帰還後
そこは、世界の裏側だった。
海で覆われた世界の裏の、空の果て。
魔王は今、その果てにある黒い要塞に身を潜めている。
「魔王様」
アルテマは要塞に帰還した。要塞の真ん中の台座には、黒く光る球体が浮かんでいる。この球体こそが、魔王ゼクロームである。アルテマがやってくると、それに反応するように光が増強した。
「魔王様、お身体はいかがですか」
「神の制裁は酷いものだ。未だここから身動きが取れぬ」
魔王ゼクロームは、人間の男を殺めた。神はそのことで魔王に制裁を与えた。魔王は神の作ったその黒い要塞に閉じ込められてしまったのだ。
「どうしてあの男に手を出したのです。言っていただければ私が殺したというのに」
アルテマは言う。すると魔王はその球体から右腕を伸ばし、アルテマの首に掴みかかった。
「ゔっっ!!!」
魔王の力を前に、堕天使アルテマは何の抵抗も出来ない。腕はアルテマを掴み、宙高くまで持ち上げる。
「お前は黙って人間の『憎悪』を集め続ければいい。神の力に抗える強大な力は『憎悪』のみ」
「わ、っ、わかっ……わか……」
魔王の闇の手は、アルテマの身体を蝕む。
(うう……っ!)
息ができない辛さよりも、あまりある闇の威力を感じ、アルテマは目を見張る。アルテマの肌が、憎悪に侵食され、青みがかっていく。
あっという間に彼女の全身は真っ青になった。魔王が手を離すと、アルテマはその場に崩れ落ちた。咄嗟に唯一染まらなかった橙色の羽を背から生やし、地面への衝突を免れて着地すると、魔王に深々と頭を下げた。
「我の血に、もっと憎悪を吸わせるのだ!」
「承知しました」
アルテマはその要塞から脱すると、世界の逆側へと飛び立った。
「アルちゃ〜〜ん!」
アルテマの後を追ってやってきたのは、1人の天使だった。アルテマは天使の方を振り向いた。
天使の美しい浅葱色の髪は腰のあたりまで伸びていた。垂れ目で右目の目尻には泣きぼくろがついている。白い肌を染めるような赤味ある頬が印象的だった。
しかしアルテマはその天使を無視して通り過ぎていく。
「ちょちょちょちょ、ま〜ってよ! 待つのさ!」
天使はアルテマの後を追うように、羽をパタパタさせてついていく。
「いやぁ、でもカヌアの奴も落ち込んでるんじゃないのさ? ウォータードラゴンをあんなにあっさり倒されてしまうとはね」
アルテマはちらりと天使を睨むと、素っ気なく答える。
「カヌアはお前よりも役に立つよ」
「むむむ!!」
天使は明らかに不満げな様子で口を尖らせた。
「そんなわけはないのさ! 私ならもっとうまく奴らを殺せるんだわね」
「ほう」
「だからアルちゃん、私の作戦、聞いてほしいのさ」
天使は青肌の堕天使に笑いかける。アルテマもまた天使の話に耳を傾けた。
リルイットたちが研究所を発ったのはその翌日だった。
シズナを外に出すには日が浅かったが、いつまた魔族の奇襲に合うかもわからない、このグロンディアバレットに滞在する方が危険であると皆同じ意見だった。
イグの服従したインヴァルに乗って、結界によって外気からシズナを守りながら、2日ほどかけて帰還した。
「皆は大丈夫だろうか…」
インヴァルの上で、マキはふとそんな不安を口にする。
「お前はシズナの心配だけしてりゃいいんだよ」
イグは言う。
「そうですよマキさん。騎士団のことは俺たちに任せて、マキさんは子育てに専念してください」
マキに優しい言葉をかけるリルイット。
【お優しいですねぇ、リルイット様は】
『雷』はまた、イグに話しかけた。昨日はこの『雷』のせいで散々な目にあった。変な約束もしちまったし…。はぁ…。
イグはそんなことを思っては、リルイットを睨みつけた。
「何だよ…」
「べっつにぃ」
ラスコもまた、何となく様子の変わったイグを、不審な顔つきで見ているのであった。
帰還する旨は無線で知らせてあった。その日、エーデル城の裏庭に、ラッツが迎えに来てくれた。
「シルバは……?」
帰還したのはリルイット、ラスコ、マキと赤子、そしてイグだった。ラッツはイグのことなど全く知らなかった。同じ顔だけれど、明らかに雰囲気が違う。
すると、イグはラッツの前にやってきて言う。
「シルバは死んだ」
「は…?」
ラッツは愕然とした表情を浮かべる。
「な、何言ってるんだわ?! ていうかあんた一体、誰なんだわよ…!」
イグに睨まれ、ラッツはうろたえる。しかしシルバの姿はない。
「……」
ラッツは皆の顔を見回す。うつむく彼らを見て、ラッツもシルバの死を確信する。
「ラッツ……」
彼女の名前を呼んだのはマキだった。マキの腕に抱えられている赤子を見て、ラッツは顔をしかめる。
「マキさん…その子は……」
更にラッツは確信する。2人は結婚していた。妊娠しているなんて思えなかったが、その子供はシルバとマキの子供だと。
「ラッツ…シルバは……」
マキが何かを言いかけると、それを遮るようにイグは頭を下げた。地面に手をついて、彼女に土下座をした。リルイットは目を丸くしてそれを見た。
「ちょっ…何なんだわよ…!」
「ごめん……!! 俺が悪いんだ………!! ごめん……ラッツ………!」
