王太子の重圧
ずっと、私の中にある、消えることのない怒り。
何に腹を立てているのか、どうすれば消えてくれるのか。
何をしても何処にいても、必ず心の奥底にこの怒りは在り続け、未だ私の中で消えることなく燻ぶり続けている。
ラステマ王国の第一王子として生を受け、生まれた瞬間からこの国の王となることが決まっていたアズベルトは、物心ついた時には周囲からの期待と羨望に囲まれ、逃げ出すことの出来ない唯一無二の高貴な運命を理解していた。
「なんて勇ましい方なのでしょう」
「王族としての威厳は隠すことが出来ないのでしょう」
「立派な王となるよう励むのですよ」
「アズベルト。お前はラステマの次期王となるのだ。民の声をよく聞き、臣下の言葉に耳を傾け、この国をより豊かな国にしてゆくのだ」
生まれた瞬間から貴族も平民も国中の誰もがアズベルトの先に王の姿を見ている。
今のアズベルト自身を見ようとする者はいなかった。
歳の近い子供達の様に外を駆け回り思い切り遊んでみたい。
『大事な御身に傷が付いてはなりません』
何故あの子達と遊んではいけないのか。
『殿下に相応しい御友人をお選びいたします』
珍しく花の種をもらったんだ。花壇に植えたい。
『高貴な殿下のお手を汚すわけにはいきません。私達にお任せを』
やりたいことも友人も、全てが決められたものばかり。そこにアズベルトの意思など存在しない。
思い切り駆けだしたいのに足元には鎖が繋がれ、気づくと底の見えない泥が自分を飲み込み身動きが取れなくなっている。
幼いアズベルトにとって、目に見えない皆の期待が重く暗くのしかかっていた。
だがそれは仕方のないことだ。
何故なら私はこの国の王となる。それが私の運命なのだから。
ところが、弟のウィルロアが生まれるとアズベルトの周囲もにわかに変わっていった。
アズベルトが五歳の時、国は新たな王子の誕生に喜び、幼いながらもその美しさに驚いた。
輝くような金色の髪に大きく澄んだ青い瞳、まるで天使が舞い降りたようだと城中が騒いでいたのを覚えている。
その日から、皆の関心はウィルロアにばかり集中し、母は弟に付きっきりとなり、父は弟の話ばかりを好んだ。
一身に注がれた愛情と羨望は、弟のウィルロアにも同時に、いや自分以上に注がれ、アズベルトはそれがひどく面白くなく心がざわついた。
その期待と愛情は、自分だけに与えられたものではなかったのだ。
王の元に生まれた子供は次の王となる。
だからアズベルトは王になる運命で、だが弟は? ウィルロアも同じように王から生まれた子供である。
自分の居場所を脅かす存在に、五歳のアズベルトは訳も分からず不安で、ただただ怖かった。
「なんだアズベルト。弟に母を取られて拗ねているのか?」
国王である父の問いかけにアズベルトは口ごもった。
「……そんなことは、無いです」
躊躇いながらも意を決して不安を吐露する。
「ただ、ウィルだって父上の血を引く子供だから、僕は……」
「なんだ。もう弟に王位を取られないかと心配しているのか」
「……」
図星を突かれ、情けない姿を晒してしまったことに後悔していると、母がウィルロアを抱きながら優しく語りかけた。
「ウィルロアはあなたを脅かす存在ではなく支える存在ですよ」
「……え?」
「そうだ。兄は弟の見本となり、弟は兄を支えていく。次期国王となるのはお前だ。間違っても今のような弱音を臣下の前で吐くでないぞ。情けない姿を晒してはならん」
「は、はい!」
そう、私はこの国の王となる。
金の髪でも青い瞳でも、弟は私の下にしかなり得ない存在なのだ。
だから気にすることなんてないのに、それでも母の腕の中で安穏と眠るウィルロアに、一度抱いた不安と憤りは消えることなく心の中に潜んでは、徐々にアズベルトを苛んでいった。
アズベルトが取り巻きに囲まれながら訓練場から帰っていると、嬌声が庭園の方から聞こえた。
泥だらけになったウィルロアが護衛やメイド達に追いかけられ逃げ回っていた。
「あ! あにうえー」
「ウィル、そんなに泥だらけで何をしている」
訝しむアズベルトにウィルロアは、青い瞳をきらきらと輝かせ答えた。
「いっしょにいきましょう! なえをやりましょうあにうえ!」
「?」
「兄上様をお引止めしてはなりません」
アズベルトが眉間に皺を刻むと、側に控えたウィルロアの守り役の男が素早く答えた。
「殿下はカリン草の苗植えをしておりました」
「へえ……。それでそんなに服を汚してしまったのか」
