目覚めの後
「うん……」
リルイットは目を閉じたまま、うなされるように眉をひそめた。
「ぅう……」
夢から現実へと彼を引き戻すのは、異様なまでの悪臭だった。
「くっさ!!!」
大きな声で叫ぶと同時に、リルイットは身体をガバっと起き上がらせて、すぐさま鼻をつまんで顔をそむけた。
「やっと起きただか〜。よく寝てたべ」
「っ!」
リルイットの記憶は朦朧としている。しかし聞き覚えのある訛りの声に反応した。リルイットは悪臭に吐き気すら感じながらも、その声の主に目を向けた。
「おはようさんさん」
呑気な声でニコニコしながら、しゃがんでこちらを見ているのは、曲がりに曲がった猫背の、ボサボサ髪の男だった。
「いや、こんばんわんだべな。わん。ワンワン!」
目の前の男は、手首を犬の真似をして軽く曲げてみせた。
「ヤムロ……さん……?」
だんだんと記憶が戻ってくる。俺はイグに背負われて、恐らく洗礼というやつを受けたのだ。高速結界を使ったイグと同等の速さで戦闘していた、あの声の主だ。
「そうだべ! おいらがヤムロ。シルバから話は聞いたべよ。おいらに修行をつけてもらいたいんだって?」
「えっと……そ、そうです。お願いします…!」
ヤムロはイグのことをシルバと呼んでいる。一瞬違和感を覚えながらも、確かヤムロのところにイグがいた時、彼はまだシルバだったのだからと、納得した。
リルイットは部屋の様子を見渡す。ベッドに横たわる自分と、それを覗き込むヤムロ。ここはどこぞのコテージのようだ。何となく見覚えがあるその造りに、このコテージはイグの呪術の創造物だとすぐに察した。
「イ、イグは?」
「うん? 誰だそりゃ」
「え…? あ……俺と一緒にここに来た…」
「ん〜? あぁ、シルバのことを言ってるだ?」
「は、はい……」
するとヤムロは、唯一ある部屋の扉を指差した。
「ご飯作ってくれてるだ〜」
彼の間の抜けたような口調に、リルイットはいちいち拍子抜けするような気持ちだった。異様なオーラを放つこの男に、1ミリたりとも油断はできない思いであったが、戦闘中に感じた強者のオーラは今はまるでない。
(そういえば俺……)
記憶がなくなる直前のことを、リルイットはようやく思い出す。
確かヤムロさんの攻撃が、直撃しなかったっけ? それなのに、俺は全くの無傷だ。
これまでもパタリと気絶することは何度もあった。何日も寝込んでは、ラスコに栄養注射を打ってもらったっけ。
リルイットはふと自分の腕に目をやった。
ラスコはいない。もちろん注射もない。
「あの…俺はどのくらい眠って……?」
リルイットが尋ねると、ヤムロは答えた。
「う〜ん? 昼間に来て寝てもう夜だべからな。5時間くらいだか?」
ヤムロは指折り数えだす。当然、といっていいのかはわからないが、この山の中に時計はない。時間経過の判断は、日の出入りと体感だけだ。
「5時間……」
「にひひ。まあおいらもついさっきまで寝てたからな、大体さ」
「……」
これまでに比べれば気絶していた時間は短いようだ。しかし、どうして気絶なんて…。これまでは体内の炎がなくなったからという理由だったはずだ。エネルギー切れなんだとロッソに言われて、何となく納得していた。
今や俺の身体の中にはもう、『炎』はいないはずだ。炎切れもクソもないはず。単純にヤムロさんの攻撃にビビったのか? 情けないけど…そういうことになるのか…。
「仕方ないべよ。そんなひょろひょろの肉体じゃあさ」
「え…?」
「強くなりたいんだべ? ならもっと鍛えるだよ。そうすりゃ長時間戦えるってもんさ。なあ、スルト」
「?!」
ヤムロの口からスルトの名前が出て、リルイットは顔をしかめた。
「何でその名前……?! どういうことですか?!」
「うに? お前はスルトだべさ?」
確かにスルトと、ヤムロは言っている。さも当然かのように。どうしてスルトを知っているというのか。リルイットの中でヤムロへの不審な気持ちが強まっていく。
「俺は…」
「おい。沸いたぞヤムロ。飯の前にさっさと風呂入れ。臭えんだよ」
突然部屋のドアが開いて、イグが気怠そうに声を荒げた。
「イグ…」
「何だ、起きたのかリル」
イグの姿を目にして、リルイットは何となく安心感を覚えた。
(スルトのこと、イグがヤムロさんに話したのか…?)
