表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やさぐれ王子と無表情な婚約者  作者: 千山芽佳
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/79

キリクの過去5エミエラ病


 ウィルロアを起こさないよう、静かに部屋を出たキリクは、場所を移動してオルタナからこれまでの経緯を説明してもらった。

 ウィルロアに毒を盛ったのは男爵家の次男で、世話係として従事していたザジという男だった。

 オリガが危惧していた通り、ユーゴ達の嫌がらせにも黙って耐えるウィルロアを見て、ザジだけではない、使用人達は通報しないのをいいことに嫌がらせを助長させていた。

 そしてあろうことか、大国の王子に毒を盛るという凶行を引き起こしてしまった。


「最初の時点で何故報告をしなかった」


 偉そうなことを言える立場ではないが悔やむ気持ちは消せない。


「宰相殿の指示です」

「リーン宰相が口止めをしたのか?」

「ウィルロア様が黙っていたのと同じ理由です」

「公になれば和睦に支障をきたす恐れがあるからか?」

「はい。我々から声をかければ事件が公になります。幸いウィルロア様が穏便に済ませようとなさっておられましたので、安全を考慮しながら黒幕を探すために泳がせておりました」

「ザジに指示役がいたのか。実家の男爵家か?」

「それが、一概に男爵家が首謀とも言えない状況でして……」

「?」

「ザジの末弟が、ユーゴ殿下の親しい友人の一人なのです」

「!」

「ザジは和睦を阻止するために王子を逃げ帰そうと画策していました」

「……その考えは確かにユーゴと同じものだ」

「ユーゴ殿下が和睦反対派の家紋と付き合いがあることは社交界でも知らぬ者はおりません。男爵家とユーゴ殿下が繋がっていなかったとしても、断罪すれば政権に悪影響が及ぶ恐れもあり、宰相殿が慎重に動かれておりました」


 慎重に調査をしながらもウィルロアの身に危険が及ばぬよう、オルタナを待機させ解毒薬を用意していた。だからあんなに素早く対応できたのだ。


「それから、和睦反対派が組織化して動いているようです。陛下もユーゴ殿下に再三御忠告なさったのですが……」

「聞く耳を持たなかったのだな。まったくあいつはいつまで……」


 ユーゴの無責任な行動に頭が痛くなる。


「ユーゴの事は私に任せてもらえないか? ザジの処罰は君達に任せよう」

「畏まりました」

「それから、ウィルロア付きの使用人は全員解雇だ。新しい使用人は和睦に好意的な家紋から選ぶようにしてくれ」

「分りました」


 もしも毒の混入にユーゴが関わっていたら――。

 キリクは不安に駆られながら、後日ユーゴの部屋を訪ねた。




「毒? ウィルロアが毒を盛られたのですか?」

「身に覚えはないのだな」

「は?」


 ユーゴはキリクが自分を疑っていたのだと知り憤慨した。その反応に嘘はなく、少なくとも毒事件に弟は無関係だと確信し安堵した。


「実行犯は既に捕えたが指示役がいる可能性が高い」

「それが俺だと?」

「お前の友人の家紋が関わっていた。関係性を疑われても仕方ないだろう。だからあれほど突き合う家紋には注意しろと――」

「俺じゃないです。逆に自分の指示じゃなかったのが残念です」

「ユーゴ」

「兄上も俺が黒幕じゃなくて残念でしたね」

「馬鹿を言うな。私とてお前を疑いたかったわけではない。しかしお前はウィルに手を挙げたではないか」

「あいつ、遂に兄上に泣きついたか……」

「いいや。ウィルは何も話していない。あの場に私もいて直接やり取りを見ていたのだ」

「婚約者を誘惑されたので抗議したまでです」

「ウィルが色欲に一切なびかないのは誰もが知っている。困っていたシシリ嬢に声をかけただけだと言っていたではないか。お前が婚約者を蔑ろにしていたのがそもそも悪い」

「……」

「ユーゴ、お前はまだ和睦に反対なのか?」

「……どうでもいいですよ。ただあいつが、俺の物を奪っていくのが気に入らないだけです」


 子供じみた言い訳に呆れはするが、ユーゴの気持ちが全く分からないわけではない。キリクも初めはカトリを奪われ、母の関心を奪われ、愛するオリガまで奪われたと思い込み、ウィルロアを敬遠したのだから。