「とちゅうでころんでしまいました!」
「まったくお前は……、もう少し落ち着きを持って行動しろ。それから皆を困らせるな」
「はい! あにうえも、いっしょにいきませんか?」
「そうだな――」
「アズベルト殿下はウィルロア殿下と違いお忙しい身です。土いじりなどいたしません」
アズベルトの代わりに自身の取り巻き達が答える。大人げない言い方にアズベルトは心の中でため息を溢し、弟を気遣ってやる。
「苗植えは出来ぬが後で剣術の稽古をしてやろう」
「はい! やくそくですよあにうえ!」
無邪気に庭園へと駆けて戻る弟の姿を、しばらくアズベルトはその場に留まって眺めていた。
「全く、あれが王族ですか?」
皆がウィルロアばかりを構っているわけではない。
アズベルトの周囲は常に欲と保身の塊に取り囲まれていた。彼らはアズベルトを介して自らの輝かしい未来を夢見ているのだ。
「泥遊びなど王子がやることですかね」
「正に王家に泥を塗る行為ですな」
「ははは。お上手だ」
「しかしウィルロア様の守り役は何を考えているのか」
アズベルトもウィルロアを疎んでいるというのに、こいつらが馬鹿にすると何故か腹だたしい。
「それに殿下にも土いじりを勧めるなどもってのほかだ。殿下は選ばれた特別なお方なのですから」
「そうですとも」
「ごもっともです」
アズベルトの気持ちなどお構いなしに、取り巻き達はアズベルトの機嫌を取りながら楽し気に話を進めていく。
本当はウィルロアと共に苗植えだってやりたかった。
誰もアズベルト自身を見る者はいない。
だがそれでいい。王とは、きっと孤独な生き物なのだから。
アズベルトの守り役は名門カンタール家の長兄が付き、近衛騎士団長が直々に剣の指南役、帝王学にはこの国で高名な学者たちが名を連ね、周りは最高の人材で固められた。
十歳になると立太子し、順調にアズベルトは次期国王への道を進んでいった。
私は王となる。この国で一番尊い、偉大な王に。
「ウィルロア殿下がいらっしゃると周りが明るくなるわ」
「美しい容姿だけではない。あの年で気遣いもでき心根もお優しい」
「王子は好奇心旺盛で呑み込みが早いと聞く」
日々努力に勤しみ、成果を上げても何の努力もしていないウィルロアの方が注目される。些末な事でも目を引き、功績とも呼べない小さな結果で大きな称賛を受ける。
違いは成長するにつれ顕著に現れ、日に日に周囲の期待と羨望がウィルロアへ多く注がれるようになった。
詮無い言葉は所々で耳にした。しかしアズベルトがいると知るや、皆目を逸らしてそそくさと去って行く。
「……ふんっ」
確かにウィルロアは人懐っこく好奇心旺盛で賢い。だがそれだけだ。剣術の才能はないし軟弱で努力もしない甘えん坊の泣き虫だ。
自分はこんなにも努力し、我慢し、覚悟しているというのに、なぜだ。なぜ皆弟ばかりを見る。
兄は弟の見本となり、弟は兄を支えていく。
弟は、兄を超えられない。そうやって世の中は出来ている。
それなのにどうして、この胸の中にある苛立ちは消えないのか。迫りくる恐怖はなんなのだ。
私を苦しめる元凶。
「兄上!」
「何だ」
「今日も剣術の稽古につきあってくださいませんか?」
「……そうだな。一時間後に表に出ろ」
「はい! ありがとうございます!」
こんなにもアズベルトはウィルロアを疎んでいるというのに、幼い弟は何も知らず自分を慕っている。
その好意と無垢さが、更にアズベルトを苛立たせるとも知らずに――。
十一歳になったアズベルトは体も大きくなり、帝王学も剣術も順調に身につけていった。一歩一歩着実に輝かしい未来へ進んでいた。
対して六歳になったウィルロアは、相変わらず軟弱で遊んでばかり。
アズベルトは政務も徐々に任され、実績を残していった。実務を任されたことで、目に見える評価をもらうようになる。それは不安定だったアズベルトの土台となり、自信となった。
それでも、心の中にある不安と苛立ちはいつまでも収まる気配はなかった。
西棟から回廊を渡る中程で珍しく父に呼び止められた。
王子の居住区に来るなど珍しい。
「また城の者を辞めさせたそうだな。しかも今回はウィルロア付きの護衛と聞いたぞ」
「……」
アズベルトは内心で舌打ちを打った。
確かにウィルロアの護衛を辞めさせたが、誰が父に告げ口をしたのか。
「護衛があまりにもウィルロアを甘やかすものですから、侍従長に少し話をしただけです」
「しかしお前が苦言を呈して辞めさせた者はもう何人にもなるというではないか」
「……」
