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コバルト落選作

おさがしものは、なんですか?

作者: 三行

「探偵にとって一番大切なものって、なんでしょうか」

 久良知(くらち)涼子がそう訊ねられたのは、彼女が八月の暑さに負けて、事務所内のソファに寝転がっているときのことだった。

「一番大切、ねえ」

 彼女がここに〈久良知探偵事務所〉をかまえてから六年が経っている。

 北関東に位置する地方都市の端っこで探偵業を営むにあたり、持っていてよかったと思うものはたくさんある。

 それはたとえば、生まれ育った場所で仕事をしているからこその土地勘だったり、張り込みにはかかせない普通自動車の運転免許だったりする。

 ただ、「一番大切」となると、答えはきっとこれだろう。

「そりゃやっぱり、〈探偵業届出証明書〉でしょ」

 公安委員会発行の、探偵業届出証明書。これが事務所の壁に飾ってあるからこそ、久良知たちは探偵として仕事をすることができるのだ。

 依頼人用に設置してあるソファに倒れこんだまま、久良知がそう答えると、頭上からは不満を伝える声が降ってきた。

「ちょっと、久良知さん。もっと真面目に考えてくださいよ」

 久良知としてはしごく真面目に答えたつもりだったのだが、質問者である小森道也のほうはこの回答に納得することができないらしい。

「久良知さんは、『シェフにとって、この仕事をするうえで一番大切なものとは』って訊かれて『保健所の許可ですね』とか『もちろん飲食店営業許可証でしょう』とかって答える料理人、見たことがありますか」

 それはたしかに、見たことがない。そしてあんまり見たくはない。

 ソファに仰向けに寝転がったまま、久良知が首を横に振ると、「そうでしょう、ないでしょう」と満足げに小森が言葉を続ける。

「彼らが本心じゃあどう思ってるのかなんてのは、そりゃもちろん知りようがありませんけどね。それでもテレビの取材に対しては、みんななんかこう、ちゃんとそれっぽいことを言ってるじゃないですか」

「それはつまりわたしにも、本心じゃなくてかまわないから、それっぽいことを言ってくれ、と」

 小森は「そういうことです」とうなずくが、久良知にはいまいち意味がわからない。

「なに、いきなりどうしたの」

 小森が久良知探偵事務所で働きはじめて、もう三年以上になる。その彼が今更、この仕事を続けていくうえで大切なことについて考えだした理由が、久良知にはわからない。それも、求めている答えは真実でなくて「それっぽいこと」。

 電気代をケチって事務所のエアコンの設定温度を二十九度にしていたのがあだになったか。本当かどうかは知らないが、熱にやられた脳細胞は、二度ともとには戻らないという話を聞いたことがある。うちの従業員の脳は大丈夫だろうか。

 不安げに自分の頭部を見つめてくる上司の視線に気がついているのかいないのか、小森は事情を説明しだした。

「姪っ子からの宿題なんですよ」

 身近な大人に、彼らが就いている職業についてインタビューをしてくる。それが小森の姪が課された、夏休みの宿題のうちの一つなのだという。

「それ、姪御さん『からの』宿題じゃなくて、姪御さん『本人の』宿題でしょ」

「似たようなもんですよ。どうせ考えるのは俺なんですから」

 中学校に提出するものだから、真面目に考えなくてはいけない。間違っても、「お仕事をするうえでのやりがいを教えてください」「夏場の張り込みあとに飲む、キンキンに冷えたビールです」なんてのはやめてくれと、姪の母である小森の姉から、釘を刺されているらしい。

「それならそうと、先に言ってよ」

 仕事なんて、大人にとってはただの現実でも、子どもにとっては将来の夢だ。相手が中学生ならば、そこをきちんと踏まえたうえで、考えてやる必要がある。〈探偵業届出証明書〉は大事だが、それではやはり夢がない。

