輝く肌の女
エルクという街についた時の話だ。エルクという街は色街として栄えてきた街で、街全体に活気が溢れるのは夜と相場が決まっていた。しかしながら、折が悪く私がエルクに着いたのは昼過ぎであり、まだ街は静まっていた。私はエルクの街を訪ねるのは初めてであったので、まず街の大通りにある酒場を訪ねた。色街らしく、街のそこかしこに酒場も多くあったが、その酒場は内装も比較的大人しく、落ち着いた雰囲気の店であった。店に入っても硝子が床に散乱していたり、酒曇がそこかしこに放り出されていたりはしない。無法者が寝入っていることもない。辛うじて用心棒らしき大男がこちらを一瞬睨んできた程度。
「ちょいと尋ねたいんだが、ここいらに一夜の宿を提供しているところはないかい?安いところでいいんだ」
安い。それこそが私の望んでいる物件であった。本来なら私は自らの足でその宿を探すべきなのだろう。しかし、この色街は無法者も数多いと聞く。可能な限り通りを歩く機会は減らすのが適当である。カウンターに座り込んだ私に対して、バーテン服を着た壮年の男は、
「まず頼みな。それからだ」
そう言った。至極最もだ。対価を払わずに言うことを聞かせようというのは紳士じゃない。私は素直に謝罪した。
「あ――、失礼。林檎酒はあるかい?余り強いのは昼間から飲みたくないんだ」
私の注文に、男は頷いた。林檎酒はあるらしい。正直助かった。酒には弱いのだ。暫くして、私の目の前にグラスに入った黄色の液体が置かれた。私が一息口にすると、ようやく男は口を開いた。
「ここいらには宿は多いが、ウチの裏の通りにある〈竜の尾亭〉が良いだろう。酒場を兼務しているから、煩いのが苦にならなければ、だが。それなりに安いし、酒場を兼務しているから飯が美味い。看板に自らの尾を食んだ竜の絵柄が描かれているから、すぐに分かるだろう」
「感謝するよ」
私は林檎酒を飲み干し、空になったグラスの横に銅貨を二枚置いて店をあとにした。夜の喧騒が始まる前に自らの宿を決めておく方が利口だろう。私は酒場の裏通りをしばらく歩き、目当ての宿を発見した。まだ店を開けてはいないようで、店の前に掃き掃除をしている女性がいた。白い透き通るような肌の女性であった。まだうら若い年齢であろうと推察されるが、それにしては白髪であるのが奇妙であった。
「こんにちは、まだ開いてないのでしょうか?」
念のため、宿の方を指示しながら、女性に聞く。
「えぇ。〈竜の尾亭〉のことをおっしゃってるのでしたら、まだです。ただ、宿でしたらいくらか部屋に空きがございますので、ご案内できますが」
「それは助かります。先ほど表の酒場でこちらのことを聞いて参りまして」
「あぁ、〈青猫亭〉の親父さんですか」
どうやら先ほどの酒場の主と目の前の女性は知己であるらしかった。同業者のつながりというやつだろうか。
「今でしたら3部屋ほど空きがあるかと思いますが、如何なさいますか?」
「是非お願いします」
私は深々と礼をした。この街ではその所作は少しばかり奇妙なものとして映るのか、女性は驚いたような顔をしたが、すぐさま表情を取り繕った。
私が案内された部屋は酒場の二階にある角部屋であった。辛うじてベッドが置いてある程度の殺風景な部屋。まぁ、夜露が凌げるだけ値段の割には上等だろうと自らを納得させた。この街の夜は早い。夕食代わりのバゲットとエールを一杯下の酒場から貰ってきて夕食とする。窓の外に目をやると、夜だというのに煌々とした常夜灯。ここいらの街では珍しい〈瓦斯灯〉である。夜半に入るに連れて天気が崩れて来たものの、この街の喧騒は始まったばかり。〈瓦斯灯〉の周囲には曲芸を披露する道化師や奇術師。路地裏の暗がりには娼婦に男娼が立ち並ぶ。様々な色で彩られた店の前にはホストやホステスと呼ばれる一夜の夢を提供する男女の姿も見えた。とはいえ、私は街の外に繰り出す気は毛頭ない。バゲットを少しずつちぎりながら咀嚼し、エールを流し込み、英気を養う。今日は少しばかり歩き疲れた。食べ終わり、洗面所に向かう。鏡を見ればいつもの自分の姿があった。ただ、少しばかり疲れているのか目元が下がっている。無精ひげも少しばかり気になる。軽く口をゆすぎ、部屋に戻ってベッドに横になる。いつもは少しばかり考え事をするのだが、今日はすぐさま睡魔が襲って来た。
次の日のこと。私は日の出とともに目覚めた。昨日は疲れたこともあり、夜の街に繰り出すこともなく早々と横になっていた。そのせいだろう。異変に気付いたのは寝起きから一分ほどたってからだ。
――自分の横に女性が寝ていた。
私の腕に自らの柔い細腕を重ね、彼女は寝入っていた。私が寝入った後に部屋に入ってきたのだろうか。私が寝る前に掛けた毛布の中に彼女はするりと入り込んでいたらしい。しかし、私は彼女に見覚えがなかった。とはいえ、無理に起こすことも忍びない。
「……ん」
どうやら起きたらしく、彼女はうっすらと目を開き、体を起こし、こちらを向いた。
「昨晩は有難うございました」
「待て」
おかしい。今のはおかしいはずだ。彼女が体を起こした際、彼女の一糸纏わぬ姿が露わとなった。溌剌とした若さを示す柔肌。胸部から臀部にかけての曲線美。それらを余すことなく彼女は体現していた。
「いつから、そこに」
「昨晩から」
「君は誰だ」
「アタシはルイシャ。ただのルイシャだよぅ。一夜の閨を伴にするのを生業にしてるよぅ」
ルイシャ。その名前を改めて考えるが、覚えが無かった。その上、後半の自己紹介が私にとっては可笑しな衝撃を与えていた。
「そうか、私はセワードと言う。旅の物書きだ」
相手に問うたのだから、自分も名乗らねばなるまい。そして、私は彼女の自己紹介の後半について問うた。