「今回の護衛の件は突然のことだったので、騎士団長から理由を問われた」
「ならばその文句を言った騎士団長も辞めさせましょう。王家に口答えするなど失礼ではないですか」
「何を言う。いいかアズベルト。こんなことで簡単に辞めさせてはならぬ」
「……」
「人の上に立つ者には寛容さも大事だ」
「……過ぎたことをいたしました。申し訳ございません」
「うむ」
心にもなかったが謝ると納得して去ってくれた。
「ふんっ」
今回辞めさせた護衛は、アズベルトが少々剣術の稽古に力が入ってしまい、ウィルロアを吹き飛ばしてしまったら生意気にも睨んできたので辞めさせた。その前のメイドは、耳障りな声でウィルロアを褒めちぎるので気持ちが悪いと辞めさせた。その前の料理人も、ウィルロアの好物ばかり出すので辞めさせたし、庭師もウィルロアと親しく話していたので馴れ馴れしいと辞めさせた。
「ウィルのせいで陛下に叱られ、謝る羽目になった」
いつだって全てはウィルロアのせいだ。ウィルロアのせいで――。
「父上!」
視界の隅で廊下を駆けるウィルロアが、先程まで話していた父を呼び止める。
「見てください! カリン草の苗が発芽しました!」
「ほう!」
きらきらと輝く青い瞳。ただ草が生えただけで、何をあんなに喜んでいるのか。
曲がりなりにも王族のくせに土いじりを好む弟が実に腹立たしい。
父上には厳しく叱っていただきたいものだ。
「この苗がいっぱい増えたら、みんなが喜びますよね!」
「!」
「ラステマのみんなが新鮮な野菜を食べられるようになりますよね!」
「……そんなことまで考えていたのか。えらいぞウィルロア」
自分のことは滅多に褒めないくせに、父が叱るどころか弟を褒めたことにアズベルトの内心はざわついた。
「褒めるならロッシを褒めてあげてください」
「なに?」
「これはロッシが持ってきました!」
「? ウィルロアよ、どういうことだ」
「ええと……」
ウィルロアはうまく説明ができず、側に控えていた守り役に助けを求めた。
「以前解雇された庭師のロッシのことです。植物学に精通していた彼はここを辞めて国内を旅して勉強すると言っていました。ウィルロア様がロッシを支援し、種を分け与えて苗が育つ土地と土壌を探すよう頼んだのです」
「こんなに早く良い土を見つけてくれたロッシはすごいですよね!」
「あ、ああ」
「陛下、このままロッシにはカリン草の改良を頼もうと思います」
「そうだな。私からも大臣や識者に協力を仰ごう」
「ありがとうございます」
「父上。僕の護衛だったサイラスも辞めちゃったけど、彼を僕の剣術の先生にしてほしいんです」
「サイラスを?」
「はい。サイラスはとても剣術を教えるのが上手くて、僕は兄上と違って力もないから、僕に見合った稽古をつけてくれたんです。だから――」
「お前は……」
「?」
陛下は床に膝をつき、幼い息子と目線の高さを合わせると、慈しむように優し気な瞳を向けて頭を撫でた。
微笑ましい親子の姿のはずなのに、アズベルトの身体は熱くなり、拳を握って歯を食いしばった。
そして〝それ〟は、アズベルトの冷静さを一瞬で奪っていった。
「ウィルロア。此度の大陸会議にお前も参加するか?」
「たいりくかいぎ?」
「そうだ。この父と共に、ラステマを出て世界の見聞を広めるのだ――っと、これでは説明が難しいか」
「陛下は殿下にたくさんのものを見て感じて欲しいと願っているのですよ。他国の王子もたくさんいらっしゃるので、新しいお友達が出来るかもしれません」
「へぇ! 父上、僕もたいりくかいぎ行きたいです!」
「そうか」
陛下は最後にもう一度、ウィルロアの頭を撫でて相好を崩すと、二人は並んで歩き去っていった。
大陸会議だと!?
そんな大事な外交に、何故私ではなくウィルロアを連れて行くのか。
あんな慈しむような顔を、一度だって私に投げかけたことがあっただろうか。
二人の後ろ姿を燃えたぎる怒りで睨みつけた。
唯一人、アズベルトの視線に気づいた者がいた。
ウィルロアの守り役の男が、振り返ってその身で守るよう視線を遮り、無言で去って行った。
「大陸会議には私が行く」
「ウィルロアでは幼過ぎる」
「あいつが行くなら私も行く!」
時間が経てば経つほど怒りは増し、苛立ちは抑えきれない。
部屋の中でカップを投げつけ割れんばかりの大声で怒鳴った。
アズベルトの癇癪は一日中収まることは無かった。
近づく会議で父は忙しく取り合ってももらえない。自分の思い通りにならないもどかしさが更にアズベルトを苛立たせた。
