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やさぐれ王子と無表情な婚約者  作者: 千山芽佳
第三章

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キリクの過去4静観の代償


 カトリが去った後のキリクは、無力感と罪悪感と寂しさで心が荒んでいた。


「キリク様、歴史の授業のお時間です」

「休むと伝えてくれ」

「ですが先日も――」

「偏向した授業に何の意味があるんだ」


 これまで築き上げた自信は脆く崩れ、夢に見た未来でさえどうでもよくなった。

 ぽっかりと開いた心には隙間風が吹いて塞ぎ込むようになった。

 対してユーゴは表立って反抗的な態度が目立つようになり、全ての授業を放棄して周囲に苛立ちをまき散らしていた。両親にまで悪態をつき、意趣返しに和睦反対派の貴族とつるむようになる。

 咎めるべき立場のキリクが静観したのは、ユーゴの気持ちがよく分かるからだった。

 キリクも全てを投げ出して叫びたい気分だった。

 平然と公務をこなす両親が理解できず、弟に頭を悩ます姿を見て胸がすく想いだ。周囲は環境の変化から反抗期が訪れたと言った。それすら勝手に決めつけられているようで腹立たしかった。

 家族の関係性はカトリを失う前と後で大きく変わってしまった。

 それは国も同じで、祝福子を失った不安と悲しみに溢れていた。

 だからデルタにやって来るウィルロアを、心から歓迎する者は皆無だった。

 むしろウィルロアのせいで王女を奪われたと感じる国民が多くいた。

 ウィルロアにとってデルタでの暮らしはひどく居心地が悪かったと思う。



 豊穣の国デルタは、太陽の恩恵のおかげで国民の肌は色濃く、髪は黒や茶が多い。

 その中に突如として現れた、色白で光り輝く金の髪と透き通るような青色の瞳を持つ少年。

 罵声を浴びせるために待ち構えていた者でさえ、あまりの美しさに言葉を失った。

 ウィルロアからはラステマ人の冷酷さや残虐さは微塵も感じられなかった。デルタ人の殆どがラステマ人に悪印象を持っていたので、出迎えた人々は戸惑ったことだろう。

 歓迎はあり得なくても罵詈雑言が飛び交うより幾ばくかマシだった。

 ウィルロアはというと、馬車の中で終始笑顔で手を振っていた。その姿は正に和睦の象徴として相応しかった。

 ウィルロアの天使のような姿も相まって、大きな騒動は起こらず無事王城入りを果たした。

 ウィルロアは王城の片隅に部屋を与えられた。月に一度、ラステマからも学者が来て教鞭に立つが、これから成人まで異国の地で暮らし交流を重ねていく。

 侍従も護衛もいない中で心細いだろうと思われたウィルロアだが、その目は期待に満ちていた。

 相変わらず好奇心旺盛で見るもの全てに興味を膨らませている。歓迎の挨拶の場で一年ぶりの姿に懐かしさを覚えたが、それも泡沫の感情だった。


「キリク!」


 ウィルロアはキリクに気付くと手を振って駆け寄って来た。

 大陸会議で会った頃より顔の丸みが無くなった。

『また会おう』と、笑顔で約束を交わしたはずなのに、キリクはウィルロアとの再会を手放しでは喜べなかった。

 固い表情のまま踵を返してしまう。

 王城入りの時も今も、胸の奥から沸々と苛立ちが湧いてきて、あの笑顔が何故か癪に障るのだ。

 背中に感じる視線に後ろめたさを感じながらも、どうしても笑顔を張り付けることができなかった。いっそこの場を去る方がマシだと背中を向けたまま歩き出してしまう。

 背後でもう一度名前を呼ばれた気がする。いいやきっと気のせいだと己に都合よく解釈し、足早に自室へと戻った。

 キリク達はこんなにも苦しんでいるというのに、ウィルロアだけが笑顔で期待に胸を膨らませている。大陸会議で美味しい野菜が食べたいと言った。農業を学びたいと、デルタに憧れを抱いていると語っていた。

