マイルズの観察日記
マイルズ=カンタールがウィルロア第二王子の侍従となって数日が経とうとしていた。
マイルズは実家の侯爵家から王城へ出仕し、事務作業をしてから書類を手にウィルロア王子の元へ向かった。
アズベルト王子の侍従の時は、朝は陽が上る前から夜は日が変わるまで、何かしらの御用があったので城内に寝泊まりしていた。弟君であるウィルロア王子は、デルタでの暮らしが長かったからか、大抵の事はお一人でこなされ、特に用がなければ夕食後は自室に籠りゆっくりと自分の時間を過ごされた。
お陰でマイルズは週に何日かは自邸に戻ることが出来た。
マイルズが主の私室の前に着くと、朝の準備を世話する数人のメイド達と入れ替わるように扉をノックした。返事を待って入る。
「おはようマイルズ。今日はとても天気が良くて気分も明るくなるね」
金の髪が陽光に照らされ、きらきらと光り輝いている。その美しい容姿と所作も相まって、実に神々しいお姿で朝食を取っていた。その口から出てくる言葉は実に気さくで親しみがある。
ウィルロア王子は毎朝、挨拶の後に一言二言のお言葉を必ずかけられる。
天気がいい日はこうして明るくなる言葉を、例え天気が悪くても日常の業務を労う言葉を、時に冗談を交えて気にかけてくださる。
それが決してお世辞や作り物ではないと分かるから、彼の言葉はすっと自分の中に入って来て、一日を頑張ろうという気持ちにさせてくれた。
それがメイドや護衛達の下々に対しても同じだというから、細やかな気遣いに感心していた。
本日の予定を報告し、王子からいくつかの書類を受け取って部屋を出た。
「マイルズ侍従、殿下の書類に一部不備があるのだが」
関係各所を回っていたマイルズが廊下を歩いていると、丁度自分を探していたという政務官に声をかけられた。
「ここと、ここにサインがなく渡したはずの書類も一部抜けている」
「拝見します」
マイルズは自分の書類を脇に持ち、廊下の端で渡された書類をぺらぺらとめくり確認していく。
「ウィルロア殿下だが、他の部署でも不備が多々あったと聞いている。異国の地で育った上、慣れない政務を任されて不備が多いのだろう。まあ仕方がない」
「……そうですね」
「しかし同じ政務を任されたばかりのアズベルト殿下は、最初から不備もなく完璧にこなされていた。同じ兄弟でも違うものだな」
「……」
慣れていないのだから仕方がないと言っておきながら、王子達を比べるとは暗にこの方がアズベルト殿下を贔屓にしているということだ。それをウィルロア王子の侍従である自分に聞かせる当たり、性格が悪い。
マイルズはウィルロア王子がラステマに戻った当時の王城内を思い出していた。
見目麗しい王子に臣下に動揺が走った。
ウィルロア王子の持つ不思議な魅力に引き寄せられた。彼が王位継承権第二位の王子であったという事実を、否応にも認めた瞬間だった。
今まで感じなかった不協和音が城内に現れ始めたのは、アズベルト王子も気づいたことだろう。弟君の動向を大層気にしておられた。
しかし蓋を開けてみれば、彼は確かに王子らしいお方だが王の器ではなかった。
野心も威厳もなく誰にも気さくで物腰柔らかい優しい王子。
彼が和睦の象徴となる方だと言われたら皆納得できる。しかし国を背負い導く王かと言えば、少し違う気がした。
その点アズベルト王子の方が近寄りがたく王としての威厳があった。
政務を任されるようになると、不備の多さに大半の者は早々にウィルロア王子に見切りをつけ、邪な考えは薄れていった。
しかし――。
「ここの数字ですが、おかしくありませんか?」
マイルズは入念に書類を確認し、ある違和感に気付いた。
「んん? どこだよ…………あ!」
ちょうどウィルロア王子が判を押し忘れたとする箇所だ。
マイルズに指摘され、書類に目を通した政務官は青ざめて踵を返した。
「ウィルロア殿下の不備も時には役に立つな」
そんな小言を呟きながら去って行く政務官。マイルズはまたかと、自分しか知り得ない事実に嘆息した。
実はウィルロア王子の不備から、逆に書類全体の不備が見つかることが多々あった。
それが各部署で各々起こっているから表立って騒がれることも公になることもなく、侍従である自分しか知り得なかった。
「まさか、気付いてわざと間違われている?」
それなら、何故直接指摘しないのだろう。まるで自分の能力を隠しているかのように……。
ふとウィルロア王子の言葉を思い出す。
『はっきり言って、私は政治に興味が無い。兄上が国王になり世継ぎが生まれたら、私は王籍を外れるつもりだ。そもそも王族としての資質も能力も足りていないのだ。宰相の話では私を王にと担ぎ上げる輩もいたようだが、この通り口に出してしまうほど全くその気がないのだよ』
初めて挨拶を交わした日、世間話の中で自分をそう評された。
初めは謙遜位に思っていた。だが今はそれが彼の本心であるような気がしている。
王にはなりたくない。だが資質も能力も備わっている。だからその実力を隠しているのではないか?