「陛下はひと月も国を空けるのです。王太子であるアズベルト様がいるからこそ、安心して国を任せられるのではないでしょうか。あえて城に残っていただきたいというお考えなのでしょう。殿下を特別頼りになさっておいでなのですよ」
「……」
自分の守り役兼侍従であるハリスが、アズベルトの前に新たな紅茶を置いていく。
納得はいかない。しかしハリスの考えも一理ある。
たしかに、私が国を空けては陛下が心もとないのかもしれないな。
怒りを全てぶちまけた後の僅かに出来た心の余裕に、守り役の言葉はするりと入った。
自分は頼られ、王太子として期待されているという見方が芽生える。
緊張しながら控えるメイド達が、主が本来の用途であるティーカップを投げつけることなく手に持ったことでほっと胸を撫で下ろした。
そういえばと、お菓子を取り分けるハリスに、先日の不快な出来事を話した。
「お前の弟は生意気だな。王太子である私を睨みつけてきたぞ。あいつがカンタールの人間じゃなかったら他の奴ら同様すぐにでも辞めさせたというのに……」
「申し訳ございません。レスターには私からも注意しておきます」
「ふんっ」
まあいい。今度の海外使者にあいつを推薦してやろう。そうすれば目障りな男を見なくて済む。
私の守り役ハリスは、名門カンタール家の次期当主である長兄。対してウィルロアの守り役は、同じカンタール家でも出来損ないの弟の方。
生まれた瞬間から、弟は兄を超えられない。世の中はそうやって出来ているのだ。
密かな優越感に浸りながら、アズベルトは留飲を下げて紅茶を啜った。
「大変な事が起こったぞ!」
「歴史的瞬間だ!」
「「ラステマとデルタが歩み寄った!」」
大陸会議では大きな騒動が起こっていた。
長年いがみ合っていたラステマとデルタの王が言葉を交わしたのだ。
もしかしたらこのまま和平の道に突き進んでいくのではないか――。
そんな期待と戸惑いが、大陸中に広がっていた。
アズベルトも周囲の騒ぎに漏れることなく、興奮して帰国した父の元へ急いだ。
執務室前の門兵に声をかけ、お目通りを願う。
『では、デルタと本格的に和睦を推し進めていくのですね』
『ああ。関係各所にその旨伝え準備するよう命じておけ』
『かしこまりました』
執務室では既に先役がおり、この国の老齢の宰相が陛下にお目通りを済ませていた。
アズベルトは扉の前で待つ振りをしながら、扉を少し開けて聞き耳を立てた。
「しかし、大陸会議では一体何があったのですか? その、急な事で我々も驚いております」
「そうだな。私自身も驚いておる」
父の曖昧な言い方にアズベルトは首を傾げた。デルタとの一件は王の英断ではなかったのか。
「実は、きっかけはウィルロアなのだ」
「!」
「ウィルがデルタの王子と仲良くなり、あろうことかデルタ王に直接野菜の育て方を聞いたそうだ」
「や、野菜ですか!?」
「ああ。デルタ王は真っ赤になって怒ったそうだ。『私を誰だと思っている!』とな」
「デルタの王を農夫扱いしたとは、なんと恐ろしい……。そ、それでウィルロア様はなんと」
「ウィルは堂々と『あなたは豊穣の国デルタの王様です』と答えたという」
「! ウィルロア様はデルタ王を馬鹿にしたわけではなかったのですね」
「ああ。自分ではどんなに頑張ってもうまく葉が育たないのだと真剣に相談したそうだ。無垢で勇敢な姿に毒気を抜かれ、デルタ王も豪快に笑って私の元へやって来た。息子を褒めてくれたよ。それがきっかけだ」
「そんなことがあったのですね……」
「面白いな。あいつは実に面白い。私は、ウィルロアの将来が楽しみで仕方ない――」
アズベルトは目的も忘れ、最後まで聞くことなく駆け出していた。
「兄上! 僕、たいりくかいぎで兄上におみやげをたっくさん買ってきたんです!」
「訓練場に一人で来い。今すぐ稽古をつけてやる。今すぐだ!」
羨望の眼差しで付いてくる弟が、この日はやけに眩しく、アズベルトは目を開けていられなかった。
心の中に燻ぶり続けた怒りは燃え上がり、自身にも襲い掛かる。
真っ暗で、吐きそうなほど胸やけがひどかったのを覚えている。
『ウィルロア!』
『あぁ、殿下!』
耳なりの奥で、くぐもったような声がする。
「……?」
ここはどこだ?
周りを見て、自分が訓練場に来ていたのだと気づく。
つきつきと疼痛がして視線を落とすと、その手にはいつの間にか木剣が握られ、木の目に沿って赤い血が滲んでいた。
なんだ?
これは誰の血だ?
