2.差し込む光と嘘のような話
突然と男が現れた。だがこのまま進んで人を轢く訳にはいかない。紫音は慌ててブレーキをかける。
幸い、自転車はスピードが出ていなかったため直ぐに止まった。
それにしてもおかしい。先程まで紫音の目の前には誰もいなかったはずだ。あまりの暑さにとうとう気でも狂ったか。それとも、この男が狂っているのか。
それに、男が纏う雰囲気もどこか歪だ。まるでこの世の者ではないかのような――
――とにかく、己の目を覚ます方が先だ。男のことを考えている余裕はない。
紫音は一瞬の思考の末、男を通り抜けようと自転車を漕ぐ足に力を籠めた。
「酷いものだな、挨拶を無視だなんて。やっと会えたのに。でも、それでこそ綾野紫音だ」
「!?やっと会えた……?それに、何故僕の名前を……」
「気になるか?なら、少し話をしよう。そうだな、確かここはすぐ近くにカフェがあったはずだ。お金は勿論僕が出すから、気にしないでついて来てくれ」
「『ついて来てくれ』って…生憎、この国では『知らない人にはついていかない』が常識なんだ。小学生でも知っているぞ」
捕まってはいけない。紫音はそう悟った。何を隠そう、紫音は男性にしては非力なのだ。
一般に男性の方が女性よりも筋肉量が多く力が強いと言われている。紫音は既に第二次成長期を終えているため、身体的には成人男性と見てもさほど問題はないだろう。しかし、体を動かすことをあまりしてこなかった紫音は筋肉量が少なく、平均的な成人女性と力比べをしても勝てるかどうか怪しいのだ。
つまり目の前の男に捕まってしまったら紫音に逃げる術はない。日頃から運動をしていない紫音に護身術などある筈もないのだから。
「ああそうか、君にとって僕は知らない人に該当するのか。ならば自己紹介を」
「必要ない」
紫音は今までにない程力強く、ペダルを押し込もうとした。
「悪いが、僕だって時間がない」
男が前に立ちふさがってきた。
何故だろう。紫音はこの男から目を逸らせない。
紫音を見つめてくるこの男は――先程は直感的にこの世の者ではないと感じたが――よく見るとどこか見慣れたような気もする。
紫音は何となくこの男が気になって、つい耳を貸してしまった。
「僕の名前は綾野紫音だ。君に助けを乞いたい」
夏の強い日の光を浴びてアイスティーの中の氷が煌めく。中に入っているのが宝石だと言われても信じてしまいそうなくらいだ。
「綾野紫音」を自称する男に連れられてやって来たカフェは、西樹高校に近いこともあってかそこそこの賑わいを見せていた。補習の直後で客は高校生が大半だ。
まだ若いからだろうか、目の前の男は制服を着ていないというのにこの高校生ばかりの空間にやけに馴染んでいた。男の整った顔立ちに加えて、どこか物憂げな、それでいて少し緊張が解れたような、何とも形容しがたい絶妙な表情がSNSで人気を博しそうなイラストに見えてくる。
妙に物語めいた雰囲気を壊すのが憚られて、紫音は何も言えないまま思考を巡らせる。
顔立ちから推測するに、年齢は二十歳くらい、大学生のように見える。しかし、大学生にしては哀愁が漂いすぎていると感じるのは紫音の気のせいだろうか。まるで人生の酸いも甘いも全て背負い込んでいるようだ。
どれくらい静寂が続いただろう。何十分のように感じられたが、実はほんの数分の出来事だったのかもしれない。やがて男が口を開いた。
「――悪いな。少しボーっとしてしまった」
「構わない」
己が非力であることを知っているにも関わらず結局はのこのことついて来てしまったことを反省しながら、紫音は素っ気なく返事をする。
「さっきも言った通り、僕は君に助けを乞いたい」
ここで紫音は気が付いた。外にいたときは陽炎のせいかよく見えなかったが、しっかり見てみると、この男の顔は紫音によく似ているのだ。髪型や表情のせいか纏う雰囲気こそ違うが、やや切れ長の目にすっと通った鼻筋は、紫音がそれまで持て囃されたそれそのものと言っても過言ではない。男と同様、紫音は顔立ちが良いほうだ。
それに男は紫音の名前を知っていた上で自らを「綾野紫音」だと名乗っていたではないか。
もしかすると、この男――
「助けを乞いたいと言うのは、お前が真っ先に名乗ったことと関係があるか?」
「ああそうだ」
男は手にしていたコーヒーのカップを置いて、紫音を見つめた。
「改めて自己紹介をしよう。僕の名前は綾野紫音。僕は……」
言い出しにくいことなのか、男はその先の言葉をすぐには紡がなかった。陽の光が彼の迷いに満ちた瞳を照らす。
少し苛立ちを覚えた紫音は男を促すことにした。
「大体察しはついている。大声は出さないから躊躇うな。じれったい」
「……すまない」
男は深呼吸をして、まっすぐに紫音を見つめた。
「僕は5年後の君だ。――どうか、彼女を助けてほしい」
この瞬間を、紫音はきっと忘れないだろう。
男が発した決意の言葉は数多の高校生の喧騒の中に溶けていった。
夏の日差しが二人を隔てる。文字通りの光のカーテン。
「――それで、『彼女』というのは?」
「……朝比奈凛。僕と君のクラスメイトの、あの子のことだ」
男の口から飛び出したのは意外にも記憶に新しい少女の名だった。頭脳明晰な孤高の花。心配事などなさそうなあの朝比奈凛を「助ける」?
