2.アトリエの稲
婚約破棄が決まっても、フィリアの家族はそれほど動揺しなかった。エイドナ公爵家は武功の家であり、経済のスレイン大公家とは影響力のある分野が違うからだ。
(だからこそ、私とモードの婚約が成立したのでしょうけれど)
フィリアの父は軍人で、地方の軍司令官を任されている。そのためさすがにスレイン大公家もすぐには手出しできない。
とはいえ、両親からフィリアへはきっちりと釘が刺された。
「スレイン大公殿下は面目を潰した人を許さないだろう」
「私達に手出しはしないだろうけれど、あなたの将来がどうなるか」
つまり両親はいいとして、フィリアの人生はかなりマズいことになったということだ。
しかしもちろん、そんなことは承知の上である。フィリアの努力を認めようとしないモードと、一緒になることは不可能だ。
諸々の話し合いを終えて、フィリアは屋敷にある自分のアトリエに向かった。時刻は真夜中に近い。
(とりあえず報告と今後の相談は一段落、と……)
フィリアはメイドのシュナと明かりに照らされた廊下を歩いていた。
シュナはすらっと日焼けした肌を持つ長身のメイドである。シュナはこの国の生まれではない。元々は南国の軍人貴族だったらしいが、色々あってフィリアの父に拾われたのだという。
フィリアにとってはほとんど唯一と言っていいほどの友人だった。
「あとでお夜食をお持ちしましょうか?」
「いつも悪いわね。ええ、お願いするわ」
「承知いたしました。しかし……ずいぶん思い切りましたね」
シュナがじぃとフィリアの顔を見つめた。
「フィリア様とモード様は合わないだろう、と感じてはいましたが」
「全く合わなかったわね」
ふたりは離れのアトリエにたどり着く。アトリエは本と錬金術師用の機材で埋め尽くされていた。
ここはフィリアの曽祖父が作ったアトリエだ。彼は宮廷錬金術師にはなれなかったが、研究熱心で必要な物品は揃えていた。
「ふぅ……もうすぐコレも形になるわ」
フィリアは大机に目を向ける。机の上にはミスリルの台が置かれ、その上に稲がセットされていた。
「錬金術で改良された稲、ですね」
「まだ完全ではないけれど、おじいさまの残した資料でやっとここまでできたわ。計算通りなら今までの品種より多湿でも収穫できるはずよ」
「素晴らしいですね……」
錬金術は全てを作り変える。鉱物も植物も。
それによって人類の生活は豊かになってきた。
「さて、魔力を注入しないと……」
まだこの稲はフィリアの魔力なしには生きられない。外で栽培を試すにはもっと時間が必要だ。
フィリアは稲の前に立つとピンセットを手に取った。そのままピンセットを稲に近づけて意識を集中する。
ゆらゆらと自分の中から魔力の火が燃え上がり、ピンセットへと伝わっていく。少しでも加減を間違えると稲は傷んでしまう。
(これが難しいけれど、楽しいのよね)
さきほどの婚約破棄はやはり心にズシリときていた。しかし実際に錬金術を始めれば不安は消えていく。
フィリアの魔力が紫色の火花となってピンセットから放たれる。
ちり、ちりり……。
心地良い火花の音とラベンダーに似た芳香がアトリエに満ちる。シュナも扉のそばに立ちながら、フィリアの妙技を見つめていた。
「本格的な作業は明日にするとして、まずはこれでっと……」
数分後、フィリアが魔力を止めてピンセットを机の上に置く。
「お見事でございました。いつ見ても、心が落ち着きます」
「そう? なら、良かったわ」
魔力を持つ人間にとって、フィリアの作業は大層心地良いらしい。研ぎ澄まされたフィリアの魔力は特にそう感じさせる力があった。
(魔力のないモードにもし魔力があったら、どうだったのかしら。まぁ、もう手遅れだけれど)
「このピンセットにも感謝ね」
フィリアは指先でピンセットを撫でた。このピンセットだけは曽祖父の遺産ではない。
この国の宰相であり、フィリアの教師でもあったジウスから送られた品である。
そしてモードにとってジウスは天敵であり――婚約破棄の代償を支払う相手であった。
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