「姪御さん、おいくつなの」「中二です、十四歳です」若い、というよりも幼い。久良知の年齢の半分以下だ。

「そのくらいの歳の子って、もっとかわいい仕事に興味があるんじゃないの」

 たとえば、歌手とかアイドルとか。もう少し身近なところでカフェの店員とか。

 久良知はぱっと思いついた「かわいい仕事」をいくつか挙げてみたが、小森は首を横に振る。

「いや、このくらいの年齢だとむしろ、一番人気は公務員なんですよ」

 自分は彼女と年齢が近いから、中学生の気持ちもよくわかるのだと、小森は胸を張る。

「小森くん、今年でいくつになるんだっけ」「二十七です」それは歳が近いというのだろうか。気になるが、少なくとも久良知よりは歳の差が小さいことは事実である。

「久良知さんだって、十代のころはお堅い仕事に憧れてたんじゃないですか」

「いや、わたしは結構かわいかったよ」

 具体的に、なにになりたいと思い描いていたわけではない。それでも中学生のころは、自分の可能性について、夢も希望も持っていた。

「自分にしかできない仕事がしたいと思ってた。もしくは自分だけにむいてる仕事」

 そういうものが絶対に、どこかにあると信じていた。

 とはいえ、その仕事が久良知にしかできないことなのであれば、ほかのだれかがそれを仕事にしているわけがない。つまり、そんな仕事は既存の職業の中に存在するわけがなかったのだ。

「でも、自分に向いてる、というか、自分の特性を活かせる仕事には就けたと思うよ」

「お、なんですか。先入観にとらわれない柔軟な思考とか、鋭い観察眼とか。そういうやつですか」

 宿題に活かせる言葉が出てくるのではないかと期待して、小森が身を乗り出してくる。つられて久良知も、ソファから上半身だけは起こした。

 柔軟な思考も観察眼も、あれば便利に違いないが、あいにく久良知は持っていない。

 かわりに久良知が持っているのは……、

「長丁場の張り込みでも、途中で尿意をもよおすことのない頑丈な膀胱」

 上映時間が二時間半をゆうに超える映画であっても、久良知はドリンクを持って劇場内に入ることができる。そしてエンドロールが終わり場内が明るくなるまで、余裕でそのまま席についていられる。これは、久良知の数少ない自慢の一つだ。

「尿意に強いってのを活かせるのは、長距離輸送トラックのドライバーかなあって思ってたんだけどね。大学生のときに、教習所でオートマ限定の免許取るのに半年かかっちゃって。あ、こりゃトラックなんて無理だわって。

 で、いろいろあって今に至るんだけど……。

 あ、そうだ。これだよ、きっと。探偵にとって大切なもの、それは尿意に強い頑丈な膀胱っていうのでどう」

「……久良知さんは、花も恥じらう十四歳の我が姪っこに、『探偵にとって一番大切なもの。それは、頑丈な膀胱です』なんて言わせるおつもりなんですか。それもクラスメイトたちを前にして」