「……つまり、娼婦?」
「うん」
まぁ、こういう街だ。突然女性が横で寝ていても不思議ではないのだろう。
「昨晩はホントに凄かったねぇ。お兄さん、余り屈強そうに見えないから驚いちゃったよぅ」
カラカラと笑いながら、ルイシャは言う。その一言は余り聞きたくなかった。私が酒に任せて間違いを犯したことを意味するからだ。それは私の倫理的な側面としてもそうだし、金銭的な側面としてもそうだ。娼婦というのはピンキリだ。高級娼婦と呼ばれる娼館の上層に位置する者もいれば、街で暮らすために花を売らざるをえない者もいる。はっきり言って、相場が不明瞭なのだ。そして私は金回りが余り良くない。私が狼狽していたのが顔に出ていたのか、ルイシャは苦笑いした。
「からかっただけだよぅ。お兄さん、昨日は不用心に部屋の鍵を開け放していたでしょう?だからアタシが間借りしただけだよ」
からかわれていただけらしい。少しだけ安心した。確かに昨晩は鍵をかけていなかったように思う。口をすすぎ、無造作にベッドに入った段階で寝入ってしまったのだ。我ながら、不用心と言われても仕方ない。
「お前さん、服は?」
「え?あぁ、ないよぅ」
ついでに聞いたのが間違いだった。ベッドの上にも下にも、彼女の服は無い。
「追いはぎに剥がされちゃってね」
昨今の追いはぎは婦女の服すら剥ぐらしい。世知辛い世の中だ。
「お兄さん、服貸してくれない?貸してくれたら、イイコトしてあげるよぅ」
「イイコトなんぞ要らん。服ぐらい貸すさ。男物で良けりゃな」
不能という訳じゃない。この女性の肢体は中々に魅力的で蠱惑的だ。しなをつくられればなおのこと。しかし、あとで何を要求されるかわからないリスクを負うのはごめんだ。私の理性は、私の獣性とせめぎあい、ぎりぎりの所で抑え込んでいた。
「わぁ、ありがとう!」
トランクの中から適当に二、三服を取り出し、彼女に投げ渡す。少しばかり大きいかもしれないが、そこばかりは甘受してもらうしかない。
不幸中の幸いというやつか、彼女は女性としては割と上背がある方であった。私が投げ渡した白シャツとジーンズを着、髪を後ろで動きやすいように麻紐で纏めるとそれなりに見える見た目となっていた。流石に肩幅があっておらず、ジーンズも裾が余っているようであったが、それもサマになっている辺り不思議なものである。
「用事は済んだか。なら出てけ」
そっけなく、私は告げた。普段ならば取り繕う口調も荒いものとなっていた。正直、朝から彼女の肢体を目に焼き付けてしまったのは失敗という他ない。人間の三大欲求というやつが私にもまた存在することを再確認してしまったのだから。不愛想に彼女にそう告げることが私の辛うじて残る自制であった。
「ふぅん?お兄さん、良いヒトだねぇ」
女性は私の望む方とは反対に、私に近づいて来た。彼女が裸足で一歩一歩と歩くたび、着丈のずれたシャツの間から谷間が目に入る。目に毒だ。次いで、口元に柔らかな感触。
私がその感触を理解するのと、扉を叩く音を耳にしたのはおおよそ同時であった。
「―――セワードさん。起きていらっしゃいますか。朝餉の差し入れに参りました」
その声は昨日出会った白髪の女性のものだ。私は黒髪の女性の肩を押し、距離を取ると扉へと歩いて行った。そうして扉を開くと、やはり昨日の女性が立っていた。手には銀色の盆が乗っていて、玉葱のスープと数枚のバゲットがその上に載っていた。女性は私の後ろを肩越しに見て、昨晩の時点でいなかった存在を見た。
「昨晩はお愉しみだったようで」
その一言に特に深い意味は無かったのだろう。しかし、その一言は私の胸に深い傷を負わせた。底冷えした口調でそれだけ言って私に盆を押し付けると、女性は扉を閉めた。
「あ――。お兄さん、やっちゃったねぇ。ここの女将さん、余り娼婦が好きじゃないんだよぅ」
「ならお前が入ってこなきゃ済んだ話だろう」
「だって、夜露凌げそうなの、ここぐらいしか近場に無かったんだよぅ。酒場なら少し酒に酔ったフリをしてれば紛れ込みやすいしねぇ」
「普段から寝泊りしているところはないのか」
「ないよぅ」
「財産は」
「昨日まではいくらかあったんだけどねぇ」
つまり、追いはぎされて失くしたということだろう。女性は少しだけ寂しそうに笑った。どことなく、その様子は刹那的な美しさをもっていた。淫靡であった。
結局、女将から貰った朝食は二人で分けて頂いた。目の前で腹を空かせた猫がいたとしても、私は施さない。それは私に益がないし、なにより私にそんな余裕はない。それでも私は彼女にはバゲットを分けた。ささやかな朝食であった。特段、談笑するということもなく、朝食自体は数分で終わった。
「うぅん。ありがとうね、お兄さん」
食べ終え、女性は感謝を述べた。
「お礼と言っては何だけど、少し面白いものを見せたげるよぅ」
そう言って、女性は窓際に置いていた水差しを手に取った。何をするのかと私が注視していると、女性は不意に水差しを傾けた。水差しから水が零れ落ち、地面へと流れ落ちていく。この世のものは上から下へと落ちていく。それは当たり前の摂理であると言える。
次の瞬間、妙なものを見た。水が落ちない。ゆるゆると渦を巻くように水が宙に漂っていた。女性が軽く薙ぐように左手を振るうと、水も同じように逆巻いた。トン、トンと足を律動させ、ステップ。水は上下に跳ねるように。そして彼女が体を回転させると、回転させる体を彩るように水が彼女の身体をタイトに締め付けるように巻き付く。白いシャツの先から覗くたおやかな腕が前方の空間を薙ぎ、その動きに一歩遅れるように水は線形となって追いかける。それはさながら水の蛇のようであった。つかず離れず、彼女の舞いに水が呼応する。彼女が跳ね、水の蛇が舞う。彼女は踊り手であり、蛇つかいであった。余り速くない動きではあるが、どことなく蠱惑的であった。
