わだかまりは、なくなるのか
世界では今も戦争が起こっている。戦争に参加するとはならないだろうが、停戦が成立してあとは監視する立場として現地に行くことはあり得る。
自衛隊は隊員を東ティモールや、ゴラン高原に派遣した過去がある。
平和のために派遣されていても、現地ではそう解釈しないかもしれない。目線がどちらに向いているかで考えは変わってくる。派遣は命がけなのだ。
ぞろぞろとオババたちが歩いていくと、外周の柵が見えて手前に広場、その先には海が見えた。ずっと向こうには小さな富士山。今日は天気がいいから、神々しい姿が見えた。九州から上京し、教育隊に配属された詩帆。静岡や山梨以外でも富士山が見える現実に驚いていた。この景色、なつかしい。心がずっしりと重くなる。
三角の尖った先から、下まで雪で白い。空は青く雲がない。白く波打った海。まるで絵葉書のようだ。
岸壁に来た。鉄骨で作られたカーブした機械の先に、複数の短艇が釣り下がっている。
そうだ、カッター訓練をした。まず陸上でオールを漕ぐ練習が行われた。船の中の平べったい並べた板に、左右二人ずつ六列で十二人座り、先頭中央に班長が乗る。オールの角度やタイミングを細かく指示されていく。班長はよくキレた。怒鳴っては、たまに手や足も出た。突き飛ばされたり、たたかれたりもした。
命がかかっている訓練。全員が必死だった。船が転覆してはならないから厳しかったのだろうが、当時の詩帆は怖い、痛い、重い、嫌い、やめたい、くらいしか感じなかった。何度も繰り返し怒鳴られては練習し、手を叩かれては半泣きになり、そして最終的には海へと繰り出された。海でオールをこぐのは想像以上に難しかった。陸上で重いオールは、海で水の抵抗を受けると、もっと重くなった。握力のない詩帆は何度もオールを波にもっていかれた。そのたびに班長に怒鳴られた。顔に波がかぶり、しょっぱい。おしりの皮も剥けた。手の平には大きなマメ。破けて、塩水はしみた。ジワリと涙が出た。周りには日焼けして真っ黒な同期の隊員たち。全員必死で漕いでいた。
「海に飛び込んだね」
岸壁の下を覗き込んだ小林が言う。隣にいた。
「そんなことあったっけ」と、詩帆。
「何にも覚えていないね、詩帆ちゃん。安全訓練で着衣のまま海に飛び込まされたこと、忘れたの?」
「そうだっけ」と、詩帆。
「そうだよ。体を浮かせて体力を温存させる方法習ったよね。やり方までは覚えていないけど」と、小林。
「じゃあ、落ちたら死ぬね」と、詩帆。
「落ちない、落ちない。この年で海に行かないでしょ。私たち、もう五十代だよ」
小林が言う。
「子供いる? 将来、孫と一緒に海にいくこともあるでしょうよ」
「あははは、そうか。死ぬと困るな。実は私さあ、病気で一年ほど入院していたんだよね」
「入院?」
「夫に、離婚しようって言ったんだけど、お前は俺がいないと生きていけないだろう。そばにいてやるよって言われてさあ。まあ、病気のせいで、こんなに太ったけど」
小林が腹をたたいた。
「素敵な旦那さんじゃん。退院できてよかったね」
「まあ、そうだね」と、小林。
「やっぱさあ、この年になると、体にガタは来るよね」と、続ける。
「体だけじゃないよね、ガタが来るのは」
詩帆は言った。
そこへ、堀が詩帆のところに来た。
「詩帆。富士山見てよ。私たち語り合ったよね」と、堀。
「覚えているんだ」と、詩帆は言った。
二人で日曜日によくここにきて、富士山を眺めて語りあった。
あの時訓練が厳しく、やめた練習員もいたし、柵を超えて逃げだした隊員もいた。でも、二人は家に帰れなかった。詩帆の福岡の実家は母親と祖母の対立が激しくて居心地が悪かった。それで、逃げだすように県外へと出た。堀は二人姉妹。姉が優秀で家は居心地が悪く孤立していた。地元の短大一年生だった堀は学校をやめて家を出て、婦人自衛官になった。
岸壁のそば、用具入れの段差のある小さな階段に並んで座って、富士山を眺めながら休みの日はお互いの話をした。
「おばあちゃんがね、お母さんの髪の毛を引っ張って、家じゅうを引きずり回すのよ。母親の泣き声とも怒鳴り声ともわからない声が一階から響いてくるわけ。おばあちゃんのドスの利いた叫び声もするんだよ。まるで、動物園だよね。私は怖くて、妹と二人で二階に上がって、視界に入らない階段の上から様子をうかがうの。音と、怒鳴り声が響いてくる。今思い出しても地獄絵図だね、あれは」と、詩帆は言った。