「和睦反対派が組織化して良からぬ動きをしている。陛下はこの件を徹底的に捜査すると命じた。付き合う友人は家紋も含めて考え直さねば、お前もただでは済まないぞ」

「……」

「二度と過ちを犯さないと約束してくれ。今後はウィルへの態度を改めると」

「自分だって静観していたくせに。よくもそんな事が言えますね」

「……」

「実の弟を見捨ててウィルロアの味方になったのですか?」

「何を――。……私自身もウィルロアに対しての態度は改めようと思っている。だが後にも先にも私はお前の味方だ。お前は私の守るべき大切な家族の一人だ」

「はっ! 今更兄貴面しないでください」

「今更なのは分かっている。保身に逃げてお前とも距離を置いていたのは過ちだった」

「だから? 俺への態度も改めるって?  勝手すぎる。仲良しごっこを押し付けないでください」

「今まですまなかった」

「謝らなくていいので今まで通り無関心で口を挟まないでください」

「ユーゴ」

「使用人の嫌がらせだって、俺達だけのせいではないはず。舐められたあいつにだって責任はあります。嫌われたくないのか頭が悪いのか、王族のくせに威厳もなくヘラヘラと愛想をふり撒けば示しがつかなくなるのも当然だ」

「お前は……、ウィルを見て何も感じないのか?」

「逆に何を感じろと?」


 常に笑顔なのも誰にも分け隔てなく接していたのも、嫌がらせに耐え忍び波風を立てないよう静かに暮らしていたのも、全て、和睦を成立させるためだった。

 その小さな体ひとつで国を背負い、与えられた責務を全うしていたのだ。

 対してキリクはどうだ。

 あんなにラステマ人に対する負の感情をどうにかしたいと願っていたのに、自分こそが呪縛に捕らわれていた。五つも下のウィルロアの方が、よっぽど大人で王族らしかった。


「己に課せられた使命を全うするため、私達の仕打ちに文句ひとつ言わず耐えてきた。どんなに冷遇されても、笑顔で耐え続けたのは未来を生きる者達のためだ。いつまでも個を優先させるのではなく国のために――」