「な、何であんた、私のこと知って……」
「イグ…」
マキも切なそうな顔でイグを見る。赤子はすやすやと眠っている。
俯くイグの目からは涙が溢れた。自分のしてきたことは、何も正しくなかったのだろうか…。全部間違っていたのだろうか…。そんな風に思えてしまって、ただただ胸が苦しくなる。
「俺はマキのことも……ラッツのことも……シルバのことも…傷つけて……」
「イグ…私は傷ついてなどいない……私はむしろ………」
「ちょっと! 顔あげるんだわよ!!」
ラッツはイグの顎に手をやると、顔を上げさせた。イグの顔を見て、ラッツは顔をしかめる。
(ほんとにシルバと全く同じ顔なんだわ……)
「うっ……うぅ……」
ラッツは愕然として、膝をついてうつむくと泣き出した。その様子を見ているのは、ただただ辛いだけだった。
エーデルナイツはラッツとゾディアスの2人によって、予想以上に体制を立て直していた。
北軍には、東軍騎士のサリドマが仮のリーダーを連ねていた。彼はエルフ討伐の際に力を発揮していたベテランの大剣使いである。人望も実力も備えた、リーダーとしての資質は申し分ない男であった。本来なら北軍の中から選びたかったが、リーダーに見合う人物がいないと判断され、ラッツの推薦により彼に決まった。
西軍にはゾディアスの参謀ダルトンが仮のリーダーに就き、南と西の進軍は、ほぼ彼1人が行っていた。あれだけあった依頼もほとんどなくなり、エーデル大国の周辺国には魔族の出現情報はほぼ皆無である。この一帯はもう人間が牛耳ったと言って差し支えない。
そしてその後も、エーデルナイツの体制は大きく変わることになった。
マキさんが団長を辞任した。
赤子を育てるためだ。赤子の親はマキさんしかいない。それに彼女の身体も産後まだ数日、とてもじゃないが現場に出るのは難しいだろう。
シルバの死もあっという間に、エーデルナイツの全員に知れ渡った。2人のリーダーに加えて団長までも失った騎士団は、今度こそ崩れ去るかと思った。しかし騎士たちはシルバの死に、魔族たちへの復讐心を募らせ、それを糧としてより仕事に精を出すようになった。
俺たちには当然新しい団長が必要になった。そしてそれは当然、騎士団を立ち上げたラッツとゾディアスのどちらかだと思われた。
協議の結果、それはゾディアスに決まった。マキさんの不在時に騎士たちの活気を保ったのも実は彼だった。知性にかけるところもあるが、それは周りがフォローできる。必要なのは、カリスマ性だ。彼にはそれがある。
「お前ら!! 魔族は皆殺しだ!!! 根絶やしにするまで絶対ぶっ倒れんじゃねえ!! 気合を入れ直せぇ!!」
「うおおお!!!!」
相変わらず「魔族は皆殺し」を唱えているが、そのくらいの覇気がないとこの戦争には打ち勝てない。その時人間は絶滅する。そのくらいの覚悟だ。間違っちゃいない。
マキさんの奪還に成功した俺たちは、その日は休むようにとラッツに言われた。シルバが死んで、幼い彼女がどれほど落ち込むことかと心配したものだが、次の日には彼女はいつもの様子に戻っていた。
「おはようなんだわ、イケメンリル!」
「おはよう……」
昨日泣き崩れていた様子が嘘のように、ラッツは笑顔を見せていた。
「どうしたんだわ。辛気臭い顔して」
「いや…お前……大丈夫なのかよ…」
「何がなんだわ?」
強がっているようにも見える。だけど俺には、慰めの言葉も見つからなかった。
「ていうかリル、あんたその火傷!」
「え? ああ…」
「大変だったみたいだわね。本当にお疲れ様なんだわ」
「……」
「あいにくだけどメリアンの奴が遠征中でね、明日には帰ってくると思うんだわ」
こんな時に俺のケガの心配をするなんて、本当に出来た上司だな……。
「ま、あんたもラスコもしばらく休むんだわよ。また気絶されたらたまんないんだわ!」
「うん……」
ラッツは見上げるように俺を見て言った。いつもの自信に満ち溢れた彼女だった。
「さ、あたしは仕事があるんだわ。忙しいんだわよ。それじゃあもう行くんだわ」
ラッツは俺に背を向けて、アジトを出ていこうとした。
「ラッツ!」
俺はどうしてか彼女を呼び止めた。その後の言葉も思いついてないのに。
ラッツは足を止めてこちらを振り向いた。
「何?」
俺はすぐに何も言えなかった。
何を言っても気休めにさえならないと思った。シルバの名前を出すことなんてとてもじゃないけど無理だ。ラッツが俺にかけてほしい言葉があるとも思えなかった。
「何なんだわよ」
「その……」
(………)
ラッツは俺が何も言えないのを見て、逆に気を遣ったんだろう。ラッツはそんな情けない俺を見て軽く笑った。
「リル」
「……?」
ラッツは俺に拳を向けて、言った。
「あたし、もっと強くなるんだわ!」
「!」
ラッツは俺に笑いかけた。
「もう仲間を死なせたりしないんだわよ」
「ラッツ…」
「だからそんな顔しないで! あたしについてくるんだわよ!」
「……」
ラッツは俺の胸元を軽く小突くと、そのまま何処かへ行ってしまった。俺は呆然として、彼女が立ち去るのを見ていることしかできなかった。




