ラッキーイベント!?
デルタで人質として暮らしたウィルロアは、その経験から警戒心が強く、眠っていても小さな物音で目が覚めた。
夜も更けった頃、眠りについたウィルロアの部屋で僅かにドアノブが回る金属音がした。
普通なら気付かない小さな音でも気付いて起きた。
そういえばここは鍵のついていないエーデラルの部屋だったと思い出す。
扉に背を向け、横向きで眠った振りをしたまま耳を澄ました。
やはり気のせいではなかった。静かに開けられた扉から衣擦れの音がした。
部屋はカーテンを閉め忘れたおかげで月明かりが漏れ、うっすらと侵入者の影を映す。
物音を立てず一直線にこちらに向かってくる侵入者に、警戒心は最大限に引き上げられた。
部屋の中にある武器に意識を向けたその時だ。
ーーえ?
先制攻撃に起き上がろうとした瞬間、ウィルロアの部屋にありえない花の香りがした。この甘い香りには覚えがある。
カトリ!?
侵入者の足音も影も、あるのは一つだけ。もしもカトリなら、一体何をしにこんな所へ?
きしり……と、軋む音にウィルロアの体も沈む。
うそだろ!?
カトリが布団に上がったのが分かった。
驚きで思わず声が飛び出そうになる。
だめだめだめだめ! なんで俺のベッドに上がるんだよ!?
訳が分からなくて、ウィルロアは背中を向けたまま眠った振りを続けた。
別の緊張感で鼓動が早まる。心臓の音が体中に大音量で木霊していた。
これは……もしかして……。ラッキーイベントか!?
緊張と戸惑い以上に膨らむ妄想と期待は、男子たるもの当然あって然るべき感情だ。誰にも責められまい。
だが俺達はまだ婚約者なわけで、順番は守ってしかるべきだ。
俺はそのつもりだったぞ。それなのにカトリがさ? ベッドに忍び込んできたからさ? お互い同意なわけだし順番とか紳士云々もう関係なくね? てかもう紳士じゃなくてもよくね!?
内心でムフムフ妄想を膨らませていると、侵入者カトリはウィルロアが起きているのも気付かず、ベッドに正座して枕元へ自ら顔を近づけた。
耳元にカトリの生暖かい吐息がかかる。
「あ……ご……く……が……ぎ……」
「!?」
「ほ……ほ……ひ……」
こっわ!
え何? 耳元で呪文みたいなのブツブツ呟いてるんですけど?
どう考えてもラッキーイベントではないと落胆した。
「……め……さ……」
ウィルロアは息を潜め、カトリの言葉に耳を傾けた。
「ごめ、さ……あん、泣いて、ごめ……」
泣きそうな声のカトリは、眠っているウィルロアへ向けて懺悔をしていた。
「お部屋にまで押しかけたりしてごめんなさい。上手く伝えられなくて、自信がないので手紙にしようかと先程まで書いていたけれど、五十枚にもなってしまって、また迷惑をかけてしまうと思い止めました」
……うん。ごめん。それはできれば読みたくないかな。
「直接自分の言葉で伝えたいので、眠ったウィルロア様で練習するのをお許しください」
あ、そういうことね。斜め上いく発想だなー。まぁ、うん、なるほど……。
ウィルロアは少し身じろぎし、それならば、とこのまま眠った振りを続けてカトリの練習に付き合うことにした。
「ウィルロア様が私との結婚で思い悩んでいるのは知っています」
斜め上いく発想だなー。
「デルタの王女である私が嫁げば、ウィルロア様に王への道が付きまとう。今は静観していますが機会とわかれば父は、私が王妃となるよう働きかけるでしょう。今以上に周囲は騒がしくなり、常に大国のプレッシャーが付きまとう。いえ既に苦労なさっていると聞いています。私が望んだばかりに……申し訳ございません」
「……」
「私はいつだって自分のことばかり。アズベルト様のことも、薄情な子と幻滅したでしょう? 私は自分のためなら他人の気持ちを平気で踏みにじるし、あなたに相応しくないと自覚しながら自ら身を引くこともしない。本当に、身勝手な人間なのです……」
静寂の中でカトリの声が震えていた。
「……」
まさかこんなに思いつめているなんて知らなかった。
軽い気持ちで聴き始めた懺悔だったが、見て見ぬ振りが出来ないほど深刻なものだと感じた。
ウィルロアは沈黙を破ってゆっくり振り返った。
声を殺して泣くカトリの手にそっと触れる。肩がびくりと跳ねた。
涙目を見開いたカトリ。ウィルロアは両手を握りながら心配そうにのぞき込んだ。
「おき、起きていらしたのですか!?」
「起きない方がおかしいよね」
先程まで眠っていたので声は掠れていた。
「気付いてあげられなくて、ごめんな」
様子がおかしかったのは俺を心配して思い悩んでいたからなんだな。
「あー泣かないでくれ」
泣きじゃくるカトリに戸惑い、早くその涙を止めて上げたくて一気に話した。
「私は君を薄情なんて思ったことはない。私達は王族だ。私の身に起こる様々な出来事は王族として生まれた私が自分で解決し、責任を持たなければならない。誰のせいにもしないしするべきではない。私が君と結婚したいと望み選択したのだから、君が負い目を感じる必要は無いのだよ」
だから泣くなと慰める。
「ですが、ウィルロア様は、王籍を外れて静かな暮らしをした、したいと」