 ひどいお人だ、と小森が眉をしかめてみせた。

「ちょっと、インタビューの内容を教室で発表するなんて聞いてなかったけど」

「言い忘れてましたから」

 ローティーンの気持ちなどわからないといっても、さすがにそこまでではない。久良知だって人の心を持っている。

 他人様の前で発表するとなると、なおさら「それっぽい」答えが必要になってくる。中学生が求める、「それっぽい」答え。

 考えれば考えるほど、久良知にはわからなくなってくる。

 そのうちに、中学生に紹介する職業として、探偵が適切なのかどうか、そこからして不安になってきた。

「ねえ。小森くん以外の親族はみんな無職ってわけじゃないんだよね」

 いきなりなにを訊いてくるのだと、多少面食らったような表情で、小森が否定の言葉を返す。

「だったらさ、姪御さんのインタビューの相手、べつの親戚に変えてもらったほうがいいんじゃないの」

「えー。なんです、それ。どういう意味ですか」

「いや、ごめん。べつに小森くんが青少年の前に出す大人のモデルとして不適切ってわけじゃないんだけどさ。

 ただ探偵は……っていうか、少なくともうちの場合は、業務内容が中学生に伝えられるようなものじゃない気がして」

 久良知探偵事務所にやってくる依頼の中で、ダントツに多いのが配偶者の浮気調査だ。次点で息子の婚約者の素行調査。

 中学生に伝えるには、どちらもどうにも生々しい。

「夫婦どちらかの浮気を理由に両親が離婚しましたって生徒が、姪御さんのクラスメイトの中にいないともかぎらないし」

 それにもしも、フィクションの中の探偵がするような活躍を期待しての人選だとしたら、間違いなくがっかりさせることになる。

「トレンチコートを羽織って虫眼鏡を持ってるような人物を想像してたんだとしたら、夢を壊すことにしかならないよ」

「殺人事件を解決したり、怪盗と対決したりはしたことないって、俺もきちんと伝えたんですけどね」

 それでもいいから、インタビューさせてくれと言われたのだそうだ。

「もちろんペットの捜索とか、家畜の捕獲とか。そういう子どもに興味を持ってもらえそうなケースだけを話しますよ」

 だから「それっぽい」答えを一緒に考えてほしい。小森が再度、久良知に頼んだ。

「あー、わかったわかった。明日の午後までに、もっといいなにかがないか、さがしておくよ」

 翌日の午前中、久良知は休みをとっていた。迎え盆が来る前に、墓の掃除をしておかなければならないからだ。

「お願いします。ちなみに、今のところの暫定一位は」

「……探偵業届出証明書」

 久良知にはそれしか思いつかない。


 墓場に行けば、高確率で知り合いに会う。このあたりでは、生前のご近所さんは死んでからもご近所さんだ。

「ヤッホー。奇遇だね」

 墓石の前で雑巾を絞っていた久良知にそう声をかけてきたのは、戸沢みほだった。月に一度、市内で配布されているフリーペーパーを製作する企業に勤めている彼女は、久良知とは幼稚園から中学校までの同級生だ。

「久良知も掃除に来てたんだ」

「うん、親に言われてね。墓が汚いと、お盆で墓参りに来た親戚がびっくりするから、今のうちに綺麗にしてこいって」

「うちもそーだよ、親に言われてさあ。こっちは平日は仕事があるんだっつうのに。腹が立ったから、アルミ製のたわしで墓石をみがいたろうかとも思ったんだけどさ、それはさすがにやめた」

 炎天下、もういい歳の両親に掃除をさせるわけにもいかず、文句を言いつつも、久良知も戸沢も墓石をみがく。

「娘の仕事よりも、遠くから来る親戚に見栄を張るほうが大事だってんだから、ひどいよね」「同居の子よりも遠くの親戚ってことかあ」「うわあ、世知辛いよお」

 送り盆が終わって、先祖と親戚一行がもときた場所へと帰ったら、慰労会と称して二人で乾杯しようと決めた。

「ところでさ、相談があるんだけど」

 身内に対する不平不満をあらかた言い尽くしたあとに、戸沢がそう口を開いた。

「なに、飲み会の日にちなら、わたしは八月中だったらどこでもいいけど」「いや、そうじゃなくって」

 嫌な予感がした。

「広告だったら出せないよ」

 久良知は過去に何度か戸沢から、彼女の会社が出しているフリーペーパーに広告を出さないかと持ち掛けられている。

「違う、違う。あたし今日は有休取ってるから。プライベートだから。仕事の話じゃないよ」

 そりゃもちろん、おたくが広告を出してくれたら嬉しいけどさと笑いながら、戸沢がひらひらと右手を振った。

「相談っていうのはそうじゃないんだよ。ねえ、探偵ってさあ、捜しものもしてくれるの?」

 予期せぬ質問に、久良知は首をひねった。

「……いや、ものさがしは経験がない」

 よその探偵社や興信所には、そういった依頼が舞い込んでくることもあるのかもしれないが、久良知探偵事務所では捜しものを頼まれたことは一度もない。

 人はもちろん、いなくなった犬猫や家畜を捜したことなら久良知も小森も何度かあるが、そのノウハウがもの捜しにも活きてくるとは思えない。

「だから悪いけど、うちじゃ役に立てないと思う」

「そっかあ。実はさあ、草履を捜してるんだよね」

 役に立てない、と言ったのにもかかわらず、戸沢は事情を話してくる。

「うちで何度も生徒募集の広告出してくれてるお茶の先生がいてね。で、その先生のお家にホームステイしているイギリス人の女の子がいるんだけどさ。たしかまだ中学生だったかなあ、その子が草履をなくしちゃったらしくて」