考えすぎかもしれないが、面白いなと思った。
浮かんだ言葉は皮肉ではなく好意に近い。
なんだかこの王子は面白い。そう思わせる魅力が彼の側についてどんどん湧いていた。
『人となりを見ておけ』
父の命令がそんなものでよかったと心から思う。
野心のない心優しい人を疑い、罠にかけるのは心苦しい。出来れば避けたい。
そういう所が甘いのだとは分かっていても、父のように非情になりきれない自分がいた。
陽が傾きかけた頃、マイルズは仕事を終えて主の私室をノックした。
鍵が開けられる音を確認してから入出する。はじめは慣れなかったが、主は自室に鍵をかける習慣があった。
「只今戻りました」
「ああ、お疲れさま。もう呼ぶことは無いから休むといい」
執務机に座ってはいたが、言葉通り殿下も後はゆっくりと過ごされるのだろう。上着を脱いで寛いだ姿になっていた。
いつもならここで部屋を後にするマイルズだったが、今日は少し違った。
「あの、先程カトリ王女の侍女に会いしまして」
がたん! と大きな音を立てながら王子が執務机から立ち上がった。
「? 王女の怪我も完治したので、明日昼食後にファルブの丘を散策されるそうです」
「……そうか」
マイルズはそのままウィルロアの返事を待った。
「足の怪我が良くなり安心した。ファルブの丘は風が強く、デルタの民には肌寒く感じるだろう。ブランケットを用意させて料理長に暖かい飲み物とビスケットを届けるよう伝えてくれ」
「あの」
「うん?」
「……いえ。かしこまりました」
マイルズは言葉を飲み込んで部屋を後にした。
扉の前で鍵をかけた音を確認して、護衛に後を任せ帰路についた。
王女の侍女は単に王女の怪我の完治と予定を知らせたわけではない。
明日王女がファルブの丘を散策するので、ウィルロア王子も一緒にどうかと暗に誘っているのだ。
明日の予定では昼食後に会談等もなく時間は空いているはずだ。おそらく侍女も事前に調べて明日の午後を指定したのだろう。
一瞬、主が侍女の根回しに気づいていないのかと思い進言しようとした。しかし気配りの権化のような方が気付かないわけがない。
気付いたうえで行かないという答えなのだ。
「表情に出ないものだから気付かぬうちに政務でお疲れが溜まっていたのかもしれない。私も甘えずもっと殿下のお力にならねば」
この時のマイルズは、本気でウィルロア王子が慣れない政務に疲れていると思っていた。
主が王女と会う暇もなく忙しいのだと、疑ってやまなかった。
「殿下。侍女から王女が城の書物に興味があると話がありました」
「それなら司書に案内を頼もう。自由に読んでもらって構わないと伝えてくれ」
「殿下。侍女がお土産を選ぶのにおすすめを教えてほしいと申しております」
「これとそれがおすすめかな」
「殿下、カトリ王女が昼食を共に――」
「痛たたたたた、お腹が……急に……!」
違う。
ウィルロア王子は政務が立て込んでいるのでも疲れているのでもない。
これは明らかにカトリ王女を避けている。
マイルズはちらりと主の姿を盗み見た。
執務机に座って順調に書類を捌いていたかと思えば、突然何かを思い出したかのように筆を止め、一点を見つめ動きが止まった。そうかと思えば頭を抱えて深くため息を溢し、仕舞には悲壮感漂い遠くを見つめている。
ウィルロア王子の印象にそぐわないお姿を、ここ数日で何度も目にした。
そこでマイルズは確信した。
ウィルロア王子は思い悩んでいるのだと。
きっとそれは兄であるアズベルト王子のことだろう。実の兄が自分の婚約者に想いを寄せていたら、気にしない方がおかしい。
心優しいウィルロア王子の事である。兄の恋心に気付き、気遣って王女に会えずにいるのだろう。
王太子の侍従だったマイルズにも多少の責任はあった。
マイルズは早くからその事実に気付き、二人の距離を離そうと試みた。
しかしそれが逆効果となって余計にアズベルト王子の恋心を燃え上がらせる結果となってしまった。
和睦を控え、国の為にもウィルロア王子のためにも、何とかその想いを打ち消してほしいと進言した。
結局、言葉は届かずアズベルト王子は王女の合意を得ずに国王陛下に結婚の意思を告げるという強行策に出てしまった。
和睦成立のために祖国を離れ、幼少期を異国の地で過ごしてきたウィルロア王子。
帰国したら同じ境遇で暮らしていたはずの婚約者と、実の兄が親しくしていたらそれはショックも大きく気も病むものだ。
それでもウィルロア王子は何度も兄を庇い、歩み寄ろうとしていた。
「くぅ……!」
健気な姿にマイルズは胸が熱くなり目頭を抑えた。
主従関係だからとか国の為という責務も勿論あるが、おこがましくも何より、同じ男として力になって差しあげたかった。
その日、マイルズが涙を拭いて向かった先は、城に設けた部屋でも侯爵家の自邸でもなく、デルタの一行に与えられた来賓塔であった。