「うるさい! 今更なんだよ全部! 俺の事なんてとっくの昔に見捨てたくせに!」

「何を――」

「俺を利用して憂さ晴らししていただろ」

「!」

「謝れば許してもらえるとでも? 情に訴えれば届くとでも思っているのか?  残念だったな。俺はあんた達みたいな偽善者が大っ嫌いなんだよ!」

「ユーゴ」

「うんざりなんだよ比べられるのも奪われるのも!」


 ユーゴがキリクの肩にわざとぶつかって出て行こうとする。

 追いかけようとするが部屋の扉がノックされ、返事より先にリジンが「失礼します!」と慌てて入って来た。


「大変です! 先程王妃様が血を吐かれて倒れたそうです!」

「「!?」」


 キリクとユーゴは顔を見合わせ、急いで母の元へと向かった。

 王妃の元へ到着すると、私室の前で侍女達は身を寄せ合い泣きながら祈っていた。

 何故部屋の中にいないのだろう。まるで誰かに締め出されたかのようだ。


「どけ!」


 ユーゴが侍女達を押しのけて部屋の扉を勢いよく開けた。

 ソファに倒れている母の側で、何故かウィルロアが一人、膝をついて深刻な顔をしていた。


「ウィル?」

「!? 誰も中に入らないで!」

「母上!」

「だめだ!」


 ユーゴがウィルロアの制止を無視して中に入ろうとする。ソファには吐血の跡があり、母の首辺りには赤黒い斑点が見えた。


「今すぐ出て!」

「貴様!」


 無理矢理入って来たユーゴに両手を広げて足止めするウィルロア。頭に血が昇ったユーゴは、勢いのままウィルロアを殴りつけた。


「やめろユーゴ!」

「お前が毒を盛ったのか!? 仕返しなんだろ俺がやったと思って――」


 キリクとリジンがユーゴを後ろから押さえつける。吹き飛ばされたウィルロアは頬を抑えながら立ち上がった。


「キリク、そのままユーゴを連れて出て行って」

「いいや説明が先だ!」


 出て行けと言われても母のあんな姿を見た後で引き下がれるはずがない。


「王妃はエミエラ病に罹っているかもしれない」

「!」

「うつる病だ。医師が来るまで皆外に出ていた方がいい」


 ウィルロアの言葉でリジンや護衛が二人を慌てて部屋の外へと引きずり出した。


「ウィル、お前は――」


 うつる病ならばあいつも部屋にいてはいけないのに、答えを聞く前に扉は固く閉じられた。


 数分後に医師が到着し、診察を終えて別室で待機していた父と共に報告を受けた。


「ウィルロア王子の言う通り、王妃様は  エミエラ病に罹っておりました」

「どんな病なのだ?」

「十年ほど前にラステマ王国でも流行った病です」

「ラステマ人のせいで母は病になったのか!」

「い、いいえ。十年前に流行しましたが現在は収束しております」

「最後まで話しを聞けユーゴ! 冷静に聞けないのなら出て行きなさい」


 父の静かな怒りにさすがのユーゴも素直に謝り一歩下がった。

 部屋には緊張感と不安が張り巡らされていた。

 医師の説明では、エミエラ病は五十年前に西方で感染が確認され大流行した。ウルハラ大陸ではラステマ国で初感染が確認されているが、医療が発達しているラステマは西大陸での感染を知った時点で研究者を派遣し、来たる日に備えていたおかげで大きな被害にはならずに済んだ。


「大陸中に広まる恐れもありましたが、ラステマの医療技術のお陰で食い止められたのです。これが周辺諸国でしたら、大陸中に蔓延し手遅れになっていたでしょう」


 エミエラ病は、最初に吐血と斑点から症状が出る。そこから高熱が続き、内臓が弱って発症から二週間で死に至る恐ろしい病だ。


「二週間……」


 全員が「死」という言葉に恐怖を覚えた。


「王妃様は先日、外交で西方大陸から帰国なさいました。その際に帰りの船で吐血した船員を快方したと聞きます。おそらくそこでうつったのでしょう。直ちに同行した者達を隔離してください」

「すぐに対応しろ」


 国王の指示を受けて部屋を出た宰相と、入れ替わるように入って来たのは着替えを済ませたウィルロアだった。

 彼は何故か顔に布を巻いていた。奇怪な格好にキリクとユーゴは眉をひそめた。


「細菌の多くは口鼻から飛沫となって体外に放出されます。それで布を巻いていらしたのでしょうが、王子、外していただいて構いません」

「でも……」

「エミエラ病は空気感染をしません。血液感染が主で、初期症状の吐血で感染が広がります。ラステマ国が感染を最小限に抑えたのは、この事実を知っていたからだと言われております」

「では、ユーゴやキリクは大丈夫なんですね」

「はい」


 医師に外すよう促されたウィルロアだったが、布を外す素振りはなかった。それが、先程ユーゴに殴られて腫れた頬を隠す為でもあるとキリクは気付いた。


「ウィ、ウィルロアは吐血の場にいたぞ!」


 二人の身を案じたウィルロアこそ危険なのではとユーゴが心配して訊ねる。


「ウィルロア王子は既に五歳の時にエミエラ病に罹ったそうです。エミエラ病は一度感染すれば体内に抗体が出来、その後罹る事は無いと言われています。ですから王子は大丈夫ですし、第一介助者が王子で幸いでした」


 月に一度、母とウィルロアはお茶を共にしていた。ちょうどそのタイミングで王妃が吐血をして倒れたのだった。彼は斑点を見て侍女や護衛の入出を止め、窓を開けて喚起をしたそうだ。


「ウィルロアが治ったのなら母も治るのですね!?」


 目の前に生還した者がいるのは心強かった。しかし医師の顔は厳しいままだ。


「申し訳ございません。今のデルタにはエミエラ病の治療薬は存在しません。可能性があるとすればラステマ国ですが……。国交が断絶しておりますので、私も詳しくは分からないのです。王子は何故ご無事だったのか、お聞きしてもよろしいですか?」