紫音は訳が分からなかった。事務的なものを除いて、凛とはそもそも会話らしい会話をしたことすらない。5年後には何かしら交流ができているのだろうか。
「僕は彼女と話したこともないぞ。一体どうやって助けるっていうんだ」
「それは僕が一番よく知っている。安心してほしい。……このまま僕が何も言わなくてもいずれ彼女との接点ができるはずだ。……だが、このままじゃいけないんだ……」
そう言って未来の紫音は目を伏せた。今にも泣き出しそうな様子で、かなり必死らしい。
「このまま何もしなければ朝比奈凛は死ぬ……!あの子がいない世界は、もう、無理だっ……!」
聞きたいことは山程あったが、目の前の男があまりに辛そうで、紫音は何も言えなかった。
「……すまない。取り乱してしまった……」
「構わない。周りがうるさいおかげで、全く目立ってないしな。……それで、僕は何をすればいい?」
未来の自分だからこそ為せる技なのか、紫音は不思議と男に手を貸す気になっていた。
朝比奈凛に特別な思いはないが、5年以内に亡くなってしまうのはあまりに悲しい。紫音はこの話を聞かなかったことにはできなかった。
「二月だ。ちょうどこの年度の二月四日、朝比奈凛は西樹高校から自宅に帰る途中でトラックに轢かれて死ぬ。だから、その日にあの子が事故に遭わないように何かしらの誘導をしてほしい」
「具体的なようでいて、随分漠然としているな」
「あの日、僕はあの子の側にいてあげられなかったんだ。僕が事故の話を聞いたころには、あの子はもうこの世にいなかった」
「火急の用事でもあったのか?それなら、僕じゃなくて他の誰かに頼むべきじゃないか?」
「別に火急ではなかったんだ。荷物運びを手伝っていて、その日は一人で帰宅したんだ」
「いつもは朝比奈と帰宅を?」
「……ああ。もう察しがついたかもしれないが、僕たちは付き合っていたんだ。この5年間、何をすればいいかずっと分からなかったよ。僕が思っていたよりずっと、僕はあの子に惹かれていたみたいだ」
そう言って未来の紫音は笑みを浮かべた。自らを嘲る、悲しくも美しい笑みが紫音に何とも言えない虚しさを与える。
それにしてもあの朝比奈凛が未来の恋人とは。その数か月の間に一体何があったのだろう。紫音には凛と付き合う未来が全く見えない。
「今の僕に彼女に対する情はないが、だからといって見過ごすわけにもいかない。協力しよう」
「……!本当か……!?」
「ああ。だが僕にいくつか質問をさせてくれ」
「僕に答えられることであれば、いくらでも」
紫音は抱いていた疑問を一気に吐き出した。どうやってここに来たか、一体何が起こっているのか、なぜ5年もの期間を経て過去に干渉したのかなど、思いつく限りの問いを目の前の男に投げかけた。
しかし得られた答えはどれも漠然としたものばかりだった。未来の紫音にも何が起こっているのかほとんど分かっていなかったためである。すべてが「神の思し召し」の一言で片付いてしまう超常現象。紫音は魔法使いではないのだから当たり前である。
――大勢の客の喧騒の中、二人の紫音の間にはしばらく沈黙が居座っていた。未来の自分に、過去の自分に、一体どのような話題を出すべきか分からないままでいたのだ。きっと二人の間で交わされる話は分かりきった共感と人生のネタバレのどちらかだろうとお互いが考えた。そして紫音にはそれを良しとはできなかった。
確かなことは分からないまま、高校生の紫音は未来の自分に別れを告げた。どうやら未来の紫音はしばらくこの時間軸に滞在するつもりらしい。連絡手段を得た後、紫音は夢から醒めるように再び帰路を辿った。陽炎はもう立っていなかった。