 だからウィルロアは望んでここにいるのだと思った。

 だがカトリは違う。キリクは違う。

 それでも、キリクの態度が正しいわけではない。

 一度冷静になれば貴賓に対して王子らしからぬ態度だったと反省した。


「失礼な態度を取ってしまったな……」

「どうでしょう。あながち間違いではないかもしれません」

「?」


 侍従のリジンは苦言を呈すどころかキリクの失態を肯定してしまった。

 首を傾げるキリクは、晩餐会の前に国王に呼ばれてその意味を知ることとなる。



「ウィルロアと、距離を取れということですか?」

「そうだ」


 歓迎の晩餐会の準備をし終えると、父がキリクを執務室に呼んだ。ユーゴも呼ばれたようだが、父と喧嘩中のため姿を現さなかった。


「ウィルロアがラステマの王子であることを忘れてはならん。一定の距離を保って接しなければ、お前の地位が揺らぐことになる」


 父は国内のラステマに対する反感と疑念を警戒していた。ウィルロアと親しくすることで、次期国王となるキリクにも影響が及ばないか心配していた。

 キリクは王位継承権第一位ではあるが、まだ幼く経験は浅い。対して国王には年の離れた有能な実弟が二人いた。

 政治基盤が出来ていない状態で、ウィルロアと懇意にして国内の有力貴族や世論を敵に回すのはリスクが大きかった。


「ウィルロアはこれから長く王城で暮らすことになる。我が国の文化を学び貴族や役人と密な関係を築ける機会に多く触れるだろう。それは同時に、我が国の機密情報も簡単に手に入れられる状態になるということだ。ウィルロアは和睦の象徴であると同時に、危険因子にも成り得る」


 カトリと入れ替わるようにやって来たウィルロアに嫌悪感を抱く者も多く、世論はラステマ人に対する負の感情が再燃していた。

 王はウィルロアと親しくすることでキリクにまで影響が及ぶのを避けたい様子だった。

 和睦のためにやって来たウィルロアが間諜まがいのことをするとは思えない。しかし和睦を快く思わない連中に利用され、要らぬ疑いをかけられる可能性は否定できなかった。

 更に父は和睦が成立しなかった場合、自国に戻ったウィルロアが掌を返して裏切る可能性もあると言った。

 百年以上いがみ合っていた相手と和睦が結べると簡単に思わない方がいいだろう。


「分りました」


 ウィルロアに対して思うところもあったので、キリクは父の忠告を素直に受け入れた。

 話は終わり歓迎の晩餐会に向かうため立ち上がった。しかし父はキリクを呼び止め、再び座るよう促す。


「もう一つ話しておくことがある」

「? はい」

「カトリとの婚姻だが――」


 父は最後に、世間には公表していない『デルタの思惑』を語って聞かせた。



 父との話を終えて晩餐会場に到着したキリク。主賓であるウィルロアと、今度は王子らしく挨拶を交わし直ぐ席についた。

 様子を見ていたユーゴがウィルロアに視線を向けながら訊ねた。


「友人だと聞いていたのですが、あっさりした挨拶ですね」

「……」


 ウィルロアはデルタの貴族から挨拶を受けながらキリクの方を何度も窺っていた。居心地の悪さに目を瞑って知らぬ振りをする。


「もしかして、父上に何か言われたのですか? 呼び出しはなんだったのですか?」


 隣席のユーゴが声を潜めて何度も訊ねる。キリクがウィルロアに対して素っ気ない態度を取っているのに疑問を抱き、直前に会っていた父との会話を気にしている様だ。


「お前には関係のない話だ」


 欠席しておいて話の内容だけ聞こうとするユーゴが煩わしくて邪険にあしらう。

 ユーゴは気分を害していたが、聞かせずとも元々ラステマ人に対して嫌悪感を抱いているユーゴなら、ウィルロアとの付き合いも稀薄だろうと思われた。

 それに最近ユーゴは和睦反対家紋と付き合いを顕著にしており、好き放題に行動する弟に聞かせる話ではなかった。

 キリクは目を閉じて、去り際に父から聞かされた『デルタの思惑』を思い出していた。


『どういうことですか? カトリはウィルロアと結婚させるのではないのですか?』

『カトリの結婚相手は第一王子アズベルトの方がより望ましい。王子妃になるよりも、王太子妃として次代の王妃となる方が我が国のラステマに対する影響力は高まるだろうからな』