「はい」


 ウィルロアは、祖父である前王の領地エーデラルで過ごしていた時に感染したという。

 当時はラステマでも治療薬がなく、ニ週間後には死を迎えるだけだった。ウィルロアが助かったのは、前王が急ぎ南大陸へ使いを送り、親交のあった王族に掛け合って貴重な治療薬を手に入れてくれたお陰だった。


「それでも私が発症して三週間は経っていましたので、助かったのは奇跡に近かったと思います」

「お若かったので体力があったのでしょう」

「ウィル、薬は西大陸にしかないのか? ラステマにはないのか!?」

「薬の研究を勧めているようでしたが、完成したかは分かりかねます」

「ラステマ国に急ぎエミエラ病の治療薬について使いを送れ!」


 国王の指示で侍従が慌てて出て行く。先程指示を出しに行った宰相が戻って来た。

 キリクは商人にも頼ってはどうかと提案した。とにかく時間がないと、縋れるものには何でも縋るべきだった。


「望みは薄いと思います。西大陸はエミエラ病の治療薬を独占的に扱い、流出に厳しく規制をかけています。市政や闇ルートでも流れてくるのは稀だと言われております」

「では直ぐに西大陸に使いを――」

「我が国から西大陸まで四週間はかかります。急いでも、三週間はかかるかと……」


 エーデラルとは違い、デルタの王城から西大陸まで地理的に遠かった。

 全員が言葉を失い、最悪の未来を想像した。


「それでも、それでも南大陸に急ぎ使いを送れ」


 王妃を救うためならなんでもする。皆同じ想いだった。

 キリクは忙しい政務の合間に時間を作っては、市政へ下りてエミエラ病の治療薬を探した。


「エミエラ病の治療薬? あれはたしかに希少価値は高いが、それだけ規制も厳しいんだ。需要がないのに大金はたいてでも手に入れようとする商人はいねえよ」


 医師の言う通り、主要な商会や商人に手あたり次第当たったが、手応えはなかった。

 商人には大金を払うと言って薬を手に入れるよう依頼した。

 地道に聞き込みをしたおかげで努力が実を結び、一人の商人から闇市を紹介してもらうことが出来た。

 念入りに変装をして潜入し、何点か高額商品を購入すると、仲介人から声がかかる。そこで薬の入手を依頼した。


「ラステマ国との貿易は禁じられているが、我々のルートを使えば手に入れられないことも無いですよ」

「本当か!?」

「金貨十枚で如何でしょう」

「用意しよう。何がなんでも薬が必要なのだ。頼んだぞ!」


 国内では王妃の病名は伏せられたが、危険な状態だという噂が広まっていた。

 多くの国民が教会に足蹴く通い、神に祈った。キリクも空いた時間は聖堂で祈りを捧げた。

 そして四日後、キリクは大金を持って約束の場所で商人を待った。


「キリク様!? その恰好はどうされたのです!?」

「……」


 約束の場所に仲介人はやって来なかった。代わりにごろつきたちに囲まれ、金だけを盗られて逃げられた。


「なんでもない」


 下手に抵抗したものだから体中を殴られた。ぼろぼろの格好で戻ったキリクに、侍従のリジンが珍しく声を荒げた。


「お気持ちは分かりますが、無茶をなさるなら今後は単独で行動されるのを黙認できなくなりますよ。もう二度と危ないことはしないでください」


 リジンの忠告はもっともだが、城で大人しくしているつもりはなかった。

 ユーゴは王都を出て治療薬を探し回っていたし、キリクも懲りずに市政を歩き回り、北大陸からの旅人に手あたり次第声をかけた。二人共、何かしていないと不安で堪らなかった。


 何の成果も得られず、時間だけが過ぎていく。母が病を発症して一週間が経った。

 王都への抜け道に使っている庭園を歩いていると、偶然ウィルロアに会った。

 互いに避けることなく正面から対峙する。ユーゴに殴られた頬の痕は青くなって残っていた。

 自分を探していたのだろうか、ウィルロアから声をかけた。


「今朝、ラステマから使いが戻った」

「ああ。治療薬はまだ完成していないと聞いた」

「……すまない」


 ウィルロアはラステマを代表して謝ったのか、期待させてしまった事を謝ったのか、分からなかったがいずれにしても彼が謝ることではなかった。

 ラステマに治療薬がないとなると、後は南大陸から入手する以外に手はない。

 それも天候の悪化からかなり望みが薄かった。

 キリクが憔悴した顔で通り過ぎると、再び呼び止められた。


「治療薬は完成していないが、病に関する資料は届いた。それを元に容態が緩和した。医師から面会も可能だと聞きユーゴはすぐに王妃様に会いに行った。何故、君は顔を出さない」

「……」

「王妃様は君に会いたがっていた」

「……会わせる、顔がない」


 死が近づく母を前に何と言葉をかければいい?

