多術師の男(※)
「じゃあこれからよろしくね! ウルドガーデ!」
「ありがとうございます! 綿の精霊さん!」
ウルドガーデは、もこもことした白い衣服を纏った、可愛らしい綿の精霊と握手を交わした。
「すごいねウルちゃあん! 始めて半年でもう904人の精霊と心を通わせたよ!」
「904人……」
時の精霊クロノスはヘラヘラと笑って、ウルドガーデのあとをついてきていた。彼はウルドガーデが精霊を味方につける度に、カウントを発表する。それ以外にすることはない。
生活に問題はない。食事なら食べ物の精霊たちが無蔵に作り出してくれる。パンの精霊はできたての食パンを、牛の精霊は瓶に入ったしぼりたての真っ白いミルクを、イチゴの精霊はジャムを作り出すと、今日もウルドガーデの朝食をあっという間に用意してくれた。
リルフランスにはウルドガーデの家がある。木の精霊が新しく建ててくれた。三角の赤い屋根をした、真っ白い壁の可愛らしい家だ。陶器の精霊は、バラの花があしらわれた何種類ものお皿を差し入れしてくれた。羽の精霊の出してくれた羽毛布団の寝心地は最高だ。
精霊王の力を扱えるような器になるために、10万人の精霊と心を通わせるように言われ、あっという間に半年がたった。
タイムリミットは500年。
単純計算でも2日に1人では足りないくらいの計算だ。
半年で904人は全く悪いペースではない。
しかし問題は後半だ。
リルフランスに住んでいる精霊は、話が早い。今はリルフランス中の精霊たちに話しかけている途中だった。至るところに存在する精霊たち。この国をまわるだけでも何年かかるだろうか。
しかし精霊たち皆がこの国に住んでいるわけではない。精霊界は非常に広く、国の外は遥か遠くまで自然が広がっている。会いに行くだけでも時間がかかりそうだ。
それに話をすんなりと聞いてくれる精霊なら問題ないが、中には頑固者の精霊や、人間を好かない精霊だっているのだ。
(でも、やるしかありません……!)
ウルドガーデはその精霊界を、ひたすら走り回った。
「あ〜…やっぱり海水浴は最高だなぁ〜…」
季節はまもなく夏だ。ラミュウザは仰向けになって、海にプカプカと浮かびながら、海に降りそそぐ太陽の光を全身で感じた。その他の研究者たち数名も、彼と同様に初夏の海を満喫中だ。
「呑気な奴らだな…。世界中の人間共が、俺らの研究のせいで魔族に襲われてんだぞ」
白い砂浜の上に座ったヒルカは、優雅に海を泳いでいる彼らを呆れた様子で見つめながら、ハァ…とため息をついた。
「俺たちが何したっていうんだよ。人間だって長生きしたいんだ。それを夢見て…夢見るだけじゃなくて、叶えたいって、それに人生をかけたんだ。それの何が悪いっていうんだ」
「そうですよ! 俺たちの研究は人類の希望だったんだ!」
「そうだそうだ! この世で最も知のある人間が長生きできれば、もっと素晴らしい世界をつくれるぞ!」
「そうさ。アホな魔族には到底できない文明開化だ!」
他の研究者たちもラミュウザに同調し、口を開いた。それを見てヒルカは1人、再び大きなため息をついた。
「シェムだって、同意の上だった。全然嫌がってなかったし、むしろ喜んでた。シェムは俺に言ったんだ。素晴らしい研究だねって! この研究は人間と魔族が仲良くなるための架け橋になるはずだって。俺、嬉しかったよ。俺たちの研究は、世界を平和にするためのものにもなるって、あの時確信したんだ」
「それが今じゃ、魔王の逆鱗に触れて、魔族は皆、人間の敵になったってか」
「……」
ラミュウザたち研究員は、シピア帝国のあの斬撃から、奇跡的に生き延びていた。大切な研究資料を抱えて、帝国を抜けて、ひたすら逃げた。
