三つ数えるぞ
「動くな」
背後で監視していた若い兵士の声で、一瞬過去に記憶が舞い戻っていたウィルロア。
正気を取り戻すと耳の奥でどくどくと脈打ち体が強張る。
直ぐにこの場を逃げることを諦めたーーのには理由があった。
埃っぽい空気を吸い込んで無理やりにでも気持ちを落ち着かせる。兵士に逃亡の意思はないと伝えるため、力を抜いて目を閉じた。
それなのに兵士は、構わずウィルロアに身を寄せて囁いた。
「アズ」
ウィルロアの身体に緊張が走る。
ドナとは実に二年ぶりの再会だった。
ウィルロアは髪の色も違うというのに、ドナもまた、目の前で捕らわれている男が、かつて青春を共に過ごした友人だと気付いていた。
「アズ?」
確認するように、もう一度懐かしい偽名で呼ばれる。
ウィルロアは返事をしなかった。何を言われても聞かれても応じるつもりはなかった。
だが人違いだと誤魔化せばいいものを、戸惑いが大きくて判断を誤った。逆に沈黙がドナに確信を与えてしまう。
「振り返らずに聞いてくれ」
周囲を警戒しながら声を潜めるドナ。捕らわれの身であるウィルロアに、尚も声をかける様子に嫌な予感しかしない。
「俺が逃げ道を作る。合図をしたら走るんだ」
「やめろ」
予感が的中し、語尾に被せて押し止めた。
「今なら警備も少ない。逃げるなら今しかない」
固く強張ったドナの声が覚悟の表れに感じて余計にも怖かった。
「逃げる気は無い」
例え逃げられたとしても、ウィルロアを逃がしたドナが無事で済むはずがない。無謀な試みだと食い止めねばならなかった。
「軍命に背けば命を落とす恐れもある。ようやく手に入れた夢だろ。他人のために人生を棒に振るな!」
敢えて死を想像させて勇み足を削ごうとする。声を落とし、しかし力強くドナを説得した。
「あのな、元々クソみたいな人生なんだよ。アズに出会えて俺の人生は大きく変わった。家族にまた笑顔が戻ったんだ」
「ドナ、俺の話を聞くんだ」
「お前こそ聞けよ。俺は、軍人になる夢も底辺の暮らしに慣れすぎて諦めてた」
逆にウィルロアを説得しに来ていると分かった。話を遮ってもドナは止まらない。
「アズが笑わないで応援してくれたから、信じてくれたから、俺は諦めずにここまでこれたんだ」
「俺はなにもしていない。お前が頑張ったからだろ」
「そうだよな。俺、頑張ったんだよ。すげー死ぬ気でやった」
ドナの声は明るく、笑っているのが分かる。
「何者でもなかった俺が軍人になれて、友達のピンチを救えるってめちゃくちゃかっこいいじゃん」
「ばか野郎……!」
デルタの下町で出合い、軍人に憧れた少年は、夢を叶えていた。
なんと喜ばしいことか。おめでとうと、正面から祝ってやりたかった。背中越しで声を潜めるような再会を望んでいたわけではない。
ドナと出会えたことさえ後悔したくなるこの数奇な運命を呪いたくなった。
「なんでお前がここにいるんだよ……」
「俺は今日お前に会えてよかったよ」
出会いを悔やみ突き放そうとするウィルロアに対し、ドナは今この瞬間の再会さえ神に感謝していた。
「お前を巻き込みたくはない」
「三つ数えるぞ」
「ドナ頼む聞いてくれ」
「三」
「やめろ!」
「ニ――」
「お前らコソコソと何してる!?」
部屋を確認し終わった隊長が不審な顔で戻って来た。
「っ走れ!」
ドナが素早く縄を斬って背中を押した。
隊長が接近した瞬間に入れ替わるように部屋の外に押し出されたウィルロア。振り返ろうと体を捩るがドナに止められる。
「行け!」
ドナが隊長の胴腹を掴んで動きを止めているのを見て、ウィルロアは苦渋の思いでとどまる。
「貴様!」
鞘から剣を抜く音に、止まりそうになる足を懸命に動かし出口に向かって走った。
上官の目の前で敵を逃がしたのだから既に言い訳の仕様がなかった。それなら彼の想いを無駄にしないよう、振り返らずに逃げるべきだと自分に言い聞かせる。それでも背後から肉を切る音とうめき声に何度も足が止まりそうになる。
出口までの時間が永遠のように感じた。
「!」
出口を目の前にして突如軍服を纏った男が前から突進してきた。先程入り口を見張るよう命じられた兵士は外で意識を失っている。
新たに登場した屈強な軍人相手に無謀にも戦う姿勢で身構えるウィルロア。しかし軍人は見向きもせず奥の部屋に走って行った。
すれ違い様に兜の隙間から見えた懐かしい顔ーー。ゼンは、ウィルロアの横を駆け抜けていった。
「ーーっドナを!」
ドナを頼むドナを助けてくれゼンーー!
ゼンはウィルロアとドナを助けるため、果敢にも隊長に突進した。
「誰だ!? 貴様何処の隊だ――一お前ら一体何の真似だ!」
ゼンとドナの決死の覚悟に胸の奥底から熱いものが込み上げてきた。
何故ここにゼンが現れたのか、何故顔を隠すように兜を被っているのか、分からなかったが今はどうでもいい。
体格のいいゼンが加わり隊長も成す術なく押さえつけられてしまう。
その隙にウィルロアは外に出て森の中を走った。
ドナは無事だろうか。ゼンはうまく逃げられるだろうか――。生きていてくれと願いながら滲む涙を拭った。
鬱蒼とした森の道なき道を必死に走り抜ける。
途中転びそうになりながらも、枝で頬を切っても、構わず足を動かした。
とにかく今はこの場を離れ、ロイとサックスの二人と合流するべきだ。ウィルロアは腰に下げた鳥笛にそっと触れた。
その時、森の中に銅鑼の音が木霊した。
「あ……」
ウィルロアの足は緩やかになり、大きな幹に体を預ける。
荒い呼吸を繰り返し、汗が頬をつたって土の上に落ちた。
再び銅鑼の音が二回鳴った。
銅鑼はデルタ軍が有事の際に合図として使われる。この合図が意味するものとは――。
「ロイ! サックス!」
最悪な状況を想像し、目の前が真っ暗になった。
完全に気が抜けていた。
ウィルロアは元来た道を戻ろうと踵を返した瞬間、そこが崖の縁だとは気づかずに、そのまま足を踏み外して転げ落ちていった。