『ではなぜウィルが――』

『カトリがラステマで暮らすことで、逆にアズベルト王子との交流も深まるはずだ』


 つまり、十年後に待つカトリの本当の結婚相手はアズベルトで、言葉は悪いが初めからウィルロアは捨て駒に過ぎないというのだ。

 この事実をウィルロアは知らずに過ごすのかと思うと、さすがのキリクも同情した。

 カトリに対する贖罪と、ウィルロアに真実を隠さなければならない後ろめたさ、王位継承者という重責と地位が揺らぐ恐怖。全てが複雑に絡まり、ウィルロアやユーゴを気遣う心の余裕は、この時のキリクにはなかった。


 歓迎というのは名ばかりの晩餐会。

 居心地の悪そうなウィルロアに、王妃や宰相が時折声をかけていたが心細さは顕著に現れていた。

 運ばれた前菜をひとくち口に運んだ瞬間、ウィルロアは突如としてぽろぽろと涙を溢した。

 国王含め参席した貴族は驚いたが敢えて気付かぬ振りをした。身分の高い者が失敗をしても見て見ぬ振りをする。それがマナーだからだ。

 王妃だけはウィルロアに寄り添い、そっと涙を拭いていた。


「……」


 キリクは複雑な気持ちだった。素っ気ない態度を取った自分のせいかもしれないと思うと申し訳なく、しかし母の胸で泣くウィルロアを見ると恨めしいとも感じてしまう。


「見ろ。王子のくせに人前で恥ずかしげもなく泣いているぞ」

「ラステマ人はなんと情けない」


 それなのにユーゴやその友人達の嘲笑を耳にすると腹立たしく、一睨みして黙らせた。

 一体何がしたいのだと自分でも呆れてしまう。

 晩餐会に参加した者の多くはウィルロアに同情したが、ユーゴや一部の貴族にとっては貶めるいいネタとなって会はお開きとなった。


 その日から、ウィルロアは同年代の貴族から冷たくあしらわれるようになった。小馬鹿にされ、泣き虫王子と揶揄われた。

 少年達がウィルロアを敵視したのは、軟弱で憎いラステマ人だからという理由だけではなかった。彼の美しい容姿を聞きつけたデルタの令嬢が、城に押しかけては黄色い声を上げて色めき立っていたからだ。

 舞踏会に姿を現せば熱い視線を一身に集め、注目の的となるウィルロア。

 余所者に脚光を奪われた少年達はおもしろくなかった。

 ただの嫉妬心から来る嫌悪の感情を、認めるには未熟で、それはキリクも例外ではなかった。

 密かに想いを寄せていたオリガ嬢と、ウィルロアが楽しそうに談笑しているのを見た時は不安で夜も眠れなかったし、嫉妬で気が狂いそうだった。

 焦ったキリクは早々にオリガと婚約を結んだ。父やリジンには呆れられたが、母や周囲からはオリガとの婚約を祝福してもらった。


 初日の無視以降、ウィルロアから声をかけてくることはなかった。

 父がウィルロアにも目立たず静かに暮らすのが和睦への近道だと釘を刺したらしい。そんなウィルロアは舞踏会では女性に囲まれたが、王城内ではかなり孤立していたと思う。

 世話係は最低限の仕事だけをこなし、政治に携わる者はラステマへの情報漏洩を怖れて接触を避け、貴族は社交界を騒がすウィルロアを快く思わなかった。

 それでも大国の第二王子らしからぬ気さくさで声をかけ、偉ぶることもなく誰に対しても笑顔で応じていた。返ってくることのない「おはよう」や「ありがとう」を何年も言い続けていた。

 その昂然たる優等生の姿が鼻につくユーゴは、「いい子ぶって」とよく悪態をついていた。

 いい子、というのは的を射た言葉だと思う。ユーゴ達の様に悪意を向ける者達には粗が見つからなくて気に食わないし、無関心を装う者からは自らの醜さが際立つようで関わりたくはない。

 そもそも過去の争いで悪印象から始まっているのだ。デルタ人がラステマの王子であるウィルロアに対して冷遇するのも予想は出来たのではないか。ウィルロアもいたずらに騒ぎ立てず静かに過ごしていた。ユーゴ達の嫌がらせでさえ意に介さず穏便にやり過ごしていたくらいだ。