「福岡の久留米市ってところは、陸上自衛隊の大きな駐屯地があって、幹部候補生学校もある。通学中にはいつも自転車で駐屯地を横切っていたし、学校のクラスメートの中にも親が自衛官って人も結構いたんだ。逃げるならココだって思っていたんだよ」
「妹と母親がすごく仲良しで、二人でよく喫茶店にパフェ食べに行っていてうらやましかった。家にいるとき私はおばあちゃんの部屋で再放送の時代劇を一緒に見て過ごしていたんだ。おばあちゃんは寂しがり屋で、リビングからは母と妹の笑い声が聞こえてくるわけよ。おばあちゃんの機嫌が悪くなるから、家族の平和を守るために頑張って機嫌を取って、仲を取りもっていたつもりだった。それなのに、母から『あんたって、よくおばあちゃんの部屋に入れるよね』なんて言われて泣きたくなった」
詩帆は言えなかった言葉を吐き出していた。
「お姉ちゃんがモデルみたいにきれいでさ、身長が高くて細くて、その上頭もすごくいい。優秀で東京の国立の大学に入って、彼氏は近所の頭のいい幼馴染。彼氏がバイクで家まで迎えに来るの。それで、駅まで送ってくれてさ。二人はお互いの親公認で、将来は結婚するのよ。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんばっかり褒めて、かわいがっていた。何もかも姉は持っていて、私は持っていない。美紀は安心だけど、沙里はねえ、って母親によく言われた。せめて半分くらい持っていたらよかったのに、って。口癖だった。だから家を出た。それで言い訳できる自衛隊みたいな特殊な所に就職したし周りも、らしいねって言ってくれた。周りから認められた気がした。私にはここしかないのよ」
「私たち、一生の友達だね」
堀が笑いながら言った。
「うん、親友だね」
詩帆はそういって、小指を出した。
「約束」
堀も小指を出し、指を絡めた。
「ウソついたら針千本飲ますから」
「うわっ。痛そうだね」
詩帆はそう言って笑った。
バスに乗るときはいつも隣で、話すときも一緒。どこに行くのも一緒。キラキラしていた。二人の世界だった。
だけど。
急に決別はやってきた。堀は詩帆を避けるようになった。全く話してくれなくなった。視線が合っても、無視するようになった。
「私何かやった? 傷つけたのなら謝るよ。何をしたのか教えて」
堀は何も言わない。黙って避けるだけ。
堀の隣には新しい親友の沢口がいた。沢口は底抜けに明るい性格だった。いつも笑顔で、班を引っ張るリーダー的な存在。班長からも褒められたし、運動神経もよく、勉強もできた。彼女を嫌う人なんていなかった。彼女はもともと吉田と仲がよかったが、吉田が自衛隊を辞めたため、堀と一緒にいることが多くなった。三班は一人減って十二人から十一人へ。詩帆は三班のカーストの底辺へと転落し、一人ぼっちになった。
それからしばらくは毎日、ベッドの中でこっそりと大泣きした。一人になりたかったけど、集団生活だ。なれるわけもなかった。
「ねえ、堀。教育隊の卒業間近の時期って、私じゃなくて、沢口さんといつも一緒にいたじゃない。喧嘩したわけじゃないのに、親友じゃなくなったでしょう。あれ、なんで?」
ずっと知りたかったことだ。
これを聞くためにこの場に来たのだ。
「ああ、あれ」と、堀。
「なんでなん?」
「私たち、ココでずっと語り合っていたじゃない。なんでだと思う?」と、堀。
二人で体をくっつけて語り合った場所は、目の前にあった。三角屋根のプレハブ倉庫。扉の前に階段。当時階段の一部が欠けていて、端の壊れていない部分に並んで座っていた。今目の前にある階段は、きれいに直され手すりもついていた。
「訓練のストレスを吐き出していたとか」と、詩帆。
「ごめん。もう、時効だよね」と、堀。
「なにが」
詩帆はけげんな顔をした。
「練習員の男子がいつもこの前を走っていたの、覚えてない?」と、堀。
「え、そうだっけ」
詩帆は覚えていなかった。
「そうだよ。山崎くん。頭坊主なのにイケメンで身長高くてかっこよくて。あの当時、自主マラソンのコースがこの前で。いろんな練習員が走っていた」