ぼんやりと視線を彷徨わせると、ウィルロアが足元で意識を失い倒れていた。
その顔に血の気はなく、無数の泥と傷が体中に付いて頭からは血が流れていた。
この血は……、ウィルロアの血なのだろうか。
駆け付けた守り役のレスターが勢いよく抱き起すので、頭を怪我しているのだから動かさない方が良いのではとアズベルトは思った。
「アズベルト! お前は何てことを――!」
目の前に現れた父に両腕を強く掴まれる。痛みで顔をしかめた。
アズベルトの中で、何かが壊れていく音がする。
「私じゃない……。だって皆が……、私がやったんじゃない……。ウィルばかり目にかけるから……、私は何もしていない……っ!」
「アズベルト――っ」
アズベルトは本当のことを言ったつもりだ。何故なら王太子が、弟を傷つけるなんてあってはならないのだから。
父が、皆がウィルロアばかり褒めるから。
ただ、この手に残る、理解しがたい感触は、あまりに怖すぎて認める事が出来なかった。
父は目を見開き何も言わずアズベルトを見ていた。
その泣きそうな、苦しそうな、なんとも表現できない瞳が、今でも脳裏に焼き付いて忘れることが出来ない。
アズベルトは訓練場の一件から自室に籠っていた。健康なのに医師の診察を受けねばならなくなった。
「私は何てことを! 実の弟を傷つけるなんて、これでは王になどなれるものか!」
冷静になれば記憶はなくても自分がしでかしたことは推測できた。
「大丈夫です。その高貴な身に傷が付くことはございません」
自分の狂気に怯え、罪の意識に圧し潰されそうだ。
「父上はきっと失望なさったに違いない……!」
「いいえ。陛下は殿下をお守り下さるでしょう。何も恐れる事は無いのです。真に守られるべきは、次期王であられるあなた様なのですから」
「守られるべきは、私……」
罪の意識に苛まれながら、取り巻き達の甘い無責任な言葉に縋るようにアズベルトは審判の時を待った。
結果は、取り巻き達の言う通りだった。
アズベルトが関わったという事実は表沙汰になることなく事件は処理された。
ウィルロアの怪我はお転婆な王子が一人訓練場で転び、打ち所が悪かったということで片付けられた。
アズベルトの悪事は闇に葬られた。
全ては私が王太子だから。
こうしてこの高貴な身は守られるのだ。
「ウィルロア殿下は意識を取り戻し、傷も残らず順調に回復なさっているそうです。ただ前後の記憶がどうやら曖昧なようで……」
ハリスの報告に側に控えた取り巻き達が「よかったですな!」と笑っていた。
それはウィルロアが無事なことより、アズベルトの罪を覚えていないことに安堵しての喜びだった。
アズベルトも、もう何も心配することは無いと安堵した。
その日から、両親のウィルロアに対する態度は急変した。
あんなに可愛がっていたウィルロアを遠ざけて、厳しい態度で接するようになった。
取り巻き達は一様に、それはアズベルトのことを想ってだと言った。
王には長兄であるアズベルトがなると決まっている。弟ウィルロアに目をかけすぎれば、臣下の中でも不協和音が生まれてしまう。陛下はようやくそのことに気付き、自らを省みて下さった――と。
しかしアズベルトには分かっていた。
ウィルロアを可愛がれば、再びアズベルトが弟を傷つけるのではと両親は思っていた。
本当に父が想っているのは私か? ウィルロアではないのか?
それでも国王がウィルロアを遠ざけてくれたおかげで、徐々にアズベルトへと期待と羨望の眼差しが戻って来た。
初めからこうしておけばよかった。
ただウィルロアは、両親の変化に戸惑い、寂しくしている姿が多くなった。
「兄上……、隣で本を読んでもいいですか?」
そんな時は私の元へやって来て、寂しさを紛らわすように側にいたがる。
両陛下が冷たくなったのは、お前の身を守ためなのだと、幼く、記憶を失くしたウィルロアは気付きもしない。
「……ウィル、いつまでも絵のついた本を読んでいるな」
「へへ」
「……気色悪い笑い方をするな」
「はいっ!」
「……」
お前が憎いわけではないのだ。
お前が下手な事さえしなければ、周囲が黙っていてさえくれれば、私はお前に危害を加えなくて済む。
これで元通り、望んだ通りになったというのに、この乾いた心と苛立ちは、結局いつまでも消えるどころか増すばかり。
そして周囲も、決してアズベルトの思い通りにはなってくれないのだ。
それからラステマは、デルタとの和睦に向けた調整を着実に進めていった。
長年続いた遺恨を払拭するためにも、和睦は教皇庁を介した誓約のある条約として締結することになり、更に国民の反感を抑えるため、長い年月も設けると決まった。
アズベルトはデルタに対し特別な感情があるわけではなかった。
しかし和睦成立のためにそれぞれの王子と王女を交換して、結婚させるという話になった時はさすがに他人事ではなくなった。
「私に……、デルタに赴けと?」
「まだそうと決まったわけではない。永劫の和睦を結ぶためにはデルタと縁戚関係を結ぶのが好ましい。そのために友好の証として互いの子供を預けることになった」
「ならばウィルロアに行かせてください。私はこの国の王太子ですよ!?」
危険な場所へ、供も護衛もなく単身乗り込むなんて命の保証があったものではない。
それにここを、国を離れている間にウィルロアに王位を奪われるようなことがあっては――想像しただけで恐ろしい!
父は黙っていたが、アズベルトは絶対に嫌だとデルタ行きを渋った。
同時に、アズベルトの周囲でも事件が生じた。
カンタール侯爵家の代替わりがあったのだが、次期当主はアズベルトの守り役である長兄ハリスではなく、ウィルロアの守り役である次兄レスターに決まった。
元々カンタール家というは、例え女であっても実力が伴えば当主となった例もあるほど実力至上主義の特殊な家系であった。
アズベルトからしたら忌々しい慣習で、自分の守り役も長兄のくせに弟にその座をみすみす明け渡すなど情けなく、側に置くのも目障りだと直後に辞めさせた。
更にレスター=カンタールは陛下と現宰相の推薦で、次期宰相になることも決まったという。
和睦に向けて、高齢の宰相からこちらも代替わりを進めることになったらしい。
突然の人事に城中は大騒ぎだったが、アズベルトの心中程ではなかっただろう。
レスター=カンタール。
訓練場で血を流すウィルロアを抱きかかえ、殺気を放ってアズベルトを睨んできた男。
次期国王であるこの私を疎んでいる男が、ウィルロアの守り役をしていた男が、カンタール家の当主にして次の宰相になるというのか!
