1.炎天下と奇妙な出会い
入道雲の漂う空が、夏の日差しを容赦なく送り込む。
世間一般の学生にとって今日は夏休みだが、生憎のこと紫音は高校に行かねばならない。何も紫音の成績や素行が悪いからではない。紫音の通う西樹高校では長期休暇になると全校生徒を対象に補習が開かれるのだ。夏休みなどあってないようなものである。
自宅から近いからと西樹高校への進学を決めた紫音だが、このときばかりは己の選択を恨んでしまう。この時季の通学が苦痛以外の何物でもないのだ。自宅と高校の距離が近いということは通学には公共交通機関でなく自転車を使う他ないということである。あまり距離がないとはいえ炎天下でのサイクリングなどとてもできたものではない。
今日も地獄のような登校を終え紫音は席に着いた。
「おう紫音!今日も汗だくだなー!ご苦労さん!」
着席早々、勇希が声をかけてきた。夏目勇希は太陽を擬人化したような男で、化け物染みたコミュニケーション能力を持つ生徒だ。西樹高校内で頭一つ抜けた顔の広さを持つ。
紫音と勇希は妙に馬が合い、一緒にいることが多い。
「お前は随分と笑顔だな。何か良いことでもあったか?」
「別にい?いつも通りだよ」
「……流石だな」
これこそ紫音が勇希を太陽に喩える所以だ。超人としか思えないコミュニケーション能力に加え、この男は底抜けに明るい。なんてことない毎日でさえ彼は至上のひと時であるかのように噛み締める。そしてそれが紫音には心地良く感じられるのだ。
「それよりも聞いてくれよ!今日返される数学の抜き打ちテスト、七割超えないと追加で補習らしいんだ!三組の奴が教えてくれたんだよ!」
「それがどうかしたか?」
「どうしたも何も!俺はそもそも半分しか解いてねえ!助けてくれ紫音ー!」
「それは、まあ、災難だったな……」
「うわああああ!しおんんんん!俺を見捨てないでくれええええええええ!!」
「おい、響くからそのくらいにしてくれ……!」
西樹高校二年二組ではお決まりの光景だ。
勇希は高校内のあらゆる場所に顔が利くためある程度の課題やテストはこなすことができる。しかし頭が良い訳ではないため、抜き打ちのテストには弱いのだ。
おまけに今回の抜き打ちテストは二組で初めてお披露目された。これが二組でなければ勇希はテストの存在を知ることができ、多少なりとも対策することができただろう。
「恐らくだが、先生も確実にお前を潰しにかかってるな」
「そんなあああ……」
「安心しろ。仮に補習になったとしても僕がサポートしてやるよ」
「ありがたい申し出なんだが問題はそこじゃないんだよ……」
勇希は毎日を全力で楽しむタイプの人間であるため、少しの時間も無駄にすることはしたくない。その生き様はさながら子どものようであり、補習のような長い目で見ればほんの些細な拘束も勇希に科されるには十分なペナルティである。ちなみに紫音はというと、人生という莫大な時間を持て余しており未来どころか現在でさえもよく見ていない。
少々絶望の色を浮かべた勇希とは対照に紫音は余裕を見せた。紫音はこの高校では頭の良い方で、この手のテストに困ったためしがなかった。成績だけ見れば学年の成績優秀者を集めた一組にも軽く匹敵する程である。
「とりあえず席に戻ったらどうだ?そろそろ始業時間だぞ」
「もうそんな時間か!じゃあまたあとでな!」
冷房の効いた涼しい教室にいると、朝確かに触れてきたはずの燃えるような空気が嘘のように思えてくる。
窓際の席に座る紫音はぼんやりと入道雲を眺めながら授業が始まるのを待っていた。
「今日の補習は先日のテスト返却だ。基礎的な問題ばかりだから五十点満点中三十五点未満の奴は来週から追加で補習なー」
勇希や他のクラスメイトの情報網のおかげか、驚嘆の声は紫音の想像よりずっと小さかった。
「なんだ、思ったより驚いてないな。もう三組から情報が回ってるのか」
それは数学教師の豊川も同じだったようで、感心しながら生徒の答案用紙と模範解答を用意していた。