彼女の舞それ自体は数分もしない出来事であった。私の手は自然に彼女の動きに合わせて拍子を取っていた。それの終わりを残念だと思ったのも確かだった。見事だったのだ。
「――ふ」
息を吐いた。余りの驚きに呼吸を一時忘れた。彼女が一礼したとき、初めて思い出したかのようであった。
「見事だった」
それだけを、彼女に告げた。彼女はこそばゆそうに純粋な賛辞を受け取った。彼女が指揮棒のように右手を振るうと、水は水差しへと先ほどとは逆回しに戻っていった。化かされたような気分になった。
「君はまじない師なのか」
まじない師。その中にはいくつもの得意分野による種類があるらしいが、私は良く知らない。ただ、ヒトの機能では成せぬことを成す者をそう呼ぶ。大半は詐欺師だが、彼女は本物であるように思えた。
「いいや、違うよぅ」
彼女ははっきりと否定した。
「私は、娼婦で、踊り子だよぅ」
一言一言、区切るようにして、彼女はそう言った。その言葉を噛みしめるように。私は納得できないながらも、理解した。踊り子。彼女の舞は見事だった。
私が幾枚かの銅貨をポケットから取り出すと、彼女は掌を私に向け、首を振った。
「さっきの朝食と、一夜の宿。それで十分だよ。お兄さんは、アタシに手を出さなかったしねぇ」
もし手を出されていたら、もう少し割り増しをもらっていたよぅ、と彼女は苦笑いした。正直なものだ、と私は返し、同時に彼女が誠実であることに安堵した。基本、性の話題で女性に男性は勝ちえない。記憶というものはあやふやなものであり、信ずるには及ばないものである。昨夜寝る前後の克明な記憶は私にはなく、その部分を持ち出されては抗弁できないからだ。
固辞されたものを出すのも妙な話である。私は銅貨を自らの懐に戻した。私の様子を見てから、女性は身を翻し、扉ではなく、窓から出ていった。猫のような敏捷さであった。
階下へと降りると、女将に見つかった。私の姿を見るなり近づいて来た。
「セワードさん」
私の名を呼ぶ言葉に、怒気が籠っていた。おそらく、先程のルイシャとの蜜月が原因だろう。女将は娼婦が嫌いなんだよぅ、というルイシャの言葉を思い出した。だから彼女は女将と会うことのない経路で出ていったのだろう。
「娼婦を入れるのでしたら先におっしゃっていただかないと。彼女たちは……、その、悪いものを振り撒くことがありますから」
言葉が丁寧さを保っていたのは、長年の客商売ゆえだろう。しかし、彼女の表情からはらわたが煮えくり返っているだろうことは容易に想像できる。短気な質なのかもしれない。しかしながら、彼女の言っている言葉にも、一定の理解の余地はある。
「申し訳ありません。私が寝入った後にどうも彼女が入り込んだようです。私の不用心ゆえであり、申し開きもできません」
素直に謝罪すべきことは謝罪する。私はここではよそ者だ。出来るだけ丁寧な言葉となるように瞬時に言動を選ぶ。
「そうでしたか……でしたら、次回以降は気を付けてください。私どもも見てはいますが、何分、酒場に出入りする人間全てを把握することは難しいものですから」
「えぇ。気を付けておきます」
「ところで先ほどの娼婦は、どのような名前なのでしょうか?ここいらでは見ない顔でしたが」
女将の言に、頭を捻る。女将はこの酒場をやってから随分長いように見える。当然、ここいらの人間の顔は一通り頭に入れているだろう。その彼女が知らないルイシャはどこから流れて来たのだろう。
「ルイシャと名乗っていました」
「そうですか。次回は彼女が上に上がるようでしたら、見つけ次第抑えます。ご安心を」
「感謝します」
あとで聞いた話だが、エルクの街の街娼の中には、旅籠に泊まった客が寝入った後に夜這いをかけ、法外な金額を要求する者がいるらしい。詐欺師の一種である。ここいらの旅籠は酒場の二階を貸すスタイルを取るところが多く、そのような場であればどんなに弱くとも酒を飲まない者は少ない。前後不覚とならずとも起き抜けに隣に女性が寝ていれば動転するのもさもありなん。私はルイシャがそのような娼婦でなかったことと、〈青猫亭〉の親父が〈竜の尾亭〉を教えてくれたことに心内で感謝した。私は小金はあるが、詐欺で巻き上げられるような大金の持ち合わせはない。そして、詐欺に対して敢然と立ち向かい、理知、あるいは暴力を持って解決できるような度胸も足りない。
ルイシャは今回、たまたま私にそのようなことをすることは無かったが、次回そうならないとは限らない。人間、追い詰められれば何をするのかわからないことは、私自身、身に染みていた。
女将と別れ、私は〈竜の尾亭〉を出た。まだ朝ということもあり、路地は閑散としていた。エルクは夜の街。朝は静かである。そのことは昨日の様子から承知していた。私は細い路地を避け、大通りへと出た。この手の治安の決して良くない地域では路地裏は可能な限り避けるべきだ。安全を取るのならば、であるが。
大通りでも開いている店は少なかった。私はまず、煙草屋を探した。幸い、目当ての店は数十歩で見つかった。煙の看板が目印の老女が座って一人で店番をしている、小さな店であった。
「〈フォルテッシモ〉あるかい」
「あるよ、ほれ。銅貨2枚」
「あいよ」
幸い、目当ての煙草はあったらしい。好みの銘柄がある街は旅人としてもありがたい。先日から煙草を切らしていて、少しばかり苛々していたのだ。そんな感情も、先程の邂逅で忘れてしまっていたが。
「あの、少し訪ねたいことが」
「何だい」
既に老女の目線は新聞に移っていて、こちらを見ていないが、耳は貸してくれるらしい。