「どこでなくしたのか、覚えてないの?」

「本人は、電車の中に落としてきたんだと思うって言ってるらしいんだけど」「草履を入れた鞄ごと、車内に忘れてきちゃったの?」「いや、草履だけ落としてきたんだって」

 履くわけでもなく、鞄にしまうわけでもなく、草履をそのまま握りしめて、電車に乗っていたのだろうか。想像すると少し奇妙な気がしたが、しかし忘れてきた先がわかっているなら、見つかる可能性は高い。

「駅の遺失物預り所には行ってみたの?」

 盗まれてさえいなければ、電車の中の忘れ物は、たいていそこに届いている。

「それがさあ、電話して訊いてみたけど、草履なんて届いていないって言われたらしくて」「じゃあ、交番には」「当然、届けを出した。でも見つからないって」

 となると、だれかに盗まれてしまったのだろうか。

「駅にも交番にもないとなると、わたしもわからないなあ」

 役に立てないと事前に宣言していたものの、久良知は申し訳ない気持ちになった。外国の電車の中で、ものをなくしてしまった中学生の気持ちを想像すると、久良知の心も落ち込んでくる。

「いや、大丈夫だよ。財布やケータイならともかく、草履だしさ。盗まれたりはしないでしょ。きっとそのうち出てくるよ。

 ところでさ、おたくんとこのメインのお仕事って、やっぱり浮気調査なの」

 暗くなった空気を振り払うように、わざとらしいほど明るい声で、戸沢が話題を変えてきた。

「うん、そうだよ」

「浮気が発覚したあとって、どうなるの」

「調査終了後の事情には関われないから。知っていたとしても、守秘義務があるし」

「でも、配偶者か浮気相手か、どちらかとは別れることになるんだよね」

「ま、そりゃあね」

 久良知がうなずくと、戸沢は満足そうに笑って言った。

「わかった。それじゃキャッチコピーは〈お別れのお手伝い〉でどうだ」

「広告は出せないって言ったでしょ」

 だいたい、それじゃあまるで、葬儀会社のキャッチコピーだ。

「でもさあ、電話帳にも載せてないんでしょ。なにかしらの宣伝は必要だと思うよ」

「小森くんがつくってくれたホームページがあるから、それで十分だよ」

「甘いね。ネットの訴求力は、若人にしか通用しないよ」

 たしかに、ネットの検索で見つけたといってやってくる依頼人は、たいてい久良知よりも年下だ。

「このへんの人口は、五十代以上に大きく偏ってるんだから、地元の人間に宣伝したいんだったらネットは無力だよ」「でも、最近は年配の人もスマホとか使ってるし。ネット検索くらいは」「あの人たちは、スマホのスマートな部分は活用できてないから。使う機能は通話とメール。それだけだよ」

 たしかに戸沢の言う通り、久良知の両親も通話とメール以外の機能はほとんど使っていない気がする。

「ここらはやばいよ。二年前までレンタルビデオ屋が生きてた町だよ。時代の波が避けていく、モーセみたいなとこなんだから。

 地元の人間に訴えかけるなら、やっぱり紙媒体の広告が一番だよ」

「だとしても新聞に載せるよ」

 戸沢の話を聞いているうちに、久良知も広告を出してもいいんじゃないかと思うようになってきた。しかしそれでも、このまま丸め込まれるのはしゃくな気がして、少しだけ抵抗を試みてみたが、戸沢の勢いは止まらない。