 だからキリクはそれが大きな問題とは思っていなかった。


 ウィルロアがいつも笑顔でいたから、手を差し伸べる必要を感じなかったのだ。

 その中で母だけはいつもウィルロアを気にかけていた。

 離れて暮らす娘と、同じ境遇のウィルロアを重ねたのか月に一度は二人きりでお茶の時間を設けていた。


 一度庭園で二人を見かけたことがある。母の隣で笑顔を向けるウィルロア。本来そこにいるべきはカトリなのだと、異国の地で暮らす妹に思いを馳せ、胸が痛くなった。


 そんなウィルロアは、周囲の環境に影響されることなく真っすぐに成長していった。

 ぐんと背が伸びると同時に外見、内面だけではない、王族としての気品や元来の人を惹きつける資質に磨きがかかり、成長と共に彼の魅力は増していった。

 デルタの思惑を抜きにしても、世間一般にはウィルロアはカトリと結婚すると思われていた。それにもかかわらず年頃の令嬢は皆ウィルロアに夢中だった。

 陰ながら密かに想う者もいれば、恋心を隠すことなく一時の恋愛を楽しもうと積極的にアピールする者もいた。

 ウィルロアが不貞を侵したなら、つぶさに糾弾しようと身構えていた貴族は多くいただろう。しかしどんな美人でも妖艶でも可憐でも、彼がなびくことは決してなかった。


 そんなウィルロアをキリクの婚約者であるオリガは一目置いていた。それが恋愛感情ではないと知っていても、好きな相手から他の男の名前を聞くのはあまり気分の良いものではなかった。


「ウィルロア様に対する嫌がらせが気になります」


 わざわざ会いに来て言う言葉がこれではキリクも素直に頷けない。

 確かにオリガの言う通り、ユーゴ達のいじめは日に日にエスカレートしていた。だがウィルロアは相変わらず意に介さず、逆にユーゴの方が思い通りの反応が得られず苛立ちを募らせている。

 昔からラステマ人を嫌う弟だが、婚約者であるシシリがウィルロアに熱を上げているものだから、輪にかけて気に入らない。嫌がらせを苦にウィルロアがラステマに逃げ帰るのを期待しているようだ。

 そんなことになれば和睦が反故になってしまうのだが、ウィルロアにそんな気配はないので周囲には楽観視されていた。それよりも、未だ反対派の連中とつるんでいるユーゴが、和睦自体に懐疑的なのが問題だった。

 いつまでも反抗的なユーゴと父の関係は冷え切っていた。数か月前には大喧嘩をし、ユーゴを王籍から外そうとして慌てて止めた。母とキリクが間を取り持っても父の怒りは納まらず、ユーゴも意地を張り平行線をたどっている。

 立太子した後には政務も任されるようになったキリク。日々忙しく、正直ウィルロアを気にかける時間はなかった。

 数年も無関心を装っていたので、オリガに指摘されるまで頭の片隅にある位の存在になっていた。


「彼は気にせず静かに暮らしていると聞く。それにユーゴにも再三態度を改めるよう注意はしているのだ」


 嫉妬心からぞんざいな言い方になってしまい、オリガを直視できなかった。


「ユーゴ様もそうですが、使用人達にまで嫌がらせを受けているようです」


 キリクは驚いて顔を上げた。


「ウィルロア様には口止めをされていましたが……」


 オリガが言うには、先日王宮でウィルロアを見かけた。体調が優れない様子に声をかけたという。ウィルロアはその場で嘔吐し、慌てたオリガと侍女が介抱をした。使用人が側にいたにも係わらず、ウィルロアを気遣うどころか蒼ざめて逃げて行ったそうだ。

