たかが派遣の仕事なんかで、年上も年下も関係ないっしょ」


 彼らの言葉が、靴音のように私の内側を踏みつけていく。私は、それをただ茫然と眺めることしかできなかった。

 これまで秘密にして、必死に守ってきた私の大切な場所。誰にも見せなかった。触れさせなかった。踏み込ませなかった。私だけの、大事な領域だった。

 なのに今、その場所が、土足で、泥まみれに踏み荒らされていく。

 それなのに、私の心は何一つ沸き立つものがなかった。


「まったく、なんて生意気なガキなんだ。これだから最近の若い奴らは礼儀がなってないんだよ」

「だから礼儀って一体なんなのさ。疑問に思ったから聞いただけじゃん」

「そんなのはな、聞くだけ野暮ってもんなんだよ。聞かなくたって、わかるだろうが」

「わかんないから聞いたんじゃん」

「描いてるわけないだろうが。絵もうまくねぇ、話もつまんねぇ。とっくに漫画家の夢なんて諦めてるに決まってんだろうが」

「確かに、ジャンプの歴代打ち切り漫画でトップ5に入ってたら、そりゃ漫画家になれるわけないもんな」

「いや、元漫画家なんだろ。一応、本も出してんだしよ」

「なら、ある意味夢叶えたんじゃん」

「ほんの一時だけどな」


 二人は嗤い合う。泥の中で楽しげに遊ぶ、子どものように無邪気だ。だが彼らが踏みつけているのは、人として誰もが持つ尊厳そのものだった。

 彼らは笑いながら、それを蹴り壊す。泥水の中に突き落として、汚していく。

 なぜ、そんなことができるのか。

 私には、わからなかった。

 空虚とした感情が、怒りをどこかへ引きずっていったかのように、心は寂しいほどに静かだった。


「あれ、鳥山さん……何も言わないけど。もしかして、まだ漫画、描いてるの? まさか、まだ漫画家になるのを目指してるとか言わないよね?」

「んなわけないだろうが。なぁ、鳥山。もう夢なんて、とっくに諦めたんだろ?」

 

 二人の視線が、重なって突き刺さる。

 私は、何も言えなかった。

 代わりに、愛想笑いを浮かべた。薄く、力なく、それだけしかできなかった。

 構内に響いたうぬぼれ屋と老害の笑い声が、耳の奥でこだましていく。


「おい。お前ら、いつまで騒いでんだ。まだ休憩時間じゃねぇぞ」


 苛立ちを含んだ怒鳴り声が割って入る。うぬぼれ屋と老害の馬鹿笑いを聞きつけたのか、社員の腰抜けが肩をいからせて近づいてきた。

 老害とうぬぼれ屋は声量を落とし、社交辞令の謝罪として頭を下げる。反省を装っているが、表情にはさっきまでの笑みが薄く貼りついたままだ。

 うぬぼれ屋が、さも悪気はないという調子で言った。


「いや、鳥山さんが昔漫画家だったっていうから。それで、つい話が盛り上がっちゃって」

「はぁ? 鳥山が漫画家ぁ?」


 腰抜けが鼻で笑う。


「冗談は名前だけにしろ」

「いや、そういや……お前の名前、明だったよな。鳥山明。そうだよな?」


 腰抜けも耐えきれず、噴くように笑った。面白いものを見つけた子どもみたいに目尻を歪める。


「鳥山明って……お前、それはさすがにねぇわ。両親もひでぇ名前つけたな」

「よりによってドラゴンボールの鳥山明と同じって、やべぇだろ」

「まさか、それでお前にも漫画の才能があるって思い込んじまったのか?」

「いやいや、実際は全然だったんですよ」


 老害が肩を揺らして笑いながら、スマホの画面を腰抜けに見せる。


「こいつの漫画、ジャンプの打ち切り漫画ランキングでトップ10入りしてんの」

「鳥山明と同じ名前でも、さすがに漫画の才能までは一緒じゃなかったか」


 老害と腰抜けが腹を抱えるような仕草で笑いあう。二人の笑い声は、狭い倉庫の空気を軽々と踏み荒らしていった。

 その中で、うぬぼれ屋だけが一瞬、こちらへ気まずそうに視線を寄こした。私を見る表情には、ぎこちない笑みが浮かんでいる。まるで、どう反応すべきか迷っているように見えた。すぐに視線は逸れたが、その表情だけがいつまでも印象に残った。

 私は空っぽな気分のまま、時間がただ過ぎ去るのを待った。

 止まることのない嘲笑の中で、私の中の何かが薄く削られていく。過去も名前も嘲られ、彼らの言葉に追従するように、私はまた薄く笑ってしまう。そのたびに、私は私自身を少しずつ殺している気がした。

 気づけば私は、心の中で声にならない言葉を吐いていた。


――あぁ、笑うくらいなら、いっそのこと殺してくれ――


 次の瞬間、チャイムが鳴り響いた。私にはそれが、救いの鐘の音みたいに聞こえた。

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