「新聞は高いよー。それに、エリアが広すぎる。

 地方紙に載っけたとしても、配布範囲は県内全域だもん。そんな広範囲に宣伝打ったところで、遠方からはわざわざ依頼しにこないでしょ。

 県北に住んでる老人が、おたくの出した新聞の広告を見たとしましょうよ。

『なになに、久良知探知事務所、か。ほうほう、探偵ねえ。そうだ、こないだから悩んでいたあの件について、探偵に相談してみるとしよう』

 で、実際にその老人が足を運ぶのは、彼の家から一番近い興信所だよ。まず間違いなく、おたくじゃあない。

 つまりだ、あんたはわざわざ大枚をはたいた結果、ライバル会社の利益を生み出すことになるんだよ。

 どうよ。想像しただけで悔しいでしょう。そのうえお金も紙もインクも無駄でしょ、そんなの」

「……たしかに」

「それにひきかえ、うちはどうだい。配布エリアは市内のみ。きゃあ、素敵、嬉しい、無駄がない。

 さらにさらに、それだけじゃない。うちの読者にはたっくさんいると思うのよ、探偵を必要としている人が。

 夫の浮気の証拠をつかんで、なんとか熟年離婚に持ち込みたいご婦人。なんとなーく気に食わない嫁の素行調査を頼みたいお舅さん。

 そんな悩みと小金を持ったご年配のみなさんをみすみす逃す手はないじゃない」

「戸沢。あんた、自分とこの読者をいったいなんだと思ってんの」

「大切な読者さまだけど、それとこれとはべつなんだなあ」

 結局、広告の件は前向きに検討するということにして、見本に先月号のフリーペーパーを貰ってこととなった。

「ところでさ、草刈りはどうする」

 墓石の周りで伸び放題の雑草は、虫たちの住処になっている。すでにこの夏、散々、虫の餌食となっている久良知や戸沢のような田舎住まいの人間からすれば、これ以上何匹に刺されようと、もはやどうでもよくなってきているのだが、このまま放っておけば、数日後に墓参りに来た親戚たちの身体が悲劇に見舞われるのは目に見えている。過去の経験から、都会の人間は虫刺されの痒みに弱いことを、久良知は知っていた。そのため久良知は一応、草刈り用の機械を車に積んできてはいるのだが、草履の話で落ち込んで、広告の件で疲れ果て、すでにやる気のほうを失っている。

「見なかったことにしようか」

「そうしよう」

 親戚たちの今年の夏の思い出に、ひどい虫刺されが加わることが決定した。


「どうしたんですか、このフリーペーパー」

「戸沢の職場でつくってるやつ。広告出さないかって言われたからさ、とりあえず先月号を読んで検討することにした」

 事務所に戻り、小森とともに昼食をとりながら、久良知はもらってきたフリーペーパーをペラペラとめくる。

「意外と年配者向けなんですね」

 フリーペーパーというと、なんとなく若者向けのもののような気がしていたが、実際に中身を見てみると、小森の言う通り、記事も広告も中高年を意識しているものが多い。そば打ち体験教室の紹介記事の下に〈遺言状の作成はおまかせください〉とうたった行政書士事務所の広告が載っていたりする。

「この広告、凄いですよ。本人の持つ英語に対するコンプレックスと、孫に金を使いたい気持ちの、両方に訴えかけてます」

 小森がそう言って示した先には〈だれもが知っているおとぎ話を英語で読み聞かせ! お孫さんをバイリンガルに!〉というおとぎ話が英語で収録されたCD集の広告が出ていた。