 ウィルロアを休ませ事情を訊ねた。ウィルロアは何でもないと言ったが、何か食べ物に手を加えられたのかもしれないとオリガは考えた。


「調査をしようと提案しましたが、自分で解決できるので黙っていてくれと頭を下げられました」


 慣れた言動には犯人に心当たりがあり、体調を崩す程の嫌がらせを受けたのが今回だけではないと推察された。


「ウィルロア様は大国の王子です。国賓です。もしこのような振る舞いがラステマに知られれば、大変なことになります」

「……」


 オリガの言う通りだ。

 ウィルロアが黙って耐えているから大事にならないだけで、本来なら国際問題に発展する。賠償、もしくは和睦が白紙になる可能性まである。

 つまらない嫉妬で聞き流すべきではないと姿勢を正した。


「わかった。メイド長に事実確認をさせて、ウィルロア付きの者達にきつく注意してもらおう」

「一時ならそれで収まるでしょうが、有効な解決策とは思えません」

「ならばどんな解決策があると?」

「大国の王子相手に下の者が嫌がらせをするのは、上の者がウィルロア様を軽んじているからに他なりません」

「!」


 オリガが指している上の者とは、ユーゴの事だけではない。長らく遠巻きに静観していた、キリクに対して言っているのだ。


「オリガ様、それには理由が――」

「リジン、いいんだ」


 オリガはウィルロアが冷遇され続けているのは、何の対策もしないで見て見ぬ振りをしてきたキリクにも責任があると考えていた。二人の王子が今でもウィルロアをぞんざいに扱っているから、使用人の嫌がらせが助長されたのだと。


「私も王妃様から事情は伺っております。難しいお立場なのは十分に理解しているつもりです。ですが実績を積み上げた今のキリク様なら、既に王弟派を跳ね返す力と盤石な土台を得たと思うのです。当時とは状況も変わりました。今はラステマとの関係に亀裂が入らないよう、ウィルロア様の環境を整えて差し上げるのが最善ではないでしょうか」


 確かに今のキリクなら人脈と実績を増やし、王位継承を盤石なものにしたと自負できる。

 それでもウィルロアの件をずっと保留にしてきたのは、忙しい政務や父の助言を免罪符にして都合の悪い過去に蓋をしてきたからだ。

 己の中に仄暗い感情があることを認めてしまえば、もう無視できる問題ではなかった。

 その日、オリガはキリクにそれ以上の答えを求めず帰って行った。

 オリガが去った後もキリクは考えていた。そして自分のしてきた事や気持ちに向き合う時が来たのだと思った。


「どうなさるおつもりですか?」

「オリガの言う通り、ウィルロアの環境を整えてやりたい」


 キリクの出した答えにリジンは少し心配そうな顔をしたが、主の意思を受け入れた。


「ウィルロアはきっと私を恨んでいるだろうな」

「ウィルロア様は殿下を慕っておいででした。真心を伝えればまた昔のように仲良くなれますよ」

「そうだといいな」


 過ぎた時間を取り戻そう。決意を新たにキリクはその日の政務に精を出した。



 ウィルロアとの関係修復を望むキリクだったが、パーティーがなければ彼はあまり部屋から出て来ないので、話せる機会は直ぐにはやってこなかった。

 母の誕生日を祝う舞踏会でようやく機会が巡って来た。

 しかし会場にウィルロアの姿は見当たらない。パートナーであるオリガに断りを入れて探しに行くことにした。


「再三の忠告を無視して人の婚約者に手を出すとは、いい度胸だな!」


 バルコニーに出てみると、庭園の方からユーゴの叫び声がした。嫌な予感しかしない。身を乗りあげて覗くと、案の定会話の相手はウィルロアだった。


「何度も言いましたが、私から声をかけたのは一度だけです。それもシシリ嬢がお困りの時の一度だけ」

「ではその時にお前が誘惑したんだ!」

「いいえ。しておりません。和睦のためデルタに来た私が、第二王子であるあなたの婚約者を誘惑するわけがありません」

「また『和睦のため』か。お前は馬鹿の一つ覚えに同じ事しか言わないな」

「……二人きりだとしても最低限の敬意は払ってください」

「はっ。ラステマ人に敬意も糞もない」

「……」

「どうせ仕返しのつもりだろう。やられっぱなしの鬱憤を晴らすためにシシリに手を出したんだな?」

「……あの日、舞踏会でシシリ嬢はトラブルで身動きの取れない状況でした。本来であればパートナーであるあなたが対応するべきだった。しかしあなたは他の令嬢と話すのに夢中で気付きもしなかった。ですから私が一度だけ――」


 ウィルロアが言い終える前に、草木の折れる音と、鈍い衝撃音が轟いた。


「お前ごときが俺に口答えするな!」


 まずいとバルコニーから駆け足で庭園に向かう。さすがに行き過ぎた行為だ。ここまでユーゴが拗れているとは思わなかった。いや、知ろうともしていなかった。これもキリクの無関心が招いたことかと思うと恐ろしくなる。