「ここいらで安い紙を売っている所はありませんか?製本されてればなお良い」
私は物書きをしている。だからこそ、書けるものが無ければどうしようもない。手帳があれば最高だが、安い藁半紙でも構いはしない。
「……そうだねぇ。ここから2ブロック行った先にある〈ロブレ書店〉っていう店に、たぶんあるさね」
「助かります」
お礼としては何だが、もう一箱余計に煙草を買った。相変わらず、老女はこちらを見なかった。客商売としてはどうなのかと思ったが、それもこの街らしさなのかもしれなかった。
2ブロック行った先にある〈ロブレ書店〉はちょうどシャッターが開いたところであった。
「いらっしゃい」
私を見て、店主らしき男は和やかに挨拶をしてきた。私もまた、にこやかな顔を作り、男に問うた。こういう作り笑顔は交渉においては相手に多少は効果があることが多い。それを私は経験則から学んでいた。
「手帳ありますか」
「ありますよ、サイズは」
「掌より少し大きいくらいがベストなんですが」
「それならあっちです」
店主らしき男が指さした先に向かい、並んだ手帳の中から革張りのものを取り出す。きちんとなめされた革の装丁で、内側にリングで綴じられた白い紙が数十枚挟まっている。なんとなく好みであったのでそれをそのまま購入する。そうしてそのまま店を出て、宿へと取って返した。道中、先程購入した煙草を一本取り出し、安物のライターで火をつける。使い捨ての安物だからか、中々火がつかない。数回、火打ちを鳴らし、ようやく火がついた。
「……ふぅ」
ひとごこちついた気分であった。朝からいろいろあったので、疲れたのかもしれない。煙が空へと向かっていく様は中々に爽快であった。そうして煙草をふかしながら宿へと向かっていると、妙な音を聞いた。少しばかり気になり、音の方へ向かう。件の場所は1ブロック先の路地裏であった。普段なら確実に聞こえない位置にいたが、この街に朝は物音が少ない。だから聞こえてしまったのだろう。そして私は自らの好奇心に対して少しばかり後悔した。目の前に広がっていたのは、この街ではごく当たり前の光景であった。細い路地でまぐわう男女。体をくの字に折り曲げた女性の後ろに立ち姿の男性。男性が腰を動かし、女性もまたそれに呼応して動いていた。私が驚いたのはそこではない。女が知己であったからだ。女は前を開いたシャツ姿で、シャツの下から白い肌がのぞいていた。豊満な胸が露わになっていて、女が揺れるたびに大きく動く。薄暗い路地の中、女の白い肌は良く目立った。少しばかり光っているようにも見えた。そして、女の足元にはジーンズが投げ出されていた。やがて男は達したのか、女から離れ、幾枚かの銀貨を置いて立ち去って行った。女は男が路地を曲がるのを確認してからシャツの胸元を閉め、ジーンズを穿いた。そして、私の方を見た。
「――あ」
「よう」
とりあえず、かける言葉が見つからなかったので、挨拶する。向うも同じようで、口をあんぐりと開いたまま、こちらを見ていた。
「見、てた?」
「悪かった。途中から」
端的に返答する。それだけで女――ルイシャは察したらしい。
「ごめんなさい、シャツ、汚しちゃった」
「もともと返してもらえるとも思ってない」
元々彼女と二度会うとすら思っていなかった。たまさか気が向いての施しであり、紳士としての自然な挙動であった。ただ、もうあのジーンズは私のものではないな、と思った。
その日から、時折ルイシャの姿を目にした。長逗留する予定は元々なかったが、私にとってもこの街は中々仄暗い魅力に溢れていた。私がこの街に珍しく2週間以上宿泊したのは、ひとえに男と交わったルイシャの肌の質感とあの不思議な舞踏を忘れられなかったからかもしれない。
私は時折夜のエルクを放浪した。あてどなく歩いた。そうして、まじない師や道化師といった変わり者を見た。まじない師というのは、大半が詐欺師だ。おおよそ、魔術師と似た職であると考えられている。魔術師というのは、自然を相手にし、自然現象の解明を主とするのに対し、まじない師は人を相手にする。簡単に言えば、運命を占ったり、特定の相手を呪ったりするらしい。とはいえ、大半はそんな能力も持たないごろつきだ。そんな中、私は本物と呼べるまじない師に出会った。
まじない師はエルクの夜の街の比較的治安の悪い区域、俗に言うスラム街に居を構えていた。私がスラムに足を踏み入れたのはまったくの偶然である。そして、私がまじない師に占いを頼んだのもまた、偶然である。しかしそれは、まじない師にとっては異なるらしかった。運命というやつだ。
「アンタ。そう、そこの兄さん。もしかしてアンタ、セワードってやつかい」
「だったらどうした」
私は少しばかりそのときは気が立っていた。そのため、言葉もまた荒っぽかった。
「なら少しばかり座りなさんな。アンタ、悪いものにつかれてる」
セワード、という名は比較的にありふれた苗字だ。とりあえずあてずっぽうで言った可能性もあった。悪いものがついてる、というのもまた、相手に不安感を植え付けるジェスチャーとして分かりやすいものであった。私はそこまでの時点で、目の前のまじない師を詐欺師だと感じた。そして、だからこそまじない師の言うことを聞かずにそのまま振り切ろうとした。
「シニエ=セワード!」
まじない師は叫んだ。そこで足を止めた。私は苗字はありふれているが、名はそうじゃない。シニエと言う名はここいらでは使わない。そして私はほとんどこの街でファーストネームを名乗っていなかった。それを知っているのは宿泊名簿が置いてある〈竜の尾亭〉の主人と女将くらいだろう。
「ようやく止まったな。まぁ座れよ。アンタの運命、中々面白い」