「セーロン。私が王となった暁にはお前を宰相にしてやろう。だから私の手となり足となれ」
「もとより殿下に忠誠を尽くしております故、何なりとお申し付けください」
「私はデルタに行く気はない。後継者としてこの国に留まらなければならない」
「勿論でございます。高貴な身を、あんな田舎で野蛮な国に差し出すわけにはまいりません」
「ああ。そこで頼みがある」
「何なりとお申し付けください」
「人を使いウィルの身に危険が迫っているとそれとなく仕掛けてほしい。そうすれば陛下は私からウィルを遠ざけようとなさる。デルタ行きはあいつに決まるはずだ。
「なるほど」
「だがウィルの身には傷一つ付けるな。怪我を負ってデルタ行くが叶わなくなっては困るからな」
「かしこまりました」
セーロンの手の者によるウィルロアに対する嫌がらせは、直ぐに父の耳に入ることとなった。
アズベルトの読み通り、父はウィルロアをデルタへ行かせることを決断した。
同じ危険でも、実兄の手にかかるよりマシだと思ったのかもしれない。
「この国のために僕に出来ることがあるのなら、よろこんで引き受けます」
それは虚勢か嫌味か。本心ならば、お気楽で馬鹿なただの子供である。
両陛下の仮和睦宣言の後、直ぐにウィルロアは単身デルタに向かった。
和睦の象徴とは言うがこんなもの、ただの人質としか思えない。
そしてラステマには同じようにデルタから人質としてカトリ王女がやって来た。まだ六歳の、本当に小さな子供だった。
「何だそれは?」
テーブルに置かれた見たことのない封筒に花が添えられている。
「カトリ王女からです。お話しするのが苦手なようで、お手紙でご挨拶申し上げるそうです」
カトリには東棟の一区画を居住区として設けられた。数人のメイドを配置し、慣れるまでは表に出ず静か過ごすという。それは母である王妃の配慮だった。
単身敵国にやって来て、幼い子供が親も味方もない場所で暮らして行くには大きな負担がかかっていた。
カトリは怯え、塞ぎ込んでしまったそうだ。王妃はそんなデルタの王女に寄り添い、親身になってあげていた。
あの軟弱な弟も今頃は情けなく泣いているに違いない。十年も耐えられず途中で根をあげて帰って来るのではないか。
そんなアズベルトの予想も、あながち外れてはいなかった。
人質交換から七年も経とうかという頃、突然カトリがデルタに引き戻された。
というのもデルタで暮らしていたはずのウィルロアが、突然城を抜け出し行方不明になったという。
「それでウィルロアの安否は?」
「分かりません」
「すぐに捜索を出せ!」
デルタからの情報では、ウィルロアの私室には『家族に会いたい』という書置きが残されていたという。
七年も暮らしておいて今更騒ぎを起こすとは、迷惑な奴だとアズベルトは憤慨した。
両国はウィルロアの筆跡で置手紙があったことから、ウィルロア自ら城を抜け出しラステマに逃げ帰ったと判断された。
事件性はないというが、未だその身の安全が分からぬことに、ラステマ城内は大騒ぎとなり大捜索が行われた。
そして知らせを届けたデルタ王国のオルタナ将軍は、カトリ王女を今すぐ連れてくるよう言った。
デルタに非はないのだからこれでは約束が反故になると、ウィルロアが見つかるかデルタに戻るまでは、カトリもラステマに留まる必要はないと連れ帰ってしまった。
ウィルロアの家出で両国は大きな騒動となった。
和睦の象徴である王子が家出をし、王女は自国に引き戻されるとは、こんな有り様で本当に和睦が結べるのか。
「情けない奴だ」
「口を慎め!」
珍しく父が不機嫌にアズベルトを叱るので、忘れかけていたあの苛立ちが蘇って来てしまった。
「ウィルロアはラステマに帰ると言ったのだ。近くで道に迷ったのかもしれん」
「事件に巻き込まれたのではないでしょうか。どうか、無事でいて……!」
連日連夜まで捜索は続けられたがウィルロアは見つからなかった。
憔悴していく両親に代わってアズベルトは淡々と政務をこなしていった。
それから十日後。ラステマの必死の捜索は無駄に終わることとなる。
デルタからウィルロア発見の知らせが届いた。
ウィルロアはラステマに着くことなく自らの足でデルタに舞い戻ってきたそうだ。
ウィルロアは祖国が恋しくなり突発的に城を抜け出した。ところが道に迷い、デルタの森を彷徨い歩いたという。
特に怪我もなく元気だという知らせに一同は安堵した。
ウィルロアが戻ったことでカトリも再びラステマへ戻り、人質交換は何事もなかったように続行された。
アズベルトは密かに騒動を起こしたウィルロアに処罰が下されるのを期待した。
しかし今回の一件は不問とされた。
王子にとっては幼少期から家族と離れ離れで暮らしていたということもあり、同情されたようだ。
どうやらウィルロアの逃亡の原因にはデルタも少なからず関わっていたようだ。
弟のデルタでの暮らしを探り聞いてみたら、手厚くもてなされてはいるが、城中から冷たい目で見られ、同年代の子供達からも虐めにあっているらしい。
なるほど。それで耐え切れなくなって逃げ出し、デルタも大きく出られなかったのだなと納得した。
同時に、自分が行かなくてよかったと心から思った。
十四歳になったカトリ王女は、ようやく表舞台にも姿を現すようになった。
しかし、あまりの不愛想さにラステマの民は憤っていた。
アズベルトにとっては、同じ城でデルタの王女が暮らしていても関係なかった。