魔族にももちろん何度も襲われた。ヒルカの呪術を駆使して、とにかく逃げることに全力を注いだ。もちろん死んだ仲間も何人もいる。仕方がない。彼らは今、戦場にいるんだ。
彼らの研究、人間の長寿計画は、元々無理難題だった。人間と魔族の交配に焦点を当てたのは良かったが、それが軌道に乗ったのはまだ幼いラミュウザの自由研究のおかげだった。
魔族の心臓と呪人の核。そこには何か、似たようなものがあった。それにラミュウザが気づいたのは、たまたまだった。彼はどんな生物にも興味があって、ある日ついに呪人を解剖した。その核をただ、好奇心のみで調べ上げた結果が、うまくこの計画に結びついたのだ。
研究とは時にそういうものだと、研究者たちは知っていた。そんな閃きも偶然もまた、才能と呼んで差し支えない。ヒルカはそんなラミュウザに、昔から一目置いていた。
彼らはシピア帝国から遥か南の海岸沿いにやってきていた。研究所があったシアンテールの隣町マルキアで、海水浴をするのが趣味だったラミュウザ。また新たな地で海を見つけては、ヒルカに術で作ってもらった海パンを身につけて、生き延びた研究者たちと共に、この夏初めての海水浴を満喫中、というわけだ。
ヒルカはふわあと欠伸をしながら、退屈そうに彼らが泳ぐのを見ている。
「なあヒルカ、お前も来いよ!」
「ヒルカさーん!」
「気持ちいいですよ〜!」
「ったく……」
ラミュウザたちは、呑気にこっちを向いて手を振っている。しかし突然、彼らの後ろの波が異様な動きをし始めた。激しい潮流が発生し、大きな渦潮が巻き起こった。ヒルカはそれに気づいて目を細める。
「は?」
ラミュウザたちも後ろを振り返るとぎょっとして、慌てて海岸に逃げようと全力で泳ぎ始めた。するとザバアアンンと大きな音を上げて、渦潮の中から、その巨大な魔族は姿を現した。
「うわあああっっ!!」
それは巨大な、クラーケンだった。真っ白い身体のところどころに模様のように青紫色の斑点がついている。身体からは非常に長い10本の足が生えていて、その足をみるみる伸ばし、研究者たちを捕らえていく。
「おい! 早く逃げろ!!」
「うああああ!!!」
ビュウンン! ビュウンン!!!
すると、どこからともなく海面から墨が放出された。飛んできた方向から察するに、クラーケンが放ったわけではなさそうだ。その真っ黒い墨がかかった研究者たちの顔は、ボンっと魚に変化した。
「餌にされる!!」
クラーケンのことは、皆知っていた。長寿計画の傍らで、魔族の生態を調べるのは、彼らの基本的な仕事だった。1000年もの寿命を持つクラーケン。死骸を解剖したことだってある。能力もよく知っている。彼らの墨を浴びると、どんな生き物であっても、クラーケンの餌となる魚に変化してしまうのだ。しかし人間が餌にされたのは初めて見た。鱗の色は様々、ただし、魚になったのは顔だけだった。身体は人間のままで、顔は魚。その姿はとにかくシュールで、気持ち悪いものだった。
(どこから撃ってやがる?!)
ヒルカは目を凝らしたが、墨を撃つ犯人を特定できなかった。
泳ぎの得意なラミュウザ。誰よりも先に沿岸にたどり着いた。ヒルカは彼の手をとって、速やかに陸にあげた。遅れた研究者たちは既に全員顔が魚になっていた。後ろからはクラーケンが追いかけてくる。魚の顔の研究者は、その腕に捕まえられると、次々に食べられていった。
彼らを助ける余裕もなく逃げ出した2人を、再び墨が襲った。
ビュウンン! ビュウンン!!
「うわっ!」
「ぎゃっ!!」
海面から顔を出し、墨を撃ったのは、鉄砲を担いで跳ね上がった人魚だった。金髪の美しい女性の顔をして、ふくよかな胸を隠すように白い布が巻かれている。そしてその下半身は、青色の鱗をした、艶めく魚だ。
(人魚……っ?!)