まじない師はそう言って破顔した。口元だけが吊り上がっているのに目はこちらを値踏みするように見る、気持ちの悪い笑い方であった。元々割合整った容姿のため、余計に違和感が際立っていた。
私はまじない師を警戒しながらも、まじない師の目の前に腰を下ろした。私が一目でまじない師だと分かったのは、彼がまじない師が良く着ている紫色のローブを着ていたからだ。彼のローブは擦り切れており、よくよく見れば端の方はぼろぼろであった。そして彼の目の前にはまじない師が良く用いる怪しげな札や水晶玉といったものは置かれていなかった。何も置かれておらず、ただ彼がひとりござに座り、横に「占い」と端的に記入されているだけだ。
彼の顔を再度見直し、自分の記憶と照らし合わせるが、やはり彼に会った覚えはなかった。彼の顔の特徴と言えば、くすんだ茶色の髪に焦げ茶色の瞳。そして左目を覆う革製の眼帯である。眼帯という特徴的な装備をしている人物は私の交友関係にはいなかったはずだ。赤の他人というやつだ。なればなおのこと、私の名を知っていることが不思議であり、不快であった。
「君は誰だ」
「オレはケチなまじない師だよ。娼婦やホスト相手に日銭を稼ぐその日暮らしさぁ。あぁいや、名前を聞きたいのか?エミル。エミル=ソーサラー」
「何故私の名前を知っている」
「そんなことを知ってどうする?オレがまじないで兄さんの名を知ったとか言ったとして、兄さんはそれを信じるのかい」
それもそうだ。私はまじない師のまじないの大半が詐術だと思っているのだ。その証明が不可能な以上、問いは無意味である。そして、彼の名。ソーサラー(まじない師)。どこまでもふざけている。
「まぁ、聞けよ。別に金をとりたい訳じゃない。あくまでこれは忠告だ。ケチなまじない師のな。〈輝く肌の女〉には近づくな。そいつは確実に兄さんに災いを齎すぞ」
エミルと名乗ったまじない師はまじめくさった顔でそう宣った。その目は真剣であった
。
「輝く肌?」
「それが何なのかはオレは知らねぇ。オレが関与すればそれはもれなくオレもまた運命に巻き込まれることを意味するからな。オレはあくまで観察者であって、舞台の端役に持ち上げられるのはごめんだからな」
本当に知らないようであった。それはまるで、託宣を受け取った聖人のよう。何かを受け取ったことは分かっても、それに対する自信がないのだ。
「だけど兄さん、あれは本気で不味い。兄さん、これは心からの忠告だ」
私はそこまで聞いたところで席を立った。
「――おい、兄さん!」
そして、まじない師の制止も聞かず、まじない師の前に二枚の銅貨を置くと、一目散に〈竜の尾亭〉の方へと戻っていった。
「後悔するんじゃねぇぞ!選択を誤るな!!」
まじない師の大声を尻目に、私はスラムから出ていった。
私は運命論者ではない。運命というものは信じていない。同時に、私は私の勘というやつもあてにしていない。しかしながら、悪い予想というのはえてして当たるものなのだ。良いことに対する人間の想像力は限界があるが、悪いことに対する人間の想像力には限りが無い。そして、私は心のどこかで彼の占いを信じていた。あの輝く肌の女に近寄るべきではない。しかし、考えれば考えるほど私の脳裏にはルイシャの記憶が刻まれていった。肌の柔さ。唇の湿り気。白い肌。腰ほどまである茶色の髪。胸部から臀部にかけての曲線。腿から足先にかけての肉付き。それらを存分に使っての舞踏。そして何より、あのまじない師じみた水の操作術。私が彼女の記憶を排斥しようとするほどに、私は彼女を意識する。意識するなというのが無理な話。故意に排除しようとすれば必然、私は彼女との記憶を意識せざるを得ないのだから。
私のその日の眠りは幾分浅いものとなったらしい。夢を見た。細かい内容は覚えていないが、路地裏で誰か女と出会う夢だった。私は誰かと接吻を交わしていた。その唇の柔らかさと湿り気を覚えている。
次の日以降、私がルイシャと出会うことはそう多くは無かった。せいぜい、ルイシャが仕事をしているところに出くわす程度である。私はそうした現場に行き会った際には、出来るだけ他人のように振る舞うことに努めた。事実、他人なのだから。
一度だけ、ルイシャが私の宿を訪ねて来たことがあった。そのときは女将が追い払ったらしい。私は外出していて、鉢合わせすることは無かった。
私がエレクにたどり着いて5日目。エレクの街では祭りが催されていた。普段は女衒や男娼、娼婦が居並ぶような通りにも露店が数多く立ち並び、〈瓦斯灯〉だけでなくそこかしこに〈浮遊灯〉(ランタン)の姿も見える。いつも以上に明るい街並みに、私も少しばかり昂った。いつもは窓から見える位置に立っている派手なナイトガウンを着たきつい化粧の女性たちの姿も今日は見えない。彼女らにとっても今日は安息日なのだろうか。
階下に降りると、〈竜の尾亭〉は今日はいつにもまして忙しなくテーブルの間を走り回っていた。どっと沸き起こる嗄れ声のコーラス。声高に繰り広げられる言い争い。いつもなら我慢できるはずの階下の喧騒に私は耐えきれなくなっていたらしい。
「あぁ、セワードさん、すみません」
「えぇ、構いません」
何について謝られているのかは察する。
「少し、外を歩いてきます」
「わかりました、ルイシャが来たら追い出しておきますね」
その一言は、余計だと思った。
