赤子の名
リルイットたちはまだ研究所で暮らしていた。生まれたばかりの赤子を外に出すのは危険だとイグが言ったからだ。マキの身体も元通りになるまで、どんなに早くとも1週間はここで暮らす予定だった。
「この子の名前をつけたいんだけど」
それは子供が生まれた次の日のことだ。
赤子を抱えたマキは、食卓を囲む皆に尋ねた。
食卓にはリルイット、ラスコ、イグ、マキの4名が座っていた。
イグはレノンに食事くらい一緒に食べてもいいといったが、レノンはそれを断った。人間を見ていると、殺人衝動に駆られると言う。彼の根本の思考は記憶を消しても変わらないようだ。
イグは服従者のレノンに、ここにいる赤子を含む5人を傷つけないように命令した。それを破れば死ぬと。レノンはそれを守るために、1人個室に引きこもるのだ。
「女の子ですもんね。何がいいですかね〜」
植物に名前をつけるのが好きなラスコ。顎に手を当てて考え始めた。
「自分が好きなのつけりゃいいだろ。親はお前だけなんだから」
「イグさんったら、そんな言い方しなくても!」
「うるせえな。いちいち俺に突っかかるな! ブス!」
「むぅう〜!!」
イグとラスコが睨み合う中、リルイットは声を発した。
「あの…」
「何だよリル。いい名前でもあんのか?」
「いや、その…」
「聞かせてくれ、リルイット」
マキは言う。赤子を抱くマキを、リルイットは呆然と見ていた。鬼の形相の代名詞のようにさえ思っていた俺たちの団長は、信じられないほど穏やかな表情をしている。
目の周りは赤く腫れている。昨夜はたくさん泣いたに違いない。イグにシルバの死を聞かされたから。
「シズナ……」
「んあ?」
「可愛いですね! どういう意味ですか?」
リルイットは気まずそうな顔をしながら話す。
「シズナのシズは静っていう漢字の読みで…。穏やかで、冷静で、えっとあと……芯のある子にって……」
「いいじゃないですか! 漢字からつけるなんて珍しいですが」
「ああ。いんじゃね? シズナ・ダドシアン。悪くないんじゃん?」
ラスコとイグはうんうんと頷きながらリルイットの話を聞く。
「とてもいい」
マキもそれを聞いて、優しく微笑んで言った。
「リルも名前をつけるセンスがあるんですね!」
「いや…俺が考えた名前じゃないんだ…」
「は? じゃあ誰が?」
皆は首を傾げながらリルイットを見る。リルイットはやむなく名前を言った。
「ミカケさん……」
「え?! ミカケさんって、エーデルナイツを裏切った人ですよね? それにマキさんの子供を殺そうとしたって…」
ラスコはびっくりして声を上げる。イグも顔を引きつらせて何も言えなくなった。
「ミカケさん…死ぬ前に俺に教えてくれたんです…。マキさんに悪いことしたって…。本当は名前も、考えていたんだって…」
「そうか」
マキがどんな気持ちになるかリルイットには想像できなかった。子供を一度は殺した男だ。そんな男のつけた名前なんて…。
「それに決めた」
「えっ?!」
ラスコとイグは声を合わせてマキを見た。マキの顔は、ここにいる誰よりも平然としていた。
「この子はシズナ。シズナ・ダドシアンだ」
「い、いいのかマキ…」
マキはうんと頷いた。手の中の赤子はぼーっと目を開けたまま、静かに話を聞いてくれている。
「伝えてくれてありがとう。リルイット」
「い、いえ……」
マキさんにお礼を言われるなんて、魔族に言われるよりも珍しいことじゃないだろうかなんて、リルイットは失礼にもその時そう思った。
「というか、お前のその顔はなんだ」
顔中包帯だらけのリルイットを見て、マキは言う。
「私を助けるために怪我を負ったのか」
「ちょっと火傷を…」
「へへ! こいつのイケメン人生も終わりだぜ。見ろよこの顔!」
「あ! ちょっと! やめろ!!」
イグは呪術でその包帯をパッと消し去る。火傷でただれた顔が晒される。マキは唖然としてその顔を凝視した。
「酷い火傷だ」とマキ。
「な! 酷え顔だろ」
イグが煽る。
「炎使いなのに火傷するんだな」とマキに言われ、リルイットは苦笑した。
「俺、もう炎は使えないんです。あいつを倒すために、使い果たしちゃって」
「えっ?!」
それを聞いた皆は大変驚いた。
「すまなかった…」
「マキさんのせいじゃありませんよ」
リルイットは苦笑した。すると、ラスコは言う。
「まあとにかく、火傷の手当はしておいた方がいいでしょう。傷から細菌が入ってはいけません。イグさん、また包帯を出してくれますか?」
「はいはい」
イグの出す包帯を、今度はラスコが巻いていく。リルイットの顔はまた包帯だらけになった。
「オギャアア〜!!」
「っ!」
静かにしていたシズナが突然泣き出した。リルイットとラスコはびっくりしておろおろする。マキは泣き続けるシズナを優しい笑顔であやした。
「授乳の時間かな…」
「まだミルクもいるっしょ。作ったら部屋まで持っていくよ」
「ああ、頼む」
「あいよ」
マキとイグは立ち上がって、さっさと別の場所に行ってしまった。食卓にはリルイットとラスコが残される。2人は目を見合わせると、軽く微笑みあった。
「あ〜あ、全くイケメンが台無しだぜ」