 あと一週間しかないのに、国を挙げても治療薬を見つけることが出来ない。

 キリクは踵を返し、部屋へは戻らず再び王都への抜け道へと向かった。治療薬を見つけなければ――。

 すれ違い様にウィルロアに腕を掴まれ、勢いよく引っ張られる。


「!? なにを――」

「会いに行こう!」

「!」


 ウィルロアは無理やりキリクを引っ張り、母の元へと連れて行こうとした。


「離せ!」

「今会わなければ後悔するぞ!」

「――っ」


 振り解こうとすれば逃げられたが、ウィルロアがあまりにも鬼気迫って凄むものだから、キリクは抵抗を止めて言われるがまま付いて行った。

 母の部屋の前に立つと、医師に念のためだと口鼻に布をかけられた。

 侍女が扉を開けたが、足が竦んで入れない。

 母一人救うことの出来ない自分が、今更どんな顔をして会えばいいのか。


「……キリク?」


 どんな顔をして会えばいいのか、どんな言葉をかければいいのか、これが最後になるのではと怖く、近づくことさえ躊躇っていたというのに、母の声を聞いたら全てが吹き飛んで足は勝手に動き出していた。


「――母上」


 会いたかった。

 ベッドの側で膝を付く。

 浮き上がった母の手を両手で掴む。その手があまりにも細く、握り返す力の弱さにギクリとした。

 一週間前の元気な頃の姿とは違い、頬はこけて体が一回り小さくなっていた。髪の毛は無造作に流れて唇は乾き、血色が悪い。ああ、本当に母は病に罹っているのだと、突きつけられた現実に、しかし顔には決して出さず懸命に笑顔を作った。


「怪我をしているの? 痛そうだわ」

「こんなもの、痛くもかゆくもないです」


 病床の母に比べれば苦痛は比べ物にならないし、手当てをすればすぐ直る。

 むしろ、もっと殴られてもよかった。もっと、もっと、痛めつけてくれたらよかったのに。


「ユーゴにも言いましたが、無理をしないで。あなた達が怪我をしたら悲しいわ。ただ元気でいてくれたら、それで十分ですから」

「もう無茶はしません。だから安心してください」

「ユーゴと同じことを言うのね。やっぱり、喧嘩をしてもあなた達は兄弟だわ」

「――っ」


 母は愛おしそうに目を細めて笑った。


「キリク」

「はい」

「ユーゴと共に陛下を支えて差し上げて」

「……」


 まるで遺言のような言葉に、返す言葉が見つからない。頷けば母の死を受け入れたように感じるし、否定すれば母を安心させてあげられない。


「それから、カトリ……」


 キリクはその名を聞いて体が強張った。

 カトリを呼び寄せる声は多くあったが、王妃自身が望まなかった。

 カトリが戻るには和睦前の取り決めを反故にしなければならない。中断を申し入れるにはラステマの合意が必要で、協議をして正規の手順を踏んでは二週間以内に戻ってくるのは現実的に無理があった。それならば最初からデルタの不利になるようなことはしないでほしいという、母の意思だった。