「うわ、えげつない」

 思わず二人で顔を見合わせて苦笑してしまう。

「俺、小さいころにこういうやつのアニメ版を見せられてたんですけど、英語が全然なんですよね」

「へえ。じゃあ、小森くんには効果がなかったんだ」

「上達したのは、みにくいアヒルの子に出てくる意地悪なアヒルの鳴き声のものまねくらいで。こんなはずじゃなかったのにって、親もがっかりしてました」

 英語を学ばせていたはずの息子が、アヒルの鳴き声をマスターしていたら、それは両親もがっかりするだろう。

「あ、でもアニメの中に出てきた英単語も一つだけ覚えてますよ」

「へえ、どんなの」

「今までテストでも日常生活でも、役に立ったことはないですけどね」

 そう前置いてから小森が口にした単語は、たしかに久良知の耳には馴染みのない言葉だった。

「今の、どういう意味の言葉なの?」

「〈ガラスのくつ〉です。シンデレラの」

「へえ。……ああ、グラスってガラスのことか」

「そうですよ。ほかになにがあるんですか」

「いや、耳で聞いただけじゃLとRの違いなんてわかんないからさ、てっきり……」

 突然、久良知はひらめいた。

「小森くん。わたしたち、勘違いしてたみたい」

 久良知は慌てて戸沢に電話を掛けると、相手が名乗る前に喋りだした。

「ねえ。さっきの草履をなくしたっていう女の子のことなんだけど」

「んー、なあに。引き受けてくれる気になった?」

「戸沢はさ、〈ガラスのくつ〉って、英語でなんていうか知ってる?」

『知らないけど、それがなに』

 電話越しでも、戸沢が怪訝そうな表情をしているのが、久良知に伝わってきた。

「わたしもさっき、小森くんに教えてもらったんだけどね。グラス・スリッパーズって言うんだって」

 グラス・スリッパーズ。その単語が意味するものを知らなければ、スリッパという音から、日本人はつっかけのような靴を想像してしまう。

『グラスのスリッパって…………ああ!』

 女の子はなくしたものがなにかを訊かれて「glass slippers」と答えたはずだ。しかしお茶の先生の耳には、それが「grass slippers」と聞こえたのだろう。先生にとっては、ガラスのくつよりも身近な「草の履き物」に。

「草履を捜してるって、女の子本人から聞いたわけじゃないんでしょ」

 草履をそのまま握りしめて電車に乗るなんてことは、まずない。しかも彼女は「忘れてきた」ではなく「落としてきた」と言ったのだ。

「多分、彼女が本当に落としたものは、ガラスのくつを模したキーホルダーかなにかなんだと思うよ」

 その後、電話を終えて二十分もしないうちに、戸沢から久良知のもとへとメールが届いた。

『さっきはありがとう。

 久良知の推理通り、彼女が落としてきたのは草履ではなく、ガラスのくつのキーホルダーでした。先ほど先生が駅の遺失物預り所に電話したところ、当該品は数日前から同所で保管されているとのこと。

 本当に助かりました。ありがとう。優秀で博識な相棒さんにもよろしく伝えておいてください』

 どうやら落とされたガラスのくつは無事、シンデレラのもとへと戻れそうだ。

「ねえ、小森くん」

「なんです」

「あれさ、訂正するよ。探偵にとって一番大切なものはなにかっていう質問の答え」

 戸沢から送られてきたメールを読んで、久良知は少し反省した。

 探偵業届出許可証はもちろん必要だ。

 ただ、それよりももっと大切で欠かせない存在のことを、久良知はうっかり失念していた。

「あ、なにかいい答えが見つかったんですね。で、なんなんですか。先入観を持たないことですか。鋭い観察眼ですか」

「どっちも違う」

 もちろんそれらも大切には違いないけれど、少なくとも久良知にとっては「一番」ではない。

「ヒント。シャーロック・ホームズや明智小五郎といえば」

「つまり、そんなものは実在しないと」

「ちょっと、どうしてそうなるの。むなしいことを言わないでよ」

「だって二人とも、虚構の世界の人物でしょう」

「そういうことが言いたいんじゃなくってさあ。

 ほら、ホームズや明智小五郎の活躍を語るうえで欠かせない存在といえば」

 ここまで言えばわかるだろう。

「あ、わかりました」

 小森の表情がぱっと明るくなる。

「さて、お答えは」

 両手の人差し指で、満面の笑みを浮かべた自身の顔を示しながら小森が答えた。

「ズバリ、助手ですね」

「残念」

 間違いではないが、正解でもない。もっと適切な言葉がある。

「ええ。じゃあ、なんなんですか」

 久良知は笑って答えた。

「優秀な相棒」

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