「うふふ…何言ってるんですか」
ラスコが笑うのを見て、リルイットは落ち着いたような癒やされるような気持ちになった。
「どうしました?」
「いや…」
ラスコはきょとんとしたあと、食事を再開する。
(俺はラスコに……恋をしているのか……)
「赤ちゃんって、可愛いですね」
ラスコがふとそう言った。
「う、うん……」
リルイットも頷いた。
ユッグが桜の花を「可愛い」と言ったことを思い出す。
あの時のスルトはその意味がよくわからなかったようだけれど、今の俺は知っている。
そして思う。桜の花も、産まれたての赤ちゃんも、同様に可愛いと。
俺はラスコのことも、可愛いと思う。俺が昔ラスコにそう言った。お世辞じゃない。本心でだ。
「どうしました?」
「いや、別に……」
「?」
(あれ、俺今までラスコとどんな風に話してたっけ…)
「よ〜し続き食うぞ〜」
イグが戻ってきて、どんと席に座った。リルイットもハっとして食事を再開する。
「まあでも、リルが空を飛べないとなると、エーデル国まで帰れませんね。ポニーでは何日かかるやら……」
ラスコが言うと、イグは答えた。
「安心しろ。鳥はまだ残ってる」
「?」
リルイットとラスコが首を傾げると、イグはニヤっと笑って答えた。そのまま別の部屋の前まで歩いていくと、その扉を開いた。
「!」
「はぁ?!」
そこにいたのは、インヴァルであった。たくさんの目はギロリとこちらを睨んでくる。
「おい! 何でまだ生きてんだ!」
リルイットは声を荒げた。
「大丈夫だ。こいつはもう俺の手駒だからな」
「ま、まさか…こいつも服従したのか?!」
「当たりめーだろ。俺たちはこいつに乗ってきたんだからな」
「……(そもそもこいつら人間の言ってることわかんのかよ)」
イグとレノンは、レノンの隠していたインヴァルバードに乗ってここまで飛んできたのだという。確かにそうでもなければ、こんなに早く到着するはずがない。残っているインヴァルはこの部屋にいるインヴァルだけのようだ。
インヴァルバードはリルイットよりも速く飛ぶことが出来る。帰りの心配は解決した。
「んじゃ、飯の続きでも食うか……」
と、イグが再度食卓の席につこうとした時だった。
「?!」
地鳴りにも似た、津波が来る時の音が聞こえてくる。3人は急いで窓の外を見た。
「何だ?!」
「何じゃありゃ!」
研究所の外から、大きな波が押し寄せてくるのが見えた。その波をよく見ると、巨大な龍の形をしている。
「ウォータードラゴンです!」
「はぁあ?!?!」
身体が水で出来たドラゴンである。波と同化し、その地を海のように覆い、研究所を飲み込もうとばかりにこちらに向かってくる。
「何でこんなとこにウォータードラゴンが!!」
「研究所を狙ってます!」
間もなくウォータードラゴンは、その大きな口を開くと、巨大な水鉄砲を吐き出した。
「させるか!!」
イグは研究所を覆う守護結界を張る。水鉄砲は結界に向かって衝撃を与える。
(重……!!)
その威力の絶大さにイグは顔をしかめた。しかし何とか持ちこたえる。
「んの野郎っ!!」
「イグさん!!」
イグは壁に立てかけた槍を手に取ると、研究所から外へ出た。それを追うようにリルイットも駆け出した。
「リル!!」
ラスコも慌てて後を追った。
ウォータードラゴンはその波の中から、次々に水の魔物を作り出す。それはいつか戦ったサンドゴーレムに似た、顔のない水の化物たちだ。大きさは人間と同じくらいである。次から次へと現れて、その数はあっという間に100を超えそうだ。
「何じゃあいつらは!」
水の魔物たちは、波の中から現れた水の剣を持つと、一斉に襲いかかってきた。同時にウォータードラゴンが水鉄砲を撃つ。
「相手は水属性です! イグさん、雷属性の攻撃はできますか?!」
「出来るけど! ぐぅっ!!」
再びイグは守護結界で水鉄砲を耐える。あまりの衝撃に結界が少しへこんだのが目に見えた。
(重すぎっ…!! それどころじゃないっ…!!)
水の魔物たちの行く手を阻むように、ラスコが植術でツタを張り巡らせる。ツタは魔物に巻き付いて、その水を吸い取っていく。
(相性はこちらが完全に有利です!)
「うおおお!!!」
リルイットは剣を振り上げ、魔物たちに向かっていった。
(え…?)
(ん…?)
その様子を見たラスコとイグは、顔をしかめた。それと同時に、リルイットも顔をしかめた。
(あれ……)
ラスコのツタをかいくぐった魔物たちが、リルイットに群がっていく。
(剣が……重い……?!)
身体が重い。足が鈍る。
いや、違う。これが本当の俺だ。
今までは、『炎』が助けてくれていただけだ……!!
リルイットは思い出す。
(俺は最初から、微塵も強くなんてなかった…! 俺は騎士だ…だけど…)
下っ端の、騎士だった……!!!
しかし既に彼の前には、水の魔物が迫ってきている。リルイットはやむなく剣を振り切った。しかし彼の剣は魔物の間をすっぽ抜ける。
「はあ?!」
「リルっ!!」
イグとラスコは焦ったような表情を浮かべた。リルイットの動きは、完全に出来損ないの剣士だったからだ。