外に出ると、喧騒はより大きなものとなった。ただ、それはある程度制御されたものであった。あちらこちらで思い思いの音楽を奏でる楽師たち。音楽に合わせ、珍妙な動きで人々を笑わせる道化師。そんな彼らの間で日銭を稼ぐ露天商。香水と土と、食べ物の匂いが混ざり合い、鼻腔をつく。決して良い匂いとは言えない。しかし、その仄暗い匂いは確かに私のうちを刺激した。露天商たちの盛んな大声をいなし、露店の一つで焼き鳥串を購入。どろりとしたたれのついたそれを口元が汚れるのも構わずに乱暴に喰らう。少しばかり警戒心が揺らいでいたのが不味かった。ひとごみの中を避けながら歩いているつもりであったが、肩口が誰かとぶつかった。
「――どこ見てんだ、あぁ!!」
声が上から降ってきた。見上げると、私と頭ひとつ違う背丈の巨漢が恫喝していた。ここ数日では見かけない顔だった。
「すまない、少しばかりよそ見をしていた」
「てめぇがぶつかったせいでオレの一張羅に染みがついたじゃあねぇか!どう落とし前付けてくれんだ、あぁ!!」
その言を聞いて、彼の胸元を見れば確かに私の焼き鳥のたれと思われる染みが付いていた。そして、この手の恫喝は金で終わらないことが多い。私は体の後ろへと手を伸ばした。一応、お守りとして持っている銀のナイフを使う機会が来てしまったのかもしれない。周りを見回しても私と彼は遠巻きにされるばかりで、助けてくれるひとはいない。露天商や楽師も私と目を合わせようとはしなかった。
私が後ろへと伸ばした手が不意につかまれた。男の手ではない、柔らかな感触。
「走って」
その一言とともに、巨漢の顔に何かの液体がかけられた。巨漢が驚いて顔を覆うのと同時に私は後ろ向きに引きずられるように走り出した。
路地を右へ左にその速度は私が追いつける程度であったが、巨漢は最初に曲がったところで私たちを見失ったはずであった。
「もう、良いだろう?」
私は体力がある方ではない。少しばかり息が切れてきていた。私の前を走っていた女性はそこでようやく足を止め、私の手を離した。
「うぅん。もう、良いかな」
やはりというか、知っている女性であった。服装は少し変わっていたが。着古したジーンズに、白いシャツ。そしてその上から男物のジャケットを羽織っていた。茶色の長髪に、緑色の瞳。その容姿は忘れようもない。ルイシャだ。
「やはり、キミか」
「うん、久しぶりだね、えっと……」
「セワードだ。シニエ=セワード」
名乗っていなかったことを思い出す。彼女が私の名を思い出そうとしても思い出せぬのも是非も無いことだ。
「危ないところを、ありがとう」
「まぁ、目の前で知り合いが絡まれてたらねぇ。あのでっかい男、ここいらじゃ有名なんだ。難癖つけて、恐喝するんだぁ。大体、お祭りのときはいるね」
お兄さん、大変だったねぇ、とルイシャは続けた。
「ねぇ、お兄さん。助けたお礼と言ってはなんだけど、アタシを買ってくれない?今夜一晩だけで良いからさぁ」
ルイシャは私の腕に自らの両腕を絡ませ、胸を押し付ける。私の腕を挟むように置かれた双丘が撓み、不格好な形となる。不覚にもその行動は、私の中の劣情を強いものとした。私の罪は後ろから足音強く近づいてきていた。
「しかし」
〈竜の尾亭〉の女将は娼婦がいるのを嫌っている。私が〈竜の尾亭〉に彼女を連れて帰れば、決して良い顔はしないだろう。そして、彼女が自身にどれほどの価値を見出しているのかを私は知らない。私の逡巡に、ルイシャは大方を察したらしい。納得するように首肯すると、私を連れて歩き出した。
「ついてきて」
彼女の声に私は従った。この時点でルイシャと金銭の取引を行うことで彼女を振り払うことも私にはできた。しかし、私の中の悪魔は確かに彼女を求めていた。〈瓦斯灯〉煌めく表の大通りから裏へ裏へ。やがて〈瓦斯灯〉も〈浮遊灯〉もない薄暗がりへと私と彼女は足を踏み入れた。罅割れた石造りの道。右へ左へと曲がりくねった路地を抜け、3ブロック程歩いた先。ぎしぎしと軋む錆び付いた階段を上った角部屋。特に鍵はかけていないらしく、押しただけで扉は開いた。あるいは、鍵などないのかもしれなかった。彼女が自分の部屋は持たないと以前言っていたのを思い出す。おそらく、仮の宿なのだろう。扉の下から隙間風が入り込んでいた。二人はするりと入り込む。中は意外と整えられていた。一台の木組みのベッドに簡単な姿見、化粧台。衣装棚と思われる戸棚。しかし中は空っぽで、何の服も入ってない。
「たまに夜盗がくるからねぇ。余り財産になるようなものは持ってないんだぁ」
ルイシャは寂しそうに笑った。ルイシャはベッドに座り、私を隣へと導いた。二人が乗っても、ベッドは軋むことなく二人を支えた。
「あんまり風情はないけどねぇ」
そう言って、彼女の両腕は私を抱き寄せ、静かにしっとりと私を抱きしめた。彼女の穏やかな表情を見つめながら彼女の胸のふくらみがゆるやかに上下するのを感じていると、今にも分別が失われ、私の獣性が咽びそうになる。悦びが私を貫き、どうしようもない悦楽が私を包む。次いで彼女は私へと唇を合わせた。その一時だけで私は蕩けた。どうしようもないところまで。
「――ん、む」
彼女の舌が私の口元を愛撫する。私の舌もまた、彼女の舌に絡み、ねっとりとした絡みを演ずる。どちらの声とも知れぬ声が漏れる。
そこで私は異変に気付いた。私からは彼女の顔と、彼女の白いうなじが闇の中でも良く見えた。彼女の白いうなじから肩口までの稜線は見事なものであった。そして、彼女の肌は僅かに輝いていた。それは蛇の鱗のようであった。良く見れば彼女の瞳孔は縦に割けているようにも見えた。
―――〈輝く肌の女〉には近づくな。
まじない師の言葉が脳裏をよぎる。ただの占いだと一笑に付すことは容易い。しかして、一回脳裏によぎった言葉を打ち消し、思考の彼方に追いやることの難しさを痛感する。疑念に囚われた私はぎこちない動きで彼女を愛撫していた。その様子の変化に、彼女もまた気付いた。肌と肌を重ねているのだ。心音の変化など即座に気付く。