滅多に姿を見せないので何年かはカトリの存在自体を忘れていたくらいだ。
そんな中で開かれた舞踏会。
珍しく参加した王女をまじまじと見れば、皆が言う様に噂通りの無表情な女。
ダンスも不得手で社交も皆無。こんな欠陥だらけの王女とウィルロアが結婚とは、笑ってしまう。随分とお似合いではないか。
アズベルトにとってカトリは、愚弟の婚約者という認識でしかなかった。
あの日までは――。
アズベルトが供も付けず一人で庭園を抜けて農園に向かっていると、近くで偶然にもカトリと会った。
カトリの周囲には侍女や護衛、庭師が控えており、一同は驚いた顔をしながらもアズベルトに道を譲って礼をとった。
こんな地面が舗装もされていない場所を、アズベルトが通るとは思ってもみなかったのだろう。
アズベルトだって不意の出来事に少なからず動揺していた。
カトリは簡易な服を着ており、その手には花の苗が握られている。
「……王女が土いじりとは。デルタでは普通のことでもラステマでは控えていただきたい」
「……すみません」
「ふんっ」
アズベルトはそのまま踵を返すが、カトリが「あの」と小さな声で呼び止めた。
「なんだ」
「農園に用があったのでは?」
「……」
アズベルトが自分の目的を誤魔化したというのに、この無表情王女はそんなことにも気づかず、ずけずけと言葉にするとはなんて配慮の無い女だ。
アズベルトが何も答えず再び不機嫌に背を向けると、カトリも懲りずに呼び留めた。
「あの、もしよろしければ、一緒に苗を植えませんか?」
は? 何だこの女は。頭がおかしいのか?
「太子が土いじりなど、デルタとは違うのだと忠告しただろう!」
アズベルトの怒声に控えた侍女達が身を竦め、震えながら更に頭を垂れた。
「……出過ぎた真似をいたしました」
カトリは直ぐに非礼を詫びたのだが、相変わらずの無表情で臆することなく苗植えに取り掛かった。
アズベルトはというと、何故かその場から足が離れず、じっとカトリの作業を眺めていた。
「……ラステマで花は育たぬ」
「……」
「無駄なことだ」
「それでも、この先の農園ではカリン草が育ったと聞きました。ウィルロア様が幼い頃に改良なさったとか」
「……」
「そして今は、アズベルト様が苗を絶やさないよう農園の管理なさっていると」
「違う」
「この先には農園しかございません。御用があったのは畑にではないのですか?」
「何故私がそんなことを――」
「お優しいのですね」
「!?」
「私も、ただラステマにいるだけでなく、この国に花々の癒しを届けたいと思っております。アズベルト様も、いつも遠くで寂しげに庭園を眺めておいでですから、花が咲けば、少しはお心を癒せるかもしれ――」
「ふざけるな!」
アズベルトは大声でカトリの話を遮ると、今度こそ踵を返して大股で城に戻っていった。
私が、優しいだと? 寂しげだと? 癒しが必要だと?
なんなのだ。無愛想のくせに。無口のくせに。何故そんなことを、何故急にあんなにべらべらと――。
カトリの饒舌の理由はその後で分かった。
同じ城内で暮らしているのだからアズベルトが意識すればカトリを見つける機会はある。
その中で偶然にもカトリが図書庫で置き忘れた日記を目にした。
日記の中はウィルロアのことでいっぱいだった。
先日アズベルトと会った苗植えの箇所で、カトリはこのように綴っていた。
『ウィルロア様が残していった花の種を見つけた。ラステマに戻った時に、庭園に少しでも花々が咲いていたら驚くかもしれない。喜んでくれるかもしれない』
期待と夢が膨らんだ言葉に、日記の中には無表情ではない、年相応の婚約者に想いを馳せる少女がいた。
あの時饒舌だったのは、ウィルロアとの淡い未来を夢見ていたからだろう。
そうだ。カトリはウィルロアの婚約者だ。
それなのに、寂しげだと癒したいと言ったことも、会ったことさえ記されてはいない。何一つ自分のことが綴られていないのが酷く腹立たしかった。
「大変です! ソルディ山脈で山火事が発生しました!」
「!」
「至急会議の間へお越しください」
水資源の乏しい乾いた広大な土地のラステマで、火災は正に天敵だった。
中でも一度山火事が発生すれば一気に被害は拡大していく。
すぐさま対策会議が開かれ、責任者としてアズベルトも名を連ねることになった。
大規模な天災を前に、人の手では抗うことも難しく、日照り続きの不運も相まって被害は拡大していった。
ついに火の流れはソルディの街まで呑み込み、犠牲者も多数出てしまった。
「周辺の街にも避難指示を出せ! 人命第一に動くのだ」
「しかし避難場所は既にパンク寸前です!」
「物資も滞り、折角火の海から逃れてもこのままでは飢え死にしてしまいます!」
「……っ」
私は王となる身なのに、民を守り導く者なのに、なんて無力なのだ。
なぜ何もできない。なぜ動けない。なぜ自分はこんなにも――。
「!?」
アズベルトが慌ただしく廊下を駆けていると、突然服を掴まれて足が止まった。
アズベルトを引き留めたのは、いつもの無表情姿のカトリだった。
「わ、私を、会議場へ……」
「何だと? 神聖な会議場に敵国の、しかも女を連れて行けというのか」
「……」
「礼節を重んじる私が許すと思うか?」
アズベルトは皮肉たっぷりに鼻で笑って見せた。
「お、思います。あなたは自分の民が傷ついて、心を痛めています。私が、デルタの支援を申し出れば、きっとあなたは受け入れて下さる」
「!」
何なのだ。何なのだ、この女は――!