「そういえば、いろんな人が走っていたかも」と、詩帆。
「それで、詩帆と待ち合わせしているとき山崎くんが来て。詩帆に手紙を渡してほしいって。ごめん、中見た。ラブレターだった」
「まじで」と、詩帆。
「私は、彼に会うためにここに来ていたのに、彼は詩帆を見るために走っていたんだよ。あんなに走っている練習員がいる中で、なんで山崎くんが告白するのよ。だから、あそこにも行きたくなくなったし、詩帆とも話したくなくなった。それだけだよ」と、堀。
「今はパイロットと結婚して、勝ち組じゃない。医者や准教授のスーパーキラキラ息子が二人いるんでしょ」
詩帆は堀の顔を凝視した。
「今思えばね。ただの練習員と結婚するなんてありえないじゃない。でも、あの時彼は私のすべてだったんだよ」
堀は言った。
「えええええ」
詩帆の足が勝手に動いていく。岸壁の方へ無意識に歩いて行って、小林が詩帆の手を引っ張った。
「詩帆ちゃん、危ない」と、小林。
「海に落ちたらどうするの」と、続けて言った。
「山崎ってだれ」
詩帆は小林の言葉を聞いていない。何度も山崎って言葉を繰り返している。
「手紙、勝手に開けてごめんね」
堀が頭を深く下げた。
「どうでもいい、そんなこと」
詩帆は言った。
「私はそんなことをずっと気にして生きてきたわけ」と、詩帆。
「何が?」と、堀。
「私のことを無視して、はぶいていたのは覚えているよね」と、詩帆。
「まさか。そんなことしてないよ。仲良くしていたじゃない。下総航空基地も一緒だったし、江頭と三人で外出したり、遊んだりしたよね」と、堀。
詩帆は立ち止まって顔に両手をつけると、その場をうろうろとまた歩き出した。
「うそだ。うそだって。うそだよって、言ってよ」と、詩帆。
「え、なにが」と、堀。
視線を移動させ富士山を見た。富士山は変わらない姿だった。
「私、こんなことのためにずっと苦しんでいたわけ。バカじゃん」
詩帆は自分の頭をくしゃくしゃにかき混ぜた。
「バカじゃん」
海の方を向いて、大声で富士山に叫んだ。
「手紙見て、本当にごめんね。山崎くんのこと伝えればよかったね」と、堀。
「そうだね。私と語り合うのが目的じゃなくて、山崎くんを見るのが目的って言ってくれたら、私の人生変わっていたね」
詩帆が言った。
船着き場を離れて、集団は進み始めた。曲がった後はまっすぐ進むと、小さな建物が見えた。あった、広報室。入口を入ってすぐにトイレがあって、ぞろぞろとオババが入っていく。
「トイレに入りたい人は入って。もう、トイレはありません」
曽我が口の横に手を当て叫んだ。
詩帆がトイレを覗く。中は渋滞が発生している。
「行きたくない人もトイレが近い人は入って。ババーなんだから。隠さなくていいから。この先ないから」
プンプンが大声で言う。
「やだー」
誰かが笑った。
「ここは、広報室です。スリッパに履き替えて。入って、入って」
曽我が言った。
靴からスリッパに履き替えて、中年のおばさんたちがなだれ込むように入っていく。そんなに大きくない部屋。四方の壁に写真が飾られている。護衛艦や対潜哨戒機(潜水艦を見つけたりする航空機)練習機に、集合写真、潜水艦の出入り口に立っている隊員、建物や敬礼している隊員などの写真が並んでいた。五十インチくらいの大きさのテレビが写真の横に一台あるのが見える。
ガラスケースにも写真や模型、その横に説明書きがある。広報室というより、展示室のような感じだった。
奥からスーツを着た男の隊員が出てきた。曽我とプンプンに挨拶している。
「みなさん、入隊時のビデオあるけど、見ます?」と、隊員。
「みたーい」
数人が言った。
隊員はDVDを操作し、映像が流れ始めた。
桜が咲く教育隊で入隊式があった後、訓練を受けて卒業するまでのストーリー。隊員は男子も女子もいた。広報室が作成した、ドキュメンタリー風広報DVD。
見ている間の十分程度、あんなにうるさかったオババたちの声がピタッと止んだ。
映像がおわった後、堀が詩帆に言った。
「詩帆はテレビに出ていたよね」
「え?」と、詩帆。
「テレビの取材が来たときあったじゃない。あの時あんた、インタビューされていたよね」と、堀。
「ああ、そうだった」
「覚えていなかった?」