「そうだよ。のんびり田舎で暮らしたい。君と。分かる? 俺の計画には大前提で君が含まれてるの」
カトリは大粒の涙を溢しながら驚いた顔をした。
「え、マジか。そこから? 俺は絶対カトリと結婚したい。結婚するよ? 分かってる?」
カトリはほんのり顔を赤らめて頷いた。ウィルロアの首から下も赤くなっていたが、顔に到達する前に気合で抑え込んだ。
「よし。一人で悩んで俺のためとか言って辞退されたら嫌だからな。逆に俺がカトリのためにカトリとの結婚を諦めたら、どう思う?」
「嫌です!」
「だよな。だからもう自分のせいで、なんて考えなくていい」
ウィルロアはカトリが泣き止むまで待った。
瞳が大きいと涙の粒まで大きくなるのかな。
カトリの泣き声が徐々に小さくなり、鼻をすする。
「……落ち着いた?」
カトリは涙を拭いながら頷いた。
ウィルロアの手が伸びてカトリの頭をそっと撫でる。
「話してくれてよかった」
カトリはまだ考えているのか、押し黙ったままなのでそのまま遊ぶように髪を梳いたり捩じったりして待った。
「……私は、ウィルロア様が大事にしているエーデラルを紹介されて、とても嬉しかったです」
「ほんと!? よかった!」
「それなのに、失礼な態度を取ってすみません」
「気にしてないよ」
「今の私ではあなたに相応しくないと思ってしまい、手放しで喜べませんでした」
「そうだったのか。手遅れになる前に話し合えてよかったよ。会いに来てくれてありがとう」
ウィルロアが安堵すると、カトリは顔を上げて決意を込めて宣言した。
「私、変わります」
「お」
「逃げずに努力して自分に自信を付けます! 人前で話せるようになりたいし、ダンスも出来るようになりたいし、要領よく何でもこなせるお嫁さんになりたいです。相手の事も敬えるように」
「手紙も書簡では?」
「送りません!」
「ぷはっ」
面白くて可愛くて思わず笑ってしまったが、カトリも照れ臭そうに笑っていた。
もう一度頭を撫でる。するとカトリの方からウィルロアにしがみついて来た。
お互い寝間着姿なので普段より薄着での触れ合いにどきどきした。
「……」
偉そうなこと言ったけど、俺だって同じだ。
自分に自信が持てない。
デルタのお姫様であるカトリに地味な暮らしを強いろうとしているし、アズベルトの妻になれば王妃となり国母となれるのに、華やかで栄誉ある未来を奪おうとしている。
偉そうなこと言ったけど、俺の方こそ我が儘だ。だけど――
「離してやれない」
身勝手だけど、少しでも望みがあるなら自分から手を離すつもりはないんだ。
「あの、でも、このままというわけには……」
「ん?」
カトリは今のこの状況を〝離してくれない〟のだと勘違いしているようだ。まあ、それでもいいんだけど。
「このまま一緒に寝ちゃう?」
ダメもとで紳士じゃない提案をしてみる。
するとカトリは返事をしない代わりに額をウィルロアの胸板にこつんとつけた。
マジで!?
まさかの合意に内心で盛大にガッツポーズをした。
「……………………」
だが、すぐに重大な問題が発生した。
くそっ! 俺にもっと恋愛スキルがあったなら!
どのタイミングで襲いかかればいいのかさっぱり分からない。
あまりの恋愛経験の無さに己を呪った。
「ウィル様」
「はい!」
「……結婚したら、毎日がこんなに幸福で満たされるのでしょうか?」
カトリが顔の向きを変えたので、甘い香りが一層増し、柔らかい黒髪が頬を擦るのがくすぐったかった。
「……カトリは花の香りがするね」
「ウィル様は……太陽の香りが、します……」
そんな事は生まれて初めて言われた。
二人は互いの香りの中で温かい気持ちと幸福感に包まれていた。
よぉーし! 初心者は初心者らしく勢いに任せよう!
せっかく綺麗な話でまとまりそうなところを、下世話な男ウィルロアは妄想を実行に移すことにした。
カトリごと反転し、覆いかぶさるように手をついて起き上がった。
見下ろす形になったが、カトリを直視できない。目を開けられない。心臓が口から飛び出そうだ! いけ俺! 男をみせろ!
「カト――!」
「すー」
「カト―スー?」
「すー……すー……」
すー……って寝とるし!!
一緒に寝るって、そういう意味じゃないんですが!?
「……うそだよね?」
声をかけてみたがカトリは本当に寝ていた。
布団をぱんぱんと無意味に叩いたりもしてみたが起きなかった。
「……泣く」
一人期待を膨らませ、興奮の中で取り残されたウィルロア。
眠るカトリの隣で極力物音を立てずに悶え項垂れた。
たくさん泣いたもんな。手紙五十枚も書いたもんな。そりゃ疲れて寝ちゃうよな。
男心を弄んだ自覚もない少女は、目じりを下げて口を尖らせ、眠っていた。
寝顔超絶可愛い!
安心しきった寝顔に毒気を抜かれたウィルロアは、強制的に紳士に戻されてしまった。
カトリに布団をかけて、自分も背中を向けて横になった。
「……泣く」
起き上がり、念のため二人の間に枕の壁も作っておく。
だからといって眠れるはずもなく、哀しい男の溜息は長く、長ーく続いた。