 息を弾ませて庭園に降りると、人の気配は既に無かった。静かな庭園を声がした方に進んで二人を探す。

 すぐに草木の間からウィルロアの姿を見つけた。服についた土埃を払い落としているところだった。

 既にユーゴの姿はない。どうやらウィルロアに手を出して捨て台詞を吐いた後、逃げ去ったようだ。


「大丈夫か?」

「!」


 これまで無関心を貫いてきたキリクが突然声をかけたものだから、ウィルロアは驚いた顔をしていた。

 キリクも気まずさを感じたが、オリガとの会話を思い出して踏みとどまる。

 過ぎた時間を取り戻すと決めたではないか。


「今医師を――」


 冷たい視線に気づいて思わず言葉を飲んで凝視した。


「……」


 驚いた。

 常に笑顔で誰にでも優しいウィルロアの、感情の抜け落ちたような初めて見る顔に絶句する。

 それはユーゴの前で毅然とした態度を取っていた時とも違う、諦めたような冷めた顔だった。


「……転んだだけです。気にしないでください」


 ウィルロアは小さく溜め息をつくと、キリクの視線を避けるように顔を伏せて答えた。

 数年前までは自分を慕い、追いかけて来た少年の変わり様に、戸惑いはしてもそうさせたのは自分だと分かっていたから何も言えなかった。

 去り行く背に声をかける資格は無い。

 ウィルロアに抱いた当時の苛立ちや不快感を思い出す。

 恥ずかしいことだが、この時初めて彼を酷く傷つけたのだと気付いた。


 翌日、キリクはウィルロアの怪我が気になったので部屋を訪ねることにした。

 また昨日のように避けられるかもしれない。変なプライドが働いて供を付けず一人で訪ねた。

 ウィルロアの部屋は王城の片隅に用意されていた。

 初めてウィルロアの居住区に足を運んだキリクは、既に違和感を覚えていた。なぜ使用人に一人も会わないのだろう?

 入口に立つ護衛は欠伸をして怠けていたし(キリクを見て慌てて姿勢を正した)、廊下は静まり返っている。

 これがデルタの来賓をもてなしている姿か。オリガの言う嫌がらせもだが、職務の怠慢が顕著に現れていた。

 しかし部屋の前に行くと一人の男が立っていた。侍従かと目を凝らすと意外な人物だった。


「オルタナ公爵?」

「!」


 オルタナはこの国の公爵にして将軍だ。ラステマのように王立騎士団と国軍が分かれていないデルタでは、国軍が王城の警備を任されていた。

 だからオルタナがウィルロアの部屋の前にいるのは、そこまで不思議な光景ではない。しかし不思議なのは、公爵は帯刀している鞘から剣を抜き、扉の前で仁王立ちをしていた。

 まるで、今からウィルロアに危害を加えようとしているかのように――。


「何をし――」


 言い切る前にオルタナはキリクの口を塞いだ。くぐもった叫び声が漏れる前に、静かにするよう人差し指を添える。


『犯人は君だね』


 扉の奥から聞こえる声はウィルロアのもので、彼は誰かと話をしていた。

 オルタナはキリクの口を抑えたまま、片方の手を伸ばして扉を少しだけ開けた。中の声が良く聞こえる。


「君が僕に毒を盛ったのはこれが初めてじゃないよね」


 思わずオルタナを見上げる。キリクが暴れないのを確認すると、抑えていた手を離して頭を下げ非礼を詫びた。

 なんとなくオルタナの意図は分かった。黙って様子を見ていろというのだろう。

 彼は待機していたのだ。部屋の前でウィルロアに危害を加えようとした者を捕らえるために。いや、すぐに部屋に突入しない所を見ると、危険があればすぐ助けられるよう抜刀して様子を窺っていたのだ。