「うにに? こいつはシルバだべよ。それにこっちはスルトだべ。リルじゃねえだよ」
ヤムロは首を傾げながらそのように言った。
「だから、改名したって言ったろ。俺はもうシルバじゃねえ。イグ・レックになったんだっての」
「はい? 何でそんなことするんだべ。シルバの方がかっこいいべよ?」
「うるせえな。いいから早く風呂に入れっての! 臭すぎて鼻がもげんだよ!!」
「わ、わかったべよ〜。そんなに怒ることないべさ〜…」
イグに怒鳴られ、ヤムロはよそよそと部屋を出ていった。ヤムロはイグの師匠であるはずだが、弟子にしいたげられているようだ。
「うっ」
(ていうか、冷静になったらめちゃ臭え!!!)
リルイットはヤムロの悪臭を思い出すと、口を抑えた。人間からあんな臭いがするなんて信じられない。
「ちっ。ヤムロの奴、滅多に身体を洗わねえからな。この部屋はもう駄目だ。臭すぎる! 一回外に出るぞ、リル」
「お、おう……」
今すぐにでも出たい。トラウマレベル。リルイットはイグの後を追い、そのコテージを後にした。
コテージの窓からも見えていたが、外はヤムロの言った通り夜になっていた。時計はないが、明らかに深い夜である。
(結構寝てた……んじゃねえの?)
月明かりがなければ足元も見えないだろうが、今はイグがところどころに照明を立てている。そしてコテージの隣には、立派なバスルームが建てられていた。シャワーの音に混じって、ヤムロがるんるんと鼻歌を歌っているのが聞こえる。
燃える薪の上には巨大な鍋が置かれ、グツグツと煮える特製スープの香りがリルイットの嗅覚を落ち着かせた。
「はぁ」
イグはため息をつきながら、鍋のスープを軽くかき混ぜた。
リルイットはヤムロのことを尋ねようと、口を開いた。
「あのさ、イグ…」
「何なんだよ、あの姿は」
ところが、イグも同じタイミングで口を開いた。
「あの姿?」
「炎は死んだとか言ってたくせに、いきなり豹変しやがって。あんなに強いんだったらな、ここにくる必要なんてねえじゃねてか」
「いやいや、何の話だよ!」
リルイットとイグはしばらく目を見合わせた。長いようで短い沈黙に襲われた後、口を尖らせたイグが喋りだした。
「ヤムロと戦ってたろ。同等に」
「誰が」
「お前がだよ」
なるほど、全く記憶がない。俺が気絶している間、『炎』の奴が俺の身体を使って、何かやっているんだと思っていた。もちろん、『炎』がそうしたこともあっただろう。だけどどうにも、それだけではないようなのだ。
(『炎』のせいじゃない……?)
いつだって気絶後の記憶はないが、一度だけ薄っすらと覚えている記憶。それは巨人ロキがシピア帝国を襲ったあの日、そばにいたはずのウルドガーデを俺は……。
「………」
「おい、何とか言えっての」
リルイットの中で一気に不安が高まる。
もし彼女を殺めたのが俺なら、その事実は俺は耐えられるのだろうか。記憶がなくったって、やっぱり俺の身体が……。
(記憶……)
目の前の仲間を見ながら、その言葉にピンときた。
「イグ…」
「んだよ」
「頼みがあるんだ…」
「はぁ?」
眉間にシワ寄せる彼と目を合わせながら、リルイットは言った。
「俺の記憶を見て」
俺の知らないところで、何が起きていたのか。
本当は知るのが怖い。知りたくないけど、だけど、逃げられない。逃げない。
俺がイグと出会ったのは偶然じゃない。そんな気がした。
彼ならどんな記憶を見ようと、きっと本当のことを教えてくれる。
そう思った。
「お願い、イグ」
そう言って、リルイットはイグの右手に手をかけた。