「あの子にも、手紙を書いておいたから、和睦が成立したなら、渡して……」


 情けなくも「わかりました」と答えるだけしかできない。


「母上……」

「……」

「母上!?」

「大丈夫です。先程薬を飲まれたので眠られたようです」


 母の寝息を確認してほっと胸を撫で下ろす。

 母の手を握り、額に付けて神に祈った。

 ゆっくりと布団の中に腕を収めると、母の寝顔を名残惜しく眺める。

 しかし数分で堪え切れなくなり、立ち上がった。部屋の外に出て口を覆う布を乱暴に外す。


「キリク」

「来るな!」


 駆け出すキリクをウィルロアが追う。

 何故付いてくる。誰にも見られたくないというのに――。

 外回廊でウィルロアに追いつかれ、再び腕を掴まれる。足が止まると同時にぼろりと涙が零れた。

 泣いても何も解決しない。デルタの男が泣くなんて情けない。それなのに、涙は止まらず想いまで堰を切ったように溢れ出した。


「――私のせいだ」


 キリクが望んでしまったから、母は愛しい娘を奪われ、幼かったカトリは家族と離れ離れになってしまった。


「このままではカトリと母は、一生の別れになってしまう」

「……」

「私のせいで母もカトリも苦しんでいる」

「そんな……、キリクのせいじゃないよ」

「君はいいさ! 君自身が苦労を背負えたのだから――。私は、私が望んだことなのに、その責を妹に負わせてしまった。いっそ私がラステマに行けたらよかったのに」

「キリク……」

「薬も手に入れることが出来ず、せめて最期くらい二人を会わせてやりたいのに、私は、なんて無力なんだ――」


 長年一人で抱えて来た贖罪を初めて他人に吐き出した。それほどに、瘦せ細った姿で横たわる母を見て、ショックが大きかったのだ。

 どこかで母が死ぬなんてあり得ないという気持ちがあった。母の姿を見てそうではないのだと、これが現実なのだと突きつけられた。

 ウィルロアはキリクの肩を抱いて強く掴んだ。


「君に罪があると言うなら、僕も同じだろう? 君と僕で、共に見た夢じゃないか!」


 だからその責を分けろとウィルロアは言う。

 慰めるのでも、否定するのでもなく、一人で抱え込むなと共に痛みを分かち合おうとしてくれた。


「まだ王妃様が助からないと決まったわけじゃない。陛下も医師も手を尽くしてくれている。薬が到着するまで持ち堪えれば助かる道はある」

「……」

「なにより大事なのは、王妃様が生きようと諦めないことだ。君とユーゴが元気な顔を見せて励ましてあげなければ。そうだろう?」

「……ああ」


 キリクは涙を拭って返事をした。


「いいかい? 今日は何も考えずに部屋に戻って寝るんだ。寝て起きたらしっかり食事を取る」

「……」

「疲れていたら心も弱ってしまう。君にも休息が必要だ。君まで倒れたら王妃様が悲しまれる」

「君は……」

「ん?」


 目の前には澄んだ青色の瞳。かつてはこの目を見ていると、酷く自分が情けなく劣等感に苛まれた気分になった。

 だが今は、そんな感情も洗い流す程、キリクの心はウィルロアの言葉で救われていた。

 ウィルロアは変わらない。変わらないまま強くなった。

 あんな仕打ちをした私を君は許してくれるのか。また寄り添ってくれるのか。君にも言いたいことがたくさんあるんだ。

 伝えたい言葉は喉の奥でせき止められた。許しを請うべきではないと、ウィルロアの部屋で悟ったことを思い出し、思い止まった。

 代わりに「ありがとう」と礼を告げた。


「情けない姿を見せてしまったな」

「それを言ったら僕は君の倍以上は見せていると思うけど……?」


 どちらからともなく笑いが零れ、二人は並んで歩き出した。

 ひとしきり泣いたお陰か、幾らか気持ちは楽になっていた。


 その夜、キリクは政務を休み、ご飯をしっかりと食べた。リジンが側で安心したように見守っていた。

 温かい湯につかり、早めにベッドに入ると休息を必要としていた体は素直に眠りについた。


 翌日、目覚めると体は嘘のように軽くなり、頭はすっきりとした。

 午前中に政務をこなし、午後はウィルロアに会ってもう一度お礼を言おう。それから母の元に顔を出しに――。


「キリク様!」


 キリクの元へ、慌てたリジンが扉を開けて入って来た。

 母の身に何かあったのかと思い、勢いよく椅子から立ち上がった。


「……うそだ」


 母のことではなかった。だが報告を受けてショックを受けたのには変わらなかった。

 キリクが深い眠りについていた晩に、あろうことかウィルロアは、警備の目を掻い潜りデルタの王城を抜け出したのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