「ならば私の我が儘だと通しなさい! 食料も衣類も水も! 全て私が欲しがっているから送れと言えばいいのです!」
ラステマの民を救うため、デルタに向けて叱責するカトリ王女のそのあまりにも普段の様子とかけ離れた勇ましい姿に、一同は呆気に取られていた。
そして言葉通りデルタの支援を勝ち取ると、あろうことか王女自ら被災地へ赴き、一人一人に励ましの言葉をかけたという。
不思議なことにカトリがソルディに到着して間もなく、被災地周辺にだけ大雨が降った。
山火事は波が引いたように沈静した。
「奇跡だ……!」
「カトリ王女はラステマの女神だ」
「あの方は私達の恩人だ」
「無表情だ無口だと謗り、私達はあの方の真のお姿を見ようとしなかった」
「真にラステマを想う慈愛に満ちたお方だった」
カトリの大活躍はラステマ国民に広がり、彼女の行動が人々の認識を変えていくこととなった。
この……女は……。
それはアズベルトも同じだった。
アズベルトの周囲は常に人で溢れていた。そのほとんどが、彼の背に次期王という地位を見出し気に入られるための手段だった。
その言葉と瞳の中に、自分自身を見てくれる者などいはしなかった。
それなのにこの女は何だ。アズベルトの心の中にするりと入って来てしまった。
王とは孤高である。
だが側に、自身を見つめ理解してくれる人がいてくれたなら、どんなに心が楽になるだろう。
浮かんだのは自分よりも六つも下の幼い少女の姿だった。
だがあの女はウィルロアの婚約者。
そしてカトリはウィルロアを慕っている。
いつだって、私が認める者たちは皆、ウィルロアを好むのだ。
「このままカトリ王女を娶ればよろしいのです」
カトリはウィルロアの婚約者だ。
「兄に逆らえる弟はおりません。ましてやあなた様はこの国の王となられるお方ですよ」
忠臣達の甘い誘惑に心が揺れる。
弟は兄に逆らえない。私はカトリが欲しい。
「それにウィルロア殿下がデルタの姫と結婚してしまったら、強大な後ろ盾を得られてしまいます」
「!」
そうだ。あいつは私の王座を脅かす唯一の存在だ。
ウィルロアがいなくなって数年が過ぎたというのに、アズベルトの地盤は盤石とは言い難かった。
既にこの国の重要な人物はウィルロアに付いていたからだ。
昔、護衛の任に付きデルタに行くまで剣術の指南役として仕えたサイラスは、今では近衛騎士団長に。
守り役として側に仕えたレスターは、カンタール家の当主にして宰相に。
王弟である筆頭公爵家のシュレーゼン公はウィルロアを気に入っていた。
自分を王太子と認めながらも、弟ばかりを気に掛ける国王陛下。
有力貴族から慕われているウィルロアがカトリ王女と婚姻を結べば、デルタという大国を後ろ盾として得ることになる。
「駄目だ。それだけは何としても阻止せねば……!」
――では我々と手を組みませんか?
何だ、お前達は……?
――あなたの望みをかなえて差し上げましょう。ウィルロア様とカトリ王女の婚姻を取り潰しにしてしまえばいいのです
それでは和睦が成立しなくなるではないか。勘違いするな。私はただカトリが欲しいだけ。ウィルロアにこれ以上力を付けてもらいたくないだけだ。
――利害は一致しているとは思いませんか?
煩い! 去れ!
――では気が変わったなら、いつでも声をかけください。我々は既にあなたの願いを叶える準備が整っておりますので
「ウィルではなく私と結婚しろカトリ。お前をラステマの王妃にしてやろう」
驚き、大きく見開いた瞳。
お前のその瞳に映るのは、ウィルロアではなく私だ。