「じゃ、まずは模範解答な。今のうちに筆記用具はしまっとけよー」
紫音は配られた模範解答に目をやる。抜き打ちというだけで難易度的には大したテストではなかったため解答を見てもピンとこない。ただ、唯一自信のなかった最後の問題が不正解であったことだけは確認できた。
「全員渡ったかー?ちなみに平均点は出してないが二組は四十点くらいが多かったぞ。じゃあ出席番号順に取りに来い。朝比奈ー」
豊川に呼ばれて、女子生徒が席を立つ。紫音の姓は綾野で出席番号が二番のため、紫音もすぐに席を立った。
朝比奈と呼ばれた女子生徒に続いて紫音はテストを受け取り、再び席に着いた。点数は四十八点。一問二点でやはり最後の問題が不正解だった。
「今回のテストは全問二点。最後の問題は難しかったかもしれないが他はそうでもないぞー。ケアレスミスも含めて四十点は欲しいところだ。追加補習なんて論外だから、よく復習しておくように。そうだな、最後の問題は解説するとして……二組がよく間違えていたのは、三問目……十問目と……十七問目に十八問目だな、ここも解説しておこう」
そう言って豊川は順に解説を始めた。どうやら紫音が唯一間違えた問題は豊川渾身の問題だったようで、解説にも随分熱が入っていた。ここまで丁寧に解説されたら次は間違えることはなさそうだ。
「この問題は一組でも半分くらいしか解けていなかったし、満点じゃなくても落ち込むことはないぞー。ああでも、二組には一人満点がいたな。次のテストに備えて教えてもらうのも良いんじゃないか?」
なるほど満点がいたかと紫音は感心する。成績優秀の判子を押され勉強に対する意識が高い一組とは違い、二組はお世辞にも意識が高いとは言えない。毎日を楽しく過ごすために勉強に対しては如何に手を抜こうかと考える生徒が大半である。そんな二組に身を置きながら抜き打ちのテストにこれほどの対応をするとはかなりの実力者だ。周囲に切磋琢磨する者がいないのだから良い成績を取るのは難しい。頭の出来が良いのは勿論のこと、日頃から勉学に励んでいるのだろうか。そして紫音の予想が外れていなければその実力者は――。
「……まあ、朝比奈ちゃんだろうなあ」
「勇希もそう思うか」
「まあな。やっぱさ、あの子、何て言うのかな、立ち回りが上手いんだよなあ。絶対頭良くないとできないんだよな、ああいうの。だから勉強もできるんだろうなあって」
社交性の高さ故か、勇希は他人の言動を分析することに長けていた。尤も、具体的に言及することはできないためその分析力は「勘が良い」という評価にとどまってしまうのだが。
「僕にも何となく分かる。どこに属する訳でもなく、かといって孤立している感じもしないんだよな」
「そうそれ!俺が言いたかったの!」
「お前はもう少し言語化を試みた方が良いな。数学の抜き打ちテストも七割なかったんだろ?」
「うっ……。助けてしおんんんんん!」
「分かった分かった。僕で良ければ教えるよ。頑張ろうな」
「……!助かる!ありがとう紫音ー!」
「その代わりに今度アイスでも奢ってくれ」
「もちろんだ!とびきりをご馳走してやる!」
「そこまではしなくていい……」
数学に英語に国語といった調子で今日も無事に補習を終え、紫音は高校を出た。空気は朝よりもさらに熱されており、体ごと溶けてしまいそうなくらいに暑い。補習は日によって教科こそ違うものの三時限と決まっているため、生徒が下校するのは昼頃になる。紫音は既に疲労の色を浮かべていた。
「じゃあな紫音!また明日!」
「ああ、また明日な……」
勇希は電車を使って通学するため、紫音とはいつも校門で別れる。本日の補習から解放されて嬉しそうな勇希とは対照的に、紫音にとってはここからが地獄だ。
「帰ったらすぐにクーラーつけてアイスでも食べるか……」
ぼんやりと帰宅後のことを考えながら自転車を漕ぐ。陽炎の立つこの世界が何となく幻のようだった。
それならこの暑さも幻であってくれと思った刹那――
「やあ、こんにちは」
――目の前に、奇妙な男が現れた。