「お兄さん、じゃない、シニエ。どうかした?」
接吻を止め、ルイシャの顔が間近から離れる。私と彼女の口元を接吻の残り香が甘く濡らした。
「いや」
説明できない。言葉にしてしまえば、この暗がりでの行為が終わりな気がして。しかし、ここで終えなければ私も何かになってしまうような予感がして。
彼女の目を見た。暗がりの中で輝く深緑の瞳。その目に射すくめられ、私は動けなくなった。体が自在ならざるものとなっていた。
「君は――何だ」
辛うじて動く口で、そう呟く。
「アタシはルイシャ。流れ者を相手にする娼婦にして踊り手だよぅ」
だから、アタシに委ねて?そう彼女は続けた。するすると着物をはだけさせ、女は暗がりの中に肢体を晒した。闇の中では彼女の肌が煌めき、ぼんやりとした白さを放っていた。そして、腕や足には蛇に似た鱗のような文様が浮かび上がっていた。私は何よりも、彼女の肌から発される匂いと彼女の瞳の虜となっているらしかった。
「――何を、使った」
「ちょっとした香水と、アタシの魅力。綺麗でしょう?」
妖艶にルイシャは笑い、私をベッドへと押し倒した。私は抗えず、成すがままだった。
乱暴に扉を叩く音が聞こえた。ついで、破砕音。扉が破壊されたらしい。強盗だろうか。ルイシャの気が逸れた。彼女は思わず扉の方を向いていた。私は自在となったが、私もまた、事態の動きについていけずにいた。ただ、荒事があると直感していた。腰元に引っ掛けたナイフの感触を左手に確かめる。こんな夜間に強盗を働くような輩だ。とても私の手に負えるとは思えないが。緊張からか胸が上下しはじめる。私はルイシャを押しのけ、立ち上がった。
「お愉しみだったか!悪いなぁ」
居間に入り込んできたのは、三人の男。私とルイシャを見つけると、口元を歪めた。闇に眼が慣れて来たのは幸いなのか不幸なのか。そのせいで彼らのうちの二人が拳銃を持っているのも視認できてしまった。ルイシャの方を見ると、彼女もまた、狼狽しているようであった。招かれざる客、というやつだ。
「愉しむ前だよ。タイミングを選べ馬鹿者」
独語する。ある意味助かったのかもしれないが、彼女の肢体に未練があったのもまた確かであった。
「馬鹿はどっちだよ兄さん。ほれ、これ、見えてるんだろう?」
男は拳銃を私に向けた。そして、もう一人の男はルイシャへと拳銃を向けていた。
「中々良い女じゃねぇか。兄さん、オレにその女くれねぇ?」
「選択の余地をくれるとはありがたいねぇ」
拳銃にナイフで勝つことは難しい。相手がならず者でこっちが物書きならなおのことだ。私はせいぜい、減らず口を叩くことしかできなかった。三人目の男は拳銃の射線に入らないように慎重にルイシャへと近づき、その肩を掴んだ。私にも聞こえる下卑た笑みを浮かべていた。
「……あと少しだったのに」
ルイシャはそのようなことを呟いた。
「そうだなぁ、後少しで交われたのに残念だなぁお二人さん」
「いいやぁ、そうじゃないよぅ」
ルイシャの一言とともに、状況は一変した。何かが一閃し、二人の男の銃口が寸断された。そして、何故か二人そろって崩れ落ちる。
「――え」
そして、肩を掴んでいた男が呆気にとられた隙をついて、ルイシャは男の足を払い、男の鳩尾へと拳を見舞った。悶絶する男を尻目に彼女は私の腕をつかみ、窓を開き、外へと飛んだ。
私は飛べない。従って、飛んだはいいが、後は落ちるだけである。
「う、お――」
声が漏れる。
「大丈夫」
ルイシャのつぶやきは、確かに私の耳へと届いた。次いで、爆発音とともに私の身体は水流に見舞われた。下からの瀑布。噴水。せめてものあがきとして私は彼女の身体をきつく抱いた。二人は噴水の上を跳ねながらゆるやかに下降し、着地した。
周囲を見やれば、先程までいたアパートメントに続く水道管が破裂していた。
「行くよ、シニエ」
ルイシャの手に引かれるままに、私は走っていた。今日は良く走る日だ。
「ルイシャ」
「何」
「これ」
私はルイシャに並走し、自分が来ていたコートをルイシャの肩に掛ける。
「ありがとぅ」
彼女はそう言って、コートの前を閉めた。コートの隙間からは、鱗を象った燐光が漏れていた。
――〈輝く肌の女〉に近づくな
今更であるが、まじない師の忠告が良く理解できた。まったくろくでもない一日である。
「どこかあてはあるのか」
「ないよぅ」
「ならうちの宿に来い」
「良いの?」
ルイシャがこちらを見上げるようにして見た。
「渡世の義理だ。それに、聞きたいこともある」
今日は祭りだ。彼女一人が紛れ込んだところで、〈竜の尾亭〉の女将も怒りはしまい。ようは、彼女に露見しなければ良いのだ。そこまで決まると、少しばかり笑みが戻ってくる。
まったく、最悪だ。飯の種はいつだって自分の側に転がっているのに、そこに行くのはリスクが高いのだから。
結局、〈竜の尾亭〉に戻れたのはそれから1時間ほどたった後であった。盛大に水を被ったため、非常に寒かったのだが、水を被った状態で〈竜の尾亭〉に戻れば悪目立ちする
という判断であった。ただでさえ、昨日までいなかった女が私の側にいるのだ。出来るだけ目立たない方がよかった。
自分の部屋の扉を開き、トランクへと飛びついた。そうして自分の衣服を取り出し、ルイシャにも投げ渡す。ルイシャはコートを脱ぎ、再び肢体を晒すが、私に先ほどのような劣情は湧いてこなかった。なんというか、萎えてしまったのだ。そして、それ以上の驚きが私を満たしていたからだろう。私もまた、歯の根が合わぬ中、手足の震えを抑え込みながらシャツを着て、ズボンを穿く。そうして何とか震えを抑え込み、落ち着いてルイシャの方を見ると、ルイシャもまた、着替えを終えていた。そして彼女の手足の紋様も消えていた。