墨を被ったラミュウザとヒルカはボンっと音を立て、その顔が魚に変化した。
【ヒルカ…お前…!】
【お前こそ…!】
声が出なかった。だけども魔族の使うテレパシーのようなもので、無意識に意思の疎通が出来た。
2人は互いに顔を見合わせた。身体はそのまま、しかし顔は、完全に魚だ。ラミュウザは淀んだ青紫の、ヒルカは真っ黒な、鱗をしている。
間もなくクラーケンがその足を伸ばして、2人を食らおうと襲いかかってくる。ヒルカはすかさず自分たちの前に電気を帯びた大きな壁を生やすと、それを盾代わりにした。
それに触れたクラーケンはバチバチっと感電して、身動きが止まった。2人はクラーケンから逃げようと、必死で走り出した。
クラーケンと銃を背負った人魚は2人を見失うと、諦めて海の中へと潜っていった。
顔が魚化した2人は、その後も魔族から逃げ続けた。しかし魚になった2人は、陸に10分も上がれぬ身体となっていたのだった。
エーデル大国が雷鳥に襲われたのは、まだ初夏が来る前の話だ。激しく崩壊していた街の建物は次々に元に戻っていた。
復旧させたのはイグだ。彼は「お手伝い」と言って城下町に繰り出すと、見事な呪術で城下町を復旧させていった。
「さすがシルバさん!」
「すげええ!」
イグは鼻まで隠れるような大きなマスクをつけていた。その赤い髪を銀色に染める…のは時間がかかるので、銀色のウィッグをかぶっていた。シルバと同じ服を着て、その人相の悪い目つきをほんの少し和らげて、口を開きさえしなければ、彼はシルバにしか見えない。同じ顔なのだから、当然だ。
イグはシルバのフリをして、呪術をかけていた。姿を隠す必要がなくなったことには気づいたが、いきなり見知らぬ男が呪術を使いだしたら皆怪しむ。説明をするのも、色々と面倒そうだからだ。
当のシルバはというと、エネルギーを使い切って気絶し、部屋で呑気に眠っているそうだ。
呪術と結界術、2つの術を使えるイグ。彼はどちらの術も、それを専門とする術師よりも、上手く、多く、長く、使えた。ラッツが精神を心底集中してやっとかけられる透過結界も、イグは一瞬でかけられる。本来呪術師が呪人を出せば、その他の呪術は何も使えないくらいのエネルギーを使うというのに、イグはシルバという呪人を、永遠に出し続けることだって出来る。
それは2つの術を使える多術師ゆえのエネルギー量なのか、それともイグの天性の才能なのか、どちらかは彼にもわからない。
「あれ? イグ?」
「はぁ?」
また勝手に俺の名前を呼ぶのは、さっき裏庭で話をしたえんじ色の髪の男だ。ヅラまで被ってシルバを装ってんのに、何で俺だとわかるんだ。
隣にはリルイットと同じ、新入りの植術師の女もいる。馬顔のちょいブスだ。エーデルに帰還する間はこいつらはラッツとの無線に夢中で、まだ一言も話していない。この2人が並んで歩くと、その不釣り合いさがやたら目立つ。女はそこまで酷いブスってわけでもないが、それ以上にリルイットが、無駄にかっこいいからだ。
「僕はシルバだよ、リルイット君」
イグはわざとらしく、シルバの真似をして、なよなよした口調で喋ると、彼がいつもそうするように、にっこりと笑ってみせた。その顔は誰がどう見ても、完全にシルバだった。
「うん? 何言ってんだ? イグだろ?」
「違う違う。シルバだって」
「はあ? ほんと、何やってんの? 俺を騙そうったってそうは行かねえぞ!」
リルイットはイグに近寄ると、彼の頭のウィッグをすぽっと抜いた。銀色のウィッグの下から、彼の赤髪が現れる。
「だあああ!!! ちょお! お前、何やってんだよ!!」
「ほら、イグじゃん」
「もお〜〜〜!!!」
イグは即座に透過結界を張ってリルイットとラスコをその中に入れた。一瞬だったから、近くにいた者は誰も気づいていない。
「何なんだよ! 邪魔すんなよ!」
イグは軽く怒鳴りながら、リルイットの持っているウィッグを奪い返した。全身鏡を作り出して自分の前に置くと、再びウィッグをセットし始めた。
「何でシルバのフリすんの?」
「うるせえな。俺の自由だろ。ほっとけ!」