「忘れていた」と、詩帆。
「でも、ローカルじゃなかった? 全国放送じゃなかったよね」と、続けた。
「あんたって、そういうところあるよね」
堀が言った。
広報室で、来年の一枚に一月から十二月まで載ったカレンダーが配られた。ポスターみたいに一枚ずつ丸められている。オババたちは殺到した。
「もう、人数分あるよ。なくならないからゆっくりもらって。あ、ちょっと、一人一枚だよ。何枚も取るなよ。足りなくなるだろうが」
プンプンが怒鳴っている。
広報室を出た。少し先に庁舎が見える。
オババたちは上機嫌で、まっすぐ続く道を歩いた。集団は横にも縦にも広がり、道を占領している。施設見学の間ずっと職員、だれともすれ違わなかった。
庁舎前に来た。練習員時代ここで行進をさせられた。
テレビのニュースでよく見かける、中国や北朝鮮の軍隊が列を乱さずまっすぐ進みながら、国家元首の方を敬礼しながら進む行進。ニュースでは、ミサイルをのせた特殊車両や戦車が並んで行進している映像。教育隊の中でも、行進の訓練があった。一糸乱れず進まなければならない。作業服と言われる隊の中で過ごす作業着を着て行われるが、月に数回かそれ以上、ポスターで来ているようなスーツ姿のような制服でも訓練が行われる。
海上自衛隊では、かなり階級が高く、上の役職に就いた幹部が隊に訪問に来たときは、その前で隊ごとに行進を行う。一糸乱れぬ行進。「カシラ右」と号令がかかると、一斉に頭だけ右を向いて敬礼。そのままの状態でまっすぐに行進しなければならない。「なおれ」の号令で頭を元に戻し敬礼も終わる。その状態を保ったまま雲の上級の幹部の前を通りすぎるのだ。
敬礼しながら振り向く訓練。顔を前にまっすぐ向けて、でも実は横目で確認しながら横とタイミングを合わせ歩く。美しく統制を取りながらの行進。
行進中、制服にアイロンをかけていなかった隊員は、班長に引っ張られ班長室で正座をさせられた。普段来ている作業服も制服も稼業中は折り目がついた服を着なくてはいけなかいのが教育隊のルールである。
しっかりと折り目をつける。折り目の場所は決まっている。自由時間にアイロンをかけるのだが、アイロン室は常に満員。順番待ちで列ができる。それは、洗濯室も一緒。洗濯機は班に一台だけで、合計八台。これも、休憩時間しか使えないし、だいたい順番待ち。訓練が終わってから、夜十時の間までの四時間の間に、すべて終わらせなければならない。
夏期。制服は白。詩帆は洗濯をしなかった。朝見ると、アンダーが一枚だけしかない。ピンクのタンクトップ。作業服の時は下に響かない。しかし今回は制服だ。行進の前、鏡でチェック。透けていない。
行進訓練に来て行った。
その日は雲の多い日だった。訓練が終盤に差し掛かったころ、空は真っ暗になった。雨がぽつりぽつりと降ってきた。そして、大きな音。大雨。アスファルトは白から小さなドット模様、そしてすぐに濃いグレーへと変わった。
雨の中、しばらくは行進を続けていたが、結局、途中で屋根のある庁舎に全員待機した。隊員たちは全身ずぶぬれ。詩帆は自分の姿を見た。上半身、ピンク。タンクトップが透けている。
班長がやってきて、詩帆の首元の襟を強い勢いでつかんだ。体が激しく揺さぶられた。
「貴様、どういうつもりだ」
そのまま襟をつかまれ、事務所に引っ張られた。
それからしばらく、事務所前の廊下で濡れたまま正座をさせられた。訓練を終え風呂に入り、着替えを終えた隊員たちが、詩帆の横を通り過ぎる。何人かと目が合った。気まずく、下を向いた。
集団は庁舎をただ通り過ぎて、門についた。
「これで教育隊の見学会はおわりです。ここを出たら解散です。このあと、ホテルでの食事会になりますが、集合時間は六時半。皆さん積もる話もあると思いますが、六時までにはホテル内の受付を済ませてください。ホテルはどこかわかりますね」
曽我が大声で怒鳴っているが、オババたちは大騒ぎで聞いていない。
「ねえ、どこか喫茶店でも行って話さない? 食事会まで時間があるし、このまま帰るのは、つまらない」
堀が言った。
「食事会のホテルへ行こうよ。三浦まで少し離れているし。そこの近くでカフェ探そう」
と、江頭。
「そうだね。行こう行こう」
詩帆は言った。




