出産
ユッグドラシルの巨大な手は、リルイットを優しく地面におろした。
「リル…!!」
ラスコもまた、ユッグドラシルの枝の手に連れられて地上に下りていく。
「うぅ……」
リルイットは頭を抱えながら、ゆっくり立ち上がった。
(良かった…! 生きています…!!)
ラスコは安堵しながら、彼の元へと駆け寄った。彼はゆっくりと顔を上げた。
「リル………」
リルイットの顔は、大きな火傷をおっていた。透き通るように美しかった彼の白い肌は、火傷の痕が全体に残って、皮膚は酷くただれている。
でもそれだけだ。彼の素顔は、『炎』の最後の力によって、隠されている。
ラスコはリルイットの顔を見て、にっこりと笑いかけた。
「無事で良かったです! 太陽エネルギーの譲渡、うまく行きましたね!」
「いや、それより……」
「何ですか?」
「俺の顔……いつもと違ってる……よね……?」
リルイットは恐る恐る尋ねたが、ラスコは平然とした態度だった。
「確かに酷い火傷ですが…」
「え……」
ラスコはきょとんとした顔で瞬きを繰り返す。
(素顔になってないのか……?)
「どうしました?」
「いや…」
リルイットが1人でぼーっとしているのを見て、ラスコは怪訝な顔で話しかけた。しかしすぐに、2人はハっと状況を思い出す。
「マキさん!!!」
リルイットとラスコは急いで研究所の中に入った。
「ううっ……」
マキはカプセルケースの中で、未だに陣痛に苦しんでいる。まだ産まれてはいない。しかし先ほどよりも明らかに余裕がなくなっている。出産が近い証拠だ。
「この蓋どうやって開けんだよ!!」
リルイットは、マキのベッドを覆う透明な蓋をバンバンと叩きつける。その時リルイットは、蓋に映った自分の顔を見た。確かに酷い火傷だが、顔はそのままである。
「どこかに解除装置があるはずです!」
「ベッドの裏だ! 右側面だ!」
すると、入口の方から聞き慣れた男の声がした。リルイットはその声に振り向くと、歓喜の声を上げた。
「イグ!」
今は自分の顔のことを気にしている場合ではない。マキさんの出産が近い…!
ラスコは言われた通りにベッドの裏を探すと、ボタンを見つけた。
「ありました!」
ラスコがボタンを押すと、ガラス版は解除された。イグもマキの元に駆け寄った。
「お前らあっち行ってろ!! 俺が助産する!」
イグはリルイットとラスコを追い払った。
「何か手伝えることは?!」
「赤子を引き上げる用意をしろ! 風呂場にぬるま湯を溜めろ! タオルを多めに準備しとけ!」
「ふ、風呂場って何処ですか?!」
イグに命令され、ラスコがおろおろしていると、イグは入口で立っている少年に声をかけた。
「おい! レノン!」
「は、はい…!」
「そいつらに風呂場を案内しろ! そいつらの言うことを聞け!」
「は、はい…!」
リルイットとラスコは驚いて少年を見た。間違いなく自分たちを幾度も襲ったあの少年だ。しかしこれまでと雰囲気が違う。魂が抜けたように死んだ目をして、怯えたようにイグの命令に従う。
「ど、どうなってるんですか?!」
「服従したんだよ、この俺が!」
「レ、レノンをか…?!」
すると、マキが苦しそうなうめき声をあげた。イグは躊躇なくマキの服を脱がせていく。
「説明は後だ! レノンはこの家に住んでいた。勝手はわかる! いいからさっさと準備しろ!!!」
「はいいっ!!!」
リルイットとラスコはレノンに聞きながら、風呂場にぬるま湯を溜め、タオルの準備に取り掛かる。
「赤子を洗ったあとは寝室に連れて行く。この部屋と寝室に暖房つけとけよ!」
「はい!!」
リルイットとラスコはせっせと走り回った。
「うううう!!!!」
「マキ!! 頑張れ!!! もうちょっとだぞ!!」
「ううっ!! くぅううう!!!」
マキの耳にはイグの声が聞こえた。どうして彼がここにいるのか、考える余裕など毛頭ない。ただ下半身が苦しい。痛い。痛い痛い痛い!!
「レノン! ケイネスは赤子をここでよく産ませてたんだろ?! 育児用品が揃ってるはずだ! 全部寝室にもってこい!」
「はい!」
「新生児用の肌着と衣服を用意しろ! すぐに着せるからな!!」
「はい!」
イグの命令と3人の返事が研究所内に響き渡った。
「マキ! いきめ!! もう出るぞ!!」
「ううぅうう〜!!」
リルイットは出産現場に立ち会ったことがあるはずもない。初めて聞く妊婦のうめき声に、正直びびっていた。
(ていうか、イグは何でそんなにお産対応に詳しいんだ? 元助産師か?)