 オリガの言葉を思い出す。ウィルロアは自分で何とか出来ると言っていた。それが今、目の前で起こっているのだ。

 キリクもオルタナに倣い、息を潜めて耳を澄ました。


「これは復讐だ」

「復讐?」

「ああ。私の祖先はラステマ人に殺された。祖先だけではない。多くのデルタ人がお前らラステマ人に嬲り殺された! 因果応報だ!」

「戦争に正義も悪もない。殺し殺されたはお互い様だと思う」

「黙れ悪魔が! 我々は和睦を望んでいない! お前さえいなくなれば全てが解決するんだ!」


 今にも襲いかかりそうな男に気が気ではなかった。

 自分に毒を盛った男と対峙するなんて、ウィルロアは怖くないのだろうか。何故こんなにも冷静でいられるのか。

 今すぐにでも男を捕まえて止めるべきだが、オルタナがじっと耐えているのでキリクも我慢した。


「先祖の恨みを晴らすために君は君の家族を犠牲にするんだね」

「……なに?」

「奥さんと子供が二人いるそうだね。家族も和睦に反対なのかな。ラステマ人を殺したいほど憎んでいるのかな」

「黙れ! 家族は関係ない!」


 男は明らかに動揺していた。


「関係あるよ。だって君は他国の王子に毒を盛るという重罪を犯した。捕まれば一族全員吊るし首。それがこの国の法だ」

「そ――」

「これはデルタの明らかな反逆行為。僕が訴えるか、ここで息絶えればラステマは黙っていないし、報復に戦争を起こすだろうね」

「ふ、不可侵条約があるだろう!」

「大国ラステマにその効力がどれほど作用すると思う? 破棄宣告をすればいいだけの話だ」


 大国の王子が発する言葉だからこそ言葉に重みがあり、嫌な現実味があった。

 ウィルロアの脅しで逆に犯人が追い詰められているのが見て分かる。

 今までは黙って耐えていただけの少年が牙を向けたものだから、酷く動揺していた。


「死んだ者の復讐に今を生きる人間を犠牲にする。それが正しいこととは思わない。復讐に意味が無いとは言わないが、復讐から生まれるものは何もないと僕は思う。君の将来と家族を犠牲にしてまで何を得られるというの」

「……」

「僕は和睦の象徴としてこの国に貴賓として招かれたラステマの王子だ。ただの憎き敵国の子供はではないんだよ。最初から僕を軽んじるべきではなかった」


 反論できないと悟ったのか、男は降参し膝から崩れ落ちてしまう。キリクが男を捕えるために動こうとすると、またしてもオルタナが手で制した。

 何故止めるのか理解できなかった。次に発したウィルロアの言葉で更に混乱した。


「次に同じことをしたら、僕も黙ってはいない」

「?」

「家族の命を天秤にかけても、僕をまだ殺したいほど憎いのなら、もう一度毒を盛ればいい。だけど僕は屈しない。和睦は必ず成功させるし、次は君を諭すのを諦めて軍に差し出そう」


 あろうことかウィルロアは、犯人を見逃がそうとしていた。

 正気の沙汰ではないと駆け出しそうになるが、オルタナに肩を掴まれ扉の影に身を隠される。直後に扉が開いて一人の従者が走り去って行った。

 本当に逃がしてもいいのかとオルタナを振り仰ぐ。彼は終始ウィルロアの部屋を窺っていた。


「騙されて馬鹿な奴だ。ラステマが俺なんかのために戦争するわけないだろ……」


 ウィルロアの呟きは扉が閉じられるとともに消えていった。直後に押し殺すようなうめき声が聞こえた。


「う、うう……ぐ」


 まさか、ウィルロアは既に毒を飲んだ後なのか!?


