地獄とメスと青い鬼
シッダは気づくと、灼熱のマグマが踊る溶岩地帯にいた。
(………)
あんなに熱い炎で燃やされて、焼きつくされながらやっとの思いで死んだというのに、どうして自分はまだこんなに熱いところにいるのだろうか。
シッダは辺りを見回す。誰もいないようだ。目の前にはマグマの上に敷かれた道が1つだけ。後ろにはもう、道はない。空は嵐の夜のように黒く淀んでいる。しかし、景色はよく見える。この世界を照らしているのはマグマだ。
シッダは仕方無しに、とぼとぼと歩いていく。それ以外にすることがないし、その一本道がこっちにおいでとシッダを呼んでいるかのようだったからだ。
マグマは真っ赤だった。似たような景色を見たことがあった。ラグナロクだ。でもあの時のスルトの炎は、真っ黒だった。
そんなことを思い出しながら、足を進める。
そういや今、自分はどんな姿をしているんだろうと疑問に思って、ふと足元を見た。人間の素足に近いが、その肌は真っ青だった。爪もなんとなく、人のものより尖っている。
続いて自分の身体を見た。真っ青だった。上半身は何も着ていない。青いけれど、人間の男の身体に似ていた。下半身は薄汚れたボロ布で出来た、いたってシンプルな短パンを履いていた。こんなものを履いたことはない。
「……」
その手もまた、人間に似ていた。しかし爪は、やけに尖っていた。そして、足もそうだが、指が太い。何ともたくましい手足だった。
(これが、本来のわしの身体なんかのう……)
思っていたのとは違うなあ…なんて思いながら、いや、それより自分は死んだのか死んでないのかはっきりしてほしいという思いで、その見知らぬ溶岩地帯をしばし歩いた。
やがて、道は途絶えた。
シッダの目の前には、大きな穴が広がっていた。
まるで崖のようだった。シッダは穴を覗き込んだ。底は暗くてまるで何も見えない。
「何じゃ、やっと帰ってきたか!」
聞き慣れない不気味な声の主が、その穴の中から浮かぶようにして、シッダの目の前に現れた。
「っ!!」
シッダはその姿に驚いた。この世のすべての生き物を知り尽くしているはずの彼でさえ、見たことのない生き物だった。
姿は人間に似ていた。肉厚のある恰幅のいい人間だ。人間にしては大きいが、巨人ほどではない。
長い爪に、太い眉毛に、たぎるように充血した大きな瞳に、常に怒ったようなおぞましい顔立ち。
身体の色は真っ赤で、上半身には胸元の空いた金色のベスト1枚のみを羽織っている。ズボンはシルクのようにきらびやかな白いものだ。ギラギラと光る金色の首飾りをじゃじゃらと首につけており、福耳以上に垂れた耳たぶには、それより大きな金色のイヤリングがついている。そして頭には、豪勢な幞頭を被っていた。
そしてそいつの放つオーラは、異常だった。魔王様と並ぶくらい、いや、それ以上の圧力を感じる…。
「誰じゃお前は……。ここは何処なんじゃ」
シッダは恐る恐るそいつに尋ねた。
「吾輩は閻魔。ここは地獄じゃ」
閻魔と名乗ったそいつは、意外にも質問に答えた。
「さあ青鬼よ、無限死痛の刑はどうじゃったか。なかなか苦痛だったであろう。ぎゃっはっはっは!!!」
「あおおに……?」
その時代、鬼なんて誰も知らなかった。言葉ももちろんなかった。シッダももちろん知るはずがなかった。
「体が青いんじゃから、お前は青鬼じゃろう」
「鬼とは何じゃ……? 閻魔とやら…」
閻魔は首を傾げる。
「苦痛すぎて記憶がぶっ飛んだんかのう」
「……?」
「まあいい。しかし地獄に帰ってこられるとはのう。無限とは言えんな。ぎゃっはっは!!!」
シッダは呆然と立ち尽くす。
(地獄……悪さをした人間がいくところだと聞いたことはあったが…)
「わしは魔族じゃ。閻魔とやら…。地獄は人間の来るところではなかったかのう」
「何言っとんじゃ。お前は鬼じゃ。鬼は人間でも魔族でもないんじゃ」
「そ、そんなはずは……」
すると、閻魔は彼の前に大きな姿見を作り出した。金色の龍の飾りが縁取られた、立派な姿見であった。
シッダは生まれて初めて、自分の姿を目に焼き付ける。
それはまさしく青い鬼。そのおぞましい顔つきもたくましい身体付きも、閻魔のものにそっくりであった。
(わしは……鬼……?)
