デルタの誤算
父からラステマとの交渉の全権を任されたキリクは、オルタナ邸で行軍の準備を進めていた。
「使者からの報告です。ラステマ王は一命を取り止めましたが、今尚危険な状態のままです。アズベルト王子は牢獄で捕えられ、ウィルロア王子が陣頭指揮を執っているようです」
一先ずラステマ王が無事で何よりだ。
「ラステマ側は賠償の内容に難色を示し、折衷案を用意しています」
「だろうな」
一方的に突き付けた形の賠償案は、ラステマにとってはなんの利益もない損害でしかない。簡単に首を縦に振るとはキリクも思ってはいなかった。
「行軍を開始しろ。交渉のテーブルに座るつもりはない」
ウィルロアは早く気付かなければ全てを失うだろう。両国は既に引き戻せない所まで来ているのだ。
キリクがリジンから軍の報告を受けながら廊下を歩いていると、庭園に見覚えのある姿を見つけた。
二階の窓から見えたのは、背の高い青年と庭園を散策しているカトリの姿だった。
「カトリ王女と、オルタナ将軍のご子息ですね。注意しておきますか?」
「……いや、いい」
人見知りのカトリが異性と共にいるのが意外で思わず足を止めたが、咎める理由はなかった。
公爵邸に来た翌日、オルタナ公子からカトリにか公爵領を案内したい旨の申し出があった。
カトリも暫くは公爵邸に滞在する予定だったので、キリクは許可を出した。
公子が単純な善意ではないことくらい承知の上だ。
ウィルロアとの婚約が白紙となった今、カトリから少しでもラステマの印象を取り除かなければならない。それには新たな婚約者を設けるのが手っ取り早いと考えていた。その中で小公爵は打ってつけの相手だった。
オルタナ公子と利害が一致してキリクは許可を出したが、カトリは難色を示した。混乱の最中に出歩く気分にはなれないと断ったと聞く。
侍女からその後も公子がカトリの部屋を訪ねていると報告は受けていたが、いつの間に仲良くなったのか。公子の粘り勝ちといったところか。
「よろしいのですか? オルタナ公子は過去に少々問題があったと聞きますが」
「そういえば公爵領に引き篭もっていた時期があったな。今では軍務に精を出していると聞いている。問題はないだろう」
ある意味そのお陰で公爵家の跡取りでありながら未婚で婚約者もいない。
カトリとウィルロアの破談を誰よりも先に知った好機を逃さず、ライバルたちに先駆けて親密な関係を築いておこうという俊敏さも気に入った。
どの道王都に戻れば貴族はカトリに群がってくる。オルタナ公子はいい牽制になるし、人付き合いどころか異性とまともに会話をしたことのないカトリにとってもいい経験だ。
「二人の噂を流すのもいいかもしれないな」
カトリもだが、ウィルロアにも早々に妹を諦めてもらわなければならないのだから――。
「殿下!」
廊下の先から珍しくオルタナ将軍が駆け足でやって来た。慌てた様子に何かあったと気を引き締める。
「間諜からの報告です。ラステマ軍も行軍を開始したそうです」
「!」
ラステマが軍を動かしたのはキリクにとって凶報だった。
「まさか、迎え撃つ決断をするとは……」
「我々の想像よりも早く襲撃犯を制圧し、中枢の混乱を収めたのでしょう」
「カンタールやファーブルにウィルロア様が押し切られたようですね……。カトリ王女が憂慮していた事態になりました。いかがいたしますか」
まさかここまで早く立て直すとは思わなかった。軍を動かした手前、これで国境付近の衝突は避けられなくなった。
「作戦を変更する。物資の乏しいラステマは短期決戦を仕掛けてくるだろう。我々は逆に長期戦に持ち込み勝利を手にする。国境付近の住民には早急に避難を促せ」
「はっ」
「殿下、不確かな情報ではありますが、ウィルロア王子のことである噂が――」
ラステマの行軍開始よりも驚きの報告を受けた。
「そんなまさか――ウィルロアが!?」
「ウィルロア様がどうかしたのですか!?」
「!」
廊下の先に、カトリが侍女とこちらに向かって歩いて来たところだった。小公爵と別れて庭園からの帰り道だろう、何ともタイミングが悪い。
「なんでもない。早く部屋に戻るんだ」
「ウィルロア様がどうかしたのですか!? ラステマに動きがあったのですか!?」
「……」
「ラステマは戦争を辞さない構えで行軍を開始しました」
「公爵!?」
制止を無視してオルタナが勝手に答えてしまう。
「そしてウィルロア様が、ラステマを出国し、単身デルタに向かっているようなのです」
「そんな――」
ウィルロアは護衛二人だけを伴ってデルタに向かっているという。
「……ここまで馬鹿だとは思わなかった」
キリクは思い通りに行かない苛立ちのまま吐き捨てた。
カトリはショックで立っていられず、侍女と護衛が慌てて支えた。
「両軍が行軍している中、なぜ、そんな危険なことを……」
「おそらく王子は戦争を望まれていないのでしょう。自らがデルタに赴く事で、ラステマ軍の抑止力となると考えたのかと。戦争を回避し、我が国と交渉をするため自ら乗り込んで来たのかもしれません」
「相変わらず自己犠牲の塊のような男だ」
「キリク様……」
「それなら望み通り捕えて人質にしてやればいい。ウィルロアの身柄と交換に有利に交渉をするだけだ!」
「お兄様!」
「軍は国境付近で待機。全国にウィルロアを指名手配し、懸賞金をかけて捕らえるよう通知するのだ!」
「お兄様! やめてください!」
カトリがキリクの裾を引っ張り、止めようとしたが払い落とした。
「ウィルロア様を保護してください。話してください。ラステマと平和的に交渉してください!」
「それでは駄目なんだ!」
「なぜ――」
「父上は全ての責任を取って王位を退くつもりだ」
「!?」
「和睦の反故とユーゴの失態、国民の不満を全て被り、私に王位を譲る気なんだ! 王弟派に付け入る隙を与えないよう、私と切り離して父が全ての責任を背負う気だ」
「お父様が……」
「父の侍従から聞いた。私は、父をこんな形で王位から退かせたくはない!」
「……」
「強固で威信のあるデルタで在り続けなければならない。補償金で利益を得なければならない。ウィルロアは折衷案を提示するだろうが、それを飲めば、王弟派に付け入る隙を与えてしまう」
「ですが、このままでは戦争が――」
「和睦を結べないなら戦争をしてでも利益を生むしかない。すぐに支度をしろ。王都に戻るぞ」
放心するカトリに声をかけると踵を返して去って行った
「私のせいだ……。私が手紙を出したから――」
幸いにもカトリの声は、キリクの耳には入らなかった。