リルイットはそんなことを思いながらも、じっとしている暇もなく、寝室の準備を万全にした。
「オギャアアア!!!」
「産まれたっ!!!!」
あっという間に赤ちゃんの産声が響いた。それを聞いたリルイットとラスコも、目を見合わせた。
「マキ! よくやった!!」
「ぅう……良かった………」
マキは完全に脱力し、言葉もなかった。イグが赤ちゃんを抱きかかえるのを、呆然と見ているだけだ。
「呼吸は早くだぞ。深呼吸は厳禁だ。赤ちゃんは任せとけ」
「ハァ…ハァ…わかってる……その子を…頼む………」
イグはマキに笑いかけて頷くと、赤ちゃんを抱いて風呂場へと向かった。
その後のイグの赤子の処理は完璧だった。何が完璧なのか正解を俺が知ってるわけじゃないけど、とにかく無駄がなくって、俺とラスコとレノンをこき使いまくって、無事に出産を終えた。
何で赤子の処理を知ってるんだなんて聞いたら、助産師の記憶を読んだことがあって、やり方を覚えていたのだという。
ラスコが赤ちゃんを見守っている中、マキは胎盤を出し切ってベッドの上でしばらく安静にしていた。育児用品の中に粉ミルクもあったので、レノンに命令してそれを作らせる。レノンはケイネスに赤子の世話も手伝わされていたようだ。その記憶は敢えてレノンから消さなかった。
リルイットは血だらけの風呂場を掃除していた。風呂場には案の定鏡があった。リルイットは火傷でただれた自分の顔を目にする。
(『炎』のやつ……)
正直肌は死んだ。でもそれ以外は、これまでの自分だ…。
「おい、リル」
イグの声がして、リルイットは振り返った。
「何だよその火傷」
「いや、これは……」
「はは!! イケメンが台無しだな〜!!!」
「っ!!!」
イグはリルイットの顔を見るなり、そんな悪口を言いながら、大笑いし始めた。
「笑うなよ!!!」
「あっはははは!!! 何だよそれ! その顔何?! やられたのか? 炎の剣士が? だっせえ!!! あっはははは!!!!」
「〜〜!!!!!」
イグは腹を抱えて笑い転げた。確かにこの火傷じゃあ女の子も寄ってこない。まあそんなことどうでもいい。しかしあまりにイグが笑うので、リルイットはイライラしてきた。
「笑うなっての!!!」
「まあ、落ち着けよ」
「お前が落ち着け!!」
イグは笑いすぎて出てきた涙を擦った。それからリルイットの手を引き、彼を風呂場から脱衣所に連れて行く。
「な、何だよ!」
「掃除はいいから、そこ座れ」
脱衣所に置かれていた椅子にリルイットを座らせた。イグは彼の正面に立つと、酷くただれた彼の顔を凝視する。
「何する気だよ」
「手当してやんだよ。動くなよ」
イグの手の平から、スルスルと包帯が現れた。呪術で生み出しているんだろうが、まるで彼の左手の中に包帯の束が入っているみたいだ。
イグは右手で包帯の端を掴むと、リルイットの右耳元にその手をおいた。そこからぐるぐると、彼の顔に包帯を巻いていく。
「……」
リルイットの目の周り以外を、包帯が覆っていく。
リルイットは抵抗せず、イグに身を任せた。
(うん……?)
リルイットは、ふっと目を閉じた。
(何か、懐かしい匂いがする……)
『炎』はもう俺の中にはいないはずなのに。この感じ。
スルトたちのことを思い出すときのような、この感じ。
(君は……)
それはイグの中にあるモノの匂いだった。それはシルバの核と思しき雷の塊の匂いだった。
『スルト様、手当をしますから、動かないでくださいね』
リルイットは声が聞こえた気がした。
『炎』が消えたというのに、俺の中にはまだあの時の記憶があるのだろうか。
その声はイグのものと同じだった。
だけどすごく柔らかくて、穏やかで、優しい。
『リルイット君!』
シルバがそのように自分を呼んでいたことを思い出した。
その声もまた、同じ声なのであった。
(あれ、そういえばシルバは……?)
「おら、できたぞ」
包帯を巻き終わったイグは、リルイットの背中をぽんっと叩いた。
「ありがとう……」
「ん!」
イグは適当に相槌を打って、リルイットをちらりと見た。目元以外は完全に包帯で覆われた。
「さて、マキの赤ちゃんでも拝むかね〜」
イグはそう言って部屋を出ようとした。リルイットは彼の腕を掴んで引き止める。ここにきたのはイグとレノンだけ…そのことを思うと、不安がよぎる。
「イグ、シルバは……?」
イグは振り返ってリルイットの方を向いた。平然とした顔でイグは言った。
「ああ、死んだよ」
リルイットは愕然とした。立ち止まって、言葉もなくなる。イグは彼の手を振り払って、部屋から出ていった。