人間でもない。魔族でもない。
生前の世界では存在すらしていなかった、未知の生物。
「閻魔殿も、鬼なんですかのう…?」
「そんなわけあるかい。吾輩は閻魔大王様じゃぞ! 地獄の主なんじゃ!! 偉いんじゃ!! ぎゃーっはっはっはっはあ!!!!」
「………」
閻魔はふんぞり返るように大笑いを始めた。しかしシッダは一見頭の悪そうな彼を、馬鹿にすることなんて到底できなかった。それどころか無性に尊く感じられ、無意識のうちに頭を下げていた。
「まあお前の刑はまたでよい。それより、次に地獄にやってきた阿呆に与えるための、新しい苦痛を吾輩と考えようではないか」
「苦痛ですかい……」
そしてシッダ、いや、青鬼は、閻魔と共に苦痛を与える刑罰を考えることになった。
「これまでにはどんな刑罰を?」
「そうじゃな。最初に作ったのはこれじゃ。底なし穴」
閻魔は目の前の大きな穴を指さした。
「永遠に落ち続けるという苦痛じゃ」
「なるほど。それは辛そうじゃ」
「しかしマグマの噴火で地形が変形してな、ところどころに足場が出来てしまった。落ちた奴らは勝手に階層まで作って暮らしておる」
「それは失敗ですな」
死後の世界の話をしているなんて、何とも不思議な感覚だった。しかし青鬼はそれ以外にすることもない。
「地獄は狭いからのう。だから生界で罰を受けさせることにしたんじゃ。お前さんにやらせた無限死痛もその1つじゃ」
「あれは辛かったですぞ。何度も死なねばならん。死ほど痛い痛みはないですからのう」
「そうじゃろう! ひらめいた時は心が踊ったわい! これを超える名案はないとな! ぎゃっはっはっは!!」
閻魔は再びふんぞり返った。この笑い方は彼の癖らしい。
青鬼も頭を悩ませた。他に何か、苦痛を与えるものはなかっただろうか。
「!」
すると、青鬼はひらめいた。
「閻魔殿、今度は無限に空腹を与えるというのはどうじゃろう。苦痛は身体の痛みだけではない。死なない代わりに、改善されぬ空腹を与え続けるんじゃ」
それを聞いた閻魔は目を輝かせた。
「何と! それは名案じゃ! でかしたぞ青鬼よ!」
青鬼はそれから、地獄の住人となった。
拒否権はない。
地獄にきてしまったら、成仏すらできない。ここでまた無限に、暮らし続けるだけである。
とはいえ、ここには何もない。自分の身体にも、何の欲もない。食事も入浴も睡眠も何1つ必要ない。
ちょっと気になるのはここが暑いことくらいだが、しばらく住んでいれば慣れてしまって何も感じない。
永遠の退屈。これもまた、苦痛といえるかもしれない。
青鬼は底なし穴に飛び込んだ。暇つぶしだ。
落ちていくと確かに、足場があった。自然とそこに着地した。地獄の住人は皆暇なんだろう。何をどうやって作るのかはわからないけれど、足場はまっすぐに続いていた。地獄の大工事中だ。
青鬼はその地層をのっそりと進み、地獄の住人たちの横を通り過ぎていった。
鬼の姿をしているのは青鬼だけだ。他は皆、人間である。
鬼が通ろうとも誰も興味はない。地獄の住人たちは、魂が抜けたような顔をしている。もう全てがどうでもいいと思っている。その気持ちは青鬼にもよくわかった。
「…!」
しかし数人目の住人の中に、見覚えのある黒髪の男の姿があった。男は何かの作業中なのか、背を向けている。
「うん?」
男は青鬼の方を振り向いた。血に汚れたその男の顔は、青鬼のよく知る顔だった。
「ケイネス……」
「誰?」
「わ、わしじゃよ。シッダじゃよ!」
「うん?」
青鬼の姿だからわからないのかと思ったが、ケイネスはシッダという名前にも何の反応もしない。
すると、他の地獄の住人が口を挟んだ。その住人には左腕がなかった。