「お手伝いってこれかよ。ラスコの言った通りだ。本当にイグは呪術師なんだな」
リルイットはラスコの方を振り向くと、ラスコもうんと頷いた。
『アデラさんとリネさんが、エーデルナイツを辞めるって!』
『ええ……?! な、何で?!』
『シルバさんにそっくりのあの男の人、呪術師だそうですよ。ロッソに服従の紋をかけたのは彼だって、リネさんが』
リネは気づいていた。ロッソがバーサク時に人を襲っても死ななかったのは、主人がその前に服従の命令を解除したからだろうと。
エーデルナイツ唯一の呪術師のシルバは、エルフ討伐の選抜メンバーではなかった。そしてリネは、イグがふらせた大雨は呪術の天候操作の術だと気づいていた。そのことから推測したのだ。イグがロッソを服従していた呪術師だと。
『そ、それで……?』
『リネさんが魔族だとバレましたから、服従の紋をかけられる前にここを出るって、アデラさんが』
『……』
ラスコは神妙な面持ちでリルイットにどうしたらいいかと問うたが、リルイットは好きにさせておけ、とだけ言った。
『追いかけなくていいんですか…?』
『追いかけてどうすんだ』
『どうするって言われても……』
『それじゃ、ラスコもエーデルナイツを辞めたいか?』
『え…?』
ラスコは辞めたいわけではなかった。しかし一瞬、何かに迷ってしまった。答えられないラスコを見て、リルイットは更に尋ねた。
『なあ、ラスコは魔族を皆殺しにしたいと思うか?』
『……人間を襲う魔族を放ってはおけません。ですが、リネさんを殺したいとは、私は思いません』
『そうだよな。俺もそうだ』
彼も私と同じ考えのようだ。それは少し、安心した…。
『だけど俺はまだ抜けない。エーデルナイツを狙ってる敵がいる』
『え……?』
『人間の男の子だ。べモルでラスコも会ったろ? 茶髪のあの素性の知れない子供だよ。俺はまたあいつに会った。名前はレノン。例の薬を利用して、魔族を凶暴化させているのはあいつだ』
レノン・ダドシアン。
彼はそう名乗っていた。
呪人の核を体内に宿した人間、シャドウ。
俺と同じ、存在。
シルバが養子に来る前の、ダドシアン家の実の息子だ。息子はもう死んだと言っていた。
貴族の家族、ダドシアン。
あの家には、何かある。
シルバがそれを知っているのか、何も知らないのか、わからない。だから、彼に直接話を聞きたいと思っている。
シルバと同じ顔のイグ。呪術も結界術も使える謎の男。彼のこともまた、知る必要があると思っている。
「お手伝いってこれかよ。ラスコの言った通りだ。本当にイグは呪術師なんだな」
「ラスコって誰だよ」
「私です」
ラスコは軽く手を上げると、自己紹介をした。
「植術師のラスコ・ペリオットです。ご挨拶が遅くなってすみません。イグさん…ですよね」
「ああ、そうだよ」
「ロッソに服従の術をかけて、それをあの時解いたのもイグなんだろ?」
リルイットに言われて、イグは観念した。死んだはずのロッソがまだ生きていて、マキを助けて死んだ。その時現れたロッソは別人の姿をしていたが、おそらく…ユニコーンにはバレたってところか。
(頭の良い魔族だ……完全に察したな)
「お仲間はどうした」
「お仲間?」
「弓使いとユニコーンだよ」
「アデラとリネのことか」
「名前なんて知るかよ」
「もういねえよ。国を出ていった」
(魔族のユニコーン……服従を恐れて逃げ出したか。ロッソが人間を襲うのを、多数の騎士が目撃した。ユニコーンもここに残るなら、服従は避けられない。いい判断だな)
マキを助けてくれたお礼は、言いたかったんだけどな……。
「なあイグ、レノンって奴、知ってるか?」
リルイットは突然、イグにそう尋ねた。その時にはもうウィッグのセットは完全に完了していて、彼は再びシルバそっくりの見た目に戻っていた。
「レノン? 知らね」
イグはそう言って、透過結界を解除した。半透明だったリルイットとラスコの色も、すぐさま元に戻っていく。
「お手伝いの途中なんだよ。邪魔すんな」
イグはこれ以上話すことなんてないという様子でそう言い放つと、リルイットたちの元から立ち去ってしまった。