「――ルイシャ」
「なぁに?またアタシと寝たいの?」
「馬鹿言え」
「馬鹿とは失礼だよぅ」
言葉尻を捉えてまぜっかえすルイシャに、私は正面から目を合わせた。先ほどのような怖気、金縛りは無かった。
「君は何だ?」
「それをアタシに言われても困るんだよぅ」
それもそうだ。
「すまない。じゃあ質問を変えよう。君のその水を操る力は何だ」
初めて会った時に彼女が見せた舞は水を蛇のように纏わせていた。そして、先程の水道管の破裂。余りにも都合のよすぎるタイミングで炸裂し、ルイシャと私の落下速度を減衰させた。これが偶然だとは考えにくい。
「アタシは少しだけ水の意識と同化できるだけだよ」
ぽつり、とルイシャは零した。同化とは、と問うと、言葉の通り、と返された。
「アタシの周りにある水に感応して、ある程度アタシの意識の下に置けるだけ。本当にそれだけなんだよぅ」
「そのときにあの光る鱗が出るのか」
ルイシャはこくりと頷いた。彼女の腕や足にある輝く紋様は、彼女があの水の力を使うときに発現するらしい。だが、それだけでは私の動きが止められた理由がつかない。
「何故、私の身体を金縛りにできた」
「ヒトの身体も、水に溢れているんだよぅ」
少しだけ眠たげな表情で、ルイシャはそういった。既に船をこぐように頭が前後に動いている。先ほど使った力は身体的な疲労を招くのだろうか。
「――それ、で」
私が次の問を発しようとしたときにはすでにルイシャは倒れていた。ベッドに横向きに並んでいた私の方へと無防備にしなだれかかっていた。柔らかなぬくもりと、彼女の部屋に漂っていた香水の匂いが私の鼻をくすぐった。
「寝ちまったか」
自らの膝に零れ落ちた彼女の長い髪。慰撫するように、彼女の頭を撫でる。それから彼女をベッドに横たえると、私はトランクから一本のラム酒を取り出した。余り酒は得意ではないが、今夜は特別だ。彼女のほのかな温かさを、仄暗い魅力を、蠱惑を抱きながら、私は記憶を溶かしておきたかった。ささやかな宴とともに夜は更けていった。
次の朝のこと。ルイシャは比較的早く目覚めた。私は疲れ目をこすりながら、彼女の寝起きを見ていた。
「おはよう」
「おはよぅ、シニエ」
あくびをしながら、ルイシャはベッドからずり落ちるように動いた。
「早く逃げちまいな。無断でここを貸しちまったからな。女将に睨まれたら困るだろう?」
「そぅ、だね」
「ほら、分かったらさっさと行った」
私は追い出すように手を振った。
「服は、良いの?」
「一度も二度もいっしょだ。追いはぎにあったとでも思うさ」
「ひどいなぁ。アタシはヒトの銭をむしり取るようなことはしないよぅ」
私の軽口に、ルイシャがむくれる。どことなく子供っぽいその動作に、私は口を歪ませた。彼女が窓枠に手をかけたときに、私は一つ思い出したことがあった。
「ルイシャ」
彼女が振り向いた。彼女の動きに合わせて、長い髪が揺れ動く。朝日を受けて輝く髪。朝日を反射して火照る白い柔肌。
「なぁに」
悪戯っぽく笑う彼女に、私は3枚の銀貨を投げた。今の私のは少々痛い出費だが、構いはしない。
「昨晩の君の取り分。受けとっとけ」
彼女は難なく受け取り、まじまじと銀貨を見た。そして私を見た。
「アタシ、貴方と寝てないよ?」
こてん、と首をかしげ、ルイシャは言った。確かに対価としては多すぎるのかもしれない。
「十分に寝顔を拝ませてもらったさ。それに、おもしろいものを見せてもらったからな」
彼女との昨日の一夜はそれだけ鮮烈な記憶となって焼き付いた。彼女にはそれだけの価値があったのだろう。
――〈輝く肌の女〉に関わるな
まじない師の言が、再び脳裏に閃く。うるさい。確かに迷惑極まりない女だった。でも、どうしようもなく好みの女だったのだから仕方ない。
たとえ、どんな女と交わっても、イイコトに転ぶことの方が少ないのだ。ならば、自分が面白い方が良いに決まってる。
彼女は私と目を合わせた。印象的な緑の瞳に、確かな生気を宿らせながら。
「ありがとね。シニエ。また会うかはわからないけど」
彼女は窓から体を離し、私へと近づいてきた。
「――おい、何を」
早く出ていけ。そう告げようとした口がふさがれた。彼女の舌に蹂躙された。
「――ぷはっ。お礼だよ。また服くれたしね。ダンスはもう見せちゃったし、貴方と閨をともにする時間もなさそうだしねぇ」
彼女はそう言って、快活に笑った。そして、そのまま窓から出ていった。
「もしかして、商売女と寝ました?」
「さて、何のことやらわかりませんな」
勘の鋭い御仁だ。彼女の言った意味では寝ていないが、別の意味では間違ってないのが面倒だ。まったく油断ならない。〈竜の尾亭〉女将。彼女とも最後の対話となる。チェックアウトだ。私は木製のトランクを抱え、彼女に鍵を渡した。ルイシャがまた来たなんて知ったら、彼女は怒り心頭だろう。知らぬが仏、言わぬが花。知らない方が良いことだって世の中にはたくさんある。私は何食わぬ顔で言い逃れる。
「それで、次はどちらに向かわれるのですか」
「レムスに向かおうかと」
女将が嫌いな娼婦が言っていたのだ。レムスには素晴らしい滝があると。彼女が言うのなら、それは確かに面白いに違いない。そして私は面白いものを書き記すのを飯の種にしているのだからなおさらだ。
「王宮よりも大きな瀑布があるんだとか。なんでも竜が棲んでるとか言われてるらしいんですよ」
「お気をつけて。旅の安全を祈っております」
「ありがとうございます」
さて、次は何を見るのだろうか。どんな夢を見られるだろうか。彼女のような流れ者と出会うのだろうか。私はそっと、宿の扉を開き、外に出た。