「おい、青鬼さんよ。そいつに話しかけない方がいいぜ」
「?」
「そいつ、生前の記憶がねえみたいだぜ。話しかけても、身体を解剖させてくれとしか言わねえしよ。全くイカれてるぜ」
「……」
青鬼はケイネスの足元を見た。それは解剖された人間の左腕であった。
「あんまりしつこいからよ。俺の腕をやったんだ」
「何でそんなことしたんじゃ…」
「別に。腕を切るのは痛えけど、また生えてくるからよ。あんまり退屈なんで、多少の痛みを感じるのも悪くねえってもんだ。俺たちは一生ここで生きるんだ。どんなに身体がボロボロになっても、また元通りに戻るんだぜ。まあさすがに全身解剖はさせねえがな」
すると、ケイネスは言った。
「ありがとうございます。腕だけでも充分です! 最高です!」
「はいはい。じゃ、俺は下の階に行くわ。他のやつと約束があるんでな」
「また腕を貸してくださいね!」
「気が向いたらね」
住人はそう言って、穴の中に飛び降りてしまった。
「ケイネス……」
「ケイネスって誰ですか?」
ケイネスはきょとんとした表情を浮かべている。
『シッダ………好きだよ………』
彼にはもう、わしの記憶はないという。
「ケイネスは、君の名前じゃよ」
「え? 僕のことを知っているんですか?」
驚くケイネスを見ながら、青鬼は軽く微笑んだ。
「知っておるぞ。君の全てをな……」
そうじゃ。わしは君の、理解者じゃよ。
そしてわしを理解してくれるのも、ケイネス、君だけのはずじゃ。
青鬼はしゃがみこんで、ケイネスに顔を近づけた。ケイネスは微動だにせず、じっと青鬼を見つめている。
青鬼はそのまま、ケイネスにそっとキスをした。ケイネスは呆然としていたが、静かに目を閉じて、そのキスを受け入れた。
(あれ……?)
ケイネスは不思議と涙が出た。
(何だろう、これ……)
青鬼は唇を離すと、ささやくように言った。
「わしの身体を解剖していいぞ」
「えっ?!」
青鬼は、ケイネスの前に仰向けに寝転んだ。
ケイネスは見知らぬその青い鬼の身体を眺めては、舌なめずりをした。
「い、いいの? 麻酔もないし、すっごく痛いよ?」
「わしが痛いのは死ぬ時だけじゃ。それ以外の痛みなど、大したことはない」
「……」
ケイネスはぽかんと口を開ける。
「その代わり、解剖が終わってわしの身体が修復したら、君の心を食べさせてほしい」
「心? 心臓ってこと?」
「違う。心そのものじゃ」
青鬼はケイネスの返事がどうかなんてわかっていた。案の定ケイネスは目をキラキラと輝かせ、興奮した様子で、口からよだれをだらだら垂らし始めた。
「もちろんいいよ! 好きなだけ食べて!!」
「じゃあ君も、好きなだけわしの身体を解剖するがいい」
ケイネスは我慢できずに、青鬼の腹をメスで斬り裂いた。どこで手に入れたのかと問うと、最初から持っていたという。
青鬼の青い肌の上を真っ赤な血が滲んで駆け下りた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
そう呟くケイネスの顔は、これ以上ないほど快楽に満ちており、昇天するほど至福の笑みを浮かべていた。
「あひぃ……鬼さんの身体……どんなのだろう……」
その顔を見ながら、青鬼も満足そうに笑った。
(ケイネス………愛しておるよ………)
身体をいじられる激痛は、もはや青鬼にとっても快感であった。
このあと食べるケイネスの心の味を思い出すと、青鬼もよだれが出た。
ここは地獄。永遠の退屈に絶望する堕落の世界。
「美味しっ………じゅるっ………っはぁ………美味しぃい…………」
だけど2人にとっては、生前では手に入れられなかった永遠の快楽を得られる天国、と言ってもまあいいだろう。