「ウィルロア様。先程従者が慌てて出ていきましたが何かございましたか?」


 キリクを押しのけてようやく動き出したかと思えば、オルタナは中に入らず扉の前で訊ねた。

 早く助けに行かなければならないのに、一体何をしているのか。

 部屋の中からは、「いいや」という予想外の答えが返って来た。


「何も、ないよ。少し疲れたから、もう休む。呼ぶまで……っ誰も、近づかないで――」


 キリクは唖然とした。そしてオルタナを見上げた。オルタナは小声で、「殺傷能力はありません」と、まるで毒の成分を知っているかのような口ぶりで答えた。


「犯人の目的はウィルロア様を追い出すことで、いつも微量の毒を盛っていました」

「いつも?」


 こんな、こんな仕打ちを――。何度も繰り返してきたのかと驚愕する。

 オルタナは慣れたように「解毒薬を持ってきます」と告げて走って行った。

 残されたキリクは扉の前で呆然と立ち尽くした。

 ウィルロアは一体、これまでにどれだけの苦境を潜り抜けて来たのか。どれだけ、一人で苦痛に耐え忍んできたのか。

 扉を開けて、ふらふらとした足取りで部屋に入っていく。

 部屋には装飾品がほとんどなく、もう何年も暮らしているとは思えないほど質素で物寂しい部屋だった。

 訪ねて来る者もいないのか、ソファには本が無造作に置かれている。

 こんな、寂しい場所だとは思わなかった。公務で見かける度に華やかな笑顔を振りまく彼とは正反対の、淋しい部屋だった。

 ウィルロアはキリクが入ってきたことにも気づいていない。ベッドに倒れ込むようにして枕に顔を埋め、声を潜めて唸っていた。

 側に駆け寄り、枕から顔を離してベッドに横たえさせる。水差しの横には少し吐いた跡があった。


「……カトリ?」


 胡乱な目のウィルロア。何故そこでカトリの名前が出るのだろう。


「何故犯人を庇った」


 答えを望んで訊ねたわけではなかった。犯人に対する怒りと、ウィルロアの寛大な処置に憤り、目の前で苦しむ姿に胸が痛んでつい責めるような口調になってしまう。

 ウィルロアは苦しそうに目を閉じた。


「庇うつもりなんて、ない。ただ知られたら、和睦が駄目になる……。それじゃあカトリと、結婚できなくなるじゃ……」


 また、カトリの名前。


「カトリを知っているのか?」

「……王家の間で、肖像画を見た」


 王家の間とは歴代の王族の肖像画が飾られている部屋だ。ウィルロアはそこでカトリの肖像画を見つけたらしい。


「僕の、唯一の仲間」

「仲間?」

「うん。カトリがいるから、僕は頑張れる。カトリがいるから、耐えられる。カトリに笑顔でいて欲しいから、僕も、笑っていなければ……」


 キリクは激しい後悔に苛まれた。

 孤独の中でカトリを想い、心の拠り所にしていたなんて、知らなかった。

 遠く離れた妹の身を案じ、笑顔を取り繕っていたのだとは思わなかったのだ。

 孤独に耐える健気な姿に胸が切り裂かれるように痛んだ。


「違う、違うんだウィル。君は――」


 君は本当の婚約者ではない。

 デルタもラステマも、君がいない所でアズベルト王子とカトリが結ばれるのを望んでいる。

 その努力も想いも報われはしないのだと、思わず真実を告げそうになった。それを僅かばかりの理性で堪える。

 言うべきではない。真実を知れば、いくらウィルロアが自己犠牲の塊のような男でも耐えられないだろう。もし自暴自棄になってしまったら、折角の和睦も水の泡となる。

 個の感情に引っ張られて大局を見誤ってはならないと自分に言い聞かせ、唇をぐっと噛んだ。


「あれ? キリク?」

「あ……」

「なんだ、夢かぁ……」


 意識が朦朧としている中で、ウィルロアはキリクをカトリと勘違いしていたようだ。


「夢でもいいや。カトリに会えたから。毒を飲んだ甲斐があった」

「馬鹿を言うな」


 気安い口調のままなのは、まだ正気を取り戻せていないからだろうか。

 扉が開いて、オルタナが小瓶を抱えて戻って来た。

 慣れた手つきでウィルロアを起こし口に流し込む。

 喉が上下して薬を飲み込んだことを確認すると、ベッドにゆっくりと降ろして布団をかけた。

 薬を飲んだウィルロアは苦しそうに顔を歪め、大きく息を吐く。


「――つらい」


 それは、ウィルロアがデルタに来て始めて吐いた弱音だった。

 零れ落ちるように紡がれた呟きに、どれほどの苦痛を我慢してきたのかと胸が締め付けられる。

 寂しいわけがなかった。馬鹿な事をした。もっと早く助けてやるべきだった。

 父から忠告を受けた時、友人のように接することは出来なくてももっとやりようがあったはずだ。

 飾り気のない部屋がここでの暮らしを物語っていた。彼を孤独に追いやってしまった後悔が押し寄せ、同時に取り戻せない時間があることに今更ながら気づいた。


「薬が効いたようです」


 キリクは腕で乱暴に目を擦り、ウィルロアの容態を確認した。

 荒かった呼吸は整い、眠っている様だ。

 天使のような寝顔に、あの輝くような笑顔と信頼をもう一度取り戻せるなど思い上がりだった。元の関係を望むこと自体が過ちだったのだ。


「ごめんな、ウィル」


 キリクは部屋をそっと後にした。



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